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その後の一週間、私の記憶は曖昧だ。
宿直の夜も、霞がかかったように記憶は朧げだ。幸い大きな妖は出なかったため、怪我をした者はいなかったらしい。
でもそれは運が良かっただけだ。しっかりしなければいけないのに、私は完全に腑抜けになっていた。
そんな私を見かねたのか、青焔が訪れた。
「香紅夜。何があったの?」
青焔に会うのは半年振りほどだろうか。彼の父帝が亡くなったあと、彼は喪に服していたため公式行事や面会なども控えられていたのだ。
青焔の質問は何かあったことを確信したものだった。
私は心ここに在らずだったが、青焔の放った次の言葉に瞬時に覚醒した。
「瑚白もどこかおかしいし」
「……あにさまが、なに?」
「……香紅夜は相変わらず瑚白が好きだね」
青焔は苦く笑って切なげに瞳を細めたけれど、ふと何かに気付いたように目を見開いた。
「香紅夜……!?瑚白と喧嘩でもしたの?」
私は顔を上げようとしてぽたりと冷たい雫が自分の手の甲に落ちたのを感じて再び顔を伏せた。
「……あ」
「……何か、あったのでしょう?瑚白と」
顎にそっと手が添えられて顔を上げるといつの間にか目の前に青焔が跪いて心配そうに私を覗き込んでいた。
青焔は手巾で私の頬を拭ってくれた。
「私に話せない?」
私の頭は麻痺したように鈍くなっていて、普段だったら絶対言わないことを言ってしまった。青焔の優しい言葉にするりと凝っていた気持ちを吐き出してしまった。本当はこんなこと、青焔に言うのは酷く残酷だ。婚約者に他の人を好きで、その人に好意を伝えて、でも振られてしまったなんて、言うべきではない。無神経にも程があるし、不義理だし、非道徳的だ。
でも私には胸の内を吐き出せる相手が青焔しかいなかった。
兄のような相手。
差し出された優しい手に縋り付いてしまった。私はなんて弱くて愚かで嫌な女なの。
「青焔、私、あにさまに好きだと告げたの。でもダメだった…。私を妹としか見れないって。分かっていたけど、でも辛いの。……ごめんなさい青焔。こんな気持ちで貴方と結婚なんて出来ない」
もう支離滅裂だった。
弱音を吐いて泣いて縋って、でも結婚は出来ないと突き放して。
家同士の、しかも帝の妃となるのに好きだからとか嫌いだからでどうにかなるものではないというのに。
どこかで私は青焔に甘えていたのだろう。我儘を言っても許されると、青焔なら私のお願いを聞いてくれると安易に考えていたのだ。
青焔はぎゅっと私を抱きしめた。少し痛いくらい強く。
「せい、えん…痛い」
「……香紅夜。瑚白のことは忘れるんだ」
「……出来ないわ」
泣きながらそう言うと、青焔の手が頬に触れ、上向かされた。青焔の長い睫毛が影を作り藍色の瞳がいつもより深い色合いを帯びているように見えた。
「……忘れさせてあげる」
「……!」
瞬きする間もなく唇を奪われた。
口付けって唇と唇を触れ合わせるだけだと思っていた。でも青焔の口付けはもっと深くて激しかった。
唇の隙間から入り込んで来た温かいものが舌だと気付いたのは大分経ってからだ。
自分が何をされているのか理解出来たのも。
呆然としていたため、抵抗することすら思いつかず、されるがままに青焔の口付けを受け入れていた。
はっと気付いた時には私は仰向けに倒れており、青焔が圧し掛かるように私の上に覆いかぶさっていた。
青焔の唇が私の首筋を辿って鎖骨から下へと滑り降りてゆく。
「青、焔!!何して…ダメ!!」
いつの間にか胸元が肌蹴られてもう少しで胸が見えてしまいそうになっていた。
私は焦って青焔の頭を両手で押さえて彼の下から逃れようと暴れた。
そのせいで余計に着物の袷が乱れてしまったことには気付かなかった。
「香紅夜、暴れると肌が丸見えだよ」
くすっと楽しそうに笑う青焔の余裕のある声に私は私だけが焦っていたことを知る。
「……!!青焔!どいて」
一気に羞恥心がこみ上げて来て、私は青焔に八つ当たりせずにはいられなかった。
「どいたら君は逃げるでしょう?今いいところなのに」
「何がいいところなのよ!ていうか何したのよ」
言いながら私は唇を拳でごしごしと拭う。
「うわ、傷付くなぁ。そんな嫌そうにしないでよ」
青焔は片手で私の腕を取って拳に唇を落とした。
「な!?離して!」
「ほら、こするから唇が少し腫れてしまったよ」
青焔の長い指が私の唇をなぞる。
「絶対さっき貴方が噛んだからでしょ!?」
「君の唇が美味しそうだったからね」
「何言ってんの!?変態!!」
変態、と言ったら青焔は嬉しそうに微笑んだ。何故だ。本当、変態だ。
「香紅夜。私の御所に来るかい?」
「――え………」
「瑚白の側に居るのは辛いだろう。まだ喪は明けていないけれど内密に君を迎えるくらい簡単だ」
不意に真面目な表情でそんな重大なことを言われても、私は返す言葉を見つけられなかった。
……というか、その時漸く私は青焔が父親を亡くしたばかりだということに思い至った。
「青焔、私自分のことばかりで…」
「父のこと?大丈夫だよ、大分お年だったからね。覚悟は出来ていたんだ」
「でも」
「……そうだね、淋しくないと言えば嘘になるかな。でも香紅夜がお嫁に来てくれれば、全然淋しくないんだけどな」
「!!それは……」
青焔は冗談めかして笑ったけれど、どことなくその笑顔は切なげで私は胸が詰まってしまった。
「――馬鹿青焔!」
私は青焔の首に腕を回してぎゅっと抱き付いた。
「香紅夜?」
淋しいに決まっている。彼には兄妹もいない。母親もとっくに他界している。たった一人の肉親を失ったのだ。
それなのに私は自分の失恋を彼に慰めて貰おうとしたなんて。
最低だ。
何を言えばいいのか分からない。でも今は言葉よりも温かい抱擁のほうが必要なんじゃないかって感じた。だから力いっぱい彼を抱きしめた。
「……だから私は君が好きだよ、香紅夜」
小さな笑声と共に耳元に囁いて青焔は私の腰を引き寄せるようにしてひっついてきた。
……甘えたらいいと思う。彼にはそんな時間も必要だろう。私は母性本能を全開にして優しい姉の気持ちで青焔を抱きしめた。それなのに青焔ときたら。
「……君は下手にお姉さんぶらなくていいんだよ?どう頑張っても幼児体型…」
馬鹿青焔!
取りあえず一発お腹にお見舞いしておいたけれど、青焔は私を離さず、私も暴れ疲れたためそのまま眠ってしまったらしい。




