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平穏な日々というのは長くは続かないのだと私は思い知ることになった。
それは何の前触れもなく訪れた。
いや、本当は兆候はあったのだ。私が気付かなかっただけで。
瑚白に抱きしめられて眠ることは既に当然の日常となっていた。翌朝瑚白の腕の中で目を覚ますことも。でもふとある朝微かに違和感を覚えた。
私を抱きしめる瑚白の腕に白い布が巻かれていた。白い布というかそれは――。
「包帯……?」
単衣の袖が捲れて腕が剥き出しになっていたから今気付いたけれど、前からあったのだろうか。
「…ん、夢月……?」
目覚めた瑚白に腕の包帯を指さして聞いてみる。
「どうしたのこれ……」
「あぁ、これは…鍛錬で少し」
瑚白は大したことではないという風に言って私をぎゅうっと抱きしめてきた。
苦しい!また私を枕と勘違いしている!
「瑚白!起きて!」
必死で背中をぺしぺしと叩くけれど瑚白は宥めるように私の頭を撫でてきた。
「夢月、いい子だから寝ろ…」
「いや、朝だから!瑚白寝ぼけないで!!」
大分慣れてきたとはいえ、こんな風にぎゅうってされると動揺する。心臓がもたない!
私の心臓が大変なことになって、結局包帯のことは有耶無耶になってしまった。この時もっとよく確認するべきだったのだ。瑚白が怪我を負った理由を。
深夜、ずんという突き上げるような揺れに私は跳ね起きた。隣に寝ていた瑚白も素早く上半身を起こす。
「地震!?」
「…夢月、おまえはここにいろ」
そう言って瑚白は鈴を鳴らして侍女さんを呼んだ。すぐにあげはさんが来てくれた。
「あげは、夢月を頼む」
「はい」
「瑚白…?どこかへ行くの?」
私をあげはさんに託すということは、瑚白は私から離れるということだ。私は不安になった。
瑚白は私の頬をそっと手の甲で撫でると、私を安心させるように微笑んだ。
「…外の様子を見てくる。ここは結界を強化しておくから、心配しなくていい」
結界を強化?
私は意味がよくわからなかったけれど、自分に出来ることはないので、大人しく待つしかないと思った。
こくりと頷くと、瑚白は優しく笑って部屋を後にした。
ふと、視線を感じて目をやると、物問いた気なあげはさんの瞳にぶつかった。私が訝しげに目を細めるとあげはさんははっとした様子で目を伏せ、私の手を取った。
「…失礼いたしました。夢月さま、こちらへ」
その様子に何かが引っかかった。私は立ち止まった。
「…あげはさん、なにか言いたいことがあるの?」
私がその場から動く気がないことを悟ると、あげはさんは困ったように眉を下げた。
「…夢月さま。お赦しください。…あまりにも香紅夜さまに似ておられるので、つい…。夢月さまは香紅夜さまではないというのに」
どこか残念そうな言い方に、私の胸の奥が奇妙に騒めいた。針を呑みこんでしまったかのように、胸が痛い。
「…どういう意味?」
声が掠れてしまった。あげはさんは切なそうに目を細めた。泣いているようにも笑っているようにも見える、複雑な表情だった。
「…本当に、何も覚えておられないのですね。…いえ、御存じないと言うべきですね…」
当たり前だ。私は別人なのだから。
「…香紅夜さんだったら、こんな時、瑚白になんて言ったの?」
なんとなく、あげはさんは私が大人しく待つことにしたことを不満に感じているようだったので聞いてみた。…不満というと、言いすぎかもしれないけれど。…私に対してもどかしさを感じているというような。
私の問いに、あげはさんは少し蒼褪めてぐっと眉を寄せた。そして視線を彷徨わせていたけれど、躊躇いを振り切るように私の目を真っ直ぐに見た。
「……香紅夜さまでしたら、瑚白さまとともに行かれたでしょう。…それが香紅夜さまのお役目でもありましたから」
役目?
「…ですが、一番は大切な瑚白さまをお守りしたいとの思いからでしょう。…そういう方でした」
私は胸が詰まった。
あげはさんの言葉が過去形だと気付く。
「……香紅夜さんは……」
悪い予感に私の胸が冷たくなる。けれどあげはさんはそれには答えず、すっと顔を伏せた。
「…出過ぎたことを申しました。お赦しください。…夢月さま、参りましょう」
あげはさんは今度こそ私を屋敷の奥へと導こうとした。そこがより安全なのだろう。…地震であれば、屋敷内よりも外に出たほうが安全な気がするのだけど。
そこまで考えてはっとした。
…待って、瑚白は「結界を強化する」と言った。結界ってなんだろう。私の世界の常識にはなかった単語だ。物語の中になら見かけたことはあったけれど。
…そういう意味だろうか。聖者や、陰陽師のような不思議な力を持つ人が施すことが出来る術。
「あげはさん、結界って…」
「魑魅魍魎の侵入を防ぐ術のことです。これがお出来になられるのは瑚白さま、…青焔さま、他数名のみです」
私は言葉を失った。
…魑魅魍魎?
そんなものが存在するの?
では先ほどの地震は。
そして…嫌な予感に胸がどくどくと不穏なリズムを刻む。
「…瑚白は…外の様子を見に…結界の外に出た、ってこと…?」
首を横に振って欲しいと願う私の希望を無残にも打ち砕いてあげはさんははっきりと頷いた。
「…はい。恐らく魑魅魍魎が出現したのでしょう。…瑚白さまはそれを討伐するお役目を担っておいでですから」
「…大丈夫なの…?」
「…瑚白さまはお強いです。…けれどこれまでは…香紅夜さまもご一緒に戦われた…。香紅夜さまの守りがあったからこそ、瑚白さまは後ろを振り返らずに刀を振るうことがお出来になったと思われるのです」
不意に泣きたくなった。
――私にどうしろと言うの。ただ香紅夜さんに顔が似ているだけの赤の他人に香紅夜さんと同じものを求めないで。
私には何の力もない。それでも今、大人しく屋敷の奥でただ待っているだけなど、出来ないと思った。
居ても立っても居られなくなって私は踵を返した。
瑚白が無事な姿を一目見たかった。




