幕間 その2
3
翌日、午前十時。土曜日。
僕は自宅の前で待機していた。
佐奈平心優ちゃん。二口女という『怪』を生み出してしまった少女。
真相としては、彼女の友達の体臭に耐えかねてのストレスからくるモノだったのだけど、その解決後に堂々と僕に好意を伝えてきた。
結局、何度か笠酒寄と衝突してからは音沙汰がなくなってしまっていたので、てっきり諦めたものだとばかり思っていたのだけど、それは大いなる勘違いだったらしい。
いや、筋違いか。
彼女が僕なんぞに惚れる道理はない。
僕はただ単に室長の使いっ走りとして動いただけなのだから。彼女は自分で自分の『怪』と向き合っただけの話だ。向かい合える程度の『怪』だった、とも言えるのだけど。
だから、僕に感謝するよりも自分自身に感謝すべきなんだ。僕や室長はただ手助けしただけ。二口女を解決したのは彼女自身なのだから。
「おはようございます、コダマ先輩」
どうやら少しばかり思考に集中しすぎてしまったらしい。不意を突かれた。
「……おはよう佐奈平君」
彼女の接近に気付かなかった。相手が妖刀だったらすでに僕は真っ二つになっていただろう。
そういう僕のほうの事情は知ってはいないだろう。僕が彼女の考えを全く読めないでいるように。
「佐奈平君、なんて距離のある呼び方じゃなくて、心優、って呼んでください」
微笑む佐奈平君は見た目だけならば可愛らしいといえるだろう。だけど、発言の内容が問題すぎる。大して知ってもいないのに女子を呼び捨てで、しかも名前を、なんてことは僕にはできない。罵りたければ罵るといい。僕は童貞野郎なのだ。
「いや、それは遠慮しとくよ。女子の名前を呼んでしまうことに非常に抵抗があるし、なにより僕は未だに彼女のことも名字で呼んでるぐらいだしね」
一応は牽制。知ってはいるだろうけど、一応。
「……そう、ですか。まだ笠酒寄さんとは別れてないんですね」
怖っ! この子怖っ! なんだこの昼ドラみたいな台詞⁉ こんなの僕は一生聞くことがないと思っていたのに簡単に覆してきた。
背筋に冷たいモノが流れる。……果たして僕は無事に『デート』を完遂できるのだろうか。
疑問だ。三対七ぐらいの割合でヤバいことになりそう。もちろん、『なる』確率が七だ。
「さ、彼女さんの事は忘れて“デート”に行きましょう。わたしと先輩の二人だけで。……一日中二人っきりで」
「……夜までには解放して欲しいな」
「それは先輩次第ですよ。ふふっ」
なんとも嗜虐心にあふれる笑みを浮かべて佐奈平君は笑う。
なぜ僕は年下の女子に攻められるような事態になってしまっているのだろう。
そんな疑問を抱きつつも、佐奈平君に手を引かれて僕は歩き出した。
目的地は、知らない。っていうか教えてくれそうにない。
「先輩、知ってますか? 人間にはパーソナルスペースっていうモノがあるんですよ」
「聞いたことがあるようなないような……。それがどうかしたの?」
「パーソナルスペースには三種類あります。他人の距離、友達の距離、そして恋人の距離。後になるほど接近してる状態なんですよ。でも、実はこのスペースは様々な条件下で変動するんです。例えとして出すならエレベータですね。あの狭い密室の中に人が何人もいたらそれぞれの距離は非常に近い物になるんですけど、そこまで不快感をあらわにする人はいないでしょう?」
たしかに。個人差があるのかもしれないけど、エレベータ内部で他の人が乗り合わせても『それがどうした』という感じだ。閉じられた箱という状況下ゆえに許容できる距離が狭まっているということか。
これが、例えばだだっ広い体育館に二人という状況下において、息づかいがわかるほどの距離まで接近されてしまうと……確かに不快だ。っていうか、僕のほうから離れるだろう。
「なるほどね。で、その豆知識がどうしたの?」
「今、わたしと先輩はその恋人の距離にいます。お互いに腕が届く距離、それが恋人の距離なんです」
現在、僕と佐奈平君は電車に乗っている。
端に座った僕の隣に佐奈平君が座っているので、自然と肩が触れそうになるぐらいの距離だ。
なるほど、これが恋人の距離か。
「いや、別に佐奈平君が隣に座ったから自然とこうなるわけだからね? その理論でいくと、僕はおっさんが隣に座っても恋人の距離を許していることになるじゃないか」
「まあそうなんですけど。もう一つ面白い豆知識があるんですよ、このパーソナルスペースには」
聞かないほうが良さそうだけど、それを開陳するのを阻止したところで現実は変化しないし、佐奈平君が手加減してくれるということもないだろう。ゆえに、僕はテキトーに流すことにした。気分は波に揺られるクラゲ。女子に対する処世術というヤツだ。決して僕がヘタレなわけじゃない。じゃないったらじゃない。
「へー。物知りだね」
「人間は慣れてしまうんです。本来ならば存在を許容できないスペースでも。そして、慣れてしまうと今度は誤認を起こしてしまうんです。本来ならば『友達』のカテゴリにない人物でも、友達のスペースにいつもいると、友達だと認識してしまう。そういう風に人間っていい加減なんです。いつも一緒にいる人っていつの間にか仲良くなってしまいませんか? 仲間意識とか言ったりもするんですけど」
心当たりはある。
高校に入学してからずっと隣の席の五里塚。あいつとはいつの間にか軽口を叩くような間柄になっている。何かしらのきっかけがあったとかじゃなくて、自然とそうなってしまったのだ。
「心当たりはあるし、納得も出来る。だけど、佐奈平君の言いたいことがわからないな。女子と男子では会話の目的が違うっていうのは僕もなんとなく感じているところなんだけど、そういうことなのかな?」
男にとって会話とは手段だけど、女にとって会話は目的。
おしゃべりすることそのものが目的。
室長なんかと接していると今一つ実感が薄いのだけど、なんの終着点もなく会話を続けている小唄あたりを見ていると得心がいく。
結局、彼女達はしゃべっているのが一番楽しいのだ。僕にはちょっと理解しがたい感覚だけど。
だから、佐奈平君も僕とおしゃべりするために、こんなどうでもいい豆知識を披露してくれているのかと推測した。会話の枕は一番難しい。切り出すには勇気がいるし、維持するには根気がいる。
「違いますよ。わたしは言いたいのは……今日一日ずっと恋人の距離にいたら、コダマ先輩はわたしのことを好きになっちゃうっていうことですよ」
思わず佐奈平君のほうを向いてしまった僕は、そのオニキスのような瞳を直視することになってしまった。
吸い込まれそうになるぐらいに深い深い黒の瞳。
室長の蒼とは違う、日本人にはありふれているはずの黒い瞳。
だけど、わずか数十センチの距離にある二つの宝石はきらきらと光を放っているように見えた。




