羽虫
八川千尋が死んだのは、よく晴れた夏の昼間だった。
ひどく蝉が鳴いていて、一週間後には河川敷で花火大会がある予定だった。
遺書は、なかった。
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「ちい坊」
馴染み深いその呼び名を背中に受けた千尋は、黙って振り返った。自分のことをそう呼ぶ人間には、一人しか心当たりがない。
「何してんの」
そこにいたのは予想通り、遥だった。千尋の家を囲む生垣の向こうから、顔を覗かせている。三潮遥、三潮家末子の二十四歳。根元の方だけ黒い、杜撰な染め方をした金髪がよく目立つ、中肉中背の男だ。遥は千尋のことを昔から『ちい坊』と呼ぶので、すぐわかる。それは千尋が幼稚園の頃からずっと変わらない呼び名で、千尋はそう呼ばれると、「ああ、遥が自分を呼んでいるのだな」と思うのだった。
「何、してんの」
また、遥がそう言った。彼は茫然とした顔で千尋を見ている。歩き煙草をしていたのだろう、遥の右手の中で一筋の煙を立ち上らせるそれは、きらきらとオレンジに光っていた。
「……別に」
千尋は遥の質問にそうそっけなく答えて、また彼に背を向ける。彼の顔を見たくない、と思ったのだ。遥の、その、焦燥を明らかにした、顔を。
「別にって、それ」
「あんたには関係ない」
「あるよ!」
背を向けていても、生垣が嫌な音を立てて折れるのがわかった。遥が乗り越えようとしているのだろう。あんたそれ、弁償出来るんだろうな。そんなことを思った。三潮家を出て以来ふらふらとアルバイトで食い繋いでいるらしい遥であるから、生け垣など弁償出来そうにないのだが。
千尋の手の中には、ライターがある。
ああ、遥。あんたは止めたいんだろう。俺のことを。俺が、このライターからあの凶暴な光を解き放つのを。
だけど無駄さ。無理で、無駄だ。
俺はもう、こうしたくってたまらないんだ。
千尋は不意に、遥のバイクの後ろに乗せてもらって、少し遠くの海へ花火を見に行った日を思い出した。あの日、夜空に咲く花火に興奮した自分は、帰りにコンビニの花火を買ってもらって、この庭で一緒に彼と一緒に花火をした。こうして、ライターを握りしめて、千尋は花火に火を点けたのだ。
「ち――千尋!」
遥がついに、ちい坊と呼ぶのをやめた。少しだけ振り返ると、丁度遥が千尋に手を伸ばすところだった。ライターを奪い取ろうとしたのだろう。だがそれよりも、千尋がライターに火を灯す方が、早い。
そうだ、こうやって、自分は、花火に、火を。
なんでこうしなくっちゃいけなくなったんだろう、と千尋は少し思った。だが、思っただけで、手は止まらない。
やめろ、と、遥が叫んだ。だが千尋はやめなかった。
「さよならだよ、遥」
そう言って彼はうっすら笑うと、炎に包まれた。
後悔なんて、どこにもなかった。
+++
――あんなに綺麗な子がねえ。
焼身自殺ですって……
いいお嫁さんになったでしょうに……
浩司さんたちも可哀想に、まだ十七だったって言うじゃない……
息子夫婦も死になさって、今度はお孫さんまでこんな、ねえ……
祟りでもあったんじゃあないの? ……
「……祟りなんかであるもんかよ」
遥は自宅に戻っても止まらない涙を拭いもせず、そう吐き捨てるとスーツの上着を床に叩きつけた。小さなアパートの一室には、遥の連れ帰ってきた死の匂いが充満して強い。行くべきではなかったかもしれない、と彼は思った。
靴を脱ぎ棄てて家に上がると、窓を開けて畳の上に座り込む。夜空には星が瞬いて眩い。これも炎なのだと思うと、千尋の浮かべた最後の笑顔を思い出して、遥はまたいっそう涙が零れてたまらないのだった。灰皿を引き寄せて、煙草にライターで火を点ける。ああ、止められなかった。その後悔の念が、遥の煙草の味を変える。
出席した千尋の葬式は、惨憺たる有様だった。口さがない連中が、千尋の死をあれこれ噂だてては楽しんでいるようで、ずっと千尋のことをあれこれとあることないこと騒ぎ立てていたのだ。暇ばかりを持て余した年配の人間にとって、自分の身内ではない、悩みなどないような、『幸せなお嬢さん』だった千尋の自殺は、恰好の餌なのだろう。葬儀が終わってもまだ、彼らは千尋をダシに盛り上がるのだった。三潮と八川の家はそれなりに交流があったし、千尋と最後に会った――その死を見届けた――のが遥ということで本当は彼もまだいなくてはいけなかったのだが、彼らの話をそれ以上聞くのが嫌で、止める親を振り切ってすぐさま帰ってきたのだった。
実際、千尋は対外的に悩みなどなかっただろう。だが遥は知っている、千尋が何に悩んでいたのかを。
八川千尋という少女には、ただ一つの秘密があった。ただそれだけのために、彼女は死んだのだ。その、周囲には受け入れられがたい秘密のために、彼女は。
ちい坊、と、遥は小さく口にしてみる。葬式の場に置かれた遺影は、ひどく整った顔をした、世にも美しい少女のものだった。黒いストレートの髪を長く伸ばし、口元をゆるく笑みの形に曲げた、遥の知らない綺麗な少女。
あんなものは千尋ではない、と遥は思った。彼の知る千尋は、もっと快活に笑う、スポーツが好きな、『少年』だった。
千尋は男だったのだ。染色体の話ではない。心がだ。その矛盾こそが、千尋を死に追いやった全てだったのだろうと遥は理解していた。
これは別に、遥だけが知っていたことではない。むしろこの問題については遥がイレギュラーと言えた、彼は、当時小学生の千尋に相談を持ちかけられて知っただけなのだから。千尋の死んだ両親も、葬式で慟哭していた、あの無責任で格式ばった、頭の堅い、権威的で前時代的な千尋の祖父母だって知っていたはずなのだった。
どうしてあげるべきなのだろう、と遥は思った。壁に背を預け、ずるずると足を畳の上に投げ出す。自分は今更何が出来るのだろう、あの死んでしまった千尋という可哀想な少年のために。
いや――千尋のためじゃない。
千尋の悲鳴が、耳にこびりついて離れない、自分のためにだ。
油と炎にまかれて燃え盛る少年の、あの絶叫が耳にこびりついて離れない、この甘ったれた自分のために、何が出来るのか、遥は考えているのだった。
煙草の灰を皿の上に落として、鼻をすする。涙はまだ止まらない、枯れ果てて死ぬのではないかと思えるほどに。
もしかすると自分は、彼のことを愛していたのかもしれない、と遥は思った。それはとても自己嫌悪に陥る推測ではあったが、自分は、彼を――彼女のことを、彼女の美しさを、愛していたのかもしれなかった。彼の心は男であると頭で理解していながら、それでも。だからこんなにも、どす黒い、何らかの、耐え難い苦しみに襲われるのかも知れなかった。
一度そう考えてみると、なんだかとても腑に落ちた気持ちがして、遥は自分の金色をした頭をがしがしと掻いた。
――そうか、愛していたのか。俺は、千尋を。
七つも下の、あの、少女とも少年ともつかぬ、ふしぎな美しい生き物のことを、遥はおそらく、愛していたのだ。
千尋の母親は、千尋の男であるが故になじられ、それを苦に逃げようとしたところを、階段から落ちて死んだ。父親は、千尋を気持ち悪いと罵り、暴力に晒した挙句、脳の血管を詰まらせて死んだ。祖父母は、千尋を女として育てるために彼を散々苛め抜いた。千尋の人生は、あの悲鳴で打ち切られるまで、苦しみに次ぐ苦しみだったのに違いなかったのだ。
だから遥は、千尋に優しくしてやりたかった。
千尋の望む遥でいたかった。
そう思っていたのは、遥の、千尋を愛するが故だったのだ。
ごめんな、と、遥は耳に残る千尋の残響へ謝罪する。これはあの少年に対する裏切りに他ならないと遥は思う。
死んでみようかな、などと、益体もないことが頭をよぎった。千尋と同じように、焼けて死んでみたいという欲求が、むくむくと胸の奥で膨らんでくる。だが、そんな勇気のある人間でないことは、彼が一番よく知っていた。あの悲鳴を聴いてまで、まだ焼身自殺へ身を投じるほど、遥は強い意志を持つ人間ではない。
では、どうすればよいのだろう。
どうにもできないのだろうか。
千尋は一体何を思って、最期のあの瞬間に笑ったのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えていると、煙草の火がいつの間にか指まで到達していて、遥は「アチッ」と悲鳴を上げて煙草を灰皿へ放り投げた。それから、その事実にへらりと笑うと、火傷をした指を冷やすために台所へ向かったのだった。
+++
……遺書を、遺そうかとも思った。
だが、何度ペンを取ってみても、形にならなかったのでやめた。それに、こんなことを書いても仕方ないと千尋は思っていた。言葉と言うのは、遺すものじゃない。伝えるものだ。どうせ自分の遺書など、あの高慢な祖父母が握り潰してしまう。どこにも伝わることなく、自分の声は消えてしまう。ならば、書かなくても同じだ。
和紙で出来た便箋をくしゃくしゃと丸め、千尋は机に突っ伏す。横顔を押し付けると、先程買ってきた新品のライターが目に入った。彼はそれを掴むと、先程から書き損じてばかりの遺書まがいの束を、食器棚から取ってきたガラス皿の上に放り投げ、火を点けた。黒い煙が上がり、めらめらと紙が赤く光っていく。その様がひどく美しく思えて、千尋は、今から行うことに対する期待が広がっていくのを抑えきれなかった。
祖父母のことを、自分はきっと、憎んでいる。
死んだ両親のことも、自分はきっと、憎んでいる。
自ら死を選ばなければならなくなるほど、千尋は彼らを憎んでいるのだ。
わざわざこんな手間のかかる死に方を選んだのは、多分、あの日遥と見た花火が一番、楽しい思い出だったからだ。
思い出したくないことばかりの十数年で、一番。
祖父母を殺そう、と何度も思った。婚約者だという男を紹介された日、何度も何度も、そう思った。けれど、出来なかった。その結果選んだのは、最も安易な道だった。
もう、自分のことなどよくわかっていない。女でも男でもおそらくなくて、ごちゃごちゃのめちゃくちゃだ。このぐちゃぐちゃなものを抱えたまま、生きていくことなど千尋にはもう、できない。
だから、彼は、あるいは彼女は、これを選んだ。
幸せに――死ねる道を。
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結局、千尋の死が八川家にもたらしたものと言えば、少しの暗さだけであるようだった。少なくとも遥の目にはそう見えたし、千尋の祖父母は孫が死んだと言うのに悼むよりも誰かに――特に千尋へ――責任をなすりつけるのに必死であるようだった。遥はそんな彼らが嫌で、益々三潮家や八川家に寄りつかなくなり、住所も変えた。三潮の家にはまだ自分以外に三人も男がいる。自分がいなくても問題ないだろう、元々期待もされていないのだし。
バイト帰りの夜道を歩きながら、煙草を吸うためにライターの火を点けてみる。ゆらゆらと揺れるそれは、あの日、千尋が焼けた日に見たものと同じだ。その火を見ていると千尋が最期に見せた笑みが見える気がして、遥は足を止め、じっとそれを見つめる。
いつも考えるのは、なぜ千尋は、あの時笑ったのだろう、ということだった。今から死ぬと言うのに、彼はなぜ。
――救われたのかもしれないな、と、何度目かわからない疑問の中で、不意に遥は閃いた。そうだ、多分、そうなのだ。千尋は、焼けて死ぬことで救われたのだ。あんな悲鳴を上げても、それでも、彼は救われた。この世界から『おさらば』することで、彼は、確かに救われたのだろう。
そんなことを考えながらなおもライターの火を見ていると、一匹の羽虫が、揺らめく光の中に飛び込んで死んだ。消す暇もなく、死んだ羽虫はひらひらと落ちる。
……花火を買って帰ろう。遥は当初の目的である煙草に火を点けてからライターの蓋を閉じると、再び歩き始めた。
夏の終わりは、すぐそこに迫っていた。