六十二話 壊滅
それはまさに鬼のなせる業だった。
三丸町、唯一の病院である三丸病院その裏手にある集団団地、古くともそれなりに住みやすい敷地にあるこの団地には今や入居者は一人もいなくなっていた。
そもそもこの場所に人が少なかったのは荒身組という暴力団が根城にしていたという理由があったのだがその荒身組もこのたび一人残らずこの場所から消えた。
正確には彼らの命がこの場から消えたのだ。
ためにためた煙草の煙を肺から吐き出す。
冷え切った空気がこんなにうまいと感じたのはいつ以来だろうか?
今はとにかく、煙草やこの新鮮な空気で体と記憶に染みついたあの悪臭を消し去りたかった。
団地の4号楝その三階、そこが惨劇の現場だった。
あの光景を思い出すと今でも身震いしてしまう。
ことの発端は今から数時間前、俺と秋瀬が林田恵子と近衛大志と別れしばらくした後第一報は届いた。
俺が聞いたのはあくまで録音されたものだったが、その内容を初めて聞いた者は何かの冗談かと思っただろう。
電話が来たのは午後11時56分、電話を受け取った刑事によると相手はこちらの話など全く聞かずに一方的に用件だけを伝えてきたのだという。
そしていかがその内容だ。
『もしもし、夜分遅くに失礼します。自分はヒルと申します。時間がないので用件だけ話します。荒身組の方々を殺しました。彼らが所持していた銃の類は自分が貰いました。これを聞いてどうするかはあなた方の自由です。それでは、失礼します』
その言葉の物騒さとは正反対に物静かな女の声、こんなものイタズラだと聞き流すのが落ちだが、今の話の中にどうしても聞き流せない言葉があった。
ヒル。
声の主はそう自分のことを名乗った。
この名前は俺たちからすれば忘れられない名前だ、なにせ断罪事件そのすべての始まりとなったあの処刑ビデオの人物が名乗った名前だったからだ。
事件の犯人がヒルと名乗ったことはマスコミには公表していない、つまりこの電話の主と同一人物の可能性が高いということ。
俺もその知らせを受けて現場へと急遽向かったが、その場所はもはや現実とは乖離された異界へと変貌していた。
団地は不気味な静寂さに包まれていた。
パトカーの赤いランプが白い壁を染めまるで鮮血をまいたようで不気味だった。
俺が来た時はすでに捜査は進んで行ったようで事件現場はすでに特定されており俺はすぐにそこへと案内された。
荒身組以外は誰も使っていなかったと思われる団地はホラー映画さながらの雰囲気をだしながら静かに鎮座していた。
その中で4号楝だけが不気味にライトアップされていた。
その周囲をかこむ警官たちは皆伏せ見がちにこちらを見ようとはしない。
仮にも現場なれした彼らがこうも傷心するとは一体何があったのだろうか?
その時の俺はまだそんなことを考える余裕があった。
一階はかび臭いという点を除けばそれほど不審な点は見当たらなかった。
こんなにぼろくても電気は通っているようで明るく照らされた内装は外観のような不気味さはなく庶民らしい安心感がそこにはあった。
続く二階、そこには一階と変わらない古ぼけた内装が続くけれど顔をしかめたくなるような悪臭が漂ってきた。
この臭いは知っている。
現場で何度も嗅いだことのある血の臭いだ。
だが、この鼻孔に張り付くほどの臭い、一体どれだけの血が流れている?
目の前にあるのは三階へと続く階段、事件現場は三階だとは聞いているが足が重い。
体が、俺の足がそこに行くことを全力で拒んでいる。
そりゃ行きたくもなくなるさ。
なんだこの臭いは?
これも血の臭いか?
だけどこの血液を沸騰させ大気と入れ替えたような質量は一体?
肺が流れ込んでくる空気を本能的に拒否しているのか、ふたでもされているようにうまく呼吸ができない。
少しでもにおいを防ぐために口呼吸をするが無駄だった。
今度は充満する血の臭いが口内に広がりひどい吐き気を覚えた。
それでもなんとか、階段を上りあがったところでこの臭いのもとが眼前に広がった。
階段を抜けた先で俺を出迎えてくれたのは赤いスーツの男だった。
まるでドアボーイのように律儀に階段出口の廊下に立っていた。
だが彼は見当違いな壁側に顔を向けたまま動こうとはしない。
おそらく壁に一面にこびりついたザクロの残骸が気になっているのだろう。
一体誰のイタズラだ?
共同のマンションの壁にザクロなんかを投げつけたのは。
否、それは断じてザクロなんかじゃなかった。
それは彼の血肉。
顔面を考えられないほどの力で壁に押し付けられた末に顔が破裂した男の末路だった。
赤く見えたスーツも血に染められた元は純白色だったのだろう。
余りにも不憫な姿だが現場保存の為今しばらくはあの状態でいてもらわなければならない。
だがそれ以前に誰も彼の正面顔を見たくないから放置しているというのが本音のようだった。
耳元まで壁に潰された彼の顔は原形などとどめてはいないだろう。
犯人が掴んだと思われる後頭部は髪がむしり取られ、掴まれた肉は腐った果実のようにふやけ裂け肉からは赤黒い液が垂れ流れていた。
掴んだ痕だと?
これを、こんなことを素手でやったっていうのか?
「あ・・りえない」
かろうじて出た感想がそれだった。
震える足を何とか支えながら廊下を進んで行く。
ここで止まるわけにはいかないのだ、なぜなら被害者は彼だけではないから。
眼前には異様な死体がまだ無数に転がっていた。
次に見た死体もまたひどいものであった。
非常用の消火器をあろうことか口に突っ込まれていたのである。
もちろん人間の口にそんなものがはいるはずもなく、異物を押しこまれた口は歯、顎が砕け大きく裂けて破かれた巾着袋のようになっていた。
それでもなお進行をやめようとはしなかった消火器は彼の喉を突き破る形でその姿を俺の前に出していた。
そしてそれらの異形の果てに彼はいた。
彼が遺体で発見されたことは報告を受けすでに知っていた。
彼が死んだということには驚いたが彼が荒身組とつながっていたという事実にはさほどの驚愕は無かった。
いやむしろ納得がいった部分が強い。
彼は何かと捜査が進むのを阻んでいたからな、、まぁ捜査が進んで自分が捕まるわけにもいかないものな。
「神矢」
三階の一室、その部屋は他の部屋と比べても豪華な様子でどうやら組長室か来客室に使われていたようだった。
その部屋の来客椅子に神矢局長はいつもの威厳に満ちた面持ちのまま静かに息絶えていた。
苦しんだ様子はない、即死だったのだろう。
顔だけ見れば綺麗なもんだ、血色の悪さと濁った眼さえ気にしなければ生きていた頃と大した違いはない。
けれどその彼の首から下は悲惨なものだった。
恐ろしいことに、彼の胸から腹にかけての胴体部分、そこには彼ではない他人の体がまるで標本のピン止めのように撃ち込まれていたのだ。
当然、体の接触した部分は無事ではなく神矢の胴体はほとんど引きちぎられ相手の人物は頭が完全に破壊されてしまっていた。
この顔のない男、この異様に大きな体躯から見ておそらく組長佐田木典久だろうが、彼までも殺されたとなると荒身組はほぼ壊滅したと考えていいだろう。
そしてこんな化け物じみたことを行った犯人は見当がついている。
壁に大々的に血で描かれたドクロマークこれが表わすのは断罪事件それにほかならない。
「岸野さん。断罪事件は全てあの電話の主、ヒルと名乗る者の仕業なんでしょうか?ヒルとは一体?」
まだ新米刑事である菅野は青い顔でそう尋ねる。
「悪い菅野、少し席外すわ。外の空気吸ってくる」
「えっ?はい」
建物を出ると夜風がこの汚れた体を洗い流してくれるように優しく包んでくれた。
先ほどの菅野の言葉『ヒルは誰か』その答えは俺の手の中にある。
携帯を取り出し待機させていた秋瀬くんに電話をかける。
「俺だ。今から来れるか?」
「はい。ひと段落ついたんですか?」
「まあな。というよりあのビデオの中身が気になってしまうというのが本音だな」
「そうですね。分かりました今からそちらに向かいます。三丸団地の方でいいんですよね?」
「ああ、くれぐれも人目は避けろ」
「了解しました」
あの第一報を受けた直ぐ後、彼女は青い顔で俺と秋瀬の前に現れた。
神山京香。
あの時実養護施設の院長が起こした殺人事件を通して知り合った彼女あの事件以降交流など全くなかった彼女が俺のことを覚えていたのは少し意外だった。
彼女はどこかに向かっているようで一心不乱に夜道を走っていたのだが俺も見つけると一度驚いた表情を見せたあとすぐさまこちらへと駆け寄ってきた。
今思えばあのとき彼女はおそらく三丸署へと向かう途中だったのだろう。
けれど偶然にも俺を見つけてしまい、手にする物のプレッシャーから俺にすがってしまったのだろう。
けどこれは俺にとっては幸運だ。
あの時、彼女が俺に託したビデオ、これには断罪事件の犯人が映っていると言っていた。
詳しい事情を聴こうにも、彼女はそのまま逃げるように走り出し俺としても現場に向かわなければならなかったため時間がなくやむ得ず秋瀬に預ける形になったのだが。
「彼女の言う通りならやっと真の敵が見えるってことか」
「全ての答えがこのビデオカメラにあるかもと思うと少しワクワクしますね」
随分早い到着の秋瀬はおそらく近場で待機していたのだろう。
ワクワクするそう秋瀬は言ったが俺はとてもそんな気持ちにはなれない。
あの現場を見た後だと犯人にある印象は恐怖だけ。
果たして俺は犯人の特定ができたところで捕まえることが出来るのだろうか?
そんな俺の一抹の思いを無視するように秋瀬はビデオを再生した。
もし世界の災いをもたらす存在が誰の目でもわかるほど醜悪な姿をしていればその存在の危険性は幾分か下がるだろう。
だれだってそんなものには近づきたくはない、近づかなければ被害に遭う確率も減るというもんだ。
だが、もしその災いが誰もが引きつけられるような儚く美しい一輪華だったらこれほどたちの悪いことは無いだろう。
美しい外面とは違い生命のかよわない造花に流れるのは蜜などではなく万人を死に至らしめる猛毒。
それが俺がもったヒルへの印象だった。
「ヒルの正体は道長慶介。そう思っていいでしょうか?」
「本人があそこまで言ってるんだそうなんだろうよ。仮に嘘だとしても冗談じゃすまないさ」
「それじゃ、このテープを警察に?」
「・・・いや、今の警察は正直信用ならん神矢局長のこともあるしもしかしたら敵の手のものが内部にいる可能性もある」
「ならどうするんです」
「わからん、だがこのまま放置というわけにもいかない」
「僕らだけで、なんとかしろって?無謀ですよ。できるわけない」
「できないからって!このままほっとくなんて出来るか!!」
「なら警察に打ち明けてください!そんな気持ちだけじゃ何もできない。個人では限界があるんです!」
互いににらみ合うこと三秒ほど、秋瀬の意見がもっともだなんてことは俺も分かってはいる。
けれど、本当に他のみんなに打ち明けても大丈夫なのだろうか?
警察内部に不審な動きがあるのも心配の一つだがあの我々を煽るヒルこと道長慶介のメッセージ、あれが我々をはめるための何らかの罠だとしたら?
「不安は拭えないが、事実は変わらないか。わかった、俺で人を集めるそこから行動だ」
「ずいぶん慎重ですね」
「おまえはどうする?近衛と林田の二人にこのことは?」
「恵子の方には話すつもりはありません。いずれ話すことになるとしても。今の彼女には金城百合と道長慶介に関する事実は負担が大きすぎます」
「そうか。・・とりあえず待機してもらえるか?また連絡する」
「ええ」
ようやく判明したヒルの正体、見え始めた事件の終わりけれどこれまでの出来事は全て道長慶介の思惑通りに動いている。
俺たちには止めることが出来ない、そういった道長の言葉は予言めいた不気味さがあった。
おそらく荒身組を皆殺しにしたのも彼であろう。
あんな人間とは思えない殺し方をした美しい悪鬼がこの後何を起こすのか、それが気がかりで仕方がなかった。




