第四節 正体と決意 そして龍は唄を奏で ③
おはようございます。
予告通りの日中投稿です。
今回はカイとシエラの関係が展開していく場面となります。
――時は遡り。
カイとシエラの出会いは、七年前――シエラの両親が命を落とした、かの大襲撃より三年が過ぎたある日の事。
ジンダイが突如、防衛団の新入りとして連れてきた一人の少年。
それが、カイであった。
「襲撃事故のショックで精神的に酷く衰弱していた為に、養育院の別棟で保護していた孤児の一人だ」とジンダイは説明していたが、明らかに他と違う髪の色などからカイに対して警戒心を抱く者は少なくなく、初めは上手く馴染めずにいた。
が、そんな疑心や批判はすぐに消え去った。
カイの持つ龍の力――霊具というデバイスに依存する事の無い、唯一無二の高い戦闘能力。
このたった一つの武器によって、カイは防衛団の中での居場所を確立していった。
一度戦地に赴けば、単騎で大勢のアヤカシを相手に立ち回り。
強力な龍鱗の礫と迸る蒼炎を以て、無数の獣の群れを一息の間に纏めて消し去る。
カイの登場により、防衛団や集落のアヤカシによる被害は大きく減少。
「よくやった!」
「流石だな!」
皆、口々に彼の功績を称え、褒めちぎり、カイは自然と防衛団の面々に溶け込んでいった。
しかし、ただ一人だけ――そんなカイの活躍を、あまりよく思わない者がいた。
それが、シエラだ。
この時より三年前――七歳の時に両親を亡くし、幼くして次期族長の立場に立つ事を余儀なくされたシエラは、周りの大人達から寄せられる期待と重圧に応えようと、日々並々ならぬ努力を重ねて来ていた。
族長として、そして封術士達の長として、皆を先導出来る様に。
おじいちゃんみたいに、皆を引っ張っていける様にと。
当時のシエラにとっては、亡き父親の跡を受け継ぐために費やした時間が。
そして、得た実績こそが全てだった。
そうして鍛錬に励む彼女の前に突然現れた、自分には無い才能の塊。
それが、カイだったのだ。
そんなカイの存在は。
その稀有な才能は。
シエラが三年間かけて積み上げて来た努力とその成果を、無下にしてしまう。霞ませてしまう。
――そう、シエラには思えたのだ。
勿論、その様な事は万が一にもありはしないし、カイ自身にもそんな意識は更々無い。
しかし現実にカイの持つ能力は、シエラの積み上げて来た経験や能力を、無情なまでに、圧倒的に凌駕していた。
だからこそ、彼女は自然とカイに対して距離を置くようになり、そして一方的な敵対意識を持つ様になったのだ。
そんな二人の距離が縮まる事は無く、出会いの日より淡々と月日は流れて。
そしてある時、一つの騒動が起きた。
――暗がりの中に、ざあざあと降りしきる雨の音が響くある夜の事。
普段ならとっくに静まり返っている筈の〈レィミア〉の空には、暗色の布を用いた丈の長い雨避けの外套を身に纏った、幾つもの人影が舞っていた。
アヤカシによる襲撃――ではない。
「おーい! そっちの方には居たかー⁉」
「ダメだ、居ない! もっと捜索の範囲を広げよう!」
男達の声が、暗く湿った雨天の元に何度となく交錯する。
彼らはその時、大掛かりな人探しをしていた。
その日の夕暮れ時に、「特訓に行ってくる」とだけ言い残して神殿を出て行ったシエラが、いつまで経っても戻って来なかったのだ。
神殿にも集落にも、その姿は何処にも見受けられない。
となると、一人で森のある方まで飛んで行き、霊力切れか何かで身動きをとれなくなってしまった可能性が考えられる。
最悪、足場を踏み外して灰の中に落ちたという事だって……。
とにかく、戻って来ないという事は、何かしらのトラブルに巻き込まれているという事。
ベルディが遺した、たった一人の娘を――次期族長となる者を失ってなるものかと、人々は冷たい雨の中、声を張り上げて捜索を続ける。
刻一刻と、時間ばかりが過ぎていき。
冷たい雨は、その声を遮る様に、押し流す様に、降り止む事無く延々と注ぎ続けた。
大勢の人が夜闇の中を飛び交うその頃、シエラは一人、不時着した地点の側にあった小さな崖の下に蹲っていた。
「うっ……ぐすっ……」
カイに対する対抗心のあまり、無茶をし過ぎた。
霊力の残量もろくに考える事をせず、無我夢中で飛翔の練習に励んでいたのはいいものの、突然霊力切れを起こし、コントロールを失ったシエラは地上に落下。
幸い、落下地点は木々の生い茂る森林地帯であった為、豊富な木々や緑の葉がクッション代わりとなり、シエラの身体にかかる衝撃をある程度吸収してくれた。
しかしそうは言っても、シエラの身体はまだ幼い少女のそれだ。
当然無傷で済む筈もなく、全身に打撲や擦り傷の痕が刻まれ、左足を骨折。
そして左の目の上には、大きな切り傷を負う事となった。
頭の傷口からは赤い血が流れ、その頬を赤く濡らしている。
だが落下の高度を考えれば、それだけで済んだのは非常に幸運である。
とは言っても、その負傷の所為でまともに身動きが取れない事には変わりは無く、しかもそこに追い打ちをかける様に降り出したこの大雨。
何とか雨だけでも避けようと這う様にして移動し、そして今、すぐ側にあったこの崖の下にある小さな窪みに身を潜めていたのだった。
しかし奥行きのほとんど無い小さな窪みでは、降り注ぎ、地に跳ねる雨粒の全てを遮るには事足りなかったが。
「寒い……よう。おじいちゃん……皆ぁ……」
打ち付ける冷雨と冷え切った外気が、傷付いた少女の身体から体温と体力を奪っていく。
空虚な瞳から、ボロボロと涙の滴が零れ落ちた。
――なんで、こんな無茶をしてしまったのだろう。
あの翠髪の男の子が、恨めしかった? 認められなかった? 彼が嫌い? 疎ましい?
――違う。これは単なる、私一人の嫉妬に過ぎない……。
本当は、もっと話してみたかった。
もっと触れてみたかった。
でも彼の側に居ると、なんだか自分が――まだ満足な戦闘も何もできない自分が、どうしようもなくちっぽけな存在に思えてしまって。
自分の価値が、薄れてしまう様な気がして。
そして気が付けば、私は彼を遠ざけてしまっていた。
彼は、私が望んでも得られなかったものを、初めから持ち合わせていた。
そんな彼が、羨ましかった。
ただ……それだけなのに。
それなのに、私は一方的に彼を遠ざけて。敵対視して。何度も歩み寄ろうとしてくれたその手を、跳ね除けた。
そうして自棄に走った結果が、今のこの現状である。
「おとうさん……。おかあさん……」
寂しくて。苦しくて。そして自分が恥ずかしくて。
膝を抱えて、少女は一人で静かに泣く。
「グルルルルル……」
「……っ⁉」
自身の啜り泣きと雨音の合間に、低い唸り声を聞いた気がした。
弾かれた様に顔を上げる。
幼い顔が、彫像の様に凍り付いた。
白い靄の立ち込める景色の中、此方に向かって来る黒い影。
大木の幹の様に太く強靭な、四本の脚。
茶色交じりの黒い体毛に覆われた、重量感のある大柄の胴体。
そして大きな頭部と小さく突き出た鼻先に、獰猛な犬歯が幾つも覗く。
森林地帯に生息する陸生生物の上位に君臨する大型の熊、フィアウルスス。
繁殖期を迎え、一層凶暴性を増した肉食獣が、身動きの取れない少女の目の前に佇み、白い息と共に敵対意識を剥き出しにしていた。
「あ……!」
この熊と遭遇してしまった時は、決して背を向けたり急な動きをしてはならない。
いつもならそんな事は、考えるまでもなく分かっている筈であったが、この時のシエラは違った。
事故と大きな怪我によって煽られた恐怖心と不安感。
そして疲労による判断力の低下。
それらが合わさった結果、彼女はほぼ反射的に逃げ出そうと立ち上がってしまったのだ。
しかし、
「あぐっ⁉」
折れた左足に激痛が走り、足をもつらせたシエラは派手に転倒してしまう。
そしてそれが、巨大なフィアウルススに向けた攻撃の合図となった。
「グルァオォォッ‼」
一声吠えて、巨体が地を揺らしてシエラに襲い掛かった。
その体格からは想像もできない素早さで、あっという間にシエラの眼前まで迫る。
そして地に倒れ伏す少女の身体を目掛け、泥にまみれた剛爪が振り下ろされ――……。
――ヒュオオオォォォッ‼
突如響いた、甲高い一つの咆哮。
そして一拍の間を置いて、横合いからの衝撃を受けた熊の巨体が勢いよく、真横に向けて吹き飛ばされた。
強烈な風圧が吹き抜け、何か大きな白い影がシエラの眼前に舞い降りる。
『おい! 大丈夫か⁉』
〈カイ〉が切迫した様な声で尋ねる。
痛みと寒さと恐怖に苛まれ、満足に声が出せない。
涙を浮かべたずぶ濡れの顔で、シエラは一つ頷いた。
「グルルルルル……」
突き飛ばされたフィアウルススは依然として、戦意を失っていない様だ。
喉を振るわせて唸りを上げながら、じりじりと〈カイ〉との距離を詰める。
しかし〈カイ〉の方には、戦う意思など欠片も無かった。
『失せろ!』
小さく鳴くや、威嚇のブレスを熊の足元目掛けて放る。
フィアウルススが思わずその場を飛び退くものの、その足の先をブレスの端が軽く焼く。
「グ……グゥゥ……」
それだけで、決着はついた。
二、三度と接近を尻込みした後、不服そうな唸りを上げながら、フィアウルススは冷たい森の奥へと姿を消して行った。
『ふぅ。……シエラ、立てる?』
先程の覇気は何処へやら。
一転して穏やかな目に戻った〈カイ〉が、シエラの方へと向き直った。
「あ……足、動かな、くて……。多分、折れて、る……」
……どうしよう。これまでずっと跳ね除けて来たから、いざ面と向かって話そうとすると、どんな顔をして話せばいいのかが分からない……。
怪我の痛みよりも、そんな焦りが先走る。
結果、シエラの台詞は冷え切った身体の震えも重なって、不自然な程のカタコトになってしまった。
しかし〈カイ〉の方に、そんな事を気にする様子はなく。
『あ……ホントだ。酷く腫れてるな……。頭にも裂傷がある……。これは応急処置の方が先かなぁ……』
頭を下ろしてシエラの傷付いた左足を覗き込み、悶々と唸りを上げていた。
『一先ずは雨に濡れない場所に移動しなきゃ。俺の背中に乗れる?』
「……うん……」
僅かな間を置いて、下に俯いたまま頷く。
腹を地に付いて、足の動かないシエラが上りやすいよう身を屈める。
細長い〈カイ〉の背中。
首を回し、服の端を咥えて持ち上げてくれた〈カイ〉の補助を受けてそこにうつ伏せに被さる様にシエラが乗ると、〈カイ〉はゆっくりと身体を起こして歩き始めた。
(…………あったかい)
シエラはこの時、初めて〈カイ〉の身体に触れた。
初めて触った、強大な力を持った龍の翠白の身体は、人肌の様な――暖かで優しい温もりに満ちていた。
頬でその背に触れてみると、〈カイ〉が手負いのシエラにできるだけ振動を与えない様に、その足運びの一つにまで細やかな気を使ってくれているのが分かる。
優しい背中に揺さぶられ、やがてシエラは、巨大な大木の幹に開いた大きな洞に腰を落とした。
「動かないでくれよ。ほっ。よっ……と」
龍化を解いたカイは、近くにあった三十センチ近くある木片や自身の装束の帯を使って、器用にシエラの左足を固定する。
一体何処で習ったのか、意外と手馴れた風の手付きで、特にもたつく事も無く治療を進めるカイ。
脚の固定を終えると、続けて頭の傷の治療に取り掛かる。
自身の服の端を引き裂いて、当て布として傷口に被せて布を巻き、固定していく。
特に言葉を発する事も無く、大人しく治療を受けていたシエラであったが、
(……もう。何をもたついているのよ、私は……。今行かなきゃ、この先こうして話し掛けようなんて機会は、もう無いかもしれないのに……)
頭の中は、こんな感じの葛藤に沸きまくっていた。
しかし、どうやって話し掛けたものか……。というか何を話せばいいのだろうか……。
ここ三年間、ひたすらに強くなる事に執着して来たシエラには、同年代の、しかもほぼ接点が無い上に自分から一方的に避けてきた相手にどう接したらいいのかが分からない。
悩み悩み、結局、どうするのが正解なのか検討もつかなかったシエラは、
「私ね……強くなりたかったの」
「え?」
一周回って思考が働かなくなったまま、独り言の様に呟きを漏らし始めた。
「おとうさんとおかあさんがアヤカシに殺されて、私がおじいちゃんの跡を引き継がなきゃいけなくなって……。皆が、おとうさんみたいな立派な人間になりなさい、って私に言って来た。それがおとうさんとおかあさんの望みだからって、何度も何度も言って来た」
最初こそ、急な話題に間の抜けた声を発したカイであったが、今では真面目な面持ちを浮かべ、少女の拙い独白に耳を傾けている。
少年の真摯な眼差しがその背中を押し、シエラは静かながらも、一つ一つ言葉を紡いでいく。
「だからね、そんな皆の気持ちに応えなきゃって……。それで、強くなろうとしたの。おじいちゃんみたいに、皆を護れるくらいに強くなろうって思ったの。だから術士としての訓練も始めて、毎日特訓もして、やっと第三部隊の末席に辿り着いた。あの時は、本当に嬉しかったなぁ……。私の頑張って来た事が、やっと形になった様な気がして、嬉しくて仕方なかった」
大きく広がった葉の上に溜まる雨の水滴。
やがてそれは葉の皿から零れ落ち、ポツリと草地の足元にぶつかり弾けた。
「けどそんな時、貴方と出会って。そして貴方の力を目の当たりにした。本当に――圧倒的だった。能力も強さも、私の得たものを遥かに超えていた。私には貴方のそれが、どうしようもなく輝いて……そして、疎ましいものの様に思えた。力を持っていた貴方の事が、妬ましく思えたの。そしてそれが悔しくて、自分でも呆れる様な無茶な特訓をし始めて……」
シエラの瞳に、うっすらと涙が滲む。
「そうして頑張ろうとした結果、こうやって皆に……迷惑、かけちゃって……。ホント……情けないよね……。何、やってるんだろう、ね……私って……」
独白は、途中から涙声にすり替わっていた。
「その上、貴方に対しても……一方的に、敵意を剥き出しにして、跳ね除けて来た……。これまで、関わろうとも……して、来な、かった……。貴方が悪い訳じゃ、無いのに……ひたすらに、辛く当たってしまった……。本当に…………ごめんなさい……」
自分の不甲斐無さ。弱さ。情けなさ。
渦を巻いた負の感情が涙の粒となって、ボロボロと零れ落ちていく。
まだ動く片方の膝を抱えて蹲り、小さな嗚咽を漏らす少女に、カイは。
「顔を上げてよ、シエラ――」
少女の灰色の髪を、優しく撫でた。
「ありがとう。――それから、ごめん。俺、シエラの事を何も知らなかった。シエラの過去も、抱え込んでいるものも。何も、分かっていなかった。何も分かっていない癖に、一方的にシエラの中に踏み入ろうとして、シエラを追い込んでしまった」
暗がりが少年の表情を隠す。
それでも、シエラにはカイが今、どんな表情でそこに居るのかが簡単に想像できた。
「何で……貴方が謝るの? だってこれは、私が……」
言葉に詰まる。
「シエラは、自分にやれる事を――自分ができるって思った事を、一生懸命に頑張って来たんだよね。でも俺は、そんなシエラの頑張りを理解してあげようともせずに君に近付いた。きっとそれは――そうして頑張っている事を無視されてしまうのは、とても悲しい事。苦しくて、辛くて、悔しい事だと思う。でも俺はそんな事を、意識しない内に君に対してしてしまっていた。だから――……ごめん」
怒られると思った。それこそ、どんな酷い言葉でも受けるつもりだった。
それがいざ蓋を開けてみれば、怒るどころかむしろ謝られるなんて……。
予想とはかけ離れた事の運びに、シエラとしても少なくない拍子抜け感を感じずにはいられなかった。
「でも、こうしてシエラの事を知れて良かった。話してくれて、嬉しかった。――だから俺も、俺自身の事をシエラに話すよ」
対面から少女の真横に移動して腰を下ろしたカイは、そっと語り出した。
「シエラはさっき俺の事を凄いやつみたいに言ってくれたけど、実際俺はそんな大層なやつじゃない。……俺には、昔の記憶が何も無いんだ。最初の記憶は数か月前、神殿の養育院にいた時の記憶だけ。親も馴染みの人の顔も、自分が何者なのかも、一切分からないんだ」
「記憶……喪失?」
頷きが返る。
「多分ね。正直、少し怖い。自分の事が、何も分からない。今の自分が何によって構成されているのか。何処で生まれてどう生きて来たのか。『自分』の中に、ぽっかりと空白が空いてしまった様な喪失感が、正直……不安で仕方ないんだ」
ふと、カイの周りで光が緩やかな渦を巻いた。
そして龍となった〈カイ〉は、再び言葉を続ける。
『この能力だって、一体どうして使えるのかも、どんな能力なのかも、全く分かっていないんだ。ただ使える。何故か使える。それだけのものでしかない。悪い言い方をすれば、俺はただ、自分の力に振り回されているだけみたいなものなんだよ』
でもね、と〈カイ〉。
『このまま不安がって、怖がっているだけじゃ、何もならない。何もできないままだって思ったんだ。じゃあ何ができる? 俺にあるのは何だ? そう考えた結果、俺に出来る事はこの龍の力を使って戦う事だけだって思った。過去も何もない俺にできる事なんて、これ位しかない。なら、唯一俺に備わっているモノを使って今を生きてやるしかない、って。それで今、俺はこうしてこの場所に居るんだ』
――知らなかった。
目の前に佇むこの強大で綺麗な龍に――この少年に、そんな孤独と葛藤があったなんて。
そしてそんな混沌とした思いの果てに、彼は自分の生き方を見付けて、今を必死に生きている。
そんな〈カイ〉の生き方は――少年の在り方はシエラにとって、とても眩しく、そして輝いて見えた。
「そっか……。貴方も、私も。ただひたすらに、暗闇の中でもがいていただけなんだね……」
『そう、だね』
「案外、似た者同士だったんだね……、私達」
一瞬、龍の翡翠の目が少しだけ見開かれ。
そして柔和に細まった。
『――そうだね』
応える様に、シエラも微笑む。
不意に、冷気を含んだ微風が洞の中へと吹き込んだ。
「う……寒っ……。私、実はちょっと冷え性なんだよね……。はぁ……ちゃんと防寒してくればよかった……」
無意識の内に、シエラの口から呟きが漏れた。
思いっ切り雨に打たれて水分を含んだ衣服。
肌に触れる雨水と外気の冷たさで低下した体温。
加えて太陽が消える事による、夜半の気温低下。
僅かに紫がかって来た小さな唇が、その小さな体が如何に冷え切っているかを象徴している。
(こりゃ冷え性じゃなくても寒いだろ……)
そんな少女の肢体を見て、〈カイ〉は今更の様に考えた。
『仕方なしだな』
〈カイ〉は立ち上がると、成長しきっていない、まだ十メートルにも及んでいない身体を動かし出す。
蛇に似た身体つきであるが故、柔軟性に優れたその身体を器用に丸め、膝を抱えた少女の身体を包み込む。
仕上げに、豊富な体毛を蓄えた彩色の尾を被せれば、
『どうだ? 寒くないか?』
「あ――」
即席肉布団の完成。(こう言うと、カイとしては不服かもしれないが)
冷たい風を防ぐ龍の身体の温もりが、少女の肌に血色を取り戻させていく。
穏やかな龍の呼吸が優しいリズムを刻み、まるで母の腕の中に抱かれている様な安心感がシエラの心身を包み込む。
その生命の温かさ。そして〈カイ〉の心の温かさが、悲しみと責任と孤独と焦燥で冷え切っていた少女の心の空白を、暖かく、そして優しく満たして――。
「……――ありがとう、カイ」
一筋の温かな涙と共に、言葉となって溢れ出した。
『――!』
――初めてだった。
だれかから『感謝』をされるという事が。
これまで彼が戦い、戦績を残せば、皆称賛の言葉は掛けてくれた。
だが称えられこそすれ、「ありがとう」などという素朴な感謝の言葉を言われた事は、これまで一度も経験が無かった。
その言葉はまるで魔法の様に、〈カイ〉の胸に落ちてゆき。
確かな温もりを、その心に染み込ませる。
小さな少女のくれた、たった一度の「ありがとう」は、少年の中に小さな変革をもたらした。
それは――『守りたい』という想い。
親を失い、悲しみに果て、血筋に縛れ――。
そして自分に初めての「ありがとう」をくれた、シエラという一人の少女を守りたいという、少年が初めて抱いた『願望』。
少女のくれた初めての『感謝』がとても嬉しかった。
だから、シエラを守りたい。
シエラを守って、支えて、そしてまた「ありがとう」という言葉を聞いてみたい。
本当に素朴で、純粋で、単調な――年相応の子供の思考だったのかもしれない。
だが例えそうであったとしても、その想いが――その想いだけで、〈カイ〉は自身も意識しない内に、少女に向かって言葉を発していた。
『なぁ、シエラ』
「なに?」
静かに、問うた。
『強く、なりたいか?』
「――うん」
『どんなに辛くても、どんなに苦しくても?』
「うん」
『そっ、か』
布団の様に被さった尾の下から、シエラが頭を覗かせる。
そんな少女に向き合って、〈カイ〉はこう口にした。
『なら――俺も、シエラと一緒に強くなる。何だかんだ言ったって、俺はまだこの〈レィミア〉で過ごし始めてから三か月しか経ってない若輩者だ。出来ない事も、分からない事も山ほどある。だから、それをシエラに教えて欲しい。その代わり、俺がこれからシエラを守る。一緒に飛んで、一緒に戦って。それでこの場所に一緒に過ごして――。困った時には俺が支えになるから。……だからさ、その……』
小さく、気恥ずかし気に瞳を泳がせ、間を置いて。
『似た者同士……友達になって、くれないか?』
少女の瞳が、見開かれた。
「――うん――……」
紅葉した頬と、無垢な微笑み。
冷たい雨の打ちつける夜、少女と龍は人知れずの内に、数か月遅れの出逢いを果たした。
◇
「あの時私ね、凄く嬉しかったの。ずっとカイに対して冷たくしてきたから、絶対に嫌われてると思ってた。それなのに、カイは全然そんな事気にもしてなかった。当たり前の様に接してくれて、当たり前の様に助けてくれて――。それからずっと、どんな時でも私の側に居て、ずっと私を支えてくれて――。……普通なら、絶対に私の事嫌っているわよ。あれだけ撥ねられてきたんじゃあ……」
『そういうもんなのかねぇ……。嫌うとかそっちの方向に考えがいく事なんか、全く無かったんだけど……』
うーん、とぼやく様にその目を細める〈カイ〉に、思わず苦笑を漏らすシエラ。
「そういう所が、お人好しって言われる部分なのよ。でも――」
シエラの口から、小さく吐息が漏れる。
お人好しで、ちょっと間の抜けた所もあって――……あの日からずっと、私の側に居てくれた――、
「そんな優しいカイの事が――私は好きなの」
『え? ――っ!』
抜けた声を上げかけた〈カイ〉の、小さな頭を抱き寄せる。
そんな〈カイ〉の口先に、膝立ちになったシエラが、その唇をそっと重ねた。
時間が、止まった。
動く事も、息をする事すらも忘れて、まるで額縁の中の絵画の様に、口付けを交わした少女と龍はただ感覚に身を委ねる。
たっぷり十秒程の時間が経った後、シエラはゆっくりとその唇を離した。
『シエラ……。お前……』
〈カイ〉の目に映る少女の瞳は、涙の滴を湛えていた。
瞳に映るのは嬉しさと――そして寂しさ。
「カイ……。カイ…………カイ……!」
龍の長い首に、頬を縋り付けて泣き出すシエラ。
翠白の鱗に滴が流れ、足元の岩盤をぽつぽつと濡らした。
「私、嫌だよ……。カイが〈レィミア〉の〈核〉になって、一人で……手の届かない所に行っちゃうなんて……絶対に嫌……。カイの居ない世界に、私一人で残されるなんて…………耐えられない……。次の族長である前に…………お爺ちゃんの……孫である前に、私だって、一人の女の子だもん……。好きな人と……カイといつまでも一緒にいたいよ……」
『シエラ……』
……――まだ。
まだシエラは俺の事を、『人』だと呼んでくれるのか。
こんな俺の事を、好きだと――言ってくれるのか……。
「お爺ちゃんが、言ってたの……。この大陸は、古い世界の残りカスだって。本当は世界には、あんな灰の海じゃなくて、〈レィミア〉みたいな場所が、何処までも広がっていたんだって……。ならあの灰の向こうにも、ここみたいに――私達が住める場所が、あるかもしれない。……まだ知らない、新しい大陸があるかもしれない――」
首に当てられていたシエラの白い手が、龍鱗の身体をなぞってその上へ。
〈カイ〉の頬へと滑って行く。
「だから――私と一緒に、それを探そう。二人で一緒に居られる場所を見付けよう。私には、カイしか居ないの。カイだけが、今の私の全てなの。だから――お願い……」
『――……!』
再び、シエラが口付けを交わす。
ずっと一緒にいた少女の愛の囁きが、〈カイ〉の心を熱で満たす。
『でも……俺は――……』
俺の身体は半分アヤカシ――つまりは化物だ。
決して、真っ当な人間だなんて言えるモノではない。
ここに来て、そんな後ろめたさが〈カイ〉の心に影を射す。
それに本来なら、〈カイ〉はこの〈レィミア〉の為にある存在だ。
ここで消費され、ここで尽きる為に造られた、『カイ(自分)』以外の『アルト(他人)』の身体を得てここに立つ偽物――紛い物の命。
そんな俺が、これ以上の幸せを与えられても――それを享受してもいいのだろうか。
生まれた理由以上の、生きる意味を噛み締めても、いいのだろうか。
「半妖かどうかなんて、関係ない。誰の身体かなんて、関係ない。私が好きになったのは、カイなんだよ。今この場所に――私の側に居てくれる、カイっていう存在を好きになったんだよ。それに――半分アヤカシって事は、半分は人間でしょ? なら、カイにだって私達と同じ様に生きる権利くらい、あって当然じゃない……」
少女の瞳の熱が増す。
「もしカイがそれでも後ろめたさを感じるのなら、私が一緒にそれを背負う。もしもカイが生きていく上での理由を見付けられないって言うなら、その理由を私が作る。私が、その理由にだってなる。だから――――…………」
――私とずっと一緒にいて――……、と。
やがて燐光と共に、龍の身体は崩れ去って。
泡沫の様な淡い光の中、少年の影に少女の影が重なった。
――これは夢か。
死に間際の無意識が織り成した、甘美な幻想か。
ずっと側で、輝いて見えていた少女が。
純粋で頑張り屋で時々何考えてるのか分からない時もあるけど、自分の中で確実に、何よりも大切だと思っていたシエラの身体の温もりが。
熱を帯びた柔肌の感触が、じんわりと俺の心身を包み込んでいく。
何とも形容のし難い漠然とした充足感が、胸の奥に広がっていく。
俺は、こんなに満たされていいのだろうか。
俺が、こんなに幸せになってもいいのだろうか。
自分を人だと思い込み、七年もの間、自分を偽り続けて生きて来た戦闘兵器が、こんな幸せを噛み締めても――。
(……いや――……)
例え許されなくても。例え不相応な幸福であったとしても。
シエラは、俺を選んでくれた。俺に手を差し伸べてくれた。
なら、俺はそれでいい。それだけでいい。
世界がそれを許さずとも。世の理がそれを阻もうとも。
(俺は……シエラと一緒に、居たい――――)
嗚呼、やっと分かった。
ずっと俺の胸に渦を巻いていたこの感情が何なのか。
何が俺を突き動かして来たのか。
俺はきっと、俺に温もりをくれた――初めての「ありがとう」をくれたこの昔馴染みの事がずっと――――。
好き、だったんだ――――…………。
ありがとうございました。
次回からは再び戦闘となり、物語も最終局面を迎えます。
完結の近付く終わ龍ですが、どうぞ最後までお付き合いください。




