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柔らかな日差しの零れる昼下がりの庭園の一角で小さな女の子が年上の少年の腰に抱き付いて笑っている。
「あにさまー!だいすき」
女の子は私の子供の頃にそっくりだ。でもこれは私じゃない。香紅夜さんだ。あにさまと呼ばれた少年はひょいっと香紅夜さんを抱き上げた。綺麗な紺青色の髪と琥珀色の瞳。瑚白だ。
まだ幼い瑚白に私は密かにときめいてしまった。十歳くらいだろうか。美少年だよ!そしてあどけない。
「香紅夜、また抜け出してきたの?仕方のない子だな」
そう言いながらも瑚白は柔らかく微笑んでいる。
瑚白は香紅夜さんを抱っこしてお庭を散歩した。時折舞い降りる鳥の名や庭木の名を口にしながらゆっくりと。
仲の良い兄妹の微笑ましい思い出だ。
私は自分の兄を思い出した。そう、あんな風にお兄ちゃんもとても優しかった。
***
「おにーちゃん、見て見て!中学の制服!」
くるりと回るとチェックのスカートが翻る。紺のブレザーにリボン。お気に入りの制服。
「可愛い?」
「……世界一可愛い」
真顔で言うお兄ちゃんです。
五歳年上のお兄ちゃんは私に甘々だった。スマホの待ち受けは彼女じゃなくてずっと私だったし。どうなんだそれ、彼女だったら嫌だよねと思うけど私は妹だから。
ごく普通の家庭だったと思う。
兄妹仲は良い方だったというか、多分異常に良かったと思うけど。
優しい両親と大好きな兄に囲まれて私は穏やかな環境で健やかに育った。でも時折ふと胸の奥がきゅっと痛むことがあった。例えば満月の夜。月を見ていると理由もなく切なく淋しくなる瞬間があった。戻らなくちゃ、と焦りのような感情が沸き上がる。どこへなのかは自分でもわからなかった。そんな時は決まってお兄ちゃんが側に居てくれた。小さい頃から満月の夜だけは不安定になる私を分かっていてくれて、いつもぎゅっと抱きしめてくれた。それだけで私は安心出来た。
揺籃のような温かで穏やかな世界だった。まるで香紅夜が見たかった夢のよう。ずっと眠っていたかった。でも聞こえてしまったのだ。自分を呼ぶ声。瑚白の切迫した悲鳴のような渇望を。
「香紅夜!戻って来い!!香紅夜――!!」
――あにさま。
ああ、呼んでいる。行かなくちゃ。
***
戻るのが怖かった。だって辛いだけだもの。
忘れられるものなら忘れてしまいたかった。違う世界で楽しく生きられるならそうしたかった。
全身全霊で求めたものは手に入らなくて。私は見事に玉砕してしまった。これ以上ない程木端微塵に。もう立ち直れないと思った。生きていけないとも。
だから私は逃げた。
彼のいない世界に。
何もかも忘れて、一からやり直して。
うまくいっていると思った。
でも、ダメだった。心の奥底には常に空洞があって、月を見る度にそこに痛みが走るのに私はそれが何かを思い出せず、焦燥が募っていた。帰らなくちゃ、と。
悲痛な声に逆らうことなど出来ない。
……想いは砕け散って残されたのは痛みだけだと思っていた。けれど彼の声を聴いた途端、確かに私の胸は歓喜に震えた。
――本当は待っていたのかもしれない。彼が私の名を呼ぶのを。




