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私が食事を摂るようになってから一週間が過ぎ、私の体力も大分元に戻っていた。
その間日中はずっと瑚白かあげはさんが側に居て私にこの世界のことを教えてくれた。
ここはやはり私が知る世界の平安時代とは異なる世界のようだった。
麗都と呼ばれるこの都、響は私の知る京都と同じように通りが碁盤目状に区切られた都市だそうだ。
私が住まわせて貰っているこの屋敷は響の北東の端に位置するらしい。
中央には帝の坐す御所があり、政を司っているという。
瑚白は上位の貴族であるらしく、時折その会議に出席するため姿を消す。
私は情けないことに、瑚白が不在となると心細くて仕方がない。いつもは鬱陶しいくらい密着してくる彼に辟易しているというのに。我ながら我儘だとは思う。
でもすっかり私は彼に馴らされてしまったのだ。
食事は彼の胡坐の中に収まって彼が食べさせてくれるのを当たり前のように受け入れる。……絶食して体力の落ちた時期の後遺症だ。私は一人で真っ直ぐ座っていることも出来ないくらいだったのでその時は確かに必要だった。今ではすっかり元気になったので一人で食べられるのだが、この甘々な雰囲気を瑚白は手放すつもりはないらしく、当たり前のように私を彼の腕の中に閉じ込めるのだ。……私はダメな人間になりそうだ。……既に半分なりかけていると思う。うん、拙い。
夜も当然のように瑚白が隣に眠る。勿論添い寝だ。でもぴったりと密着して抱きしめられているため、私には刺激が強かった。……それも二週間も続けば、慣れてしまったが。本当、慣れって怖い。今では寧ろ瑚白の温もりがないと眠れない。……重症だ。
ただ、私の中で一つだけ瑚白に対して一線を引いている部分があって、それは香紅夜さんのことだった。
本来彼の隣にいるべきは香紅夜さんであって私じゃない。……私は身代わりに過ぎない。それを、忘れてはならない。……忘れていたくても、そのことは私の胸の底に横たわって蟠っていた。
***
体力が回復してくると、今度は持て余すようになる。
過保護な瑚白にはまだ外に出てはいけないと言われ、私は屋敷から出させてもらえない。それ自体は別にいい。屋敷は広大で庭もあり、窮屈には感じない。
身の回りのことや掃除とか炊事などは使用人が全てやってくれるので私はやることがない。唯一の仕事といえばこの響の都のことやこの世界の常識などを勉強することだろうか。それも毎日半日程度で終わる。
有体に言えば暇だった。
「……贅沢だなぁ……」
午後は大抵縁側でまったりお茶を飲んでいる。
貴族って本当に暇なんだな。いや、本当だったらお稽古とかもっと難しい政の勉強とかをするのだろう。でも私は特殊な存在だ。香紅夜さんの身代わりで記憶喪失ということになっているから屋敷の使用人たちもそっとしておいてくれている。
それが有難いような淋しいような。一人でいると余計なことを考えてしまう。
私はどうしてこの世界にいるのだろう。香紅夜さんにそっくりの私がタイミングよく香紅夜さんが消えたと同時に現れた意味。意味なんてないのかもしれない。でもただの偶然と言い切るには不自然な気もする。
そんなことをぼんやりと庭を見ながら考えていたら突然後ろから抱きしめられた。
「わ!?」
「どうした。難しい顔をして」
瑚白だった。
「びっくりした…。気配消して近付かないで」
瑚白はとても存在感のある人なのに、すっと気配を消すことが出来る。
「驚かせようと思って」
瑚白は悪戯っぽく笑った。確信犯だった。
「――やめてください」
「それで。何を考えていた?」
さらりと流された。結構本気でお願いしたのに。それはともかく。
「…うん、私はここで何をすればいいのかなって……」
「俺の側に居ればいい」
瑚白はあっさりと言って私の横に胡坐を組むと私を引き寄せてその上に座らせた。この距離感にもすっかり慣れた。
私は横向きに座っているが瑚白の腕がしっかりと腰を支えてくれているので安心感がある。瑚白がもう片方の手で私の髪を梳くのに任せてうっとりと目を閉じていると、不意に瞼に柔らかな感触が落ちた。
「!?」
目を開けると間近に瑚白の顔があった。近い近い近い!
「隙だらけだな、夢月は」
「な、なにを」
瑚白は少し意地悪っぽく唇の端を上げて笑った。不覚にも胸がドキリと鳴った。悪企みの表情なのにうっかり見惚れてしまった。くっ、このイケメンめ。
瑚白は決して隙を見せていい相手ではない。どんな悪戯をされるかわかったものじゃない。それでも私にとってはこの世界で唯一甘えられる存在なのだ。
つい、隙を見せてしまうのも仕方のないことだと思う。我ながら学習能力がないなと思わなくもないけれど。いや、でも。
他に頼るべき相手のいない私の弱点を突く瑚白が酷いのだ。
「私は瑚白を信頼したいの!させてください」
「俺は随分我慢していると思うが」
「は?」
どこが。やりたい放題じゃないか。私が半眼で瑚白を睨むと同じような目線を返された。なんで。
睨み合うこと暫し。ふっと瑚白が苦笑とともに小さく溜息を吐いた。
「夢月はお子様だな」
「……」
それは事実なので何も言えない。それにそう思われてムッとするよりほっとしてしまうことも私の偽らざる本心だった。はい、私はお子ちゃまです。
私は分が悪いと感じ、話題を変えることにした。
「瑚白、私すこし髪を切りたいのだけど」
私の唐突な切り替えに瑚白は戸惑いを露わにした。
「は?髪?」
「長すぎるでしょう?だからこの辺まで――」
「――ダメだ!」
私が腰辺りを指して言うと瑚白が蒼白になった。
「なんてことを言うんだ。わかった、俺が悪かった。こども扱いはしないから機嫌を直せ」
…んん?瑚白はわたしが怒って髪を切ると言い出したと思っているみたい。子ども扱いは全然歓迎なのだけど。
「……そんなに髪切るのダメなの?」
「当たり前だ。俺がいるのに世を捨てるなど」
ああ、やっぱり出家するって意味になるんだな。私にそんなつもりはないのだけど、この世界の人には大事なのだろうな。髪を切ることは無理そうだ。
瑚白は私の出家を阻もうとするかのようにぎゅうっと私を抱きしめた。その温もりが心地よくてつい、目を閉じてしまう。ごろごろと喉がなりそうだ。
「……。おまえは本当に無防備だな」
呆れたような吐息が頭の上に落とされる。
はっ!つい。
私は慌ててきりっと表情を引き締めたけれど、瑚白には呆れた目をされてしまった。いや、うん…。
「…だって、ずっと警戒するとか無理だよ。瑚白の腕の中は居心地が良すぎて…」
少し拗ねて言うと、瑚白の腕にぎゅっと力がこもった。でも全然苦しくはない、絶妙な力加減。
――ああ、安心する。
とてもドキドキもするのだけど、この腕の中にいれば何も怖くない、というような。そんな私に瑚白は苦笑と共にほだされてくれたようだった。
「――いいよ、暫くはこのままでも。夢月が居てくれるだけで本当は夢のように幸せなんだ」
その言葉は穏やかで瑚白は柔らかな笑顔を浮かべていた。胸がきゅうっとなる。
……瑚白、本当に?私でいいの?
聞きたいのに聞けない。瑚白が私を大切にしてくれていることは分かっている。それが私に香紅夜さんを重ねてのことなのか、私自身を見てくれているのかは分からないのだけど。それでも、私はここにいたい。だから聞くのを避けた。……今が幸せだからそれでいいと、胸の奥でちくちくと鈍い痛みを訴える想いに気付かない振りをして。
ただ、この穏やかな日々がこのまま続けばいいと、自分に都合のいいことだけを願った。