笛の章〜第1話
出発するには、雪が溶けるまで、少し待たなければならなかった。
それまでに、たくさんの荷物は何とか減らして、カバンに収まるぐらいにはなった。あおぞらとは収支、荷物がいるいらないとの騒動で常にケンカが絶えなかったけど、そんな騒ぎもどこか楽しかった。
ドアを閉めて、住み慣れた家にさよならを言うとき、新しい場所への期待と、寂しさで少しだけ心の中がチクリと痛んだ。
でもここからなんだ。僕の新しい人生が始まるのは、きっとこれからなんだ。そう思うことで、少しでも寂しさを紛らわせる。
いってきます。とがらんどうになった家に、ひとこえ掛け、新しい世界を目指して歩きだした。
名残惜しむように、後ろを振り返りながらも足取りは軽い。
「王都までかなり距離はあるよね、僕の足で辿り着けるのかな?」
日差しはよく、ほのかに暖かい。
田舎道を歩きながら僕は肩に乗ったあおぞらに話しかける。
「大丈夫ですよ、街道を通っていけば、途中に街があります。うーん、とりあえずまずは南に向かいましょう」
目印は、あの山の向こうに見える笛の塔の方角で。あおぞらがそう言った。
巨大な塔から乾いた音が、連続的に聞こえてくる。遠い風の音。自然に鳴っているだけなのに、誰かの意志が働いているかのようだ。
「あんなおっきな物、誰が建てたんだろうねえ」
ぼくの家からも、その塔は見ることができた。朝方、ちょうど塔の方向から日が昇る。
「王都では、研究してる考古学の人もいるみたいですよ、神話レベルの時代からあるとかで」
「そういえば色々民話みたいなのはあったなあ、昔の人はみんなおっきくて、世界を股に掛けながら、演奏会をひらいたとか」
何日かは歩き通しであった。
春の草むらを抜ける途中、ブドウやオリザの畑が見えた。秋になれば豊かに実り、収穫が始まるのだろう。
見渡す限りに同じ光景が続き、空は随分と広い。
すでに僕のいた家は影も形も見えない。段々と連なる畑も古い家屋も記憶から薄れていくのだろうか。
すぐに街道にでるはずだったけれど、盛大に道を間違えたぼくらは、いつしか森の中へと迷い込んでいた。
うっそうとした森の中で雑草に足を取られ、歩きにくい。
やっとのことで森の中を抜けた。
「ねえ、あおぞら、何あれ!」
奇妙な一段の姿が眼下にあった。
崖から下の街道を色とりどりの衣を身にまとい、ふらふらと歩いていた。
みな一様にしてフードをかぶり、顔を伏せ、ある者は仮面をつけて素肌を隠していた。
「楽器教徒です。気をつけて、彼らは科学を否定していますから」
こんなところを巡礼しているなんて、あおぞらが少し怯えたような表情でつぶやいた。
「見つからないように、別の道筋を考えます」
あおぞらのいう教徒の列は地を這う芋虫のように、続いていた。
教徒の登る塔の壁には、無数の穴があき、風が通ると、そこから様々な音色が鳴り響いていた。
塔に刻まれたらせん階段に群がる教団の衣で、塔の下部分がざわざわと色づいていた。
教徒はやがて塔を覆い尽くし、あの赤茶色に錆びついた塔は、まだら色へと姿を変えていくのだろうか。
ふと、思いつきで手にした望遠鏡をこっそりと塔の方向に向け、教徒の先頭を眺めてみる。
星をも見通す金属の筒は、容易に姿を拡大することができた。
先頭の男は、らせん階段を規則正しく上り続け、表情は、ようとして読み取れず、広い階段を黙々と歩み続けて行く。けれども、黒いフード越しにその不気味なぐらい白い表情と、青く濁った右眼はあざやかな記憶として残った。
不意に強風が吹き、塔を登る途中の教徒が風にあおられた。
一人がそのままぐらつくようにして、手すりから落下し、集団に動揺が広がる。
落下する直前に風でめくれたフードの下には目も口もなく、ただほらあなのような黒い穴が空いているだけだった。
黒いフードの男が階段を越え大地に向かって、飛び降りた。
そのまま、急速に降下し、先に落ちた教徒の手を取り、そのまますべりながら、塔の側壁へかじりつく。信じられないような身体能力で男は落下した教徒を列に戻し、すぐさままた先頭へと帰る。
やがて男は塔の頂上へと近付き、足を止めると、脊中に背負った物を両手に掲げた。
それは、何重にも包帯に包まれた、みすぼらしい遺体だった。
白い布の隙間からかすかに人の顔と思われるものが覗き、真赤な口元が、かろうじて見えた。そしてそのまま男は、遺体を掲げ、愛おしげに口元をなぜる。
そして笛の塔の最上階へ、そのまま遺体を寝かせ、祈るように十字を切った。
塔と教徒を静かな風が吹き抜け、それにつられて響く笛の音が、どこか優しく、子守唄を思わせた。
「いきましょうか?」
あおぞらがそう言って、羽ばたいた。
望遠鏡にとらわれていた僕のそばで、地図を広げ、真剣に道筋を考えてくれていた。




