青い薔薇のルクレティア番外編 終わりを告げ、連鎖が始まる日 (主人公:アリストフォン。2011.11.21)
廊下側の扉の脇に、一つだけ椅子が置かれる。
その椅子は邸のものであるが、椅子に座る、既に主のような存在は、白金の髪と紫の瞳を持つ青年だった。
運びやすい、けれど貴族が好む装飾のなされた食堂用の椅子に、そうして今日も青年 アリストフォンは腰をおろす。
彼は手に持つ一輪の青い薔薇を見つめ、目を細める。いつも贈り物として携えるそれは、扉の向こうにいる娘に向けて。
「こんにちは、ルクレティア」
耳を澄ますように目を瞑って囁く。
しかしながら、部屋の主から返答はない。いつものことだった。
それでもアリストフォンはルクレティアに語りかける。それも、いつものことだ。
「今日は天気がいいね。ここへ来る途中、馬車から街の子どもたちが菓子袋を持って駆ける姿があったよ。みんな楽しそうだった。あの菓子は多分、街で評判の店のものかな? 僕が街の情報を仕入れているなんて不思議だけれど、君のもとに通うようになってから、ここで働くみんなと言葉を交わすようになったんだ。彼らは物知りだね。僕たちの知らない、街でおいしい店をたくさん教えてくれた。いつか、ルクレティアと一緒に行きたいな」
笑い含む声は、どこまでも甘い。願いと望む未来を夢見るように。
青年は、いつかのルクレティアと歩む将来を信じて疑わなかった。それを傲慢にも思い自嘲するも、確かに彼女は自分を愛してくれていたと知っているから、夢みることに疑問など抱かなかった。
「こんにちは、アリストフォン様」
若い女の声に、それまで浸るように目を閉じていたアリストフォンは瞼を押し上げる。目の前に立っていたのは、水差しを持った侍女だった。
ルクレティアの身のまわりの世話をする侍女は、今、彼女がどうしているのか知っているだろう。他の使用人たちも、ある程度は把握しているはず。
そんな彼女らは毎日ルクレティアに会いにくるアリストフォンを歓迎し、扉の前に居座るのを追い払うことなく、むしろ椅子まで用意したというのに、なぜかルクレティアの様子を語ることはなかった。
アリストフォンは訝りながらも、無理に聞き出すことはできない。誰もが口を噤むということは、ルクレティアに関する情報は緘口令が布かれている可能性が高いのだ。もとより彼女は、邸の中で疎まれる存在。使用人の態度をみれば、彼らからは決して嫌われていないとわかるからこそ、アリストフォンが無理に聞き出し、それが邸の主に知られることでルクレティアの信頼できる人たちを解雇されるわけにはいかない。
だからアリストフォンは「こんにちは」と微笑みながら、扉を開いて奥へと消える侍女を、ただ黙って見送った。
侍女とルクレティアが言葉を交わし、それが漏れ聞こえたらいいな、とアリストフォンはわずかな期待を寄せて耳を澄ます。人としてどうかと思われる行為だが、ルクレティアの欠片だけでも感じたかった。そうやっていつも耳を傾けるのに、不思議と彼女の声が聞こえてくることはなかったけれど。
――突如、ガシャン、という硝子が割れるような鋭い音が耳を劈く。
アリストフォンは驚き、椅子から腰を浮かすと、閉じられていた扉が勢いよく開き、口元を押さえた侍女が飛び出してきた。
邸で走ることを禁じられているはずなのに、侍女は駆け去っていく。
「……なにか、あったのか?」
誰がいるわけでもないが呟いてしまったのは、すれ違う拍子に見た侍女の蒼く、恐ろしいほどに動揺した顔に、不安が頭をもたげたからだ。
侍女が出て行ったルクレティアの部屋。扉は開け放たれたまま。
理由がわからないままに心が逸る。アリストフォンは、一歩、また一歩とかつて逢瀬のために通った部屋へと足を踏み入れた。
明かりは、窓から射す月光のみだった。
先ほどまで時を忘れるように青年は語り続けていたが、どうやらいつしか月が昇っていたようだ。
ほの暗い明かりに、今宵は満月だったか、とぼんやり思いながら、部屋の中を見渡す。
見慣れた部屋。化粧台と、卓に置かれた花瓶。その花瓶に活けられた花は、枯れかけのものから艶やかに咲くものまで時系列が様々な、青い薔薇だった。もしかしたら、日々ルクレティアにアリストフォンが一日一輪ずつ贈っているものかもしれない。そこに、今持っている青い薔薇も加えた。
最後に、二人で身体を重ねた寝台へと視線をやると、そこは天蓋がおろされていた。
部屋の主は、見当たらない。時刻は既に夜。ともすれば、その寝台で眠っていると考えるのが当然ともいえた。
寝台との距離を、縮める。耳のすぐ傍に心臓があるかのように、激しく脈打つ鼓動が鼓膜を刺激した。
寝台の天蓋が目の前となったあたりで、靴にあたるカチャ、という音に視線を落とす。
硝子の破片を踏んだようだ。目を凝らしてみれば、それはルクレティアの侍女が持っていた水差しと同じ形をしている。……割れたそれから流れた水が床を濡らしているあたり、きっとアリストフォンの考えは間違っていないのだろう。きっとそこに侍女が駆けた理由があるはずだ。
「――ルクレティア……?」
なぜか、声が震える。まるで恐れる未来を予期するかのごとく。
割れた水差しのことを忘れ、天蓋を分けた。
――ルクレティアは、そこにいた。
瞼をおろし、青い瞳を秘めて、音もなく眠る。黒く艶やかな髪は記憶のままだった。それなのに――記憶にある彼女と、どこかが違っていた。
久々の再会に、違和感を抱きながらもアリストフォンは口元に笑みを刻む。ずっと我慢し押し止めていた感情が、決壊して溢れ出す。心が震えた。浮かべた笑みも、切望するように歪んだものになった。
眠る彼女は、アリストフォンを拒まない。それをいいことに、アリストフォンはルクレティアの白い頬に手を伸ばした。
「ルクレティア」
名を呼び、頬を包む手の親指で何度も輪郭をなぞる。
違和感は少しずつ明確になっていった。どうしてか、ルクレティアは少しのぬくもりを持ちながらも、それは人の平熱よりも幾分低い。
「……ルクレティア?」
もう一度彼女の名前を音にし、両手でルクレティアの顔を挟んで己の顔を寄せた。
そうして、気づく。
(……呼吸を、していない?)
口からも、鼻からも。
血の気が引く。アリストフォンは、自分の体温が急激に下がるのを感じた。
「ルクレティア」
身体の線を辿って、頬にあてた手を彼女の両肩まで下ろし、揺さぶる。
「ルクレティアっ、ルクレティア、起きてくれ! ルクレティア――っ」
喉の奥で声が詰まる。鈍く痛むのは、どうしてなのか。胸が重く、切り裂かれたように痛むのは、なぜなのか。理由を察していながら、認めることなどできなかった。
「ルクレティアっ!」
叫ぶようにして身体を揺すれば、首元の大きく開いた夜着が肩から滑り落ちる。
そして現れたのは、幾多のみみず腫れだ。服で見えなくなる場所にだけつくられた、傷跡。
アリストフォンはルクレティアを解放し、傷に指を滑らせる。
ただ、茫然とした。そうして言葉を失って佇んでいると、背後で急く足音が聞こえる。
魂が抜けたかのように立つ青年を、現れた者たちが後ろへ下がらせた。
頭は真っ白に染まって働かなかったが、アリストフォンの目は確かにめまぐるしく変化する様子を捉えていた。
白い髭の白衣を着た老人が、布団に隠れたルクレティアの手をとりだし、脈をとる。老人の背後に控えた、先ほど部屋から駆けだした侍女が、震えながら懇願する。
「先生、お願いします……お嬢様を助けて……っ」
泣きそうになりながらも、顔をゆがめるだけでそこに涙はない。
医者と思しき老人は、しかし侍女の願いを裏切った。――首を、ゆっくりと横に振ったのだ。
「お嬢様ぁ……」と涙を流して床に膝をついた侍女の姿に、ようやっとアリストフォンは意識を戻す。それでも、言葉にできたのはただ一つの疑問だった。
「……どう、して?」
老人は溜息を吐くと、ルクレティアの肩から覗く傷に視線をやった。
「身体に残る傷から菌が入ったのでございます」
しかしその傷は、アリストフォンがルクレティアと閨を共にした時に見たことがない。一目見れば、折檻で鞭打たれた傷であるが、彼女は常日ごろそうした仕打ちを受けていたわけではないはずだ。
ゆえに、その傷がいつのものか問えば――それは、ルクレティアが襲ってきた男に傷害を負わせた日だとの返答だった。
つまり、ルクレティアの死は、あの日の出来事が要因だということ。――アリストフォンが、ルクレティアの伸ばす手を拒んだ、あの日。
目の前が絶望に染まる。足元が崩れ落ちる感覚は、彼女を失ったこと、望む未来が叶わなくなったこと、罪悪感と自己嫌悪、それに悲愴からだ。
アリストフォン自身、彼女の死のきっかけになったと自覚している。胸苦しさの一因ともなるほどに。けれど――ルクレティアを責める気持ちまでも湧きあがった。
あまりに自分勝手な感情。それでも、心の昂りは制御できても、あらゆる感情が生まれ、育むことまで思い通りになるわけもない。心を殺さない限り、感情は勝手に生まれるものなのだ。
ルクレティアを責める権利など、アリストフォンにはない。そもそも、怪我から病になったのだから、ルクレティア自身ではどうしようもなかった。そうと知りながらも、やるせないほどに心の中は乱れ、黒く暗く澱み渦巻く。
――どうして逝ってしまったのか。
――どうして自分を置いていったのか。
溢れる後悔と苛む感情は、ルクレティアが死んだことによって生じた狂気と一体化した恋情。
精神的な苦痛を耐える様にしていたアリストフォンだったが――不意に彼の脳裏に過ぎったのは、御伽噺だった。
魔女と王の悲恋。青い薔薇の昔話。
少しずつ、少しずつ――アリストフォンの狂うほどの愛はその姿を形成していく。夢の敗北と行方を失った愛情は、来世への可能性へと歪んで形を変えた。
――彼女とまた逢うために。
――彼女を今度こそ幸せにするために。
けれど、ルクレティアを幸せにするのは、自分でなければ嫌だった。
――次の生では、どんな障害があろうと、彼女と共にあるために尽くそう。
――そのために、来世に託すのだから。
部屋に響く嗚咽の中、アリストフォンは歪に小さく笑う。
しばらくして、老人は少しの落ち着きを取り戻した侍女に、共にルクレティアの両親に彼女の死を知らせようと、仕事を促す。侍女の仕えるべき存在が死した今、ルクレティアの侍女としての仕事は多い。
「では、報告に行って参ります。できるだけ早く戻りますゆえ」
そう言い残して二人が退室し、扉を閉めた音を聞くやいなや、アリストフォンは扉まで歩むと施錠した。彼の目的が果たせるまで、部屋に誰かが近寄られては困るのだ。
ついで、花瓶に活けられた青い薔薇を一輪とり、再び寝台へと戻る。
御伽噺では、王は魔女と青い薔薇の蔦で手首を巻いたとあったが、残念ながら花瓶の薔薇はどれも活けるために長さを整えてある。手首に巻くのは不可能だ。
ならば、とアリストフォンは代用品を探す。
呪いが青い薔薇に秘められた魔法によって成功するのなら、それさえ添えれば呪いは成立するはずだ、と不思議にも確信していた。
見つけたのは、天蓋を纏めるための紐。金が織り込まれるそれを手にとる。
「ルクレティア、ずっと一緒にいよう」
ルクレティアが眠る寝台に腰掛け、護身用に持ち歩く、紋章と装飾の入った短剣を取り出した。利き手に近い方に置くと、次は天蓋の紐でルクレティアの手首と自分の手首を手錠のように結び合わせ、そこに青い薔薇を差し込む。
――これで、準備は整った。
アリストフォンは先ほど浮かべたものとは異なる、穏やかな微笑を刻む。――その利き手には、短剣を持って。
そして彼は短剣の鞘を抜くと、迷うことなく自身の、必ず死ねるだろう場所――首へと刃を向け、一気に突いた。
彩な赤が、アリストフォンの視界に散る。
激痛は、熱すらも帯びたように感じ、けれど倦怠感にも襲われた。
唯一失敗したと思うことは、ルクレティアまでも血で濡らしてしまうことだった。
――ごめんね、ルクレティア。
しかし、声は出ない。口を緩慢に動かすだけだ。
そうしてだるさを覚え、横たわる。ルクレティアの顔をのぞきこむように倒れこめば、肌を重ねた夜のような感覚に溺れる。
――あの夜も、眠るルクレティアの顔を飽きず見つめていた。
寝台から流れ落ちる血の音。それまで暗かった部屋は、一瞬にして赤く染まっていく。
アリストフォンに迷いなどなかった。躊躇いもなかった。ただ、次こそは共にあることを願った。
――愛しくて恋しくて仕方がない。
かつて、彼は貴族であるために、地位を手に入れるために、高位身分の女と結婚することを望んでいた。その考えをいとも容易く覆したのは、ルクレティアただ一人。男児のいない貴族に婿とならなければ貴族ではあれなかった。だが、ルクレティアには弟がいた。彼女を選べば、アリストフォンは平民になる。でも――それもいいと、思った。
しかし、それから気づいたのは、貴族でなければルクレティアと会うこともかなわないという可能性。怖かった。世間知らずの彼女が、平民となることを望むだろうかと。
だから、アリストフォンは政略結婚を望んだ。婚姻で結ばれずとも、ルクレティアと逢えるならば構わなかった。政略結婚など、惑う理由になりはしなかった。
けれど、ルクレティアが望んだのは――。
重くなる瞼を、最後の力を振り絞って押し上げる。最期まで、視界も記憶もルクレティアで埋めてしまいたかった。そうすれば、きっと呪いは成立すると信じたかった。
――これが、神が定めた運命だというのなら、神を裏切っても構わない。望みが叶うというのなら、悪魔に身を委ねたとしても後悔するなどありはしない。
――ルクレティア。
そう心の中で囁いて、アリストフォンはそっと笑み、目を瞑った。