三十一話 広がる闇
「ここまでで大丈夫だよ」
夜の三丸駅、人気のないその駅の入口が闇の中でポッカリと口を大きく開けている、まるで闇夜に潜み獲物が見事自分の口の中に入るのを待つ捕食者のように。
それが少し不気味に見えて、ついつい彼の手を握ってしまった。
「どーしたの?まだ一緒にいたい?」
そんな意地悪な質問をする千晃に恵子はムッと頬を膨らます。
「ばか!さっさと帰れ。このキザ野郎!」
バッシリと背中を叩き千晃を改札口へと押し込む恵子、千晃は『痛いなー』と笑いながらホームの方へと歩き出す。
その途中、一度だけ振り返ると、
「気をつけて帰りなよ」
と、言うのだった。
千晃が去り、一人夜道を歩く恵子、時刻はまだ午後八時十三分と街が眠りにつくには早い時間帯だがこのあたりはまるで夜の闇が染み込み深海の底にでも成り代わったかのように静かだった。
「懐中電灯でも持ってくればよかったかな?」
電灯がなく暗い夜道は薄気味悪く体に寒気が走った。
なぜ、こんな夜道を歩くときに限って人は恐ろしい想像をわざわざしてしまうのだろう?
まるであの影の中から恐ろしいモノが現れて自分をさらってしまうかのような、そう今度こそ唯一生き残った自分を暗い死の底へと引きずり込もうとする妄想。
そんな考えが頭をよぎり恵子はそれを振り払うかのように目をつぶり走り出した。
完全なる闇の中で自分の足音だけが周囲にこだまする、タタタタタ、リズムよく聞こえるその音は周りに他の音もないことでよく、耳に入ってきた。
タタタタタ、タッタタ!
十歩ほど走ったところでだろう、そのリズムが急に乱れる『誰かがついてくる!?』そう、即座に判断した恵子は無我夢中で走り出して『あっ!』足を地面に取られてしまった。
バランスを崩した体は走り出した勢いのまま前方へとのめり込む。
しかも、驚いて目を見開くとその目先には運が悪いことに電柱柱がそびえ立っていた。
この距離にこのスピード、もう回避することは不可能だろう。
まずいそう思い、再び目をつぶったところで恵子の体はピタリと空中で身動きを止めるのであった。
右手にある暖かな感触その懐かしい手のぬくもりに恵子は振り返り驚いた。
「太志」
「なにやってんだ、お前」
目の前に立つ自分より頭一つ分ほど背の高い少年、その細い目でこちらをゴミでも見るかのような軽蔑にあふれた視線を浴びせてくる。
それが、かつて自分と家族のように育ってきた近衛太志が自分に向けた視線だということが恵子には信じられなかった。
「オイ、聴いてるんだ。ここで何してる?」
「なにって、別にあんたに関係ないでしょ」
そう言い恵子は大志の手を振りほどく。
「随分な言い方だな。俺がいなけりゃ、電柱に顔面ぶつけてただろうに」
「そりゃどうもありがとう。じゃあね」
形だけのお礼を済ませ恵子はその場を立ち去る、その稽古の背中に大志は
「お前、あの時のことまだ怒ってるのか?」
そう告げてきた。
恵子は一度だけ大志を睨むとそのまま何も言わず去っていった。
あとに残された大志は無表情なまま、
「アホだなあ。アイツは」
と、呟くのだった。
翌、八月二十日は今までの猛暑が嘘かのような涼しげなとても過ごしやすい気候だった。
なんでも台風の影響だという話で明日の朝から天気は大荒れになるという予報だった。
そういえば、昨日と比べて少し風が強くなっただろうか?
トイレの小窓から見える木々のざわめきをその目で捉えながら雄一郎は霞がかった意識の中でそう思う。
けれど木々のざわめきはこの世界には聞こえず耳に残るのは目の前にいる女の喘ぎ声だけ。
自分の目の前で体を上下させるその女の瞳はまるでドブ川のように濁っており見ていると自分まで飲み込まれそうな渦のようなものまで見えてしまう。
いや、渦巻いているのは自分の視界だろうか?
そこで雄一郎の視界は暗転し意識は消えていった。
ことが終わったあと青渕栄絵は雄一郎からその体を離す。
薬の量が多すぎたのか雄一郎の方は白目を向け、倒れ伏せていた。
この程度ならそのうち回復するか、栄絵は経験上そう判断し自らの着衣の乱れを整えると早々に個室から出ていく。
その際、倒れている雄一郎には一度も目もくれずに。
外に出ると一気に涼しい風がその体を包み込んでくる、その心地よい開放感に目を細めるとその瞳は懐かしいい人物が捉えてした。
「お久―。太志」
「随分とお盛んのようだな。発情期か?青渕」
「ったく。青渕さんぐらつけなさいよ太志、私のほうが五つも歳上なんだからさぁ。年上には敬意を払うべきでしょ」
「俺がそんな律儀な奴に見えるか?そんなのは別の奴に期待するんだな。それに、敬意を払うべき相手は敬意を払うに値する人間だけというのが俺の持論だ、そしてその持論からお前は敬意を示すのに値しない人間だ。いや、むしろクズといってもいい」
「随分な言いようね。私は自分が楽しいように生きてるだけよ、命なんていつ終わるかわからないもの、なら好きなことができるうちに好きなことをしたほうがいいじゃん」
「それがこれか」
大志がポケットから取り出すのは例の薬、まるで小さな繭のような錠剤がその手にはあった。
「へぇ~。あんたもそれ持ってたんだ。なら使えばいいのに。マジでぶっ飛べるよそれぇ、あたしのオススメはそれやりながらヤルことだねぇ。今までの快楽なんて目じゃないから腰と脳神経つながれたみたいな快感がくるよ」
目を見開き感情をあらわに語る栄絵をよそに大志はあくまで無表情のまま話を進めていく。
「なぜ、雄一郎を巻き込んだ?」
「なぜ?別に意味なんてない。ただ目に付いただけよ。知らない仲じゃないしあの子にはこの快感を分かち合える仲になりたかったの。ほら、何事も一番乗りって気分いいじゃない、あの子結構好みの顔してたし。っは、今じゃあの子私の虜なのよぉ、私が何も言わなくても向こうから求めてくる」
「それが、楽しいのか?」
「最高よねぇ、あんたも経験すればわかるよ。求められる快感が。・・・ねぇ、あたしからも質問いい?あんた、何しにあたしに会いに来たの?偶然ってわけじないでしょ」
「この薬の出処について調べてる。お前なら知ってると思ってきてみたが、予想どうりだったみたいだな」
そんな大志の答えを聞き栄絵は鼻で笑う。
「調べるって、太志何あんた警察の真似事でもするつもり?しかも、そんなのあたしに聞かなくてもわかるでしょ。こんなもの個人じゃなかなか手に入らない、それが手に入るとすれば何らかの組織、そしてこの街ににはそんな組織は一つしかない。つまり・・・」
「荒見組、あのヤクザどもか」
「ビンゴ!なんだやっぱり解ってるじゃん。まぁ、知らないほうがおかしいよねぇ、なんたってあんたはこの街で荒見組に次ぐ影響力を持つ男なんだから。そうでしょ、街の若者達を力で支配しまとめ上げた一大勢力を築き上げた鬼神、近衛太志くん。いや~まさか、あのわんぱくこぞうがここまでの化物に成長するなんて。昔のあんたの友達が見たらなんていうかな」
挑発気味にそう蒸す栄絵、太志はそんな彼女に音もなく近づき足を払うと首根っこを掴み地面に引き倒す。
「おしゃべりが過ぎるぞ青渕。お前は黙って俺の質問に答えればいいんだよ、それ以上無駄口叩くなら潰すぞ。いや、むしろそうしたほうが雄一郎の為にもなるか?」
「い、いたい。ふっふふ、女にも容赦なし・・・いいよ・・あんた。お姉さん惚れちゃいそうだよぉ」
首を絞められながらもそう、笑を見せる栄絵、その顔は鬼女を思わせる邪悪な感情に満ち溢れていた。
「節操のない女だな、お前は」
栄絵のその言葉で彼女に対する興味は完全に消え去ったのか大志はゴミでも捨てるかのように彼女の体を突き放した。
「くっく、ホント乱暴。ねぇ、太志。あんたが何考えてるかは知らないけどさぁ、荒見組には手を出さないことだね。ガキが舐めてると死ぬよ」
赤くなった首をさすりながらなお不敵な笑みを見せ続ける栄絵。
そんな彼女に大使は一瞥だけすると。
「関係ないな。俺はやることをやるだけだ。そのあとの結末なんて神様が決めてくれるだろ」
そう言い立ち去っていった。
「私なりの忠告だったのに馬鹿な子ね。はてさてどうなることやら」
転がり始めた石のごとく自らが決めたその歩みを止めようとしない太志、その行く末は悲劇なのかそれとも喜劇なのかどちらに転ぶかが楽しみだな栄絵は思うのだった。




