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その夜は久々に大きな妖が出現した。
私があにさまの肩に頭を乗せてうっとりと目を瞑った直後、警鐘が鳴った。
なんて意地悪な妖なの!私とあにさまの甘やかなひと時を邪魔するなんて!
「香紅夜、寝かせてやりたかったが……」
あにさまが哀しそうに目を細めて私の頬を撫でる。
あにさまのせいじゃない!
私は首を横に振って強気に笑った。
「私たちの宿直の夜にのこのこ出て来たことを後悔させてあげましょう」
あにさまも不敵ににやりと笑ってくれた。
私は祈りを込めて高らかに歌い上げる。
天に届くように。神々に響くように。
どうかあにさまに加護を。
あにさまは鬼人のように強かった。巨大な妖に臆すことなく切りかかり、軽々と飛び跳ねて攻撃を躱す。
寸法から言えば一寸法師が戦っているようだ。けれどその速さと斬撃の強さは妖を易々と仕留める。
勿論月読家の術師たちが妖の足を止めたり、鈍らせたりと後方支援をしてくれていることも大きいが、あにさまの技量は格別だ。見惚れずにはいられない。
格好いい。格好いいよ、あにさま。今夜もまた惚れ直してしまった。
無事妖を仕留めて戻ってきたあにさまに私は興奮を抑え切れず抱き付いた。
「あにさま、お見事でした」
あにさまは鋭かった眼差しを緩めて優しい表情を見せてくれた。
「おまえのお陰だ、香紅夜」
その麗しい笑顔に私は心臓を射抜かれた。
湯殿に入ったあにさまの後を追ったのは、お役目を果たされたあにさまを労いたかったのと、妹ではなく女として見て欲しかったからだ。
振り返ったあにさまは目を見開いて愕然とした。
「かぐ、や」
私はなるべくあにさまの背中以外を見ないようにする。一応羞恥心はあるのだ。
「あにさま、お背中お流しします」
私は湯衣を着ている。でもそれは肌が透けるほど薄い布で、私の身体はあにさまに丸見えだろう。
*
二十歳になるあにさまが未だ独身なのは私のせいだ。
四年前、あにさまは結婚するはずだった。代々響の防衛を司る八家は成人後早々に後継を設ける義務がある。勿論あにさまにも許婚がいた。
でも私が猛反対したのだ。子供の様に泣いて(実際子供だったが)喚いて結婚しないでとあにさまに縋った。
あまりの剣幕にあにさまは折れてくれた。
私の嫁入りは十五歳と決まっていたから、それまでは待ってくれることになったのだ。
既に両親もおらず、家族は兄と妹の二人きりで、私たちは寄り添って生きてきた。だからだろう、あにさまは私を際限なく甘やかしてくれた。私の我儘を許してくれた。
でもその生活もあと数か月で終わる。その前に私はあにさまの心を手に入れなくてはならなかった。
*
私は無邪気を装ってあにさまに笑いかける。心臓は緊張に痛い程早鐘を打っているが無視だ。
「どうぞ、ご遠慮なさらないで。私はあにさまを労いたいのです」
「香紅夜!ダメだ、出て行きなさい」
「嫌です。お背中をお流しする任務を終えるまでは出ません!」
あにさまが抵抗することは予想済みだ。私は素早くあにさまの背中を押して強引に椅子に座らせる。
あにさまは頭痛を堪えるように頭を押さえた。呆れられただろうか。
私は焦った。何か私ばかりがどきどきして、あにさまに私を意識して貰う作戦がうまく機能していない気がする。
どうしよう、いっそ湯衣を脱ぐべきかな!?でもそれはさすがに恥ずかしすぎる!
「……香紅夜」
「…っはい!?」
私が悶々と悩んでいるとあにさまに名を呼ばれた。
「……任務とやらを早く終わらせろ」
声が低い。怒っているのだろうか。
「……あにさま、ご迷惑、ですか?」
急に不安になった。どうしていいかわからない。
あにさまはくすっと笑った。
「…どうした。急にしおらしくなったな。遠慮など似合わないぞ。おまえが言い出したら聞かないことはわかっているから気のすむようにしろと言っているだけだ。……だが、面倒になったのならやめていいぞ」
「面倒になどなりません!」
完全に呆れられている気がする。土台、私があにさまに色仕掛けなどしても無意味だったのだ。まぁ、色気なんて端から持ち合わせていないのだが。……くっ、私は落ち込んでなどいない!
私は今回はあにさまの背中を流しにきたのだと軌道修正を図ることにした。色仕掛けは次回だ。こんな裸同然でも通じないということはこの際気付かない振りをする。
気を取り直してあにさまの背中に湯に浸けて軽く絞った手拭いを当てる。
広くて大きい背中だ。肌は滑らかで染み一つない。けれどあちこちに傷跡がある。
どきどきしていた気持ちがしゅんと消える。
あにさま……。
傷跡に指を這わせるとあにさまの背中がぴくりと揺れた。
「……こんなにたくさん……」
「見苦しいか」
「…!!そんなことありません!」
「……昔のものだ。最近はほとんど怪我もせずに済んでいる」
幼い頃から戦いを余儀なくされたあにさまの身体には無数の傷跡がある。それは決してあにさまの美しさを損ねるものではなく、むしろ尊さを際立たせるものだ。
肩の傷に目をやる。幼い頃私を守るためにあにさまが負った傷跡だ。
「あにさま」
目頭が熱くなる。あの時私はあにさまに心を持っていかれた。でもあにさまは私のせいで怪我をしたのだ。私が傷付けた。
私が肩の傷を見つめていることに気付いたあにさまは少し振り返った。
「香紅夜」
優しい声。
私は堪らなくなった。あにさまの背中に額をくっつける。
「あにさま。……好きです。……愛しています」
言葉は気付いた時には既にぽろりと零れ落ちていた。
「あにさま、私を妻にしてください」
あにさまの背が強張った。
――あ、これはダメだ。
言ってからさぁっと顔から血の気が引くのがわかった。
「……………香紅夜」
低く、掠れた声であにさまが私の名を呼んだ。待って、やめて、言わないで。
「あ、あにさ」
「……おまえは可愛い妹だよ」
一番聞きたくなかった言葉は耳を塞いでもしっかりと聞こえてしまった。
あにさまは振り返らずに前を向いたまま。私はあにさまの背中を呆然と見つめた。
頭の中でガンガンと鐘が鳴っているみたい。割れそうなほど頭が痛い。
だんだんと視界が曇る。手先が冷たい。……ああ、こんな湯衣一枚だから冷えたのかな。
妙に冷静にそんなことを思う自分に笑いそうになる。実際、少し笑ったのかもしれない。滑稽過ぎて。でもそれ以上は何も考えられなかった。麻痺したみたいに頭が回らない。身体も凍ってしまったみたいに動かせない。目の前が真っ暗になる。
「――香紅夜!」
私の意識はそこで途切れた。




