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再び目覚めた私が目にしたのは、和風の室内だった。和風というか、京都などのお寺とか神社のような造りの建物。でも建物自体はそんなに古くなくて、仄かに木の香りが漂う、綺麗な建物だった。
ぼんやりと辺りを見回すと、板敷に厚めの畳が置かれており、私はその上に敷かれた布団の中に寝ていた。布団の周りには布を垂らした衝立。衝立というか衣桁だろうか。
…本当、平安時代の建物みたいだ。教科書とか、時代劇で見た感じの。
って、あれ?おかしいな。私、目が覚めたはずなのにまだ夢を見ているのだろうか。
ゆっくりと身体を起こすとずる、と引き摺るような感覚がした。振り返ると長い髪が渦を巻いている。
「髪…?…うわ、長い」
驚くことに私の頭に繋がっているようだ。鬘かと思い引っ張ってみたら、痛かった。地毛だ。
私の髪は短くはないけれど背の中ほどまでだったはずだ。それが何故か踝まであるんじゃないかというほど伸びている。私、それ程長い間寝ていたのだろうか。
混乱してくる。その時だった。
「かぐやさま。ご気分はいかがでしょうか。白湯をお持ちいたしました」
柔らかな声に振り返ると入口の近くに額づいている女性がいた。
「……え、と……」
女性は顔を上げてにっこりと微笑んだ。とても温かい、包み込んでくれるような笑顔に自然と肩の力が抜ける。
女性はすっと綺麗な所作で近付いて、素早く茶碗を差し出してくれた。
喉が渇いていたのでありがたい。
「……ありがとうございます」
お礼を言って受け取ると、女性が僅かに目を見開いた気がした。私がひとくちお湯を飲もうと口元に茶碗を宛がった直後。
「かぐや!目覚めたのか」
あの人が現れた。
紺青色の髪と琥珀色の綺麗な瞳の男の人。改めてよく見ると、髪は首の後ろで紐で結ばれて、長さは肩甲骨の辺りまであった。横髪が顎までの長さで結われずに遊んでいたから少し長めくらいに思っていたら違った。
衣装はこの建物に相応しく、重ねた着物だった。深い藍色と水色の組み合わせ。平安時代風の。風、と思ったのは私自身がそこまで平安時代の衣裳に詳しいわけじゃないためと、やや平安時代とは異なる様式に見えたからだ。正確には分からないけれど。
その人は私の枕もとに胡坐をかくと、心配そうに私の顔を見つめてきた。じいっと。
目力、半端ないです、お兄さん。
私が困って視線を逸らすと、その人ははっとしたように目を伏せた。どこか自嘲するように切なげに。
ああ、そんな顔してほしくないのに。
「…あの…」
私が思い切って声をかけると、その人はぱっと顔を上げた。真摯な眼差しで私を見つめ、一言一句漏らすまいとするように静かに私の言葉を待っている。
うう、言い難い。
けれど言わないわけにはいかない。失望させてしまうことに申し訳なさがこみ上げるけれど、仕方がない。
「…私は『かぐや』さんじゃありません。…人違いです」
その人はぐっと眉根を寄せた。琥珀色の瞳が苦しげに細められる。
「……ごめんなさい…」
思わず謝ると、その人はじっと私を見つめて、それから信じられないというように震える声で言った。
「……俺のことを、覚えていないのか…?」
どうやらその人は私を記憶喪失だと思っているみたいだ。
「記憶を失くしたわけじゃなくて、知らないんです。……全然別人なんです」
「……別人…?」
そんなに私は「かぐや」さんに似ているのだろうか。
私は今も夢を見ているような心地だった。不思議な気持ちで自分の手元を見る。指を動かす。ちゃんと動く。自分の指だと思える。でも髪の長さに戸惑う。纏っている着物にも。
今の私はもう一度眠ったせいか、白い着物一枚を羽織っただけだった。浴衣よりは厚手の、肌触りのいい着物だった。こんなものは自分の私物ではない。
私は顔を上げて青年の瞳を見つめた。
「…私もよくわからないのだけど、…でも、ここは私のいた世界ではない…。私は今夢の中にいるような感覚なんです」
青年は酷く傷付いた顔をした。
「…かぐや…」
私は胸が痛んだけれど、ぐっとお腹に力を入れてはっきりと言った。
「私の名前はかぐやではありません。…夢月といいます」
「…夢月…?」
青年の表情には絶望が浮かんでいた。私が何を言っているのか理解出来ない、というように。いや、理解は出来ているのだろう。ただ、受け入れ難いだけで。
ふと私は大事なことに気付いた。私が別人だと彼が受け入れたなら、私はここを出て行かなければならないのではないだろうか。…それは当然の成り行きと思われるけれど、では私はどこへ行けばいいのだろう。
私は途方に暮れた。全く先が見えない。夢から覚めるにはどうしたらいいのだろう。私は暫く考えて、妙案を思いついた。
「もう一度あの竹に入る、とか?」
呟いた直後にぐっと手首を掴まれた。
私はびっくりして青年を見た。彼は蒼白な顔色で私の手首を強く握りしめている。ちょっと痛い。
「あの、痛い…」
私が少し顔を顰めると、青年ははっとして少しだけ力を緩めてくれた。けれど手を離すつもりはないようだった。
「行くな…」
青年は掠れた声で絞り出すように言葉を紡いだ。琥珀色の瞳が強く私を射止める。私は身動ぎ一つ出来なかった。
「頼む。行かないでくれ。俺はおまえがいない世界など、耐えられない」
強烈な言葉だった。私は未だかつてこれほどまでに誰かに必要とされたことはない。胸がどくどくと逸る。掴まれた腕が熱い。
もう、人違いでもなんでもいいんじゃないかという気がしてきた。でも。
「…私で、いいの…?」
この人にとっては違うんじゃないだろうか。先ほどとは違う意味で胸がどくりと鳴る。
青年はゆっくりと顔を上げた。私と青年の視線が絡み合う。
青年は私の髪を一房掬うと、艶やかに微笑んで口付けた。
「おまえはかぐやだよ。……今は忘れているだけだ。……それでもいい。側に居てほしい」
ちがう、とは言えなかった。青年の瞳が切な気に細められてそのあまりの美しさに私は返す言葉など失ってしまった。
私は青年の側に留まることにした。かぐやさんの身代わりとしてかぐやさんが戻るまで――という条件と期限付きで。現実問題として私には行くところがないので、青年の屋敷に居ていいと言われたことは正直有難かった。
彼に言わせると元々ここは私のために造られた屋敷ということだそうだけれど。私というか、「かぐや」さんのために。
私はどうやらかぐやさんに瓜二つらしい。本人が記憶喪失になっているとしか思えないほどだという。
そして青年はかぐやさんの不在を公にしたくないようだった。そのため私たちは契約を交わしたのだ。彼が私の衣食住を保証する代わりに、私はかぐやさんのフリをする。色々とぼろが出ても大丈夫なように記憶喪失ということにして。
でもなんとなく、青年はまだ私をかぐやさんと別人だとは思い切れていないように感じた。
そんなに似ているのかな。
なんとなく、青年がかぐやさんの不在の理由を言いたくなさそうだったので聞きそびれてしまった。
先ほど白湯を持って来てくれた女性はかぐやさん付の侍女で名をあげはさんというのだそうだ。
彼女だけは私の本当の名と私がかぐやさんではないことを知っている。
私が青年に自分はかぐやさんではないと告げた時、彼女は退室せずに部屋の隅に控えていたそうだ。……自分のことでいっぱいで、そこまで頭が回っていなかった私は全く気付かなかったけれど。
ともかくあげはさんが主に私の身の回りの世話をしてくれることになった。結果的に私にとってはありがたい。あげはさんには自分のことを偽らなくて済むのだ。
期間限定にしろ、かぐやさんのふりをするとなればいろいろと確認しなくてはならないことがある。
「かぐや」さんと、彼の関係とか、彼の名前とか。ちなみにここで漸く私は「かぐや」さんが「香紅夜」さんと書くと知った。
私が彼の名を問うと、彼は少しだけ寂しそうな表情を浮かべながら教えてくれた。
「瑚白……おまえの夫だ」
お…夫…?
私は動揺した。
それはいろいろいろいろ問題があるんじゃないだろうか。奥さんのそっくりさんである私に側に居て欲しいとか、言っちゃっていいのだろうか。
瑚白さんには自覚してほしい、自分が美青年であることを。無駄にときめいてしまったじゃないか。既婚者相手に。あり得ない。
「わ、私じゃなくて、香紅夜さんの夫でしょ」
そう言うと、瑚白さんは哀しそうに瞳を陰らせた。けれどすぐに気を取り直したように私のことを訊ねた。
「…おまえは夢月と言ったな…。おまえのことを話してくれ」
彼が私の反応に哀しそうな顔をすることが切なかった。で、でも私は彼の想い人ではないのだし。ちくりと胸が痛むのは、香紅夜さんじゃなくてごめんねという彼に対する罪悪感からだろうか。
「…私は夢月。…十六歳で、……えっと……」
あれ?そこまで言ってその後が続かなかった。頭の中が真っ白だ。
おかしいな。自分のことがよくわからない。私はここではない世界で生まれ育った。なのにその世界のことが思い出せない。夢の中だから?
私は混乱する頭に手を当てて思い出そうとした。
私は自分の髪がもっと短かったことを覚えている。そうだ、着物も、昔の衣裳のようだと感じた。私が普段着ていたのはもっと身軽な…。でもどんな衣裳だったか霧がかかったようにぼやけて思い出せない。
「夢月?」
突然黙り込んでしまった私を訝しんだのか、瑚白さんが心配そうにそっと私の背に手を当てた。私は弾かれたように顔を上げた。
「…あ、…えと…よく、思い出せなくて…」
自分が迷い子にでもなったかのよう。心許なく落ち着かない。私が再び俯きそうになった時、ふわりと優しく抱き寄せられた。
「…夢月、焦るな。今は疲れているのだろう。…ゆっくり休め」
温かくて大きい胸に包まれて、私の中で無意識に張っていた緊張の糸が切れた。目尻にじわりと涙が浮かび、決壊した。
「わ…わからないの……。私、どこから来たのか。……帰らなきゃ、いけないのに」
瑚白さんは無言で私の背を撫でてくれた。私が再び眠りにつくまでずっと。