交響楽団の章〜第4話
ははははははは。
不愉快な笑い声を上げて、絶望がたった一人残ったクリソコアさんを追いつめる。
僕も結晶の顔も青ざめ、空を旋回する蝶と、絶望から繰り出される、踊るような斬撃に対して、防戦一方のその姿を凝視するしかなかった。
一人でもクリソコアさんは善戦した。飛来する蝶の羽に合わせるかのように、大剣で身を守り、体術で絶望と渡り合う。それでも生まれ変わったかのような勢いの絶望を前にして、圧倒的な不利は否めなかった。
「お前も終わりだな、クリソコア」
嘲笑に、ちっ、とクリソコアさんが短く舌打ちをする。
そのまま大剣を目の前へと掲げ、短く叫んだ。
「鍵の構え〜強襲」
絶望へと迫る大剣。
両手を交差し大剣を受け止められる。
クリソコアさんが二撃目を振るうより速く、速く蝶が飛来する。ものすごい勢いではね飛ばされ、周りの木々に叩き付けられる。
ゴホっと短く嫌な咳をしながらもクリソコアさんは立ち上がった。漆黒の鎧に身を染めて、まるで幽鬼のように。
「逃げろ」
すぐには頭が言葉を理解できなかった。
「速く、逃げろ!!」
大声が上がる。その言葉が僕らに向けられていると気づくのに時間はかからなかった。はっとなにかに取り付かれたかのように体が動いた。
最後に見た光景が忘れられずに、どうしても涙が止まらなかった。
暗い夜道を必死に結晶と走った。
はははははははははははははは
笑い声が聞こえる。いつまでも聞こえ、頭の裏に住みついたかのように止むことはなく。
振り下ろされる剣戟の音は、次第に小さくなり。いつしかそのまま聞こえなくなっていた。
森の中をめちゃくちゃに走った。
僕は何を叫んだのだろう。
おい、大丈夫か
呼ばれる声が遠くから声が聞こえる。
おい、星座!
意識が少しだけ、元に戻った。
ああ、ジャスパーさんのいつの間にか見なれた顔が、僕を覗き込んでいた。
言いたいことが一度に溢れて何を言えばいいのか分らずに。
みんなが……そう伝えたい言葉は声にもならなかった。
「もういい、落ち着け」
ジャスパーさんが震える僕の肩に手を乗せる。何かを悟ったかのようにジャスパーさんが、唇をかみしめていた。
「あれを!」
ジャスパーさんのそばにいた。一人の兵士が空を指さした。
その場の全員が空を仰ぎ見た。
城の上空に霧が集まり、渦を巻くように集結して、それはやがて四角く巨大な形を描いた。
霧が集まった空間が薄く光り、そこに絶望と、蝶の姿が映し出される。
城の尖塔に上がり、凄惨な笑みを浮かべる絶望と、ふわりふわりと、弦の上にとまる巨大な蝶。
「聞こえるか、トパーズ」
その瞳に宿るは狂気か正気か。
先ほどの光景が蘇り、体がビクリと震える。
「もう一度、俺はここまで来たぞ、五年の歳月を経て、再びここまで!」
絶望が凛とした声で吠えた。その声に反応するかのように、街の落書きが点滅を繰り返した。
「恋人を失い、師を失い、仲間を失った、星に手は届かない。たとえそれでも」
もう一度、この場所で全てをやりなおしたい。
絶望が両手を振り上げると、城上で色とりどりの教徒が、散会した。フードをめくり、穴だらけの体を外気へとさらす。
そんな動きを見届けるかのようにゆっくりと蝶が羽ばたき、その羽根の動きに共鳴するかのように、二本目と、三本目の巨大な弦がぐらりと動いた。
絶望が嬉しそうにその様子を見守る。いいぞ、弓引き。にやりと笑い、声をかける。
何が起きているのか、全てが僕の理解の範疇を超えていた。
ビシリと尖塔の上で、あたりを見回し。言葉をゆっくりと吐き出す。
「五年前に、失敗したあの交響楽音楽を、もう一度始めようと思う」
どこへ向かって、誰へと語る。
振りかざした手の指先だけが、素早く弧を描き、何もない夜空に、光が輝く。
「決して届かない世界を夢見ていた。誰しもが穏やかな心で、平和に暮らし、争いも何もない」
「今から俺が全てをそれをすべて浄化してやる。あらゆる人を音へ、決して混ざりものない純粋な音へと変えてやる」
そこにはもう、何もいらないんだ。そう最後に語りかけると両手を振り回し、一気呵成に叫び出した。
「今宵、弦は震え、笛は笑う。音は盤を通り、打楽の彼方へと運ばれ」
ひと呼吸、溜めた。
空の色はもう見えない。
「これより、魔導交響楽を開始する」
街中のどこまでも届くようなその言葉と共に、両手を恐ろしい勢いで、絶望が振り下ろした。
世界の姿が再び変わる。黒雲が割れて空が開けた。明るい日の光と共に笛の音が大地を越えて、聞こえてくる。
ああ、この音は、あの笛の塔で鳴り響いていたものと同じだ。
フードを脱ぎ捨てた教徒達が、みるみる姿を変えていた。体がよじれ糸のように細くなり、隣の教徒と合わさることで太く長大な弦となった。
そのまま、城のあちこちから、無数の弦が展開され、見る見るうちに、城は蜘蛛の巣に覆われた、木の葉のような姿となった。一本が十本へ十本が百本へと広がりそして最後には、六本の古代弦へと集約する。
空から、絶望の強大な声が響く。
「城の全体へ弦を展開、そのまま張力をかけろ」
この世界全てに弦を架けよう。
死者の国を超えて、どこまでも届くように。
「第三弦と百六十二弦を解放、第二十七弦を封止せよ」
ミュート?!ざわりと教徒の間に動揺が広がる。
「ミュゥーーーーートだ!」
壊滅的に大きな声が、全ての動揺をかき消した。
とたんに音圧の壁が僕らを押しつぶすかのように、雪崩を打った。
「さあ行くぞ。怖れるな、前を向け」
ギリギリと脳内を締め付けられるようだ。
「月をも堕とす狼煙を上げろ。世界の形を変えてやる」
地鳴りを越えて、大地が震え、まるで街全体が一つの楽器になったかのようだ。
「隊長からの伝言暗号通信です!」
呆けたように、城の光景を見守る僕らに向かって、弦読み士が大声をあげた。
「すぐに話せ」
「音声再現します」
そう言うと森の隅から伸びた弦を手に、トパーズ隊長の声を再現する。
「全軍に告ぐ」
トパーズ隊長の声が響く。
「琉璃、琥珀、エメラルド、突撃だ。最短距離で城へと乗り込み、城門を
開閉、主力部隊を導入しろ」
一気にそうまくし立てた。
「いいか数で押すんだ。狙いは絶望ただ一人、頭をつぶせば奴らは終わりだ。所詮烏合の衆にすぎない」
次々と的確に指示を出す。
「ジャスパーは竜騎兵を率いて、蝶を狙え、主力が絶望を仕留めるまでの時間を稼げれば、それでいい」
「奴らを最大警戒、あのふざけた音楽を繰り広げて、自分らの姿をさらしたことを後悔させてやる」
そこで一息つくと。
「弦を!!」
大音声とともに
トパーズ隊長がそう叫んだとき、はるか上空にある巨大な弦を、何かが走り抜けた。
「瑠璃と琥珀だ」
ジャスパーさんが静かに呟く。
城に向かうかのようにして、その異国風の姿は一瞬で消えた。