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牛車が屋敷に到着しても私は立ち上がることが出来なかった。瑚白に抱き上げられて部屋へと運ばれる。戻ってきたんだ、なんて感慨に浸る余裕もない。
暫くして漸く息が整ったあと、私は瑚白に抗議した。
「…私は香紅夜さんじゃない…。違うんだよ。だからく…口付けとか、するのはおかしいです!!」
羞恥心MAXだったけれど、途中からもう自棄というか、言いたいことはこの際はっきり言おうと、キッと瑚白を睨むようにして言い切った。
瑚白は少し困ったように眉尻を下げた。
「……夢月」
瑚白の両手が私の頬を包む。
「……おまえはおまえだ。……おまえを香紅夜の代わりにしているわけではない。……俺がおまえの夫だと言ったことを気にしているのか?」
瑚白が切なそうに微笑んだ。私は胸が痛くなった。
「…当たり前です。……貴方には愛する妻がいるのに、……突然現れた私を、いなくなった奥さんの代わりにしているだけでしょう?」
「違うよ夢月。……俺は『おまえの夫』だと言ったんだ。『香紅夜の』とは言っていない」
………え?
「……俺は香紅夜を失った。香紅夜は戻ってこなかった。でもおまえが現れた。確かに代わりにしているかもしれない。だがおまえが誤解しているような意味ではない。おまえはおまえだ、夢月。俺はおまえが混乱しているのをいいことに、おまえが俺の妻になってくれればいいと思ってあんなことを言った。…愚かなことだ」
自嘲気味に笑う瑚白に私は言葉を失う。
「……香紅夜とはそういう関係ではなかった」
瑚白は辛そうに表情を歪めた。
「……俺が香紅夜を遠ざけた。……香紅夜が消えて、失って漸く気付いた。……あの子を愛していたことを」
どくりと私の心臓が大きく鳴った。
私は堪らず瑚白の背に腕を回してぎゅうっと抱きしめた。
…やっぱり、瑚白は香紅夜さんを愛しているんだ。
そのことが想像以上に私の胸を抉った。
嘘でしょ、苦しい。胸が痛いよ。目の前が真っ暗になる。絶望が私の思考を真っ黒に塗り潰す。
「こ、はく…」
「夢月!?」
息が出来ない。意識を保っていられなくなり、身体が傾ぐ。頭が床に落ちる前に私は意識を失った。
*******
――き、夢月。起きて。
遠くで私の名を呼ぶ声がする。
誰?
どこかで聞き覚えがある気もするけれど、初めて聞く声のような気もする。
「……もう、さっさと起きないと私が入れ替わってやるわよ?」
少し意地悪そうな声音と同時にぎゅむっと鼻をつままれる。
「ふが!……やめっ」
ぱちりと目を開けると、気の強そうな女の子が真上から私を見下ろしていた。
「顔は同じよ」
ん?
私がパチパチと瞬くと、女の子はくすっと笑った。途端に可愛らしい雰囲気になる。
「でも、そうね。貴女は私よりもおっとりとしていて優しいわ。同じ顔でも中身が違うとこうも雰囲気が変わるものなのね。不思議だわ」
んん?
私が未だに状況が掴めず呆然としていると、少女は呆れたように目を細めて私の額を指で弾いた。痛い。
「いつまでぼうっとしているの。時間は限られているのよ?」
「……だ、誰?」
「香紅夜。初めまして、夢月」
彼女はにっこりと綺麗に笑って自己紹介をしたけれど、私は言葉を返すどころじゃなかった。驚愕に顎が外れるかと思った。
「…い、」
「い?」
きょとんとする彼女の前身頃をがばりと掴んで私は絶叫する。
「―――今までどこにいたの―――!!!」
彼女の着物を掴んで勢いよく上半身を起こそうとしたら、私の顔を覗きこんでいた彼女がバランスを崩してしまい、互いの額に盛大に頭突きをしてしまった。痛い。
私は彼女の膝に頭を乗せられていたらしい。いわゆる膝枕だ。
「前言撤回。貴女、意外と凶暴ね」
香紅夜さんは額を押さえながら私を睨んだ。
「今のは不可抗力…。いえ、ごめんなさい…」
わざとではないし痛かったのはお互い様だが、私が乱暴だったのは事実なので謝る。驚き過ぎて加減が出来なかったのだ。
「……いいわ。わざとじゃないのは分かってるから。……ああ、でも時間切れね。兄さまが呼んでる。……夢月、兄さまをお願いね」
「え…香紅夜さん?一緒に行かないの?」
私は反射的に香紅夜さんの袂を掴んだ。逃がしてなるものか。けれど香紅夜さんは淋しそうに微笑んだ。
「行けないわ」
なんで。
この時の私は香紅夜さんを連れて行けば瑚白が喜ぶだろうことしか考えていなかった。それと、今までどこにいたのか香紅夜さんを問い詰めてやりたいという気持ち。実際に連れ帰っていたらきっと私の心は引き裂かれた。自分の居場所も失っただろう。
でもその時は自分のことなんて二の次だった。袂を離すつもりなんて微塵もなかった。なのにじわじわと視界が闇に呑まれていく。至近距離にいるはずなのにいつの間にか香紅夜さんの顔が見えない。
「香紅夜さん?」
彼女の袂を握りしめているはずなのに手にはなんの感触もない。
「香紅夜さん!瑚白は貴女を――」
ずっと探しているんだよ、という私の叫びは闇に吸収されて音にならなかった。
「…き、夢月!」
頬に温かい掌の感触。薄っすらと目を開けると心配そうに私を覗きこむ瑚白の綺麗な顔が間近にあった。
「瑚白……」
瑚白は無言で私を抱きしめた。
その腕が震えていることに気付いて私はまた彼に心配をかけてしまったことを悟った。
瑚白。香紅夜さんを見つけたよ。でもごめんなさい、見失っちゃった。
私はぼんやりと自分の右手を見つめた。確かに袂を掴んでいたはずなのに、手には何もない。
「瑚白…、ごめんね」
香紅夜さんじゃなくて。会いたかったよね。
「何を謝る?夢月、俺は」
琥珀色の瞳が真っ直ぐに私を見つめている。なんて綺麗。でも見つめていると泣きたくなる。手に入れたいのに手に入らない月のよう。視界が涙で滲んでぼやける。ああ、まるで水に浮かぶ月だ。掬っても決して手にすることは出来ない。
こんなに近くにいるのに、抱きしめられているはずなのに、独りだと感じてしまう。瑚白の心は私ではない少女へと捧げられている。抉られた心から血が流れ続けている。
弱った心の奥底に沈んでいた箱がゆっくりと浮上してくる。だめ、それは――。
でも今の私にそれを押し戻す力は残されていなかった。ぱり、と封印の札が破ける音がやけに大きく聞こえた。そして箱の蓋が開き、閉じ込められていた記憶が激流となって流れ込んで来た。
――夢月、兄さまをお願いね――
香紅夜さんの声が蘇る。あにさま。兄。
……そう、瑚白は香紅夜さんの兄だ。




