薬師
ざわざわと、聞き覚えのある音が辺りに広がっている。
「……うう、」
ぱち、と目を覚ます。ひんやりとした地面が顔に触れていた。徐々に起き上がると、空から鳥類の声が聞こえている事に気付く。見上げても木々が天を覆う屋根となっており、姿を確認する事は出来ない。陽光は差さず、辺りは薄暗い森、といった様相であった。遠くから水の音も聞こえている。
(……図書館に居た筈なのに)
何故、どうしてと考えてみても答えは出ない。起き上がったまま何をするでもなく佇んでいたが、まずはこの森が見知った森なのかどうかを確かめる必要があった。
(水の音が気になる)
もし此処が通い慣れた村近くの森であるならば、水量の多い川が無い為にそれ程大きな音は響かない。そう考えつつ耳を澄ませば、音はやや激しく、ともすれば滝でも有りそうな勢いであった。
(滝か……)
行商で訪れた東方の街には、確かそんな様な代物があった。
山の上と盆地に分け隔てられた、火の名を冠する都の北部に、街を東西に分断するように流れ落ちる小瀑布がある。
森の奥から聞こえる音は、そこで耳にした滝の音によく似ていた。だが記憶にある滝は、一応は街の内部にあるものだ。それならば街が見えていないと可笑しい。
一頻り考えを巡らせた結果、馴染みの無い森である可能性は高かった。抜けるのに日数を掛けなければならないか、とこれからの動きについて考え始めた所で、自身の装備の薄さに気付く。弾は最大まで込めてはいるものの、六発撃てば終わりの拳銃が一丁。
「……」
腿に着けているベルトに目をやる。六発ワンセットの薬莢が一つ。
(十二発……、何が出るか分からない状態でこの装備はまずいな)
思わず溜め息が零れる。今日は戦闘がそう何度も起こる想定などしていなかったし、正直な所――魔法に精通している黎が居るから何とかなるだろう、と高を括ってもいた。
その黎と逸れこんな所をうろつく未来は予想していなかったのだ。
(とはいえ、此処でじっとしてても帰れないな)
ひとまずは水の音を頼りに歩こう、と目標を定めたところで、視界が動く物を捉える。白の様な灰色の様な、どちらともつかない顔に、枝のような角。
「あっ、お前……!」
時雨の声を聞いて、こちらの様子を覗いていたそれは緩慢に立ち去っていった。どうにも逃げる気がある様に見えず、迷う事無く後を追いかける。傍まで寄れば、角獣はこちらを見て立ち止まり、人のような表情を浮かべた。
「あんたも災難ね、まあ、貰えるもんは貰っておくわ」
「……喋った」
「喋るわよそりゃ、擬態はしてるけど、あたし森の子達じゃないもの」
優雅に歩くその角獣は、そこまで話すとまた歩き出した。時雨は再びその後を追いかける。
「……擬態って、何だ? 森の生き物じゃないのか?」
「まあ、そうねえ…」
角獣は時雨の問いに肯定で返すが、特にそこから言及する事もなく、黙々と森の奥へと向かっていく。
(何処へ行くんだろうか?)
「……どこ行くんだろう、とか思ってるでしょ」
「なんで、」
「この状況で人間が考えそうな事を当ててみただけ、それだけよ」
まあ、あたしの住処へ案内しようと思ってね。角獣はそう言い添えて、また口を閉ざす。住処。……住処?
時雨は困惑した。森の生き物ではない角獣の住処。普通に考えれば森の外にあって、そこまで案内しますよ、という事だろう。しかし、前を歩く謎の生き物は、人間の言葉を解さない筈の角獣の姿で、人間と同じ様に言葉を話す。
時雨はそっと、腰に下げた拳銃に手を添えた。
「……住処って?」
「いい所よ」
とってもね。振り返りそう答えて、にこり、と笑う獣の顔は、凡そ角獣がする様な表情ではなかった。つつ、と冷たい汗が背中を伝う。
「……もしかして、魔物…?」
「……」
角獣は笑みをより深くする。時雨はその表情に戸惑いを隠せなかった。ジリ……と僅かに後退る様子に、獣はあら、と不満そうな顔をする。そして空いた空間を埋めるように一歩、近付く。
「ちょっと、さっきまであたしに興味津々だったじゃない」
「それはそうだけど……俺は昨日、お前に危害を加えたんだぞ。そんな奴を自分の住処なんかに連れて行ってどうするんだ」
時雨の言葉に、獣は心底驚いた、というような表情を浮かべる。
「別にどうもしないわよ……全く、そんな事を気にしてたのかしら」
あれくらいの傷、治せるし。獣は自慢気に、くるりと回ってこちらを見上げた。ことり、と首を傾げた顔と暫し見つめ合う。敵意は無いと言うが、時雨は目の前で表情をころころと変える獣を、どうにも信用する事が出来なかった。
(戦うか……? けど回復されたらキリがない)
逃げるしかない、と時雨は思考を巡らす。
森での機動力は、角獣の方が人間なんかよりもずっと上だ。特にこの場は、先が見えぬ程に根を張る木々が障害物となり、全力で走った所で回り込まれるのが容易に想像出来る。何とか水場に逃げる事が出来れば、そのまま撒けるかもしれない――。どうにか獣の気を逸らし隙を作る為、言葉を連ねた。
「そういえばあっという間に治してたけど、どうしてだ? やっぱり魔物だから、」
「……ああもう、何だって良いわよ!」
獣は地団駄を踏み、半ば叫ぶ様にしてそう返す。
怒らせてしまった。時雨は内心で溜め息をつきながら相手の動静を見守る。獣はそんな時雨の様子を見て睨め付ける様な視線を外し、はあ、と息つき首を振った。
「逃げようってのね……良いわ、付き合ってあげる。十数えるから行きなさいよ」
「え、」
「あたしに捕まったら負けよ!」
そういうが早いか獣はじゅーう、とカウントを始める。時雨は反射的に、水の音がする方へと走った。
「ふふーん、やっぱりそっちへ行くのね。あーあ……馬鹿可愛いわ」
残された獣はその姿を徐々に変えていく。四足歩行から二足歩行へ、白の様な灰色の様な毛並みは薄れ、緑の肌着に白のジャケットへと変わっていた。顔には白銀の毛束が掛かり、肩に付く程の髪の途中からは、二対の枝分かれした角が伸びている。
「んーっ」
細身の少女は大きく伸びをした。力を抜き、時雨が駆けていった方をぼうっと見つめる。
「……本当は調査の為に来たんだけど。まあ、遊んで帰っても文句言われないでしょ」
ぽつり、と言葉を零した少女に応える様に、森はざわめき、その姿を次第に歪めていった。