姫の前
比企一族が滅亡して間もなく。
義時の館から、正室、姫の前が忽然と姿を消した。
朝時、重時、竹殿。子らも残したまま。
姫の前は鎌倉を離れて京の都にたどり着いた。
姫の前が身を寄せたのは九条兼実の館だった。
姫の前は三十三歳になっていた。
兼実の館には、一歳年下の任子がいた。
その頃、九条兼実は、法然上人に帰依していた。
ー ただ一心に「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、人は救われ、極楽往生できる。
仏の教えさえも論理をもって理解しようとしていた九条兼実。
その兼実が、法然上人のその教えを聞いたとき、その目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちたのだった。
九条兼実様の館に、世にも稀な美女が暮らしておられる。
そのことはいつしか評判を呼び、何人もの若い公卿が、姫の前に文を寄こした。
中でも特に熱心だったのが、源具親だった。
姫の前より十歳年下で、公卿としての身分はさぼど高くはない。
その元久元年(1204)。
法然は、後白河法皇ゆかりの寺院、長講堂で、後白河法皇の十三回忌の法要を営んだ。
この法要に、九条兼実も、任子も、そして姫の前も参列した。
九条兼実にとっては、政敵とも言えた後白河法皇。だが今の九条兼実にとっては、その御方さえも、ただ懐かしい。
それまでの間に兼実は、姫の前に、法然上人の教えを説いていた。
一族滅亡。夫と子を残して鎌倉を出奔。
過酷な経験を積んだこの女性の心に救いをもたらすことを願って。
法要の席。
参列した人びとは一心に「南無阿弥陀仏」を唱える。
兼実も、任子も。
姫の前は同じ姿勢で居並びながら、静かに黙していた。
脳裏に姫の前が、深く関わった人びとの姿がよぎる。
源頼朝。比企の一族。三人の子供。
そして北条義時……私のことが好きで好きでたまらなかった人。
それらの人びとのことを思い起こすとき、姫の前は、思わず知らず波立ってしまう、おのれの心が煩わしかった。
教えを説く九条兼実。全てを諦観したかのような九条任子……。
自分に思いを寄せる源具親の文も煩わしい。
そしてそのことを煩わしく感じるおのれさえも。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏………
極楽往生を願う衆生の、一心に念仏を唱える声。
自分は何を求めるのだろう。
頼朝に愛されることを願っていたおのれ。
母上、母上と慕う子たちがただ愛おしかったおのれ。
姫の前は、ふっと息を吐き、心をしずめた。
心に浮かんだのは……
「姫の前、姫の前」
嫁いだばかりの頃、呼びかける義時の顔。その声。
姫の前は、仏を念じることはできなかった。
姫の前は、源具親と再婚する。
具親との間に、輔通、輔時のふたりの男子を産む。
承元元年(1207)三月二十九日。
姫の前は、京の地で、その生涯を終える。
輔時は、のちに北条朝時の猶子となった。