雨
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(一)
雨はまだ降っていた。
ジュン・リー・ヤンの脳は考える。
狼のこと。肉のこと。森のこと。大好きなこの世界のこと──でも雨は嫌い。
ひょいと顔を上げると、巣穴にとぐろを巻いた湿気はいつまでも出てゆこうとせず、いよいよ腰をすえて居座る覚悟をきめていた。
少女はベタついた湿気に苛立ち、頭上を覆う死神みたいな雨雲を呪った。
少女はじっと待つ。
何億年もの昔から、少しも変わらずそうしているのだというように、湿った巣穴のなかで、外敵に怯える太古の虫みたいに息をひそめる。そっと。痩せた狼にくるまって。
彼女は狼の鼓動に身をゆだねる。
ジュン・リー・ヤンは狼が好き──狼も彼女が──でもあめはキライ……!
少女は空腹。
狼も空腹。
巣穴は湿気ている。
彼女は雨がきらい。
飢えた胃は肉を欲しがった。
だが脳は待てという。まだという。
飢えはすごすごと、仕方なく仔犬のように丸くなる。
少女のなかで、狼のなかで、カサカサに枯れたひだを胃液にさらしながら、ただ肉が落ちてくるのを待ちわびる──だがそれもわずかなあいだ。すぐにそわそわしだす子供みたいに、ときに咽び、泣きもしてかれらの脳をつつく。肉が欲しいとせがみだす。
やがて脳もあえぐ。おなかがすいたと少女をつつく。狼をつつく。
ついに耐えかね、少女は旨そうな赤いかたまりを想い、あわてて触手をひっこめる。
〈あめがやむまではダメ……!〉
脳が言い、別のことを考える。
たとえば狼の駆けているところ。
大地に根を下ろす樹木のように頼もしい脚を──またあまりに可愛らしく、頬ずりせずにはいられないクリクリした手! それが駆けるときには力強く地面をとらえ、グイグイとたぐり寄せては後ろに飛ばしてゆく。
鼻の先から尻尾にかけて波のようなうねりが走る。
そのうねりを目で追うと、波の生み出すエネルギーが効率よく四肢を伝い、地面に解き放たれる様子がつぶさにわかる。
〈キレイ……!〉
かれら以上に美しい存在を彼女は知らない。
その外見も、かれらのなかに息づくまっぐすな心の形も、すべてが愛しくてたまらなかった。
狼たちもまた、少女に対して同じ想いを抱いていた。
体中の細胞ひとつひとつの欲求を聞き分けるケモノのような少女の心も、やわらかな肢体やしなやかな感受性も愛し、受け入れ、崇拝していた。
それはとてもやさしく、つややかな想い。
飢えを忘れてしまうほどに強く。
少女は狼にさわりたい──そっと触れてほしい。
かれらも少女を感じたい──感じてほしい。
そうして少女は狼に、狼たちは少女につつまれ満たされる。
巣穴のなかの飢えはゆっくりと癒され、しじまに眠りを連れてくる……。
やがて水分が舞い降りる──静かな雪のように、夜半の小雨のように……。小さなジュン・リー・ヤンと、彼女を囲んでぐったりと横たわる、七頭の痩せた狼たちの上に……。
(二)
ジュン・リー・ヤンは肉のことを考える。
真っ赤なかたまりを想い、ドロリ曲がった岩々のあいだを裂脚猫みたいな身軽さで駆け抜ける。だが決して警戒は忘れない。
狼たちも駆ける。群れのなかでも若くて力の強い二頭が先頭を、経験を積んだ古老がしんがりを受け持ち、残りは均等に左右を陣取り大地を蹴る。少女を中心に一致乱れず風を切る。
ジュン・リー・ヤンは肉を想い、狼たちも考える。だが大半は警戒にあたっていた──風向きに変化はないか──空気の臭いはいつもと同じか──地面の振動に異変はないか。少女は持てるすべての知覚を研ぎ澄まし、彼女の欠けた能力を狼たちの本能で補った。
もちろん怪物も危険だが、ほとんどは「あいつ」に対する警戒だ。
《外》の世界からやってくる怪物とちがい、「あいつ」はここに──彼女たちの《縄張り》に何食わぬ顔で棲みついているのだから。
確かに「あいつ」の巨体は鈍重で、距離さえ保っていれば襲われることはない。実際、これまで狼の命を奪ってきたのは怪物たちだ。
だが「あいつ」が危険なことに変わりはないし、なにより得体の知れない巨体が自分たちの《縄張り》を勝手気ままにうろつき回っているのだ。それだけで警戒するに足る存在だった。
それに「あいつ」の動きが鈍いのは移動のときだけで、射程内への攻撃は驚くほど素早く、魔法も怪物たちよりずっと強力だ。
いつだったか彼女はいちどだけ、「あいつ」の暴れる姿を見たことがある。
「あいつ」はたったの一匹で──彼女の知る限り「あいつ」に仲間はいない。ほかにいるかもしれないなんて考えたくもなかった──たくさんの怪物の群れを相手にしていたのだ。
彼女はまず怪物たちの数に圧倒された。その数を表すのに彼女の両手の指だけでは不足で、両足を加えてさえまだ足りなかった。もっともそれ以上の数になると彼女には理解ができない。あとにも先にも、まとまった数の怪物を目にしたのはそのときだけだ。
それにも増して驚いたのは「あいつ」の強さだった。あの巨体がいざ攻撃の段になると、実は素早いのだということもそのときに知った。
「あいつ」はまるで地獄の業火から生まれてきたように残忍だった。怪物たちのどんな魔法も「あいつ」の前では玩具みたいにちゃちで無力だった。
「あいつ」の巨体は相変わらずふんぞり返った王様みたいに大仰な動作だったが、お尻に生えた細くて長い──それでも彼女や怪物たちからすれば巨大な柱のような──尻尾は、大気を切り裂くほどのスピードと破壊力を持っていた。「あいつ」の巨体よりも大きな──大地を割るほどの揺れにもビクともしなかった《石の塔》でさえ、その尻尾の一撃をくらってバリバリと折れた。
そして「あいつ」の口から吐かれるのは紅蓮の炎──この世のすべてを溶かし、焼き尽くす神の火だ。
およそ怪物たちの手に負える相手ではなかった。「あいつ」がひと振りする尻尾の風圧だけで、いちどにすべての怪物を殺せただろう。
だが「あいつ」はそうはしなかった。泣き叫び、逃げ回る怪物たちを、一匹ずつ丁寧に蚤でもつぶすような要領でもって、時間をかけ、周到に、確実に仕留めていったのだ。
ジュン・リー・ヤンは遠くから見守ったその光景をありありと思い出すことができる。怪物たちの体が醜くひしゃげ、内臓をぶちまけながら弾ける様子がはっきりと見え、体がつぶされるときのグチャリという嫌な音まで聞こえた気がした。
実際には「あいつ」が怪物たちの群れを蹴散らし、踏み潰し、枯葉のように焼き尽くしたのはあっと間のできごとだったにちがいない。だが彼女にはその戦慄が、永遠に続くように感じられた。
いずれにしても、そのときから「あいつ」の力は明白になった。
どこからともなく来襲し、いくたびも彼女を脅かし、そしてたくさんの狼たちを彼女から奪ったあの怪物を、まるで虫けらでも殺すみたいにあっけなく片付けてしまったのだ。
彼女はそれ以来、いっそう注意深くなった。
ジュン・リー・ヤンは警戒する。
その耳は高性能のアンテナを広げ、外敵のたてる物音に反応し、鼻はその臭いを感じ、大きな瞳は遠くで巻き上がる土煙をいち早く察知した。そして体中のうぶ毛は大気のわずかな振動も見逃さなかった。
もはや一匹の少女と七頭の狼の群れはひとつになり、疾風のごとく吹き抜ける。
鬱蒼と生い茂る枝葉をぬう血潮のように、早く、またゆっくり、ときには立ち止まって周囲を見渡し、目まぐるしく向きを変えて駆け抜け、飛び、あるいは地下を這い、音もなく肉のありかを目ざした。
*
たくさんの《石の塔》が天をつく勢いでそびえていた。
群れは乱立する塔の足もとをかすめる。
《石の塔》は高いのも低いのも、怒った針鼠の背中みたいに《縄張り》中から生えていた。
《縄張り》の外側のやつはほとんどが小さく、あまり頑丈でないらしく、折れていたり崩れていることがある。だが中心に向かうほど塔は健全で、大きさを増し、より高く高く延びていた。
群れは崩れた塔をくぐり、飛び越えながら《縄張り》の中心へと差しかかる。
中心に行くにつれ、塔の崩れも目立たなくなる。闇雲に立ち並ぶ塔はどれもきれいなままだ。ぴかぴか光っている。
だがそれらの塔にいま、魔法師たちの声はない。
かつて多くの魔女と魔法師たちが支配していたこの世界の光景を、彼女は思い出せないでいた。みんなどこへ行ってしまったのか知らない。今は彼女だけの世界。彼女と狼たちの《縄張り》だ。
ここにいるのは彼女──魔法師と魔女が産み、裂脚猫みたいに駆けるジュン・リー・ヤンと、彼女を慕う七頭の狼たちだけだった……。
それでも裂脚猫の少女は寂しくない。彼女には狼たちがいるから。
それに肉も(エサ、エサ……!)魔法師たちは残してくれた。
ジュン・リー・ヤンは赤いかたまりを想う。
肉は長いこと彼女たちを養ってきた。魔法師たちがいなくなったあとも奇跡の魔法を吐き出し続け、彼女たちに血と栄養を提供した。
肉はいたるところにある。そそり立つ《石の塔》に──地下を走る土竜の穴にも──そこいら中に肉はたくさんあるのだ。
彼女たちは「あいつ」の──肉を狙うという意味では怪物たちの──目を盗み、いつでも最短のルートで新鮮な肉を調達できた。
〈ニク・ニク……!〉
裂脚猫少女の脳は赤いかたまりに恋をし、その想いに狼たちも胸を焦がした。
群れはひたすら肉のありかを目ざした。
*
いくつもの道筋を経由し、群れは肉のありかのひとつにたどりつく。
今日は地下だ。地下を走る土竜の穴だ。
ジュン・リー・ヤンは古老と三頭の狼を見張りに置くと、残りを連れて地下へと潜った。
地下は石の段々が斜めに下っていた。
段々はボロボロにひび割れ、あちこちで崩れている。途中、ぷっつりと途切れている部分もある。それらを避け、飛び越えながらずんずん潜る。
やがて空気が冷たく、重くなってくる。
肉まではもうすぐだ。
狼たちは少女の脇をかため、彼女を警護する態勢に入った。ずるがしこくて油断のならない怪物たちを警戒して。
ジュン・リー・ヤンの《縄張り》には肉が豊富だ。そのありかを何らかの本能で嗅ぎつけ、怪物たちはやってくる。蜜に誘われる虫みたいに、どこからともなく次々とやってくるのだ。
「あいつ」ほどではないにせよ、怪物たちの魔法も少女や狼を殺すには充分な威力を持っている。あらゆるものを食べ尽くす、貪欲で危険な連中だ。動くものはなんでも喰らう《鬼》だ。肉だけでは飽き足らず、狼や少女でさえ食おうとする。
潜るにつれ冷えてゆく空気と地下の暗闇とが、少女の想像力にささやきかける。
足もとの闇から、無数の《鬼》たちの手が伸びてくるイメージ。
氷の手で心臓をわしづかみにされたようなショック。
少女は悲鳴をあげて立ち止まった。
消えたのち、さらに映像──真っ赤な顔をした《鬼》が、熱い息を吐きながらのしかかってくるシーン。それがフェード・アウトしてはまた露光され、消えながら浮かんでくる。その繰り返し。そしてスピードを増す。
──これはゆめだ……!
少女の脳が無意識にそう叫ぶ。
だが映像は消えない。
それどころか鮮明によみがえる──。
さらに悲鳴。
声には出さなかったかもしれない。
そして映像──
今では実体
彼女の記憶そのものだった。
腹を空かした《鬼》たちは彼女を食おうとする。一匹のときもあればたくさんいることもある。今はたくさんだ。
少女は叫ぶ、逃げる。
いつの間にかそこは地下ではなく、《縄張り》の外れにある森だった。
暗いのは夜のせいだ。
だが夜目のきくはずの少女は、恐怖から何も見えない。
つまずき、転げながら逃げ回る。でも敵はたくさん──狼よりもたくさんだ。数では勝てない。狼たちは足止めをくっている──助けはこない……!
彼女は追いつめられる。
たくさんの手が少女をつかむ。なげつけ、ふりまわす《鬼》たちの手、手──火のような息。
そして捕まる。
悲鳴──。
少女は叫ぶ。
死の予感──食われる……!
だが声が出ない。
たくさんの手が少女を押さえつける。恐怖が全身に貼りつく。痙攣のようにガタガタ震える。
遠くで狼たちの声がする。必死でその声に呼びかける──だが自分でもその声が聞こえない。口は動いているのにヒュウヒュウと空気しか出ない。
やがて狼の声も途絶える。聞こえるのは《鬼》たちの声。悪魔のうめき。
雷にうたれたような激痛が走った。
──死だ!
彼女の脳は思った。
怪物たちの顔がゆっくりとゆれ、また激しくゆれる。
少女は苦痛に顔をゆがめる──激痛は間隔を変えながら、くり返し少女のなかを走る。これが死だと思った。
だが苦痛はいつまでも続いた。
少女の体は弛緩し、ダラリとたれて動く気力さえなかった。
それでも死は終わらない。
激痛にあわせ、少女の口は壊れた機関車みたいに息を吐き、体は燃えるように発熱した。
少女は別のことを考え、死を忘れようとする──大好きな狼たちのこと。チリチリうぶ毛を焼くお日様の心地よさ。森のなかの可愛い仔栗鼠たち……。
それでも死は消えず、痛みは続いた。
耳もとでゼイゼイ息を吐きながら、雨のように次々とのしかかる怪物たち。ギラギラした《鬼》の目。
長いこと死にさらされ、少女の体は安物の人形みたいだった。
もうなにも映さない瞳はトロンとして焦点をなくし、単なる穴にすぎない口はゆれるたびにヒ、ヒ、ヒ、と奇妙な音を出し続けた。
少女は執拗に降る雨のような激痛に刺され続けた。なんどもなんども。くり返し──。
だが少女は食われず、死にもしなかった。
すべての悪夢が終わり、目の前がふたたび黒一色になって、彼女は思い出す。
ここはあの森ではなく地下の暗闇だ。いま自分はその穴ぐらにいるのだと。大好きな狼たちを引きつれ、恋しい肉のありかを目ざしているのだと思い出す。
狼たちが動揺して鼻を鳴らした。少女を気づかい、しきりに彼女の体に頭をこすりつける。
少女の膝はまだ震えていた。
でももう怖くはなかった。狼たちが一緒だから。
彼女は食われなかった──けれども痛みは残っている。死は消えない。夢のなかにまで現れて、何度でも彼女を殺すのだ。
狼たちは心配でたまらない。尾をふって機嫌をとってみる。体を寄せて慰めてもみる。
少女はかれらの体温にほっとする。次第に震えも消える。
かれらがいてくれれば怖くない。
なぜなら、かれらは死ぬまで少女を守るから。たとえ仲間が倒れようとも、そのむくろを乗り越えてでも敵に向かってゆくのが狼だ。それがかれらの義務であり、そして誇りだった。
ジュン・リー・ヤンは誇り高く猛々しいかれらをきれいだと思う。自分にぴったりと寄りそって走る狼たちが好きだ。生まれたときから寝起きを共にし、肉をくらい、遊び、なにをするのもいつも一緒のかれら。あらゆる瞬間を(死も……!)分かち合ってきた狼たち……。
そして──〈ニク……!〉
歩みはやがて速歩、そして駆け出す。
悪夢を生み出す闇は馴染みの静寂になる。
もう頭のなかには狼と肉しかなかった。
心臓のドキドキは恐怖でなく期待だ。
激しい喧嘩のあとにヒョッコリヒョッコリ跳ねる小鳥をみつけ、喧嘩のことも忘れて小鳥に集中する裂脚猫みたいな心で、少女は思い出した恐怖を忘れ、思い出したということさえ忘れてクスクス声をたてる。
元気になった少女をみて狼たちは嬉しい。
互いを想い、連動して警戒し、群れはひとつの生き物のように穴ぐらを下っていった。
長い下りが終わると、肉の部屋の入口が現れた。
群れは入口の前で立ち止まる。
すぐには飛び込まない。警戒は常に必要だ。
一頭が志願すると、注意深く部屋を探索する。
ほかの二頭は少女の両脇に鎮座して周囲の警戒。
のち、斥候の狼が冷気と安全を連れて戻ってきた。
二頭の狼は安心して少女を見上げる。
群れは部屋の内部へと向かった。
その入口には文字があった。
《E区画 第二十三倉庫 B棟》
※関係者以外 立ち入り禁止!!※
《EC極低温貯蔵庫》につきシステム操作技師以外の立ち入り、および貯蔵庫の操作を禁じます。
違反者には法的措置をとる場合があり、システム破損の有無にかかわらず、システム原価とその設置費用の支払い義務が生じる可能性があります。
──セントラル・シティ 政府食糧流通センター長
中へ入ると、部屋の奥には分厚い扉があった。
肉はさらにその向こう。頑丈な《魔法の箱》で守られていた。
ジュン・リー・ヤンの白い指先が動いた。
たくさんある小さな光る箱のひとつに向かい、魔法の指が凹凸をたたく。
狼たちは黙って見守る。かれらは少女の魔法の指が好きだ。素早く、よどみなくくり出される白い魔法の指。かれらが少女を最も崇拝したくなる瞬間のひとつだ。
少女には「あいつ」や怪物たちのような魔法はないが、代わりにこういった魔法が使えた。彼女が《縄張り》を維持できるのも、この魔法が使えるおかげだった。
第一の魔法が終了すると、小さな魔女は奥の扉に歩み寄った。
それから扉の脇に空けられた二つの穴を覗く。小さな彼女のために造られた踏み台に乗り、それでも少し背伸びをして突起の穴にすがりつく。
穴はブーンと低いうなりをあげて、少女の目玉を観察する。
カチリ。
音がして、《魔法の箱》は少女がここの主であることを認め、重たい扉をおごぞかに開いた。
中から霧のようなものが這い出してきて、少女たちの足もとを一瞬で冬に変えてしまった。
狼たちがそろってくしゃみをする。クスクスと少女の声。
少女は狼たちをその場に残し、ひとりで奥へと進んだ。
ここから先は主しか入ることが許されない領域だ。
そうしてようやく《魔法の箱》と対面できる。
箱から肉を取り出すにはさらに複雑で高度な魔法が必要だった。怪物たちには決して使うことのできない特別な魔法だ。
一連の動作の意味は彼女も知らない──いや、忘れてしまった。今では顔も思い出せない彼女を産んだ魔法師が──魔女だったかもしれない──いなくなる前に彼女に教えてくれたのだ。そして狼も与えてくれた。
やがてこの世界で、ひとりぼっちで生きてゆかなくてはならない娘のために。
そうしてすべての魔法を少女に教え、魔法の箱も少女だけに反応するように変えてくれたのだ。
《魔法の箱》は大きく、部屋のほとんどのスペースを占めていた。内部は真冬のように凍てつき、すべてが銀色に覆われ、きらきら光っていた。
ジュン・リー・ヤンは《魔法の箱》に近づくと、先ほどと同じように光る箱のひとつを前にして、箱の前部にせり出した、たくさんの小さな凹凸をたたき始めた。
《魔法の箱》はシュンシュンいう。少女はたたく。パチパチ、カタカタ、意味もなく、手が覚えている通りにたたく。いくつもの段階に分け、手順を変えながら。
すると、箱の番人が目を覚ました。
番人は言った。
こんにちは──
あなたはだあれ?
ここはどこ?
肉のありかによって番人はちがう。声も言葉も。
ここの番人はジュン・リー・ヤンのように透き通った少女の声。
だがジュン・リー・ヤンは急には喋れない。
錆びついたネジを回し、脳をこじあけ、それから頭のなかに埋もれた言葉をかき回し、ひっぱり出して、それらをパズルみたいに正しくつなぎ合わせなくてはならない。その作業はときを経て困難になりつつある。
少女は汗だくになり、ようやくパズルを完成させる。
呼吸をととのえ、声に出した。
「……あぁー・たぁしィ・はぁ……あーァ・た・しぃー。
こーこぉはぁーあーたぁァ、しーのぉ・おーうぅーちぃ……」
心臓がどきどきする。
いつもとちがう喉の感触。久しぶりのことば……。魔法を使う以外にはめったに口にしないことばだ。
自分の口が発したその音の意味を、すでに彼女は理解できなくなっていた。ほかの多くの言葉も、彼女はほとんど忘れてしまっていた。
でも魔法の言葉だけは決して忘れてはいけないのだ。
今の少女にとってはただの音でしかないのだとしても、肉を手に入れるための大切な《呪文》だ……。
ブンブンいって低くうなると、番人はそれきり黙ってしまった。
少女は呪文をまちがえたのではないかと、心配になってくる。
しばらく経っても、番人はただウンウンうなっているだけだ。
少女は落ち着かず、あちこち見回す。寒いはずなのに汗をかく。うつむいて、しきりに指先を噛む。まるで叱られて、自分のやった悪さを理解するまで許してもらえずにいる仔犬みたいに。
少女が叫びたい衝動にかられたころ、ようやく番人の答えが返ってきた。
──よくできました
あなたはあなた
ここはあなたのおうち
今日も肉は新鮮です──
ジュン・リー・ヤンはほっとする。
そして《魔法の箱》がその口を開いた──部屋の中に立ちこめる冷気よりもさらに冷たく、重い息を吐きながら。
わくわくして見守る少女の目の前で、箱の舌が一回分の肉を差し出した。
四角く切り取られた白いかたまりが、もうもうと湯気のようなものをたてていた。
──今すぐにでも引きちぎって口に入れたい!
少女の脳はそう思い、彼女の体をつき動かした。
顔を寄せ、旨そうな肉の匂いを嗅ごうとした。
《魔法の箱》はあわてて舌をひっこめた。
いけません!
お顔がくっついてしまいますよ!
番人がたしなめる。
ずいぶん昔に、自分といつも一緒にいた誰かみたいな口調だと思った。でもそれが誰なのか彼女は思い出せない。
もとより番人が何なのか、ということも少女は考えたことがなかった。番人が生き物でないらしいことは薄々わかっていたが、姿は見えないし、声もどこから聞こえてくるのかまるでわからないので、それ以上は考えることも、理解する力も彼女には残されていなかった。そもそも生き物とそうでないものの区別など、彼女につくはずもなかった。
ただ、その喋り方が妙に生々しいこと、そしておしゃべりだと感じるだけだ。
番人は言った。
短期は短命、
急行に善歩はないのですよ。
お利口さんは
黙って見ていましょう。
上のほうから細くて長い手がスルスルと降りてきて、ジュン・リー・ヤンの体をつかむと肉の箱から遠ざけた。
ジュン・リー・ヤンは歯をむき出してうなる。自分をつかむ手に噛みついてみる。手は見かけによらず力持ちで、硬い表面には歯型もつかなかった。
しばらく抵抗を試みたのち、手も足も出ないことがわかると、少女はおとなしくなった。
《魔法の箱》は、少女をつかんでいるのとは別の手を伸ばした。
箱の手は肉をつかむと、ゆっくりとした動作で、小さな別の箱にその肉を突っ込んだ。ジュン・リー・ヤンはもどかしくそれを見つめる。
入れ物はキンキンと悲鳴をあげて、肉からすっかり冷気を取り除くと、それを特別な包みに封じ込めた。
そうしてやっとジュン・リー・ヤンの手元に届けられる。
少女は手から開放された。
肉の包みに飛びつき、いそいで匂いを嗅いでみる。
匂いはしなかった。
そういう包みなのだ。巣穴に持ち帰るあいだ、肉の匂いを周囲に撒き散らすことのないよう考慮された、魔法の包みだ。
少女はがっかりするが、すぐに口もとがゆるむ。
包みを開けたときの、あのいっきに広がる強烈な肉の匂いを思い出す。顔は笑っている。仔栗鼠みたいにクツクツ声をたて、包みを抱えてぴょんぴよん跳ねる。自然と足も軽い。
気をつけて……
またのお越しを……
番人が寂しそうに言った。
その言葉は少女の耳には届かない。彼女の関心は肉だけだった。
ジュン・リー・ヤンは振り返らずに駆け出した。
包みはいくつもの小さなかたまりに分けることができ、それを七頭の狼たちに背負わせると、来たときと同じように、だが道筋をまったく変えて、群れは肉を巣穴に持ち帰った。
そうして手に入れた肉は、およそひと月あまり群れを養うことができた。
《縄張り》にはたくさんの《魔法の箱》があり、いつでも少女が肉を受け取りにくるのを待っている。群れが空腹で死ぬことはなく、当面の危険は「あいつ」と怪物たちだけだった。
今は腹を満たすことだけ考えればいい。
巣穴に戻ったジュン・リー・ヤンと狼たちは、夢中で肉をむさぼる。肉は公平に分配され、八つの胃袋を満たし、心地よい眠りを誘った。
少女は狼たちの毛皮にくるまって眠り、狼たちは少女に身を寄せて眠った。
安息の眠りはいよいよ深く、静かな雪のように群れに舞い降り、しっとりと小雨のように降り積もった……。
(三)
ジュン・リー・ヤンを呼び覚ますのは「あいつ」の咆哮。
少女は巣穴のなかでビクン、と身を縮めた。
それから自分の腕のなかにある、痩せた骨と皮とに気づく──痩せ細った狼たちの体……。
触ってみると自分の体も同じだった。わき腹にくっきりとあばらが浮いていた。
肉を食べたと思ったのは夢だったのか──あるいは飢えた脳が見た。
そしてまた「あいつ」の声。
遠く地の底から聞こえてくるような雄たけび。
獲物を見つけることができずに泣いているのだ。
ジュン・リー・ヤンは身を起こした。
きっと雨はまだ降っている。だがもうこれ以上は待てなかった。
肉がほしい──〈まっかなエサ……!〉
少女は立ち上がった。
狼たちが一斉に顔をあげる。クンクンと鼻を鳴らす。
〈おなか……すいた……〉
幼い脳がいう。
彼女の想いを狼たちは感じる。胸のうちに闘志がみなぎる。
狼たちは立ち上がった。
巣穴を出て駆けよう!
肉を目ざそう!
狼たちの意識は集中する。
(四)
外はやはり雨だった。
これは「あいつ」の涙なのだと、ジュン・リー・ヤンは思う。もしかすると怪物たちの涙かもしれない。
群れはずぶ濡れになって肉を目ざした。
巣穴を出てからずっと、少女の頭のなかでは警笛が鳴っていた──雨の日はとても危険。
雨は自分の気配や臭いを敵から隠してくれるが、同じように敵の存在もかき消してしまう。だからこんな雨の日には、じっと巣穴にこもって息をひそめる。
それも限界だった。空腹には勝てない。
少女は歩きながら、はるか上空に広がる灰色の雨雲を罵った。
腰をすえた雨足は予想以上に執拗だった。
濁った雨は容赦なく降りつけ、一歩ふみ出すごとに体温を下げ、見上げるたびに意欲を奪った。
少女の足取りは重く、狼たちの脚もおぼつかない。
雨の日は狼たちも無力だ。視界は届かず鼻もきかない。そして雨音はすべての気配を押し流してしまう。
いくぶんか狼より遠見のきく少女の視力と、狼たちの本能だけが頼りだった。
鼠みたいにこそこそと、群れは地をぬうように前進した。
ときおり、どこか遠くで鳴るサイレンみたいな「あいつ」の声が聞こえた。その方角を特定することはできず、また本当はすぐそばにひそんでいるかもしれなかった。
「あいつ」はよく、こんな天候を好んで徘徊するのを少女は知っていた。
雨は天がすべてに与え給うた最良の隠れ蓑だった。
(五)
「あいつ」だと思ったのは怪物の声だった。
狼がいち早く気づいてくれなかったら、少女は怪物の放った稲妻に焼かれていたかもしれない。
先ほど彼女が歩いていたあたりの地面が、煙をあげてブスブスと音をたてていた。
ジュン・リー・ヤンは身をひるがえして周囲に眼をこらす──だが怪物の姿をとらえることはできなかった。
まずいことに、近くには身を隠せるような場所がなにもなかった。
狼たちは少女の周りに円を作り、四方を向いて防御のかまえに入った。耳をピンと立てて警戒した。
ふいに、頭上をものすごい《風》が通り過ぎた。
ツンと鼻をつく臭気が漂う。
《風》は次々に少女たちの頭の上を吹きぬけた。
その《風》には怪物が乗っていた。
怪物たちの魔法だ。初めて見る《風》の魔法だった。
少女と狼たちは《風》に向かって歯をむき出し、威嚇した。
「オイ見たか! 見ろ、見ろッ! 人間だッ!!」一匹の怪物が吠えた。「犬だっ! 犬の肉にありつけるぞ!」別のが絶叫し、「おい──あのガキを見ろっ」叫び、「女だっ! 見たか!? あのガキ、女だぞ!!」とも言い、群れの頭上をかすめ、ぐるぐる飛び回り、口々に吠え立てた。
その顔はどれも真っ赤だ。狼を見る目は血走り、少女を見つめる目にはギラギラした輝きがあった。
夢に出てくる《鬼》と同じ目だった──遠い死の恐怖を思い出し、少女は身を硬くする。
怪物は全部で五匹もいた。
──これまでにない強敵だ!
狼たちは警戒する。
突然、一匹の怪物が音もなく少女の背後をかすめた。
キャン、と短い悲鳴。
少女が振り向くと、一頭の狼が円陣の外にはじかれ、宙を舞っていた。
狼はスローモーションで赤い飛まつを散らせながら、背中からドサリと落ちた。
少女は青ざめ、体が熱くなった。
倒れた狼の前脚から、赤い液体がドロドロあふれる。
少女はおぉおーと叫ぶ。
かれに駆け寄ろうとする──だがそれをほかの狼たちがとめた。
〈いってはだめ!〉狼たちの意識──かれらの想い。
皆で少女の体を制し、決して彼女を輪の中から出そうとしなかった。
少女は泣き叫んだ。
怪物は上空で反転すると、さらに倒れた狼めがけて突進した。
傷ついた狼は動かない。
そしてほかの怪物たちが見ているなか、少女と狼たちが見守るなか、どかんどかんと大きな音が炸裂した。
太陽が目の前に降りてきたような閃光が弾けた──。
炸裂したのは怪物の翼だった。
傷ついた狼が、負傷した自分の前脚とひきかえに、怪物の喉を掻き切ったのだ。
あっけにとられる怪物たちの目の前で、主人を失った《風》の翼が炎に包まれた。
翼は大地にひれ伏し、メリメリと火を噴いた。
そのかたわらで炎の照り返しを受け、皮一枚で胴につながれた怪物の顔が光っていた。だらりと垂れたその顔は、獲物を追いつめる歓喜の表情を浮かべたまま、自分の背中を見つめて笑っていた。
辺りは一瞬の沈黙に沈み、雨音だけが大きかった。
狼の前脚は途中からよじれるようにちぎれていた。そこから、ささくれだった白いものが顔を出し、赤い水が生き物のように流れた。
だがかれは立ち上がる。気高い狼の自尊心がかれを動かした。
悲鳴をあげてしまった自分をかれは許さない──自分を辱めた者を決して許さない。だからかれは苦痛に耐える。赤い筋を引きずり、三本になった脚でヨロヨロと仲間のもとに戻る。
そして自分が抜けた円陣の空白をふたたび埋めると、少女を脅かす敵に鋭い剣歯をむき出した。
少女の瞳のなかで、かれのうしろ姿がユラユラとゆれていた。
かれを抱きしめて泣きたかった。
だが今は、大好きな彼女の狼──美しく、とてもやさしい獣たちは、傷ついてもなお誇り高い戦士であり、少女の守護だった。
そして何度でも立ち上がるだろう。命果てるまで……。
ジュン・リー・ヤンの小さな胸が張り裂ける──少女のなかで言葉がはじけた。
だがそれは、よくわからない本能と反射神経とでできた原始的な昆虫のなかに、ある朝突如として芽生えた知性みたいなものだった。
野生の少女はわきあがった言葉を制御できない。
──いいのやめてそばにいて
やめてそばに
そばに
いかないでおねがい
だから
いやもう
なぜなぜ
なぜ
なぜ……
忘れていた言葉があふれ、動物みたいな少女の心をもてあそんだ。
少女はかれを抱きしめて泣きたい。
でもそれは叶わない。その行為はかれの誇りを傷つけてしまう。かれは決して望まない。わかっていた。
ただひとつ彼女に理解できること。かれにとってそれは死ぬよりつらいことだ。
彼女にはなにもできない。嫌というほど思い知らされてきたはずなのに──かれらの誇りは自分を守ることなのだと。それがかれらの望む死だ。それと知りながら自分はかれらとともにいるのだと。わかっている──だがどうすることもできない。
〈──守れ、退くな! 彼女を守れ! 守りぬけ!!〉
〈敵を引き裂け! 喉を引き裂け……!!〉
狼たちの想いが少女の全身をつらぬいた。
あふれる悲しみは幼い心を押しつぶそうとする。
彼女は必死で自分を支えた。
そして怪物たちが手にする魔法のさおを少女は見た。
彼女から狼たちを奪ってきた稲妻を吐くさおだ。狼よりも素早く飛ぶ稲妻だ。
怪物たちは手に手にさおを取り出していた。
こんな場所ではとても逃げ切れない。
狼たちが自分をかばって盾になることはわかっている──最後の一頭まで。
少女の心がはぜる──
強く、激しく、少女のなかに悲しみの雨が洪水となってあふれた。
(六)
怪物たちのさおが少女に向けられた瞬間だった。
雷鳴のような怒号が雨を横殴りに吹き飛ばした。
「あいつ」だった──。
いったいどこにひそんでいたのか、あるいはどうやってこんなに近くまで忍び寄ったのか、巨大な黒い龍がけたたましい雄たけびをあげて、突然現れたのだ。
シューシューと蒸気を巻き上げながら、黒い龍は身を躍らせた。
その巨体が信じられないほど静かに浮き上がり、舞い降りる。
星全体が身じろぐほどの振動。
龍は長い首をもたげ、ちっぽけな怪物たちの頭上にかざした。
そして咆哮──。
その声は可聴周波の束縛を超えて雨粒を沸騰させ、体の心まで直接ひびき、骨を粉々に砕いてしまいそうだった。
怪物たちは泡を食って無軌道に飛びまくった。少女たちのことなど忘れていた。
ジュン・リー・ヤンはその場を動かなかった。龍が動くものに反応することを彼女は知っていたから──もちろん利口な狼たちも。
少女と狼たちはじっと息を殺し、逃げ出す機会をうかがった。
怪物たちは龍の性質を知らないか、知っていても恐怖から忘れてしまったのか、なにかわめきながら蝿みたいにブンブン飛び回った。
そして一匹が口火を切ると、怪物たちのさおが立て続けに魔法を吐いた。
無数の魔法の稲妻が龍の巨体に飛びかかる。
凄まじい音をあげ、竜の体は炎と煙に包まれた。
怪物たちは嬉々として稲妻を吐き続けた。
しかし、炎と煙がおさまってみると、怪物たちの稲妻は黒い巨体に傷ひとつつけてはいなかった。
龍は地鳴りのように喉を転がし、一匹の獲物に目をつけると、その口をゆっくりと開いた。
龍の魔法が最初の犠牲者を血祭りにあげた。
標的となった怪物の体は、一瞬にして蒸発した。
灰を吹き飛ばすみたいに簡単だった。体液のひと粒にいたるまで目に見えて四散したようだった。その周囲の雨までもきれいさっぱりと蒸発し、その空間だけがぽっかりと穴が空いたように晴れた。
それは少女が知る炎の魔法ではなかった。目に見えないなにかが龍の口から吐かれたのだ。ジュン・リー・ヤンも初めて見る魔法だった。静かなところがまた恐ろしかった。ただ耳の奥に、《魔法の箱》が肉をやわらかくするときみたいな、キンキンいう振動だけが残った。
龍は次々と怪物たちを藻屑に変えていった。
いつかの戦慄の再現だった。
そしてすべての怪物が消えてなくなるまでに、そう長い時間はかからなかった。少女たちが逃げ出す暇もないほどに。
だが傷ついたかれには、それでも長すぎる時間だった……。
(七)
雨が降っている。根気強く、静かに。
これはかれの涙、ジュン・リー・ヤンの心は想う。そして自分の涙だと。
かれはもう赤い液体を流していなかった。流すほどの量も体内には残っていないのだ。
雨は確かに彼の涙だった。それが何に対しての涙なのかは少女にはわからなかった。ただ逝く前に、かれはそっと少女のほうを向き、音もなく鼻を鳴らした。元気よく地上を駆け回ったあとに、巣穴のなかで心地好い疲労感に包まれ、少女の腕に抱かれるときのような、穏やかな瞳をしていた。
少女への渇仰をたたえた水晶──花崗岩の結晶を持つひとみ。その瞳をそっとまぶたの下にしまいこむと、かれはもう息をしなかった──。
ひとしきり、安定して降り続く雨足よりも濃い水を流したあと、ジュン・リー・ヤンは黙って立ち上がった。
身につけていた布切れを脱ぐと、それをかれの亡骸にかけた。そうしてかれのそばにしゃがみこみ、地面を掘り始めた。
白い小さな指はすぐに赤く染まった。痛みは感じなかった。これ以上かれを雨ざらしにはできない。ただそれだけだった。もう龍など知らない。
土を掘る音と静かな雨音。
その音にまじってときおり聞こえる、ゴロゴロいう地鳴りのような龍の喉笛。
それらを頭の遠くに感じながら、少女は黙々と掘った。
狼たちは黙っていた。誇り高く勇敢な仲間の死と、その死に対する少女の悲しみを理解していたから。
ただ静かに、彼女のそばに整列していた。
そうして少女の前に垣根を作る十二の瞳は、じっと龍を見つめていた。龍が動けば身を呈して少女を守るつもりだった。
ジュン・リー・ヤンはかれを自分の匂いと一緒に埋葬した。
まだあたたかい狼の亡骸が土の下に収められても、龍は動かなかった。降り続く雨と同じ落ち着きで、少女の動作を見つめていた。
少女はゆっくりと龍を見上げた。なぜか恐怖はなかった。静かな、雨のような悲しみがあるだけだ。
それを合図にして、龍の頭が動いた。
狼たちの腰がスッと浮いた。いつでも飛べる体勢でかまえる。
だが龍は、ゆっくりゆっくり頭を地面に降ろす。狼たちの反射神経に火をつけない動きで、そろりと前に突き出した。
巨大な龍の顔が、少女たちのすぐ眼前にまで迫った。
狼たちが低くうなった。
ジュン・リー・ヤンはなにも感じなかった。かすかに、龍の頭を森みたいだと思った。
生きた森みたいな龍の視線が、裸の少女を観察する。
やがて声がした。
“パターン認識モード──走査完了……
《種別》──非政党者
《形態》──非武装
体内ノ、識別ビーコン……無シ
アナタ ヲ、非戦闘員ト認メマス……”
少女は驚いた。龍が言葉を話すとは知らなかった。
龍はなおも言った。
“コノ都市ハ
放棄サレマシタ──。
現在ハ、我ガ 公国ノ、
領土ト ナッテイマス……。
アナタ ハ、
コノ都市ノ
先住市民デスカ……?”
少女は答えない。思考が停滞していた。いったい何を言えばいいのか。何を思えばいいのか。
龍はしばらく待ったが、少女が何も答えないので、言った。
“……我ガ 公国ハ、
難民、及ビ
亡命ヲ、受ケ入レテ イマセン……
保護申請ハ、最寄リノ
《赤十字事務局》マデ、オ願イ シマス……
ソレデハ、私ハ 巡回ノ
途中デスノデ……
コレデ、失礼シマスヨ……”
壊れた龍はゆっくりとその場を立ち去った。
その巨体をゆさゆさと、億劫そうに移動させながら。
そうして狂った龍の唄うようなつぶやきが、くすんだ廃墟の都市に遠ざかった……。
“生命ヲ維持シ、促ス モノハ、善デアリ……
生命ヲ破壊シ、阻ム モノハ、悪デアル……
我ガ公国……戦イ……聖戦ナリ……
ソノ理想……真ノ……平和……
清浄ナ……デ……アル……
ドチラ様モ……我ガ……公……国……
賛同ヲ……”
少女たちは龍の姿を見送った。
あの龍がなぜ自分たちを襲わなかったのか、ジュン・リー・ヤンにはわからない。龍がなにを言っていたのかも……。
ともかく助かったのだ。それだけは理解できた。
今日を生き抜くこと──黄昏たこの世界で、彼女たちに確かなのはそれだけだ。そしてそれで充分だった。
少女は足もとに視線をおとす。
少女の脳は感じる。
かれもそう思っている。生きろと言っている。
ジュン・リー・ヤンは歩き始めた。肉を調達しなくては……。
裸の少女は歩いていった。うなだれた六頭の狼たちを連れて。
その姿がはるか向こうに煙るころ、少女はいちどだけ墓標のない墓を振り返った。
そうしてやがて、見えなくなった。
雨はまだ降っていた。
閲覧ありがとうございました。
ハードSFを書くだけのおつむがないので、感傷だけで押し切った作品です。
もう少し詩的なパートを入れたかったのですが、やりすぎて間延びするのが怖かったので自重しました。