わかっちゃいるけど
わかっちゃいるけど…なんとなくわかっちゃいるんだけど…そんなお話。
社会人でも学生でも組織の中ではよくある話、巷では「怒られているのか、注意されているのか」は自分次第などと言われています。
社会人なら相手は上司か先輩か、学生なら先生か先輩か、はてさて、本当に自分次第なのか?
他に会社や学校で頻繁に聞いてしまうと危険な言葉「がんばれ」と「君の為を思って…」見本や手本もないままに言葉だけでこれを連呼する人物はどうなんでしょう。
「自分次第」なんて無責任、「がんばれ」なんて他力本願、「君の為」なんて綺麗ごとに騙されてばかりではいけません。
まず「自分次第」
第三者的な経験も実は結構前向きな思考を常とする人でも受動的立場に自分を重ねてしまうものです。
例えばドラマの中で主人公が上司役の俳優さんに失敗を罵しられているシーンがあったとして、どちらに感情移入しますか?
御贔屓のタレントさんが上司を演じていたとしても、物語の構成上たぶん、主人公側に感情移入する。
若しくは主人公がどう受け止めるか?自分があの状況だったらどう受け止めるのか?そう考えるのが当然です。
人の行動は受動的なものが多く、行動のきっかけとして状況を受動的に受け止める節があります。
もう少しつけ加えるとするならば、農耕民族としての発祥起源をもつ日本人は特にその感じが強く出ます。
理由はこうです、狩猟民族が食料を調達しようと思ったら、自ら獲物を探しに移動をしますが、農耕民族は食料の在り処は知っていますからただそこへ向かいます。
狩猟民族は自らの目的を達する為に主体的に移動し、行動しますが、農耕民族は実りを待つことで食料を得ます。
だからといって例題ドラマの主人公が農耕民族で上司が狩猟民族ですなんて詰まらない結論は出しません。
この場合は主人公が狩猟民族系なら「怒られている」と思い、農耕民族系なら「注意されている」と思うという結論でもありません。
人は客観的なシチュエーションの中でも、行動や感情を決定づけるのに簡単な方を選びがちだということです。
つまり、これが実体験上になれば尚更で、ピラミッド型の社会組織が人の世の常である以上、九割を超える確率で人は指示を受ける側に立たされます。
指示を出すという行動や、他人の行動を統率し、理由づけをするという行為は指揮者と勘違いしがちですが、殆どの場合その指揮者の行動に理由づけをした指揮者が存在しているということです。
切り取られた、一シチュエーションにおいて観察すると、前段の例題のように、発する側と受ける側に分かれているように見えますが、実はあの例題の中に登場した上司もタイムラグを付けて、受動的立場にいた、つまりは主人公の上司の上司に何らかの指示を受けていたと考えるのが普通で、そういうものだということは「わかっちゃいる」事ではありませんか?
とすれば、主人公と上司という関係を客観的に見せられた場合に端的に主人公側に移入してしまったら、それに対しての見識は非常に浅はかなものになってしまいます。
それを踏まえて、上司ないしは先輩と会話をした時に「怒られているのか、注意されているのか」はそれでも自分次第でしょうか?
上司または先輩がビジネス社会において部下または後輩と接するにあたり、ハッキリとした定義付けが出来ていない事、もしくは、指示する側が事象を正確に理解していない場合に起こるシチュエーションがこれではないでしょうか。
能力が低い上司や先輩によって使われる手法で「怒られているのか、注意されているのかは自分次第と他者に言わせ、更にその判断を「自分次第」という言葉で責任転嫁をさせている体のいい遣り口です。
申し訳ない話、介在して「どう思うかは自分次第」って言う人も責任転嫁の片棒を担いでしまってるんですけど、憧れている人などに言われるとついついその気になってしまうんです。
本来、ピラミッド型の組織においては報酬が上から下に流れる代わりに、責任が下から上に上がっていくものなんですが、腐敗していくと、報酬も責任も上から下に行ってしまい「蜥蜴の尻尾切り」なんて言葉が現実にならないように注意して、雰囲気に流されないようにしなければなりません。
勿論、指揮者の立場になったら、そう思われないようにしなければ、なかなか評価してもらえませんよ。
次は「がんばれ」
「がんばれ!」ってとっても素敵な響きに聞こえますし、悪い言葉ではないように思うのですが、いやらしい言葉だったりするので、あまり無責任に取り繕いや鼓舞する為だけに決まり文句として使うのは避けるべきでしょう。
しかも「がんばれ」という言葉の愚劣さを分かっているかのように、薀蓄を付け加えられる場合はもっと悪辣で危険です。
その名文句は「無理する事とがんばる事は違う」です。
如何にも道理を弁えているように感じてしまい、好人物と錯覚してしまいがちですが、まさに単なる錯覚でしかありません。
ただし、本当に理解している場合もあり、その場合は発言者当人が「がんばれ」と鼓舞した者を管理、観察し、保護している場合です。
ですから、親子や兄弟などの間で使われる場合は、条件に挙げた環境が整っているケースが多いので、基本的に問題はないと思われます。
この条件が満足に整っていない状況下で発せられる「無理はしないでがんばれ」は危険です。
なぜなら「がんばれ」の本質は個人の能力を最大限に発揮した上に他人からの鼓舞によって上乗せを望むわけですから、これほどに無責任な焚き付け文句はないように思います。
なぜ無責任なのか?そもそも能力には個人差があり、万民が同じ能力を有している訳ではないからです。
能力の違い、差が、そのまま優劣に結びつき、差別化に繋がる訳ではないと、予め断っておいた上で進みます。
現段階での能力=実力にどれだけ「がんばって」上乗せするかは本人次第です。
しかし、考えてみればおかしくはないでしょうか、人は水中で呼吸、酸素を取り入れられないが故に潜水時間には個人差があり、その能力は必ずしも肺活量に比例するわけではありません。
身体能力や体調にも影響を受けるので、単なる数値では判断できません。
ただ、潜水時間を延ばす方法として「がんばる」「我慢する」という手法があります。
恐らく自らの意思で潜水した場合は生命に危機が及ぶまで潜水を続ける人はいないでしょうし、その限界を知ろうとする人もいないでしょう。
もし「がんばれ」と言われたら、どこまで「がんばる」かどこまで「我慢」するかは個人的な裁量に委ねられ「がんばれ」と言った人の度量や人の能力を判断する為の技量や「無理はしないように」という基準すら「がんばる」当人に委ねられる訳です。
言い換えれば第三者が言うところの「がんばれ」=「きっかけを作って、応援するけど、それ以外の事は自分自身の責任の中で限界を見つけてください」と言っているようなものです。
「そんなつもりはない」と弁護しても「がんばれ」と言われた当人がそういう意味だと思わない以上はこれほど無責任に自分自身の能力の限界を知らぬままに行動を起こさせる言葉はないのではないでしょうか。
「がんばれ」と声をかける相手は特定の事柄の中、相当に己の能力を知っている人、例えばスポーツ選手の類などは当てはまったとしても、単なる社会組織内で不用意に「がんばれ」と言うことは、個人的能力を超え、時に限界すら超えさせてしまう非常に危険な言葉なのです。
会社や学校といった、生物的なグループではないグループ内では能力の向上を目的としている意味合いもあり、努力することで、能力の向上が図られているように思われがちですが、実は結果的な能力向上自体が能力であり、どれだけ努力するのかということ自体が個人の能力に他ならないのです。
その能力、すなわち個人の限界を知っている上司や先生、先輩が部下や生徒、後輩に対して「がんばれ」と鼓舞することは許されたとしても、個人の限界を知らぬままにただ「とにかく、がんばれ」というのは非常に無責任極まりない言葉だと言えるでしょう。
思わず使いたくなってしまう単語ですが、安易に使うと相手にとっては非情に思われ、苦しめてしまう、更には限界を超えさせて、知らず知らずに無理をさせてしまう悪魔の呪文だということを理解して使わなくてはなりません。
ある、事象、事例、業務内において個人の能力を個人の範疇、責任の中で最大限発揮させたいのならば「がんばる」のではなく、出来る事をやる、出来る事の具体的行動が指示し難い場合は「手を抜かない」という表現を使うのが相応しいのかもしれません。
最後に「君の為」または「君の為を思って」
人は誰しも自分が一番大事だと皮肉を言います。
それが全てではないことは、生命としての親子関係や恋人同士などには必ずしも適応できないですし、愛情という人独特の精神世界が自分よりも相手を優先させる決断をくだしてきた例がいくつも報告されています。
よって、ここでは「想う=愛情」ではなく「思う=考える」という後者について考えました。
実はすでに答えの一つを書いてしまっているということにお気付きでしょうか?
「君の為を思う」という言葉の音が対象者に対して安心感を与えてしまうというのが一つ目の悪です。
所謂、親などが子に注ぐ愛情を「君の為に想う」と表現することと同じ音を聞くことで、言われた側は過去に学習した安心感を思い出し、相手の本意を確認することなく、妙な親しみを感じてしまうからです。
そんな気は毛頭ないのに、対象者が安心して自分を信用してくれることから、社会の同一組織に属しているだけの軽薄な信頼関係の中では乱用されたりします。
もう一つの悪は「君の」という二人称を具体的に表現する事で対象者を絞り、さも特定個人への愛情のような錯覚に陥らせてしまうという点です。
さて、この言葉を使用する時に注意しなければいけないのは、真意がどこにあるか、間違っても「君の為」と発音しながら、脳内で「自分自身の為」なんて思ってしまったら、使用は控えた方が良いでしょう。
不思議なもので、自分が使用している時にはさも相手を思い遣って、全身の守護天使が神神しく光輝いているように、自己陶酔してしまいがちですが、言われる側に立たされると、意外にも滑稽に感じてしまったりしませんか?
裏表などというものは、隠そう、使い分けようとすればするほど醜い姿をあっさりと見せてしまいますので、単に自己保身の為に責任転嫁するならば、違う表現を使用しましょう。
そこまで悪になりきれないのであれば、正直に「君と私の為…」と本音を素直に言ってしまった方が誠意は伝わるというものではないでしょうか。
わかっちゃいるけど、なかなか難しいですね。




