7
夢の中で私は甘い蜜を舐めていた。竹筒に入っているそれはほんのり竹の香りが漂い、ただ甘いだけではなくさっぱりとした味わいだ。
「美味しい」
なんて美味しいのだろう。私は生まれてから今まで食べた中で一番美味しいと感じた。感激だ。そんな私を家族は微笑ましそうに見守っている。
…やだ、ちょっと意地汚な過ぎたかも。私は今更ながら蜜の入った竹筒を下ろし、取り繕うようにコホンと咳払いした。
「…その…ここ数日何も食べていなくて……」
こういう時、私に甘い家族は「夢月が好きなだけ食べていいのよ」と言うのが常なのだが、今回はまだそのお許しが出ない。…おかしいな。私は訝しく思って家族に視線を向けた。
「――!?」
すると、今まですぐそこにいたはずの家族の姿が掻き消えていた。
なに…?
「お母さん…?お父さん、お兄ちゃん!」
慌てて家族を呼ぶと、遠くに彼らの影が見えた。その影はじわじわと遠ざかる。影は大きな丸い金色の光の中へ吸い込まれてゆく。
「待って!なんで、置いて行かないで!」
私は遠ざかる家族を捕まえようと手を伸ばした――。
「――き、夢月!」
目の前に心配そうに私を見つめる瑚白さんの顔があった。
「瑚白さん…?」
「…魘されていた。……夢の中のおまえを助けてやれないのは歯痒いな」
瑚白さんは辛そうに瞳を細めて私の頬を指の背でそっと撫でた。
「夢…」
そういえば、夢を見ていた気がする。…でも思い出せない。ただ、胸がどくどくと早い鼓動を刻んでいるのは決して心弾むが故ではないことは確かだ。
冷や汗が浮かぶような、厭な気持ちが身体全体を重くする。
私は胸元を押さえようとして、片手が塞がれていることに気付いた。瑚白さんの手としっかり繋がれている。
「…おまえが救いを求めるように手を伸ばしたのでな。つい、掴んだ」
瑚白さんがふわりと温かな笑みを浮かべた。
私は重かった心が軽くなるのを感じた。そして私はこの時漸く、またしても瑚白さんに膝枕されていることに気付いた。
「あ…」
「起きられるか?」
私はこくこくと頷いた。恥ずかしすぎる…。
瑚白さんは私の背中に手を当てて起こしてくれた。そこは既に屋敷の私に与えられた寝所だった。
「いつの間に…」
「夢月。膳を用意する。…少しでいいから食べてくれ」
瑚白さんがじっと私を見つめていた。懇願するように。
私は夢を思い出した。
――蜜を舐めた。そのせいで家族は遠ざかってしまった。
あの夢は暗示なのだろう。恐らくこの世界で何かを口にすれば、元の世界には戻れない可能性が高い。
でも、あの始まりの場所へ行っても帰る方法は見つからなかった。私はこの世界から出られない。ならば食べるしかない。そうしなければ死ぬからだ。そこまで考えて私はふと思いついた。――むしろそれこそが異世界への渡航方法なのでは?「死ぬ」ことで、人は異界へと旅立つことが出来る。
「――夢月」
瑚白さんの声に私はふっと覚醒した。両の二の腕をぎゅっと掴まれてびくりと心臓が跳ねた。
瑚白さんは怖いくらい真剣な表情で私を睨み付けるように見据えていた。
「おまえが拒否しても無理矢理にでも食べさせる。俺を憎んでもいい。おまえを失いたくない」
琥珀色の瞳に射止められたように私は呆然と瑚白さんを見つめ返すことしか出来ない。
「…瑚白さ」
何か言わなくちゃと開きかけた唇に、ぐいっと何かをねじ込まれた。
「!?」
舌の上で酸味が広がる。何かの木の実を瑚白さんが私の口に入れて、指で潰したのだ。私は彼が竹筒を呷るのを呆然と見ていた。そして瑚白さんは素早く指を抜くと、蓋をするように私の唇を覆った、彼の、唇で。
「~~~~~~~~!?!」
口移しで液体を流し込まれた。――甘い、蜜の味。夢の中で飲んだものと同じ。これは水だ。……蜜のように甘く感じる。
私は咄嗟に離れようと、彼の胸に手を置いて腕を突っ張ろうとしたけれど、瑚白さんは簡単に私の両手を片手で掴んでしまった。元々絶食して力が出ないこともあるけれど、唇を唇で塞がれるという衝撃的な行為のせいで私が動転していることも大きい。というか、何この状況!?
息を吐き出してしまったのに吸えなくて、苦しい。顔が真っ赤になっているのは息苦しいためなのか、行為のためなのかも判然としない。
苦しくて嚥下する。流し込まれた水とともに果実が喉を通るのが分かった。
「…夢月、果実は飲み込めたか?」
ほんの少し唇を離して瑚白さんが問う。私ははくはくと息を吸い込んだ。それどころじゃなかったので返事をしなかったら瑚白さんは焦れたようだった。
「夢月」
飢えた獣のような目で見つめられて思わずごくりと息を飲みこむ。口の中には何も残っていない。
瑚白さんは私がとっくに飲み込んだことを見て取るとにやりと笑った。
「いい子だ」
そしてご褒美とばかりにちゅ、と口付けされた。
「!!」
私は固まってしまった。心も身体も凍り付いたように現実を受け止めきれない。
混乱と羞恥と絶望と――仄かなときめき。
私は唇を押さえた。指が震えている。こんな、無理矢理。それなのに私は嫌悪を感じなかった。混乱しているけれどそれだけは確かだ。
でも。
食べてしまった。飲み込んでしまった。
――もう戻れない。
ボロボロと涙が溢れた。
「夢月」
瑚白さんの優しい声が耳に届く。そっと身体を引き寄せられ、胸に抱きしめられる。
「…俺を憎んでいい。嫌ってもいい。それでも俺は…おまえを愛している」
「……!!」
違う。瑚白さんが愛しているのは私じゃない。香紅夜さんでしょう?
でも怖くて私はそれを口にできなかった。震える指でそっと瑚白さんの着物の前身頃を掴む。何かに縋り付かなければ、私は奈落の底へ堕ちてしまいそうだった。
「…瑚白さん…」
「瑚白でいい」
瑚白。私はこくりと頷いた。もう呼び方なんてなんだっていい。
分かっている。…瑚白が無理矢理私に食べさせたのは、私の命を繋ぎとめるためだ。そうでもしなければ私は自分では決断できずにずるずると食べるのを先延ばしにして死んでいただろう。
死んだとしても、元の世界に戻れるとは限らない。それなのにその可能性を否定しきれなかった。朧げな記憶しかないというのに。…その世界で私は幸せだったのだ。だからこんなにも捨て難い。…でも。
この数日間を思い返す。夢の中なんかじゃない。紛れもなくこれは現実。瑚白もあげはさんも他の侍女さんたちも、この世界に生きている。……そして私も。
本当はとっくにあの夢の世界を失っていたのだろう。私があの竹の中で目覚めた時から。私は覚悟を決めなくてはならない。
「……瑚白。私は……生きる。この世界で」
例え香紅夜さんの身代わりだとしても、私をこんなにも望んでくれる瑚白の側でなら、私は幸せになれる気がした。
私が未だ涙を流しながらもしっかりと瑚白の瞳を見つめて言うと、瑚白ははっとしたように目を見開いて、次の瞬間艶やかに微笑んだ。その笑顔に胸がどくりと音を立てる。
「…ああ。おまえを幸せにする…必ず」
私がぼうっと瑚白に見惚れている隙に、またしても奪われてしまった。
甘く深く口付けられて、舌を絡められて、私はやっと覚醒した。
「まっ…だ、ダメ!!」
流され過ぎだ、私!
私が精一杯の力で瑚白の頬を押すと、瑚白が不満そうに目を眇めた。
「…もう少し忘我していればよいものを」
ちょっと待てー!
「それ完全に私が弱っているところに付け込んでいること自覚した発言だよね!?」
「隙があれば突くに決まっている」
私が非難を込めて睨んでも、瑚白はにっこりと当然のことをやっただけだと言わんばかりに綺麗な笑みを浮かべた。言っていることは黒いのに笑顔が清廉すぎる!
「そんなの卑怯!だめ、絶対」
私が瑚白の腕から抜け出そうともがいても、瑚白は腕の力を弱めてくれない。
「……嫌か?」
少し心配そうに、哀しそうに聞かれて私は答えに詰まった。
…う。い、嫌じゃ、ないけど。
私がはっきりと否定出来ずにいると、瑚白はほっとしたように頬を緩めた。
「…夢月。卑怯でもダメでも。おまえが泣いても。俺はおまえを離さない、絶対」
「……!」
ぎゅうっと、強く抱きしめられて私はくらくらした。しかも瑚白が切なげに瞳を伏せるから、余計胸にくる。色っぽ過ぎる。
私は降参した。
…そもそも空腹過ぎて身体に力が入らない。
「…瑚白。離して。……ごはん、食べたいから」
私がそう言うと、瑚白は嬉しそうに微笑んだ。
でも腕は離してくれない。…ちょっと!
「すぐ用意させる。でも俺はおまえを抱きしめていたいから離さない」
真顔で言われました。
私はどんな顔をすればいいの!
絶対に紅くなっているだろう顔を見られているのが耐えられなくて、瑚白の胸に顔を伏せる。
この人強引過ぎる。…でも困ったことに私はそれを許してしまっている。…絶対に嫌だとは思えないのだ。
私は代わりでしかないのに。それを忘れてはいけないのに。
あげはさんたちが、絶食していた私が食べやすいようにだろう、お粥や柔らかく煮た蕪のお吸い物などを持って来てくれた。お腹に優しそうだ。
私が瑚白に抱きしめられていることには特に触れず、膳を並べ終えると素早く退室して行った。
………。呆れられているに違いない。というか、私はどんな顔をしてあげはさんたちに対面すればいいのだ。
私が瑚白を睨むと、瑚白は見惚れるような笑顔を浮かべた。
なんでだ。ドキドキしてしまうではないか。
「……抗議しようとしているのだけど」
「なんでも言え。嫌いな料理や口に合わないものは食べなくていい。あげはたちが粗相をしたらすぐに言え」
なんかめちゃくちゃ私を甘やかせる発言をされた気がする。食べ物は好き嫌いしてはいけないと思います!
私が抗議したいのは瑚白なんだけど!
でも私は何かぐったりして、それ以上抗議する気力を失ってしまった。
とにかく何か食べよう……。
そんな私に瑚白は木匙で粥を掬って口元へと運んでくる。
「じ、自分で食べられるから!」
「放っておいたらおまえは全然食べない。信用できない」
うっ。そう言われると今までが今までだけに反論しづらい。もう覚悟を決めたから食べるつもりだけれど、瑚白からしてみれば信用できないのも道理だろう。
私は仕方なく瑚白のしたいようにさせることにした。
ぱくりと匙を口に含むと瑚白はほっとしたように微笑んだ。それを見たらあぁ、すごく心配かけていたんだなと胸が痛くなった。
ごめんなさい…。
お椀の半分を食べ終えたところで私はお腹がいっぱいになってしまった。
一週間近く絶食していたからこのくらいが限度だろう。急に食べ過ぎるのはよくないと瑚白もわかっていたようで、渋々ながらも納得してくれた。
体力のない私は既に限界で今にも瞼が落ちそうだ。なんとか身支度を整え、布団に入ると瑚白が当然のように横に滑り込んで来て私をその腕に閉じ込めた。
「なんで!?」
「目を離したらどこかに行きそうだから見張る」
「行かないから!眠いから寝るだけだよ!」
「…………」
瑚白は目を瞑って寝たふりをしてくる。絶対聞こえているくせに!
「もう……」
文句を言いながらも私は既に半分この腕の中にいることに馴染んでいる自分を感じていた。慣れって怖い。
どうしたって瑚白の腕が緩む気配はないから私は力を抜いて瑚白の胸元に顔を寄せる。心音が規則正しく聞こえて思わず安心してしまう。
「…一人で眠れなくなったらどうしてくれるの……」
誰に聞かせるつもりもなく零れた独り言に返事があった。
「安心しろ。ずっと側に居るから」
「…………!」
今度は私が寝ている振りをする番だった。