お祓い屋 京助 スピンオフ・柘植秋芳 青春篇
「二つ坂役場・水道課」
昨夜から停滞している寒冷前線の影響か、夏至を迎えた此の地にも、珍しく羽織物ひとつ掛けたくなるような、うすら寒さが漂っていた。
駆け上がった境内に荒い息をしながら男が一人、立っている。
柘植秋芳。この男の名だ。
夕暮れまで降り続いた雨の中、ぬかるんだ地を急ぎ掛けて来たのだろう、クラークスの滑らかなワラビーを泥だらけにし、鳥居の片方へと手を掛け佇んでいた。
ジーパンの裾から跳ね上がったしぶきは、緑色のジャケットにあるセンターベンツにまで届き、染みとなり乾き始めようとしていた。
濡れさがった前髪を後ろへと掻きあげながら、深く息を吸い込んだ。そして静かにゆっくりと吐いた。
目の前に置かれた現実は妙にあやふやで、遥か遠く、夢の中だけに広がる世界を見ているような、とても直ぐには認知出来るものでは無かった。
一体此処で何が起きたと云うのだ。
おかしな形でもげた木々の枝達が悲鳴をあげ、足元に咲いていたであろう草花の息遣いが、まるで恐怖を知らせるが如くに哀れな姿で飛び散らかっている。
さわり、と、足元で吹き上がった風が小さな風車のようにくるっと回った。
「誰だ!」
目の先二十メートル。昼間であれば乱立する竹藪が見えるであろう位置に、気配を感じた秋芳が声を張った。
凝視の先、何かがぎらりと微かに光り、瞬く間に膨張した光の渦が、身構えるこの男の目に恐怖を放ちながら襲い来る。
左頬、僅か数ミリで躱した首筋の音だろうか、ギシと鳴る。
当ての外れた塊は空を切ったと同時、細かに砕け散り、パリパリと乾いた音を立ながら境内の地に吸い込まれていった。
雨降り止んだ天空、雲の切れ間より覗く半月の光に照らされ、白目を剥いたロングコートの男は、未だ、目覚めない。
「何なんだ、こいつは。さっきの光玉は何だったんだ」
その傍らで、全身を震わせ、大きく肩で息を継ぎ足しながら、ぶつぶつと秋芳が言った。
一週間ほど前。
むせる線香の揺れる、むせび泣く声達の中、焼香に訪れた群れの中に交じり、時々前を覗き込みながらその順番を待っていた。
一昨日急死した、学生の頃同級生だった男の通夜に訪れたのだ。
高校時代、同じ中学校から来たと云うだけで、さして仲が良いと云う訳でもなかったのだが、なにせ狭い土地柄、まして家が近いと云う事もあり、おっとり刀で参上した訳だ。
受付のテント前まで来ると、折り畳んだ傘の手元を左腕に引っ掛け、嫌がらせの様に反射する白熱灯の下、ぎこちない格好で香典帳へと名を書き入れた。
「枕経が始まります。ささ、皆様中の方へ」
請け負った葬儀屋だろうか、びしりと決めた短髪をグリースで光らせ、小雨降る中、広げた傘で通路を邪魔しながら伝えている。
しめやかに始まった経文が三十分程で終わると、その場に居た数人の若者達がおもむろに立ち上がり、仏となったばかりの男に群がっては声を上げて泣いた。
「ふーん、あいつらが奴の仲良しか」
突然聞こえた声に振り向くと、そこには、顎のあたりから耳たぶ下にまで、つくつくと無精髭を生やした中年男が、仏さんに群がった若者達を覗き込んでいた。
「君も、友達かな」
いきなりの質問に困惑しながらも、首を横に振ると、
「いいえ、同級生と云うだけで」
秋芳は即答した。
「あ、そう」
短く言うと、その中年男は視線を元へと戻した。
(誰だこいつは? 親戚の人間か、でも、親類席は右側だぞ)
その後も、相変わらず若者達から目を離さない中年男がやたらと気になった。
お別れを済ませた連中がぞろぞろと帰り始めた頃、その男の姿も消えていた。
「秋ちゃん!」
帰り道、本堂から下がった三か所ある二番目の階段下で、声を掛けられた。若い女のようだ。
「誰?」
「やっぱり秋ちゃんだ。私、圭子、葛城圭子」
高校時代、同級生だった女の名だ。確か横浜の大学で研究室にいると聞いていたが。
寺の数か所に設けられた明かりを背に、黒いだけのシルエットが、近づいた。
目を凝らし改めて見ると、確かに葛城圭子だ。卒業してから会うのは二度目になるか。成人式の時と、四年程前に行なった同級会以来だろう。
「ほんとに久しぶり、あれ、ちょっといい男になったあ?」
相変わらず、あっけらかんとした物言いは、あの頃を瞬時に蘇らせるのだった。
「良く言うよ。そう云うお前は何にも変わってないな。ガキのまんまだ」
「失礼ねえ、私だって少しは大人になってるんだから、見てよこの色気」
そう言うと、スーツ右側のテーラー襟を摘まみ、少しずらした肩先を見せるのだった。
「おい、こんな時に不謹慎だぞ」
辺りをきょろきょろと見回しながら、この女のベタな仕草を小声で非難した。
「ガキって言うから、もう、二十六だよ。お互い」
それを聞いた秋芳が苦笑いする。
「まだ二十六だ・・・だけど、お前も律儀だな。あいつとはそんなに仲良しだっけ?」
「よっちゃん?」
村田義彦、仏さんとなった同級生の名だ。
「よっちゃんとは幼馴染なの。小学校上がるまで同じアパートのお隣さんだったから。でも、直ぐに引っ越しちゃったからなあ、その後も小学校は同じだったけど」
先回りした圭子が、階段下から覗き込むように秋芳を見ながら言った。
「どっちがだよ? 引っ越しちゃったのは」
「ああ、あたしんちが先だった。よっちゃんちもその後引っ越したみたいだけど」
「その後は知ってる。俺んちの近所へ来たからな」
雨が上がった。御用の無くなった傘は杖替わりとなり、石段を突きながら下りてゆく。
「わざわざ戻ったのか? 横浜だっけ、大学から」
少しだけ先を行く圭子に尋ねると、彼女は顔だけ斜め後ろへと振り返り、
「そんな訳無いじゃん。四月の春休み研究室で缶詰にされちゃったから、今、あたしの春休みだよ」
にっこりと笑った屈託のない笑顔は、当時の頃と何も変わらず、妙にほっとさせるのだった。
「同級生でお前だけだぞ、この歳で春休みしてんのは」
「だよねえ。でも、これが大学へ残った者の特権なんだなあ」
そう言うことか。
「ねえ、何で来たの、車?」
「いや、歩いて来た」
「あ、そうか。秋ちゃんち、すぐそこだもんね」
「お前は?」
「母上のやつを、ちょいと拝借してまいりました」
そう言うと、スーツのポケットから取り出した、何やらじゃらじゃらと幾つものキーホルダーをぶら下げた車のキーが、得意げに彼女の細い指に絡まっていた。
「ところで、さっき村田を囲んで泣いてた奴ら、初めて見る顔ぶれだったけど、お前、知ってるか?」
「ああ、あの人達ね。会社の仲間って言ってたけど」
最後の階段をひとつ飛び降りると、今度は体ごと振り向き言った。
雨上がりの石段が、目の前にある水の張られた田んぼに映りこむ外灯の明かりに反射して、所々白く光って見えた。もうすぐ、此の地に田植えが始まる事を告げている。
「村田の奴、どうして急に死んじゃったんだろう?」
誰に言うでもなく、秋芳が呟いた。
「そうなんだよね。朝、起きて来なかったんだって。それで心配になった両親が部屋に入ったら、もう、亡くなってた。信じられないよねえ、人間ていつ死んじゃうか分かんないね」
「ほんとだよな」
振り向きながら先を歩く圭子に、左手で持った傘をくるくる回し続いた。
「ねえ、コーヒーでも飲みに行かない? 時間も早いし、明日の土曜日はお休みでしょ」
いきなりのお誘いに少し戸惑った。しかし、このままおやすみなさいと云うのも何となく寂しかった。
「いいよ、じゃあ、着替えてから麦々に集合と云う事で」
学生の頃から通う、ここから南に行った町外れにある馴染みの喫茶店だ。今でも周末には時々顔を出している。
「お、懐かしい名前。オッケイ! じゃあ、後ほどね。あ、そうそう。ちょっと携帯出しなさいよ。メルアドと、電話番号交換ね」
慣れた手付きで赤外線通信をやり取りした後、
「遅れるなよ」
にっこりと笑い、圭子は寺の駐車場に止めてある一台の軽自動車に向かった。彼女の家は、ここから五キロ程西へ走った所にある。
「気を付けろよ」
それを聞いた圭子がこちらを向きながら小さく手を振ると、身体を屈めてそれに乗り込み、急ぐように寺の駐車場から走り去って行った。
彼女が乗った車のテールランプを見送りながら、秋芳も足早に此処を後にした。
誰もいない家に入り、そそくさと着替えを済ませると、いつも通勤用で使っているアルトワークスに乗り込み、約束の麦々へと向かった。
幼い頃母を亡くした秋芳は、父一人子一人で二十歳まで育った。成人式が済んだ翌月、待っていたかのように、父親は本社がある東京の会社へと転勤していった。
自宅で、コンピューターに向かい仕事をしている父を間近で見ていた秋芳に取って、青天の霹靂だったのだが、秋芳の為、在宅ワークに切り替え、成人するまではと傍にいてくれたのだろう。止めはしなかった。
その日から隣組のおつきあいが始まった。やれ月に一度の寄り合いだの、区が行う数々の年中行事だのと、若く、フットワークの良い分、やたらと重宝がられたのだった。
そんな日々の中でも、それを苦とは思わなかった。皆が秋芳に優しかったからだ。
あれから六年、たまに帰って来る父と、気まずそうに食べる食事にも大分慣れた。
父は、来いとも言わず、秋芳も行くとは言わなかった。
生まれ育った此の地が大好きだった。確かに、賑やかな所ではないし、買い物も距離のある町のスーパーまで行かなければならないのだが、それはそれで、楽しいものだった。
それに、もうひとつ理由がある、秋芳の勤める町役場の水道課にも高齢の波が押し寄せていたからだ。
重機の入らない狭い土地で、頼りになるのは只々、腕力あるのみ。未だ、ツルハシがここでは現役の主役なのだ。
「もうすぐだな、今年も出るかな源氏蛍」
ナーバスな細い農道を走らせながらポツリと言った。
此処は、梅雨も佳境に入る頃に、それはそれは幻想的な蛍の飛び交う地に変わる。
秋芳の運転する車が国道へと続く少しだけ広くなった道に差し掛かると、左へと点滅するウインカーに合わせハンドルを切った。唯一、この道が町へとつながるライフラインなのだ。その先にある水銀灯を確認すると、ゆっくりブレーキを踏み、麦々と光る看板を横目で見ながら隣にある駐車場へと車を入れた。既に何台か止まっている中、見覚えのある車を見つけた。
「あいつ、来てんだ」
高校時代、クラスメートになってから今日まで付き合いのある、気の置けない友人が乗る車だ。
ガラス張りの表ドアから覗き見える人影が数人、中のカウンターに腰を下している。ゆっくりと押し開け、体半分入り込んだ時だった。
「秋芳! ここだ、ここ」
通る声がする方へ目線を移すと、奥のテーブル席にドカッと座り、右手を挙げてこちらを向きながら手招きしている友人の姿を見つけた。カウンターに座る連中が初めて見る顔ぶれで少々気になったが、呼ばれたテーブルへと、幾つかある背の高い観葉植物を避けながら、進んだ。
「モウタン、いつからいるの?」
ニックネームで返すと、その友人がいる四人掛けのテーブルへ着く。途中、マスターがにっこりと笑いながら左目をつむり、距離のある挨拶を交わしてきたので、こちらもペコリと頭を下げた。
友人の名は、瀬田浩志。何故、モウタンと呼ぶのか。それは、此処より隣の地区で大きくはないが、乳牛の牧場をやっているからだ。牛の鳴き声に引っ掛けたニックネームだったが、少しぽっちゃりとした体形の浩志はあまり気に入っていないようだ。
「その格好。もしかして」
珍しい浩志のスーツ姿に驚いた。
「行ってきた。一応、同級生だったからな。枕経が始まる前に帰って来たけど」
それで会わなかったのかと納得した秋芳が、改めて浩志の格好を眺めた。
喪服としてのスーツが着慣れないせいか、何処かぎこちなさを感じさせ、締め上げた黒ネクタイも変な形で盛り上がって見えた。
「俺も今行ってきたばかりだよ。日曜日の葬儀には出るのか?」
軽く肩をすぼめながら、浩志の横へと腰を下した。
「いや、その日は農協さんが来るんで行けない。だから、香典は置いて来た」
「そうかあ。忙しいな浩志も。あれ、誰かいるの?」
秋芳が落とした視線の先、テーブルにはもう一人分のコーヒーカップと、クシャッとなったおしぼりが丸めてある。
「孝雄だよ。今、トイレ」
「へー、横ちゃんいるの」
彼、横田孝雄も友人だ。町の家電量販店に努める無線オタクだ。小学校の頃からアマチュア無線にはまり、今では国内はもとより、世界中から交信記念と称されるQSLカードなるものに埋め尽くされ、それらに占領された自室で満足げに、夜な夜なハローCQ等とやっているらしい。自宅庭に建てられた自立型アンテナタワーを、よく自慢していた。
「あー、冷えちゃったのかなあ。ん、ヘーイ、ユウ! あきよーし」
トイレから出てきた孝雄が、黒縁のメガネを上下に揺らし、おかしな片言で喋りながら、秋芳を見つけふざけた。彼も喪服のスーツを着ている。
「ヘイ、ユウじゃないよ。そんなんだから、彼女も出来ないんだよ」
呆れた顔で秋芳が言った。
「あー、それ言う。そうですか。まるで他人事みたく言いますか。じゃあ、お聞きしますが、あなた達は彼女がいると」
「あなた達って、俺もかよ」
巻き込まれた浩志が呆れている。
「あっはっはは! ほんとだねえ。こんなんだから、彼女の一人も出来ないんだ俺達。もう、二十六にもなってさ」
孝雄が座るのを確認すると秋芳が言った。
「それは、言わない」
飲みかけのコーヒーカップに口をつけながら浩志が嘆く。
「いらっしゃい。いつものやつでいいかな?」
他愛もない三人の会話を微笑みながら聞いていたマスターが、コップと水差しを持ち、秋芳達の座るテーブルに注文を取りに来た。
「いつものでいいよ」
いつもの、とは、この店で自家焙煎された豆で入れたコーヒーの事だ。確か、マスターが得意げに東ティモール産とか言っていたが、素人の秋芳達に取っては、香高く、とても美味しいと云うだけで十分だった。
「ねえ、マスター。見慣れないお客だねえ」
入口から見えたカウンターに座る客のことを、秋芳が尋ねた。
「ああ、始めてみえた人達ですよ。何でも地質調査とか」
「へー、珍しいね」
秋芳は首を傾げた。一応、こう見えても役場の職員だ。水道課ではあるが。しかし、こんな田舎の町役場だ、多少なりとは耳に入って来ても良さそうな筈なのに。ましてや、地質調査と云う。カウンターに座る三人の後ろ姿を眺めながら、腕を組んだ。
「あ、俺、おかわりね」
孝雄が二度目のコーヒーを頼むと、浩志もそれに続いた。
「ところでさあ、村田の事だけど。俺、ちょっと変な事聞いちゃった」
先程とは打って変わって、妙に真剣なな顔つきで突然、孝雄が言い出した。
「え、何を。あ、そういえば横ちゃん、小学校の頃、何年間か、同じクラスだったよな」
孝雄のただならぬ物言いに、身を乗り出した秋芳が言った。
「へー、そうなんだ」
隣の地区に住む浩志は、小学校が違っていたので、この手の話は分からない。
「ああ、あいつの事は良く知ってるんだけどな。ほら、高校卒業してから地元の印刷会社に就職しただろ、明美っちの親父が経営してる会社」
「片山明美な。高校の時、テニス部だった。ちょっといい女だったよな、背も高かったし」
秋芳が補足する。
「あ、高校の時、隣のクラスで生徒会の副会長やってた女だ。思い出した」
浩志が少し興奮気味で声を張った。
「そう、そこで村田の奴、結構いいポジションにいたらしくって、何人かの後輩と一緒にあっちこっち取材の真似事しながら、社内日報と称して自分達の取材日記みたいなのを出してたらしいんだ」
「あー、それで見た事無い奴らが、今夜の通夜にいたのか」
秋芳の声が高くなり、成る程と頷いている。同時に、枕経が終ったすぐ傍から、声を掛けて来た無精ひげの男を思い出していた。
「で、変な事って」
浩志が孝雄を急かした。
「ああ、実は俺、お袋にあの寺まで乗っけて行ってもらったんだけど、かなり早く着き過ぎちゃってさ、受付もまだ始まってなくて、そこで仕方なく本堂の中へ入った。雨も降ってたしな。中じゃ通夜の支度でてんてこ舞さ。大きな花輪にビニールを掛けるとか、いや、中に入れて置くとかさ。そうこうしてる間に、多分、村田の後輩達だと思うんだが、四人の若い奴らがやって来た。俺が本堂横の庫裏に座り込んでるとは知らなかったようで、何か話始めたんだ。それも小声でな。最初は良く聞き取れなかったんだけど、ここだけの話ってやつみたいだった」
「お待たせ。おやおや、どうしたの皆さん。真剣な顔しちゃったりして、らしくないですねえ」
湯気の立つ、煎れたての香を辺りに漂わせ、マスターが注文した物を運んできた。
各々の前に置かれたコーヒーが、暫しの休息を促しているようで、三人は揃って口をつけた。
ゆっくりとテーブルに返し、浩志が話の続きを孝雄に迫ろうとした時だった。おもむろに出した携帯を開けた秋芳が、
「連絡なしか」
ポツリと言った。
「誰からだよ」
気になったらしく浩志が尋ねる。
「ああ、さっき通夜で葛城圭子と会ってな。コーヒーでも飲もうってことになって、ここで待ち合わせなんだけど」
「えー! 葛城って言ったら、超! 頭いい奴じゃんか。俺らクラスの中でも一番、否、全クラスで一番の女だろ。それも、かなりの器量よし、美人だったよなあ。そうかあ、来るのかあ」
ニヤニヤと笑いながら、おどけた仕草で孝雄が叫んだ。
「おお、そうだ。横浜の大学で博士やってるって女だよなあ・・・そう云えば、お前、秋芳とは随分仲が良かったんじゃあなかったっけ」
羨ましそうにじっと見ながら、浩志が冷やかし半分で言った。
「あっははは、それはどうか分からないけど、もうすぐ来ると思うから」
照れくさそうに白い歯を見せると、ジャケットの胸ポケットに携帯を仕舞うのだった。
「さてと、続きを聞きたいねえ。横ちゃん」
秋芳が話を元へと戻した。
「えーと、何処まで話たっけ」
「庫裏に居た時だったよなあ、モウタン」
「だからあ、それで呼ぶなよ。頼むから」
「そうそう、小声で話し始めたって所だ」
浩志の抗議を無視した秋芳が言った。
「そうなんだ。それで、今から話す事は聞いたままだからな、質問は無しだ」
記憶を辿るように話し始める孝雄の口調が、やけに暗く聞こえて来るのは気のせいだろうか。内容はこうだ。
いつものように週末の土曜を取材日とした村田一行は、かねがねより取材先と決めていたある場所へ向かったと云う。そこは、もう随分と前から使われなくなった古い寺だった。
その目的は、寺の横に立っている御堂に残された数体の仏像だ。噂では室町時代から鎌倉時代に掛けて造られたものではないか、と云われているのだが、定かではない。
その真意を確かめ、地元のニュースとしてレポートにまとめようと云うものだ。
本尊は既に本寺へと移され、此処には無いと聞いていたらしい。此の寺にあるものは、目的の仏像だけの筈だった・・・ところが、現実は違っていたのだ。仏像など一体も無く、その代りに在った物。それは・・・昼間だと云うのに薄暗い御堂の中、痛みの激しい板張りの床に気を配りながら、静かに中へ入ってゆくと、未だ取り残され、行く当ても無いのであろう幾つかの位牌が蜘蛛の巣を纏い、皆の目に止まった。
気味悪がった後輩達をなだめすかすと、村田は一つ、その位牌を手に取り、ふうっと息を吹き掛け積もった埃を掃った。皆を落ち着かせ安心させるためだったようだ。
更に、着ていたパーカーの袖でゴシゴシと、戒名が書かれているであろう場所を拭いた。
壁板の僅かな隙間から入り込む細い光を頼りに覗き込み、目を凝らした。
すると、何やら眉間にしわを寄せながら、顔を斜めに傾けたと思った瞬間、村田の顔から血の気が引いたと同時に、見た事も無いような恐怖の形相となり、広げた口が何を言うでもなく、パクパクとしている。ゆっくりと手元から離れてゆく位牌が床に落ちた。その音と共に、声ともならない悲鳴を上げながら、一目散に本堂から飛び出して行く村田を追うように、訳の解らないまま、残された連中も駆け出した。
その中の一人が、焦る余り前のめりに転んだ。急ぎ立ち上がろうと両腕を踏ん張った時、目の前に、先程村田が落とした位牌が飛び込んで来た。目を疑った彼の恐怖が絶頂となる。
此の寺は曹洞宗と聞いている。なら、戒名が書かれ、下は信士信女から始まる筈なのだが、眼の当たりにしている位牌に書かれている文字は、とんでもない物だったのだ。
それは一瞬だが、はっきりと見て取れた。そこに書かれていた文字は何と、村田義彦。戒名でも何でもない。真っ先に逃げ出した男の本名ではないか。
息咳切って車まで戻った一行は、誰一人として言葉を発する事も無く、此の寺を後にし
たのだった。
それから一週間後、村田義彦は息を引き取ったと言うのだ。
「へー、面白そうな話してんじゃん。皆さんお久しぶり、元気そうだねえ」
「びっくりしたなあ。驚かすなよな」
拭きだしそうになったコーヒーを辛うじて口の中に留めた秋芳が、後ろから現れた圭子を見つけ非難した。
「おお、カ・ツ・ラ・ギ!」
またしても孝雄の片言が聞こえた。
「お前も元気そうだな」
照れくさそうに浩志が立ち上がり、何をカッコつけてんのか、両手をポケットに突っこんで斜めに構えながら言っている。おまけに、
「マスター、注文ね」
何とサービスの良いことか。
「何か、前にやった同級会の続きみたいねえ」
嬉しそうに微笑むと、三人の顔をまじまじと眺めながら圭子が言った。
「ねえ、位牌がどうたらこうたらって、何?」
空いている孝雄の横に座ると、聞いてきた。
「ああ、孝雄が聞いたんだってさ。村田の後輩に、おかしな話を」
神妙な顔つきで秋芳が答えた。
「おかしな話って?」
「秋芳、説明してやれよ」
面倒臭そうな顔をした孝雄がコーヒーを飲みながらそう言うと、秋芳に目配せをするのだった。
「えー、俺がかあ」
言いながらも、今聞いたばかりの話を、得る覚えの中、精一杯思い出しながら話した。
「で、良かったっけ?」
「ああ、百点だ」
合格点を貰った秋芳が大きなため息を吐いた。
同じコーヒーを注文した圭子が、テーブルに置かれたシュガーポットの蓋を取ると、すかさず浩志がスプーンに手を伸ばし掴む側から、
「何杯だ?」
見え見えの格好を付けた。
「何考えてんだかあ」
見るなり孝雄が呆れている。
「いいよ、自分で入れるからぁ」
スプーンを奪い取られた浩志の右手が、一人寂しく宙に浮いている。
「俺って、今、物凄くカッコ悪いよなあ」
両の眉尻を思いっきり下げ、肩を落とした浩志の姿を見て、みんなで笑った。
「ところでさあ、今の話に出てきたお寺って、宝寿寺の事なんじゃない?」
くるくると、浩志から奪い取ったスプーンを回しながら、圭子が言った。
「え、お前知ってんのか?」
リアルに寺の名前を言った圭子を、まじまじと見つめながら、秋芳がおどけている。
「多分ね、西村の外れにある古いお寺の事だと思うよ。もう随分と昔、私が小学校の頃、当時まだ元気だったおじいちゃんと二人で、栗ひろいに行ったことがある。そこの境内には、大きな栗の木があってね、秋口になると、これまた大きな栗が生るのよ」
そう言うと、懐かしそうな顔をしながらカップに口をつけ、こくりと飲んだ。
「おいおい、まじかあ。まあ、大きな栗はいいとしてもだ、その寺には御堂があったのかあ?」
後半押し殺した声で孝雄が聞いた。
「うん、あった」
「でも、どうしてそれが今回の寺だって分かるんだあ?」
テーブル越しに乗り出した秋芳の体が、浩志の頭を覆った。
「秋芳、うざい」
「ああ、ごめん・・・なあ圭子、どうしてだ」
もとの位置へと戻りながら再び尋ねた。
「どうしてってぇ? だって、そんな古い御堂があるお寺はこの辺じゃ宝寿寺しかないし、それに、後を継ぐ住職が絶えたのも、随分と昔だって、おじいちゃん言ってたから」
「隣町の方かもしれないじゃあないか」
「それはないと思うよ。だって、孝雄君の話だと、地元のニュースを社内日報に載せてるって言ってたじゃない。隣町はその会社、地元じゃないじゃん」
「なるほど・・・確かに」
右手で頬杖を突きながら、静かに秋芳が頷いた。
「さすがだな。昔から才女と呼ばれるだけのことはある」
感心しながら、孝雄が言う。
「しかし、良く出来た話だな。夏の盆にはまだちょっと早いぞ」
長めに伸びた観葉植物の細い葉を、指で弾きながら浩志がぼそっと呟いた。
「でもさあ、死んじゃったんだよね。よっちゃん」
寄りかかった背もたれが、圭子の肩を包み込むと、ギシと小さく音を立てる。
「祟りってかあ? この時代に」
呆れた口調で浩志が言った。
「どう思うよ、博士」
背もたれに沈んだ圭子を見ながら、秋芳が尋ねた。
「あっはは、科学者に変な質問するんじゃないよ」
とっさに孝雄が言い放った。
「ねえ、みんな知ってるかなあ。波動って」
背もたれから離した体が起き上がると、いきなり圭子の口から吐いて出た。
「は・・・はいどうどう?」
「浩志、馬じゃないんだから」
孝雄の顔が呆れている。
「お前の牧場は牛だろうが」
続けて言われた浩志が、むすっとした顔で言う。
「分かってるよ! 反動だろ。それが何だよ」
「あん、もう、波動。は・ど・う」
「あ、ああ、そう、そうだよ、はどう。だよな」
「浩志君、ほんと分かったあ?」
しどろもどろになりながら、それでもプライドは守りたいらしい。
「駄目駄目! こいつは牛の事しか分かんないべ」
駄目押しの一発は孝雄の口から発射された。
「もう、いい加減にしなよ。で、波動って?」
割って入った秋芳がもう一度尋ねた。
「うん、この波動って云うのはね、使い方が色々とあって、今の話だと心理学でも使うのよ。例えば、集団ヒステリーが有名よね」
「何だあ、ヒステリーって。いつもお袋はそれだぞ」
浩志の言葉に、黙ってろと言わんばかりに孝雄が睨みつけた。
「そのヒステリーじゃあなくって、要は、何らかの事象を目の当たりにしてパニックになった人達が、訳も分からずに同じ行動を取ったり、状態になる事を言うのよ」
「で、何で波動なんだ?」
乗り出した体が、またしても浩志の頭を覆ったことを気にしながら、秋芳が尋ねた。
「波が伝わるのよ。恐怖なら、なおさらね」
「じゃあ、怖いと思う気持ちが極限まで行くと、それが周りにも伝わるってか?」
珍しく孝雄が真面目な顔つきで言った。
「そう、だから本当はそこに有る筈も無い物が見えたり感じたりするのよ。今回はよっちゃんの名前が書かれてたって云う位牌よね。多分、薄暗い御堂の中へ入った時、全員の気持ちの中に恐怖が生まれたんじゃあないかな。それで、最初、無理して位牌を手にしたよっちゃんが限界を超えた。そして、その位牌の戒名を見たって云う一人が、寸前に見たよっちゃんの顔をその位牌にだぶらせた」
「ほう、成る程。全てが恐怖による錯覚と云う訳だ」
感心しながら、孝雄が頷いている。そして、みんなの顔を覗き込みながら続けて言った。
「でもさあ、じゃあ何故、村田は死んだんだ?」
「偶然?」
言いながら、秋芳が眉尻を下げた。
「そうだ、偶然だ。偶然に決まってる。大体がそんな話は、いつも大袈裟に面白おかしく伝わるもんだ。村田の後輩達も、そんな話にしなけりゃ、先輩が死んだ事に納得出来なかったんだろうよ」
いつのまに引き千切ったのか、観葉植物の細長い葉を口横に咥えた浩志が、珍しく真面目な顔つきで言った。
「よし、行ってみるべ」
「な、何言ってんだあ」
いきなり立ち上がった孝雄が、誰に言うでもなく放った言葉に即反応した浩志が、おどけながらも呆れた顔で孝雄の顔を見入った。
「行って、この目で確かめてやる。でなけりゃ、気になって眠れぬ日々ってやつだ」
「おいおい、まじかあ」
秋芳も呆れた顔で孝雄を見ている。
「面白そうね」
「えー! 葛城、何だってえー」
圭子の言葉に、浩志は顔を歪めながら言うと、への字に曲げた口元から小さく嗚咽を漏らした。
「おお、か・つ・ら・ぎー 仲間ねぇ」
またしても可笑しな片言で、隣に座る圭子の肩をポンポンと叩き、満面の笑みを浮かべる孝雄を見ながら、秋芳が、
「圭子、お前、まじで言ってんのかあ?」
浩志の頭を下敷きにし、詰め寄った。
「だって、面白そうじゃん。まあ、怪奇現象は望めないかもしれないけど・・・えへへ」
圭子の言葉で秋芳は思い出した。そう、この女、中学校一年で同じクラスになってから、地元の高校に入った三年間、ずっと同じクラスだった。だから、この女の事は良く知っている。勿論、彼女にとっても、秋芳の事は手に取るように分かっているだろう。
葛城圭子イコール、好奇心の塊。これは、人一倍なんて生やさしい物じゃあない。
「やめとけよ。な、やめといた方がいいって」
眉尻を思いっきり下げた浩志が、二人の戦士に懇願している。
「ふん! この臆病者めが! 姫、いつ戦場に?」
「そうねえ」
「横! 本気の本気かあ?」
今にも泣きだすんじゃないかと思える程、困惑しきっている浩志をなだめながら、孝雄の視線を強引に捕まえると、首を傾げた秋芳が、今一度、尋ねた。すると・・・
「秋ちゃんも来るよねえ」
目の奥に企みを伺わせながら、圭子が見つめている。
「やめろー! その目を見るなあ! 秋芳ぃー」
等々、浩志が泣いた。
圭子は知っている。今まで自分のお願いを、秋芳は聞いてくれなかった事など一度も無いと云う事を。
「いいよ」
やはり、と、思った。
「お前まで・・・下部となったかあ」
落とした肩を震わせながら、おしぼりで顔を覆った浩志がうつむいた。
「思い出した。駄目なんだ。浩志はこう云うの、まるで駄目だった。うん、高校の夏合宿で肝試しやった時、やっぱり今見たく、泣いた・・・あ・・・」
多分、その事は孝雄と浩志、二人だけの秘密だったのだろう。それを聞いた浩志の視線が、お絞りの隙間から殺意を持って覗いた。
殺意の視線に気が付いたのか付かなかったのかは分からないが、完全に無視した孝雄が顔を上げている二人に向かって言う。
「来週の日曜はどうだ?」
すると、孝雄に向けた右手を左右に振りながら、秋芳が困った顔で言った。
「日曜は駄目、親父が来るから。土曜日だったらいいけど」
「かきいれ時だ。電器屋は」
即座に却下された。
「え、日曜日だって、かきいれ時だろ」
秋芳の言葉に、孝雄はその理由を言う。
「第三日曜は休み。ちなみに、月曜休みだから連休だ」
「なるほど」
「私も日曜は無理だな。じゃあさ、土曜日、孝雄君の仕事が終わってからにしよう」
圭子が提案すると、すかさず孝雄が、
「遅くなるぞ、それでもいいか? 大体、八時頃かな」
「うん、大丈夫。それまでに準備しとくから」
「何を準備するんだ? それに、何? その目の輝きは」
まるで子供の遠足みたいに身を乗り出し、パッチリ開けた目をこちらに向けた圭子が、御機嫌な顔をしながら、尋ねた秋芳に答えた。
「決まってるじゃない。夜食のおにぎりよ」
「えー、懐中電灯とかじゃなくってか」
「そう云う物は、秋ちゃん用意してよ」
「はいはい、分かりました。他には何が必要かな?」
「まてまて、他に必要な物は俺が用意する」
言うと、孝雄は腕を組み、目を閉じると何か考え始めた。
「あのー」
「どうしたの浩志君。いいよ、無理には誘わないから」
「夜食のおにぎりって・・・葛城のお手製か?」
浩志はおにぎりに喰い付いたようだ。
「勿論よ、玉子焼きだって上手いんだから」
「た、玉子…焼き」
「あっははは、モウタンの大好物だねえ」
秋芳がおどけて見せる。
何やら、考えているような素振りを見せた後、意を決したのか、思い詰めた表情で浩志が口を開いた。
「よ、よし。車は俺が出す、運転手も俺だ・・・その代り、着いても車からは降りない。お前達に何かあった時、すぐ逃げられるようにハンドル握って待ってるから」
「いいのかあ? 無理すんなよ。だけど、お前のロードスター、二人乗りじゃないか」
ようやく顔を上げた浩志に向かって、秋芳が言った。
「大丈夫だ。牧場にパジェロがある。四駆だし、何処でも走れる」
「よし、車は決まりだ」
突然目を開けた孝雄が言い放った。いつのまに付けたのか、上唇で挟んだ観葉植物の細い葉を髭の様に撫でながら、まるで姫を守るナイトのように、誇らしげに顔を上げている。
その後は、ああでもない、こうでもないと、取り留めの無い話で盛り上がり、時は過ぎて行った。
いつの間に帰ったのだろうか、カウンターにいた地質調査隊の姿は既になかった。
葛城調査隊と名付けられた一行も、この後、来週の土曜日に浩志がパジェロでみんなを拾い、孝雄の勤め先である、家電量販店の駐車場に行くと云うことで話を決め、長い円卓会議はお開きとなった。
一日置いた日曜日、村田義彦の葬儀がしめやかに行われ、その席に浩志を除く三人の姿が在った。
月曜日の朝、役場の執務室に秋芳がいた。
「え、じゃあ、そんな連中は来なかったんですか。おっかしいなあ」
喫茶麦々で見た地質調査隊が、申請に来たかどうか確かめたのだった。いかなる場合でも、無断で調査遂行は許されていないからだ。
「この村じゃないのか?」
ぼそっと呟いた。
「秋芳、そろそろ行くかあ」
「あ、はーい、今いきまーす」
いつもの仕事が始まった。