三十話 流れる涙は雨とともに
チャプンとした水滴音、温かなお湯に身を沈めた恵子は気持ちよさそうに背伸びをする。
「あ~気分いいな」
グッテリとだらけきった自分の彼女の姿を見て、秋瀬千晃その体を後ろから抱きしめる。
今二人は互いにひとつの湯船の中に入り身を寄せ合っている。
形としては千晃が後ろから恵子を抱きしめている。
「どーした恵子。随分、嬉しそうだね」
「ん、友達からメールが来てね。片思いの相手に告白したみたいで」
「へぇ~。頑張ったんだね」
「うん、本当に。あの子内気だから結構心配してたんだよね。でも、本当に頑張ったよ。私はそれが嬉しい」
「告白の方はうまくいったのかい?」
「そこは何も書いてなかったけど。多分大丈夫だと思う、落ち込んでいるふうじゃなかったから」
「そうかい」
長いこと湯船に入っていたせいだろうか、少し頭が麻痺したかのような停滞感を覚えた恵子はその身を千晃に預ける。
「体、まだ少し冷たいね」
彼の首筋に頭を寄せながら恵子は言う。
「ああ、そうだね。あの土砂降りの中を来たんだからしょうがないけど」
「傘ぐらいさしてきなさいよ」
「急に降り始めたもんだから。けど、タイミングミスったね。一緒にいたのは友達?」
「そう、同じ学校の。って一人は違うんだった」
「ゴメンな。せっかく勉強していたみたいなのに帰らせてしまって」
今度は逆に恵子の首筋へと顔をうずめてくる千晃、なんだか匂いまで嗅いでいるようで妙な感覚だ。
「ん、それはしょうがないから。アキが来てるのに友達と勉強なんてできないし。ただ、アイツ等に彼氏がいることがバレたのが・・・」
そこで言いよどみ恵子は水面へと顔を向ける。
「嫌なの?どうして?僕はバレても一向に構わないけど」
「だって、アイツ等絶対茶化してくるもん」
「いいじゃないかな。見せびらかせ、あげれば」
「あっ、バカ」
そうして二人は互の思いを確認しあうように長い口づけを交わすのだった。
「それにしても、驚いたよね。まさか、恵子ちゃんに彼氏がいたなんて」
雨により全てがほの暗い灰色に染まり上がった町並み、音さえも雨音にかき消され流されてしまい、隣にいる修にもその声は届いていないようだった。
「ねぇ!聞こえてる?」
赤い傘を修の青い傘の方へ寄せ顔だけをそちらへと覗き込ませ凪沙は耳元で語りかける。
「ああ、聞こえてる」
そう答えはしたもののその顔は明らかに心ここにあらずといった風だ。
「なんか、ショック受けてる?」
「ショック?」
「そう、なんかさ。あれからずっとボーっとしてんだもん」
「そうかな?」
「そうだよ。・・・恵子ちゃんの彼氏イケメンだったね。なんか、いかにも秀才タイプって感じで。キヒヒ、脩とはまさに正反対って感じ」
「ほっとけ」
茶々を入れる凪紗を軽く流す修、そのそっけない態度はやはりいつもの修らしくなかった。
お互いの吐息がかかるほど近くにいるのに今の修はなんだかこの雨のように冷たい、その理由が凪沙にはわからない。
そう、わからない、だから。
「ねぇ、修。もしさ、仮にもし、なにか悩んでることがあったら。みんなに、私に相談してね。一人で悩んでもさ、煮詰まるだけだよ。余計なお世話かもしれないけど、私からのお願いだと思って」
そこには修の知っているいつものおちゃらけている凪沙ではなく、仲間のことをただただ心配している一人の心優しい少女だけだった。
「そいつはどーも。けど何でもないから」
「ホントに?」
「しつこいな。それとも何?そんなに心配になるほど俺のことが気になるの?」
「ち、ちがう!アホじゃん、そんなわけないから」
思わぬ反撃に焦る凪沙を見て修は笑う。
「なによ!何がおかしいの」
「いや、凪沙がそんなふうに慌てるとは思わなかったから。からかって悪い、ただ俺も恵子に彼氏がいたことに驚いていただけだから、そんな心配することはねーよ」
そお言った修の顔はやはりどこか少しもの悲しそうであった。
私立胡桃宮女子中学は修たちの住む三丸町よりひと駅先にある浅枝町にある有名中学である。
徹底した英才教育により学力だけではなくあらゆるマナーに運動、品性を磨く超お嬢様
中学。
ここを卒業したものはエレベータ式に胡桃宮女子高等学校と登りいずれは東大などのエリート大学に入ることを約束されたまさに選ばれたものだけが通える学校であった。
男子禁制であるこの学園に男がしかもまだ学生である自分が来るなんて明らかに浮くことを承知で修はこの胡桃宮学園の校門に立っていた。
「何やってんだろうな俺、こんなとこまで来て。百合が学校にいるのかもわかんないのに」
校門付近の自販機、その影に隠れるように身を寄せながら修はつぶやいた。
凪沙と別れたあとすぐさま電車へかけ乗りここまでやってきた修。
普段、ゆりの迷惑も考え学校に押しかけるなんてことは控えていた彼が、こんなところまできてしまったワケ、その理由はもちろん恵子に彼氏がいるという事実を知ってしまったからだ。
幼少時よりいつも一緒だった幼馴染、女なんてことは意識したこともなく、むしろその関係は男友達のようでもあった。
そんな恵子に彼氏がいたなんていう事実は修には信じられない、いや、信じたくない事実だった。
別に恵子に彼氏がいたということがショックなわけじゃない、そもそもこれ自体は友人としては祝福すべきことだ。
ショックだったのはいつまでも変わらないと思っていた自分たちの関係がまた一つ知らないうちに変わってしまっていたという事実だった。
子供の頃からいつも一緒でこれからもそうだと思っていた友人たち、それがいつの間にか大志が離れ次に司、そして恵子も自分たちとは違う新しい居場所をいつの間にか見つけていた。
次々とみんなが自分の前から離れていく不安、そしてなにより百合が恵子のように自分の知らない誰かと付き合っているかもしれない、それがたまらなく怖かった。
あの恵子のように百合のそばにも誰か男がいるのかもしれない、今まで見ぬふりをしてきた現実を今日まじまじと見せつけられて、それを否定したくて百合はまだ誰とも付き合っていないその確証が欲しくてここまで来てしまった。
「だれも、出てこないな」
ここへ来てからかれこれもうすぐ一時間、学校からは誰も出てこずあれだけ振り続けていた雨もいつの間にかやんでしまっていた。
いいかげんここを離れないとそろそろ本気で不審者として通報されそうな気がしてきた修はのろのろと自販機の影から立ち上がる、でもその前に。
「電話ぐらい、いいよな?」
ポケットから緑色の携帯電話を取り出しアドレスから金城百合の名前を選ぶ。
いつもは愛おしいこの名が今はとても怖いものに思える、一息ついてからのコール音。
一回、二回目とコールが続き三回目がなろうとしたところで、その機械音は停止し代わりに狂おしいほどに美しい彼女の声が聞こえてきた。
「もしもし」
「あっ俺!桐村だけど」
いきなり動揺していることがまるわかりのトーンで話をはじめる修に百合はさほど驚いた様子もなくいつもどおりの冷静な口調で返してきた。
「うん。珍しいね、桐村くんから電話なんて。いつもは私からの方が多いいのに、どうかした?」
電話越しに聞こえてくるパシャパシャといた足音、まるで水面の上を歩いているかのような心地よい音色から察するにどうやら彼女も今、外にいるようだった。
「ああ、悪いけど時間いいか?ちょっと聞きたいことがあって」
「いいよ、でも用事があってあまり時間がないから手短にお願いね。ごめんね」
少し申し訳なさそうな百合に罪悪感を覚える、この純粋な少女に本当にこんな質問をしていいのかためらわれる。
だけど、修がこの不安から解放されるにはもうこの方法しか残っていなかったのだ。
「百合はさ、今付き合ってるやつとか、好きな奴とかいんの?」
「・・・どうしたの、桐村くん。急にそんなこと聞いて。なにかあった?」
少しの間を置き帰ってきた百合の声には明らかに少しの失望感が聞いて取れた、けれど修はそのことには気づかず話を続ける。
「いいから、いるのかいないのか教えてくれよ。時間がないんだろ?」
「それはそうだけど、こんなの簡単に言えないよ」
「どうして!?いないならいないって言えばいいだけじゃんか!難しいことなんて何もないだろう」
答えを渋る百合にいらだちを覚えた修はついつい口調が強気になっていき百合はそこでまた少し黙り込んだ。
「桐村くん、一旦落ち着こう。なんだか今の君とっても混乱しているみたいだし」
「俺は落ち着いてるよ。それより百合こそはぐらかさずに答えてくれよ。ただ正直にいないって答えてくれるだけでいいだから」
懇願、祈り、期待それらの思いを乗せた修の言葉は百合の、
「いるよ。私にも大切な人」
その言葉でキレイに引き裂かれ粉々になり無残に消え去ってしまったのだった。
「え、嘘、嘘だろ。なんでそんな嘘つくんだよ」
脳が揺さぶられたかのような衝撃、胸が痛み目頭にはじわりと涙が溜まってきていた。
「桐村くん、この話はまた今度にしましょう。ごめんね。もう切るね」
修の返答を待たずして声は止み再び聞こえてくるのは冷たい機械音だけ、まるで夢から覚め辛いだけの現実に引き戻された虚しさが体を支配していく。
虚しくコール音が響く携帯電話を水たまりへと投げ捨てる。
二・三回くるりと回りながら路面を滑り近くの電柱に当たり携帯は動きを止める。
すぐに拾うが画面は暗転しヒビが入っておりどのボタンをおしてもなんの反応もおきなかった。
完全に壊れてしまった携帯、それを見て修は思う、ああ、まるでこれは今の自分そのものだなと。
あの時答えを待たずに電話を切った百合、普段絶対そんな失礼なことはしない彼女、そんな彼女が起こしたいつもとは違う行動。
あの時百合が切ったのは電話だけじゃなく多分、修との関係そのもの流石にこれで絶縁状態なんてことはないだろうがそれでも元通りというわけにはいかないだろう。
そう一度壊れてしまったものは二度とは戻らないそんなこと修たちは身をもって知っていたはずなのに。
この携帯と同じだ修は自身の手で百合との関係を壊してしまった。
「終わったな。なんだ、これ」
固く握り締める携帯は水たまりに落ちたせいでわずかに濡れており、それはまるで修の代わりに涙を流しているようだった。
いや、あるいは唐突に絆を壊された百合の涙の代弁だったのだろうか?




