赤い空を見る
夢を見ていた気がする。
それまで浮かんでいた筈の情景は薄れ、霧散し、記憶の外へと弾き出された。ふわ、と意識が浮上して、時雨は薄らと、己の目蓋を持ち上げる。
(今日は……よく気を失うな)
地面に転がったまま片手で顔を覆う。今日に限っては時雨が自ら首を突っ込んだ事に起因するのだが、それについて今更考えたくはなかった。空いている方の手で地面の感触を確かめる。ゴツゴツと荒い岩が表出しており、今更ながらに寝心地の悪さを感じた。
上体を起こし辺りに目をやれば、時雨は思わず、といった様に息を吐く。
(う……わ……)
見上げた空は血を零したかの様に暗く、星の無い紅のグラデーションが遠く彼方まで続いていた。寝心地の悪い地面は思っていた通りに岩塊が敷き詰められており、立ち上がろうとして少しよろける。何とか立ち上がってきょろきょろと周囲に目をやるが、先程まで居た森の欠片も無く、少し先は岩の転がる斜面だけの殺風景な場所であった。
「うーん……」
普通じゃ考えられない空と、歩き慣れない土地、ほぼ丸腰と言ってもいい程の軽装備しかしていない自分。ここから先、無闇に歩いて生き延びられる気もしない。魔物が彷徨いていない事だけは幸いだったが、同時に生き物の気配がしない事には、最終的に行き倒れる結末が見えて恐ろしくも思う。
(にしても――)
時雨は再び空を見上げた。
父の部屋で読んだ本の中に、こんな風な世界の話があった気がする。血で塗り潰したかの様な空、荒れ果てた土地はとても住めるような場所ではなく、そこには悪魔の遣いとされる名もなき、形すら持たぬ者達が己の入り込める様な器を探して――
(余計な事を考えていたら現実になってしまいそうだ)
ぶんぶんと首を振り、思考を打ち切る。
変な夢を見たせいでお伽噺の様な事ばかりが頭を過ぎってしまう。思えば――父の部屋は、気付けば現実味の無い、この目の前に広がる世界の様な内容の本ばかりになっていた。
(悪魔…………か、)
ここは、悪魔の世界なんだろうか。
時雨は空に向けていた視線を落とし、ぼんやりと足元を見つめる。悪魔が住むのは地獄なんだっけ。俺はまさか、そんな場所に来てしまったとでもいうのだろうか……。あの後俺は、あの少女は、どうなったんだろうか。
ぐるぐるとまた思考を巡らせていたが、ふと岩塊の隙間からこちらを見つめる目と目が合った。
(…………!?)
ヒヤリとした。ぶわっと汗が吹き出し背中を伝う。
いつからこちらを見つめていたのかは分からないが、よく目を凝らせば、岩塊の隙間という隙間から、無数の目がじっとこちらを見つめている。一歩下がり、先程まで立っていた場所を見る。……目が居る。
(何だこれ……魔物で良いのか……?)
とても動物とは形容し難いものだった。隙間から見えるだけの目は、それ以外に部位を持たないように見える。岩塊の下が空洞で、魔物の巨体が埋まっているのだとしたら話は別だが……。
(もしかして、踏んでたりするのか……?)
フラフラとよろけながら後ろへ下がる。全ての隙間から覗く目は、時雨が動く度にその視線を動かし、時雨を捉え続けている。気分が悪くなり、口許を抑えた。
「やめてくれ……こっちを見なくていい」
徐ろに口を衝いて出た言葉に、ぱちぱち、ぱちぱちと無数の目がバラバラに瞬きをする。ヒュ、と空気が喉に入り込む。
(話しかけちゃいけなかった……!)
数え切れない程の目は、瞬きを止めたかと思うと、ぬるり、と岩の隙間から抜け出てきた。巨体が……と思っていたそれは、目玉に蝙蝠の羽根が生えているだけの小さな魔物であった。
それが幾つもの岩塊の隙間から這い出てくる。喉が張り付いて声が出ない。
(こんな量の魔物、相手に出来るわけが無い!)
逃げようにも、ゴロゴロとした岩が邪魔をしてバランスを崩す。後ろを向けば、同じように隙間から這い出た目玉達が視界を埋め尽くしていた。
(……終わった)
諦めたくはないが、これはもう、どうにもならないんじゃなかろうか。最早万策尽きた、と諦める時雨をぐるりと囲む目玉達は、今なお一定の距離を保ちこちらを見つめている。
(こいつらが俺を襲って来るんだとして……俺は一体、どうなるんだ?)
甘く見ている訳では無いが、手も足も無い目玉が何匹といた所で、人体がどうにかなるという気がしなかった。視界から入ってくる情報的に、精々不快にはなる……といった所ではあるが。
じっと立ち尽くす時雨を見つめる目玉達は、保ったままの距離を詰めることなく、小さな羽根を羽ばたかせながら浮かんでいる。段々と、もしかして敵意がある訳ではないのか……? という思考が、頭をもたげてきていた。
(話せば分かったり……するんだろうか?)
どうにも話が通じそうには見えない。
見えないが、少なくとも先程時雨の声には反応していた。もう一度声を掛けて様子を見ても良いんじゃないかと思える。逃げられないとくれば、この際もう思いついた事はどんどんやっていきたかった。
「なあ……俺を襲う気は無いのか?」
「キャ……キ…キィ……」
(喋った!)
今日はやけに驚く事が多いな、と思った。これはもう、岩も土も喋る、と思っておいた方がいいかもしれない。キキキ……と何処から発しているのか分からない声を上げる目玉は、一匹が声を上げた途端に周りも同様に声を上げだし、気付けば大合唱となっていた。音程もなにも無い無機質な騒音に、耐え切れず耳を塞ぐ。
(煩い……何を言っているのか分からないし、攻撃してくる訳でもない。一体何がしたいんだよ!)
塞いでも尚届く音から逃げるように、時雨は目を瞑った。暗闇が視界を埋め尽くし、少し安堵する。ずっと奇妙な生き物を見続けていたせいか、若干の疲れを感じていた。
(これからどうすれば……)
兎にも角にも、現状を打破出来なければ先は無い。溜め息を吐くしか出来ずそのまま項垂れようとしていた時雨の肩を、何者かが叩いた。
「ぅうわ……」
「あ、ごめん」
予想だにしていなかった出来事に目を白黒とさせていれば、後ろから男の声が聞こえてきた。気付けば目玉達はしん、と静まり返っており、皆一様に時雨の後ろを見つめている。
恐る恐る振り返ると、不自然に右手を挙げていた男は、にこ、と屈託なく笑い、挙げたままの手を振ってきた。
「君、人間だね」
「…………」
「完全に惚けているね……」
驚かせ過ぎちゃったのかな、という声を頭の片隅に追いやって、時雨はへたり、と地面に座り込み頭を抱えた。