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「え、……え!?……あにさま?せいえん?」
何度瞬いてもそこには一瞬前とは全く異なる景色があった。
見慣れた私の部屋ではなく、磨き上げた白い石床に、真っ白な壁、高い天井、朱色の太い円柱。吹き抜けの柱の向こうにはこの世のものとは思えない程美しい、虹色に輝く雲海が広がっていた。
見慣れないけれど初めてではない、異界。
どくりと心臓が音を立てる。
あにさまも青焔もいない。
代わりに、目の前には麗しい美貌の青年が微笑んでいた。
白く艶やかな髪は長く踝まである。瞳は真紅によく見ると金が混じった、神秘的で豪奢な色合い。
纏う着物は白銀に金糸で精緻な模様が刺繍された絢爛で目に眩しい逸品。
幼い頃一度だけまみえた、恐らくは「神」。
「香紅夜。久しぶりだね。随分と大きくなったものだ」
低く艶やかで耳触りの良い声。
彼は僅かに目を細めて嬉しそうに笑った。
「おまえが大人になるのをずっと待っていた。私は早くおまえを召したかった」
つい、と綺麗な指先が私の頬に触れた。私はびくりと身体を震わせた。
――怖い。
咄嗟に感じたのは恐怖だった。それ程までに目の前のその人は人外の美貌をしていた。
「私の愛し子、恐れる必要はない」
ふわりと衣が揺れて、私は「神様」に抱き込まれた。私は咄嗟に腕を払って後ずさった。何か嫌な予感がした。
神様の腕はひんやりと冷たく熱がなかった。
「ま、待って下さい!…どういう、ことですか。私が大人になるのを待っていたって」
神様は薄っすらと笑んだ。つくりものめいたその微笑にぞくりと背筋が粟立った。
「おまえをこの天に迎えるということだよ、香紅夜」
「…そんなの嫌!」
咄嗟に叫んでしまった。すると「神様」は珍しい物でも見るように目を細めて私を見つめた。うっとりと夢見るような表情だった。
「……あぁ、おまえの声は美しいな。直接聞くと格別だ」
いや、人の話を聞いて!
「私を帰して!」
私が懇願すると、「神様」は不思議そうに目を瞬かせた。
「帰りたいのか?」
「当たり前です」
私が頷くと「神様」は首を傾げた。
「…おかしいな。香紅夜はもう、現世に未練はないのだと思ったが……」
何を言っているのだろう、この「神様」は。
私が怪訝に思って眉を顰めると、「神様」は真っ直ぐに私を見つめた。紅と金の色合いなのに、氷の刃を突きつけられたかのようなひやりとする瞳だった。
「おまえはもう瑚白の側にはいられないと感じたのだろう?」
ぎゅ、と心臓を掴まれたような心地がした。冷たい汗が額を伝う。心臓が痛い程早鐘を打つ。
私、は……。
ここへ来る直前までの出来事が奔流となって私の脳内に流れ込む。
私はあにさまに怪我を負わせた。宿直で戦うあにさまの側におらず、役目を放棄したためにあにさまに無理な戦いを強いたのだ。
確かに私は自分を許せないと思った。
今の私はあにさまにとって厄介な存在でしかない。あにさまに妹としてではない愛を乞い、困らせて。それなのにあにさまはそんな私を責めずに側に居ていいと言ってくれた。
私は自分を罰しなければならないのに、あにさまの側に居たいと望んでいる。
側にいてはいけない、けれど側にいたい。
例えばあにさまの側にいて、どんな惨い罰を受けたとしても私は喜びを感じずにはいられないのだろう。あにさまの側に居られるというただその一点だけで。
だからあにさまの元に戻るということは私にとっては罰を受けないということ。
でもきっと、戻ったらまた私は欲張りになってしまうんだ。
あにさまの側に居られればそれだけでいいなんて、そんなの綺麗ごとだ。すぐに我慢できなくなる。私を見て欲しくなる。
どこまでも強欲で我儘で。私は本当にあにさまに相応しくない。
「神様」は私を天に迎えると言った。私の歌を気に入ったからと。でも私は。
「私は…あにさまのためにしか歌えない」
私が神の加護を望んだのはあにさまのためだ。あにさまの命を守るただそのためだけに修練を積んだ。だから例え「神」が乞うてもあにさまがいない世界で歌えるとは思えない。
「……それでは召す意味がないな」
「神様」はあっさりとそう言った。
私は反射的に顔を上げた。「神様」が歌えない私に興味を失くして、あにさまの元に帰してくれると思ったのだ。
「神様」はどことなく拗ねたような表情で自身の艶やかな白い髪の先をくるくると指に巻き付けている。
「だが、もうおまえは現世には戻れぬよ」
「―――……え……?」
「おまえは力を使い過ぎた。命を縮める程に」
私は絶句した。思考が完全に止まる。
それでも数拍の呼吸後、私はゆるゆると身体から力を抜いた。抜けたという方が正しいかもしれない。
……そうか、私は死ぬのか。
「………あにさまは、無事?」
「あぁ。完治した」
「………そう。それなら、……いいわ」
すとんと、その無慈悲な事実は私の中に落ちた。
神の末裔とされる八家。いかに神の血を受け継ぐと言えど、永い時を経てその血はかなり薄れている。故に過ぎたる力を使えば命を縮める。それは自明の理だ。
現に私たちの両親もそうして早世した。
あの時、あにさまの傷は思った以上に深かったのだろう。
でも後悔はなかった。あにさまの代わりに死ねれば本望だ。
それでも胸に空洞が開くことはどうしようもない。
はらはらと涙が零れ落ちる。
――あにさま。
きっと現世に戻れたとしても、この関係に先はない。焦げ付くだけだ。それでももう会えないことが胸を引き裂かれるように辛かった。
「可愛い私の小鳥。そう泣くな。おまえは私を愉しませた。だから褒美をやろう。おまえの願いは何だ?」
「神様」の冷たい手がそっと私の頬に触れる。けれどもう、その手を怖いと思うことはなかった。あにさまに会えない以上の怖いことなんてない。だから何も考えずにそれを口にしたのだと思う。
半ば放心しながら、胸の奥に眠っていた願いがぽろりと唇から零れ落ちた。
それに対し、「神様」は面白そうに唇の端を吊り上げた、……ように見えた。
――そこで「香紅夜」の意識は途切れた。




