3
私の名前は夢月。それは覚えている。でも名字を思い出せない。名字。姓。家の名。…私には家族がいたはず。
――夢月、早く起きろ。遅刻するぞ。
――んん…もうちょっと…。
――ふふ、夢月ちゃんはお兄ちゃんが大好きね。
――夢月、パパが一緒に行くぞ。
……夢を見ていた気がする。幸せな、温かい夢。
でも目覚めた時、私はその内容を忘れていた。頭がぼうっとして重い。
辺りを見まわすと、眠る前と同じ、木造りの建物。まだ夢から覚めないみたいだ。それともこちらが現実で、現実だと思っていたほうが夢だったのだろうか。
私は落ち着かない気分になって、起き上がると布団を抜け出した。
辺りは薄暗い。夜だ。眠る前は開け放たれていた蔀戸も妻戸も今は閉じられている。私は妻戸の閂を外して扉をそっと押した。縁側に出ると月が見えた。
満月だ。
信じられないくらい大きくて綺麗な満月だった。琥珀色のそれは瑚白さんの瞳を思い起こさせる。
「かぐや姫は月に帰る…」
私が何の気なしに呟いた時だった。
「香紅夜…!?」
縁側の角から瑚白さんが現れた。月明かりに照らされた彼の顔は蒼白く見えた。
「行かせない、どこへも!」
「え?ちょっ…」
いきなり抱き上げられて室内に運ばれ、妻戸に閂がかけられた。
「瑚白さん…!?」
室内に入っても彼は私を解放しようとしない。
それどころかぎゅっと強く抱きしめられた。
「香紅夜、どこへ行こうとした?…おまえが帰る場所はここだろう」
「月を見ていただけです!…別にどこかへ行くつもりなんて…」
というか、降ろしてー!私がジタジタと足を動かすと、彼は私を抱えたままその場に蹲った。瑚白さんは私の首元に顔を伏せて囁いた。
「香紅夜……頼む。……俺を思い出して」
辛そうな掠れた声に、私は動きを止めた。完全に私を香紅夜さんと思い込んでいるんだ。
――あにさま。
不意に胸の奥で声が響いた。
…え?
よく、わからない。けれどそれは深いところから浮かび上がった言葉だった。
瑚白さんのことだろうか。それとも、夢の中で私を可愛がってくれた人のことだろうか。…思い出せない。
私は瑚白さんにその人を重ねているのだろうか。それともその逆?
「…瑚白…さん、私、一度あの竹の所へ行きたい。…何かが分かるかもしれない」
瑚白さんは絶望を湛えた瞳で私を見た。私は胸が苦しくなったけれど、この不安な気持ちを解消しなければ、私はいつか心を壊してしまうんじゃないかと思えた。
「お願い…。自分のことがわからなくて不安なの…。私どうしてあんなところに居たんだろう。あの竹の中はどこか別の場所と繋がっているの?」
扉が壊される直前までは寝室だったはずなのだ。そしてそこには侍女のような女性がいた。私のことを「姫さま」と呼んでいた。私はその女性を思い出すと同時に彼女が私に装着させたアクセサリーを思い出した。
首元と耳を触ると、シャラと澄んだ音が聞こえて、手にまろやかな石の感触があった。
よかった、失くしていない。確か勾玉のアクセサリーだった。
これ返さなくていいのかな。
私がぼんやりと考えに浸っていると、瑚白さんの手が私の手に重ねられた。
「……夢月。今夜はもう遅い。眠れ」
瑚白さんはそのまま私を抱え上げて布団の上に降ろしてくれた。
彼は是とも否とも言わない。…瑚白さんは私を竹のところへ行かせたくないみたいだ。ということは、やはりそこに鍵があるということだろうか。
私は、ならば必ず行く必要があると思った。今ここで眠って、再び目覚めたときにこの「夢」から覚めていなければ、必ず。
でも確かに今は夜だ。いくら気持ちが急いても竹藪に行くには不適切な時間帯だろう。私は頷いた。
「…お休みなさい、瑚白さん」
私は瑚白さんが立ち去ると思って挨拶をした。けれど彼はそのまま私の隣に横になって私の腰を引き寄せた。私は彼の腕の中に閉じ込められた。
――えぇ!?
「おまえは目を離すといなくなりそうだ。心配だから一緒に寝る」
いや、ちょっと待て!いろいろおかしい!
「い、一緒とか無理だから!瑚白さん、香紅夜さんのお、夫でしょう!?奥さん以外の人とこんなふうに密着してはダメだよ!」
「瑚白でいい」
私の抗議に対して、瑚白さんの返答は全く頓珍漢だった。
呼び方なんて今どうでもいいー!
瑚白さんは人の話を全然聞いていないのか、先ほどよりもさらにぎゅっと私を抱き寄せる。
待って待って待って!私免疫ないんだから!
「夜はどこにも行かないから!寝るから。だから離れて!」
私が大混乱に陥っている状況だというのに、瑚白さんからはなんの変化もない。ちょっと!なんとか言って。そう思って瑚白さんの様子を窺うも、聞こえてくるのはすやすやという穏やかな寝息。
「嘘…」
もう寝てる!?寝付くの早!
いや、そんなことより、この隙に抜け出そうと思ったのだが、思いの外瑚白さんの腕はしっかりと絡みついて解けそうにない。寝ているはずなのに。腕の力強さとは対照的に寝顔はどこか安らかですらある。
この人、私を確保したことに安心して眠ったのだろうか。私が縁側に出ただけで蒼白になっていた人だ。
「…私は香紅夜さんじゃないのに…」
私が側に居ていいのだろうか。本物の香紅夜さんが戻ってきたら私はどうなるの?
香紅夜さんはどこへ行ったのだろう。こんなにも香紅夜さんを求めているこの人を置いて。
考えられるのは、駆け落ちとか…?
うわ、そしたら瑚白さん絶対立ち直れない。
眠れないのでつらつらとどうでもいいことを考えてしまう。明け方までには私の中で香紅夜さんは駆け落ちし、瑚白さんは捨てられ、愛しの香紅夜さんにそっくりな私に幻想を抱いている、ちょっと可哀想な人になってしまっていた。
うん、優しくしてあげよう…。