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「香紅夜は私のことをバカ青焔とか、うざいとかいつも酷い言い様でね。青焔さんとは、甘酸っぱくていい呼び方だね。新鮮だ」
…香紅夜さんって結構、気の強い女の子だったんだろうか。ていうか、それでいいの?青焔さん…。
あの後、自分を取り押さえていた人たちをなぎ倒した瑚白さんは私を青焔さんの目から隠すように背後に庇い、けれど青焔さんの強い疑問を浮かべた眼差しに屈したのか、別室で待機させ、私をきちんと着替えさせたのち、衣桁越しに現在三者で対面中である。瑚白さんは衣桁の内側、つまり私の隣で私の手を繋いでいる状態である。
…何故手を繋がれているのかは不明。
青焔さんは私を香紅夜さんとは別人だと見破った。けれど瑚白さんが素早くそれを否定した。記憶喪失だと言って。青焔さんはちらりと私を見た。私はびくりとしそうになるのを必死に堪えた。しばらく見つめられたけれど、青焔さんは納得したのか、軽く頷いた。
よかった、誤魔化せた?私は横目でそっと窺うように青焔さんを盗み見た。すると視線に気付いた青焔さんが振り向き、にこりと微笑まれた。
なんか、見透かされている気がする…。
そんな私を瑚白さんはボロが出ることを恐れてか、素早く衣桁の中に押し込んだのだった。
「瑚白さん、という呼び方も違和感あったしね」
青焔さんの言葉に私は「え?」と思わず呟き、隣の瑚白さんを見つめた。
「香紅夜は記憶喪失だ。以前のことを何も覚えていない。おまえのことなど全く何も、欠片も思い出せないようだから、帰れ」
瑚白さんは冷たく厳しく言い放った。
遠慮がないなぁ。一体この人たちはどういう関係なんだろう。
私がぼんやり瑚白さんを見つめていると、ぱさりと音がして、青焔さんが衣桁を押しのけて私の隣に腰を下ろした。
「…なぜ私だけ衣桁越しなのかな。ずるい。香紅夜、こちらにおいで」
青焔さんが腕を伸ばして私の手を取ろうとした瞬間、瑚白さんが私の肩を抱き寄せた。
「触るな」
「瑚白、君どういうつもり」
青焔さんの目に剣呑さが漂う。
「香紅夜はおまえのことを覚えていない。初対面の男が馴れ馴れしくしたら嫌がるに決まっているだろう」
瑚白さんはもっともなことを言ったけれど、それ、瑚白さんにも当てはまるよね。
いつの間にか私は彼の膝の上に抱き上げられているのですが。密着度が半端ないのですが。どうしたらいいの。私は自分の顔が茹蛸みたいに赤くなっていると確信している。
瑚白さんの言い分に、青焔さんは少しだけ怯んだ。
「…香紅夜、本当に私を覚えていないの?」
哀しそうな顔で訊ねられた。捨てられた仔犬が拾って、と言っているみたいだ。仔犬というほど可愛い存在じゃないけれど。…そんな目で見ないでほしい。
「私は君の」
「香紅夜」
青焔さんの声を遮るように瑚白さんが突然くいっと私の顔を自分の方へ向けさせ、私の耳元に顔を寄せて囁いた。
その声のあまりの色っぽさにぞくっとする。
「こ、瑚白さん?」
思わず耳を押さえてしまう。
「瑚白でいいと言ったろ」
瑚白さんは楽しそうに笑って、でも一瞬笑みを消して私の唇に彼の唇がくっつきそうなほどの至近距離で低く囁いた。
「青焔ばかり見るな。答えなくていい。声も聞くな。俺だけを見ていろ」
……何を言い出すのか、この人は。
嫉妬?嫉妬なの!?何かぞくぞくする。怖いのか逃げ出したいのか、飛び込みたいのかよくわからない。
私は魅入られたみたいに瑚白さんから目を離せなかった。
私が硬直していると、瑚白さんはふっと甘く微笑んだ。なに、その色っぽさ。
「…返事は?」
「…は…」
私が口を開きかけた時、シュッと音を立てて何かが飛んできた。瑚白さんは片手でそれを余裕で弾いた。
ぽとんと落ちたのは扇子だった。
「…瑚白、君は香紅夜が何も覚えていないことをいいことに、香紅夜を誘惑するの?」
青焔さんが冷たく微笑んでいた。
「…許さないよ、そんなこと」
背筋が寒くなるような氷の微笑だ。私が思わず両腕で自分の身体を抱きしめると、瑚白さんに抱きしめられた。
「…俺はもう、香紅夜を失いたくない。…誰にも渡さない」
私は瑚白さんの腕が微かに震えていることに気付いた。
…この人はこんなにも香紅夜さんを求めている。私の胸がつきりと痛む。
瑚白さんが可哀想だと思った。同時に香紅夜さんに対して苛立ちのような感情が湧く。どこへ行ってしまったの。
そんな自分を少し持て余す。
羨ましい、のかな。香紅夜さんが。私にはそんな風に愛してくれる恋人はいなかったから。切なくなって、そっと瑚白さんの頭に手を伸ばして髪を梳くように撫でた。
瑚白さんは驚いたように私を見つめたけれど、私は無言で彼の頭を撫で続けた。
その時、ふう、と溜息を吐いて青焔さんが苦く笑った。
「…見せつけてくれるね、香紅夜。瑚白のことだけは覚えているの?」
私が振り返った時にはもう、青焔さんは立ち上がって後ろを向いていたため、彼がその時どんな顔をしていたのかはわからない。
けれどその声は少し切なそうに響いた。私の心に突き刺さるくらいには。
私は俯いた。…覚えているも何も、私は香紅夜さんじゃない。瑚白さんのことも青焔さんのことも、知らない。…その上自分のことさえもあやふやだ。
私が顔を上げた時にはもう、青焔さんはいなかった。どうしよう、傷付けてしまっただろうか。
私がもやもやと悩んでいると、瑚白さんに両頬を掌で挟まれて、瑚白さんに向かせられた。
い、痛い。
「香紅夜。青焔のことなど思い出さなくていい。むしろ抹消しろ。名前も呼ぶな」
結構さらっと酷いことを言っている気がするんですが、瑚白さん。
「…どういう関係なんですか?」
「…………遠い親戚」
瑚白さんが嫌そうに言う。
え、親戚だったのか。私は少し驚いた。言われてみれば、瑚白さんと青焔さんの髪の色は同系色な気がする。
「…夢月」
私がぼんやり考えていると、瑚白さんが心配そうに私を見つめていた。
「…あ、はい」
「……気分が優れないのか?」
「いえ、そういうわけでは…」
「……なら、いいが…。遅くなったが、食事にしよう。食べられるか?」
問われて私はそういえば昨日から何も食べていないことに気付いた。その途端、自分が空腹であることを自覚する。
夢の中のはずなのに、お腹が減るって変な感じだけれど…。
私が頷くと、瑚白さんがちりんと鈴を鳴らし、それに応じるようにわらわらと同じ着物を着た女性が数人現れた。
「おまえの侍女たちだ。着替えを」
女性たちは心得ていたように、それぞれ手に着物の入った箱を掲げていた。…あれ、全部重ね着するのだろうか…。
私がちょっと遠い目をしていると、瑚白さんがその中の一つを指さした。するとその箱以外を持っていた女性はさっと下がった。瑚白さんも立ち上がって「では後で」と言って出て行った。
着物を選んでくださいという意味だったのか。
瑚白さんが選んだのは薄桃色に若草色の組み合わせだった。すぐに着替えるのかと思ったら、侍女さんに促されて湯屋に放り込まれた。湯屋は離れにあり、露天風呂のような造りだった。
するするすると、気付いたら両側から着物を剥ぎ取られ、羞恥心を感じる暇もなく一糸纏わぬ姿にされていた。仕事が素早い…。
そして私が唖然としている間にさっさと体中丁寧に洗われ、髪も香油をもみ込まれ、艶々している。髪は長すぎて一人では洗えないレベルだと思っていたため、正直ありがたかった。…そのうち切ろう。
面倒な着物を丁寧に着付けられ、私は寝室とは違う部屋へと案内された。そこには瑚白さんが既に待機していた。私は瑚白さんの向かい側に座るよう促され、四角い畳の上に腰を下ろす。すると料理の乗った膳を持った侍女さんが現れ、私と瑚白さんの前にそれぞれ置いていった。
白いごはんとお味噌汁、煮魚と青菜のお浸しに漬物。私の世界の食べ物とよく似ている。…私の世界といっても、記憶は朧げでまるで寝ていたときに見た夢だったんじゃないかというくらい曖昧なのだけれど。それでも目の前に出された食べ物に違和感がないという感覚はある。…よかった、普通に美味しそう。
「いただきます」
私は空腹に負け何も考えず、無意識に椀を取り、箸を付けようとした。でもその時何故かふと神話の一説が頭をよぎった。
――黄泉の食べ物を口にすると、二度と地上に戻れない。
…この夢の中で食べ物を口にしたら、現に戻れなくなる気がする…。
それは単なる予感だったけれど、警報のようにこめかみがズキズキと痛んで、私は食べる気を失ってしまった。かたりと椀を膳に戻すと、瑚白さんが微かに眉根を寄せて私を見つめた。
「…夢月?具合が悪いのか?」
私は曖昧に首を横に振ったけれど、瑚白さんは見逃してくれなかった。
「…顔色が悪い。…果物ならば食べられるか?」
…食べてしまったらどうなるのだろう。
「瑚白さん。……お願い。あの竹のところへ行かせて。もう一度あの中に」
「夢月」
瑚白さんは眉根を寄せて首を振った。
「…あんな場所には何もない。行くだけ無駄だ」
私は首を横に振った。
「それでも行きたいの。……無駄かどうか確かめたいの。……お願い」
心からの懇願に、瑚白さんは苦しそうに顔を歪めた。
「……ダメだ」
「瑚白さん」
私が名を呼ぶと、瑚白さんは切なそうに目を細めた。
「…夢月。頼むから側に居てくれ」
彼は私の側まで来ると、腕の中に私を閉じ込めた。
「……!」
私、香紅夜さんじゃないんだよ。なのに瑚白さんにこんな風に抱きしめられると、自分が香紅夜さんかもしれないと思えてくる。
このまま流されちゃえばいいよと、胸の奥から声が聞こえてくる。
ずきりとこめかみが痛む。
「……っ」
ぐっと私は奥歯を噛んだ。…違う。私は夢月。香紅夜さんじゃない。行かなきゃ。ここは私の居場所じゃない。
ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「…夢月?」
涙の一雫が瑚白さんの手の甲に落ちて、瑚白さんがはっとしたように私の顔を覗きこんだ。
私の頬を涙が筋を描いて流れているのを見て、瑚白さんが顔を歪めた。
「泣くな…」
泣くよ。だって、怖い。私は自分のことを見失ってしまいそうだ。
「怖いよ…」
声が震えてしまった。それでも瑚白さんは決意を変えてはくれなかった。
「…赦せ、夢月」
……でも私だって、諦めるわけにはいかない。自分を取り戻すためにももう一度、行かなきゃ。あの場所に何かを置いてきてしまった気がするから。