獲物
「どこだ!?」
時雨は席を立った勢いのまま本館へと向かったが、そちらも別館同様に人気は無かった。受付にすらも。ここまでくると妙に怖気を感じるが、それ以上に未知への興味が勝っていた。
コツ、コツ、と歩く度にブーツの接地音が響く。空間を反響する音は、最初にここへ足を踏み入れた時よりもずっと大きく鳴っている。耳を澄ませば、さあさあと落ちる水の音だけが唯一、自分以外が発している音なのだという事に気付く。当然、問いに応える者は居ない。時雨は中央の石像の辺りまで来るともう一度叫んでみた。
「教えてくれるんじゃないのか?なあ!」
注意深く周囲を見渡す。動く者は居ない。
はあ、と息をつき、同じだけの空間を空けて並ぶ書架の間を一つ一つ見ていく。しかしどこを見ても、時雨が思うような結果は得られなかった。一度中央へ戻り、じっと考え込む。
(やっぱり別館の方に居るのか?)
半ば直感と言ってもいい判断でここまで走って来てしまったが、それは間違いだったのかもしれない。少し前の記憶に思いを巡らせても、もう最初の声がどの方向から聞こえてきていたのかは朧気になっていた。
とにかく此処には居ない。ならば戻ってそちらも改めて探してみようか、黎にも手伝ってもらえば良い。
考えている折、時雨はふと視線を感じた。
(……どこだ?)
再び周囲に目を凝らす。人影は無い。
そういえば黎もこちらへやって来る気配が無い。彼の性格ならば、何の理由も告げず急に走り去った時雨を追わずに、そのまま調べ物に耽るなんて事はないだろう。向こうで何かあったのか。
(戻った方が良いかもしれない)
考えるのを止め別館方面へ足を踏み出した時、なんとはなしに石像を見やれば――こちらを見ている筈のない、龍の瞳と目が合った。
「…………」
(……まさか)
立ち止まり目の前の石像をまじまじと見る。龍を象ったそれは初めて見た時と変わらず、その口から清涼な水を吐き出しその足元を濡らしていた。だがその瞳は――石で出来た龍は、その瞳も例外なくただの石の延長でしかない筈だったが、今目の前できらりと光る深い青の硝子玉は、はっきりと意思を持ってこちらを見返していた。
「俺に話し掛けていたのは、あんたなのか?」
「…………」
龍が瞬きをした。
吸い込まれる様に見つめていた時雨と視線が交差する。ふと、水路の上での会話が頭を過ぎった。
『初めて会った時、誰と話してたんだ?』
はっ、と息を吸う。自分はこの空気をよく知っている、この瞳を、よく知っている。――ただ、それが何なのか、あと少し、という所までは来ているのに、それ以上を思い出す事が出来ない。
「…………」
龍は何も語らない。時雨は一歩、二歩と近付き物言わぬ龍に問いかけた。
「何処かで会ったことあるか……?」
瞬き。これは肯定と受け取っても良いのだろうか、何とも煮え切らない反応に時雨は大いに困惑する。じっと、目の前で青い輝きを放つ瞳を見つめていると、龍は三度瞬きをして、のぅ、坊や、と声を発した。
「!?」
驚き仰け反る時雨を宥めるように、取って食ったりはせんよ、と穏やかな声が響く。
「随分と大きくなった」
「……やっぱり会った事があるんだな?」
「いや、どうだったかなあ」
瞬きしかしない石像からは表情を読み取る事が出来ないが、ふふ、という声が聞こえる事から、どうやら龍に宿る謎めいた存在は、こちらに対して微笑んでいるようだった。その様子に安堵し、時雨は警戒心を解く。
そのまま、別館で聞こえた言葉について質問を投げかけた。
「さっき、薬師がどうの……って言ってただろ? あんたの声だよな?」
「……そうさな」
「良かった、教えてほしいんだ。初めて見たから興味があるというか、」
単純に綺麗だな、って思ったのもあるんだけど。と口にした所で、不機嫌そうな空気を醸し出す龍の様子に気付き、時雨は首を傾げる。
――はて、自分は何かおかしな事を言っただろうか?
「……どこか怒る所あったか?」
「むう……いや別に…」
もそもそと否定の言葉を述べながらも、龍は物言いたげな空気を隠そうとはしなかった。
(……教えてやるって言ってたよな?)
時雨は龍に対して若干の理不尽さを感じ始めていたが、一先ずは相手の出方を見守った。その間にも龍はうー、だとかむう、等とぼやいている。
(そういえば……大きくなったなって事は、会ったのは子供の頃なのか)
子供の頃、と己の中で反芻する。目の前で話す龍の声は、時雨にとって記憶に無いものだった。今日初めて青く光る瞳を視界に捉えた時、言いようのない懐かしさを感じた気がしたが、それだけだ。幾ら過去の記憶を辿れども、どうしてもこの声の主には行き着かない。
龍を見れば、まだもそもそと言い淀んでいる。よく聞けば、先程よりは発言がちゃんとした言葉になっているようだった。
「……こんな事なら、あの男を泳がすべきではなかったな」
「あの、男」
「なんだ、私を放って考え事をしていたのではなかったのかね」
ぼそりと呟かれた声は、人気のない図書館によく響いた。
あの男とは? 考え始めた思考は、不意に変わった空気によって掻き消される。
龍の目は、瞬きをする合間に青から真紅へと変わっていた。その瞳から目が離せないまま、時雨の意識は少しづつ霞みがかっていく。
「なん、で……」
「ここでなら、と思ったんだがね……衰えた訳ではない筈なのに」
まあよい、そんなに言うなら薬師に会わせてやらんでもないよ。という、舌打ち混じりの言葉を最後に、時雨は意識を完全に手放した。