青い薔薇のルクレティア番外編 2.幼い日 (2011.10.11)
ルクレティアと初めて出逢ったのは、五歳の時だった――。
伯爵家には二人の姉弟がいたが、その姉弟が顔を合わせる機会は設けられていなかった。
父は邸のことに無関心で、母は姉ルクレティアと弟ディオクレスを会わせたくなく、故意にそう仕向けていたからに他ならない。
母の愛は、父とディオクレスに向けられていた。その反動か、ルクレティアを”魔女”と蔑みながら。
母は父を一途に愛していた。しかし、父には愛人がいた。愛人は特定ではなく、ころころかわっていたようだが、浮気には変わりない。母がディオクレスを受け入れていたのは、彼が跡継ぎであることが理由であり、ルクレティアが憎まれるのは、偶然父の浮気現場を目撃した時に見た愛人の容姿が黒い髪の娘だったからだろう。
母はディオクレスさえいれば、父はいつか自分のもとに戻ってくると考えていた。ゆえに、ディオクレスの教育環境は厳しかった。
幼い頃からつけられた家庭教師はまさに母の望む厳格な人間であった。彫は深く三白眼な目元、薄い唇が彼の神経質な性格を見事に表している。彼の手には、いつだって鞭が握られていた。
少しの間違いや失敗に、躊躇いもなく振るわれる鞭に手加減はない。自由な時間などほとんど与えられず、一日の多くを家庭教師と過ごした。
ルクレティアと出逢うまで、ディオクレスの幼い頃は灰色に染まっていた。
――それは、ディオクレスにとって運命にも等しい出逢いだった。
いつものように鞭を振るわれ、家庭教師の眉が動くわずかな機微でさえもディオクレスの心臓は早鐘を打つ。
当時、五歳だった。
まだ幼い彼であるが、家庭教師が求めるのは大人となんら遜色のない立ち居振る舞い。教養まで大人と同等のものを求めることはなかったものの、彼は常に上を目指した。
ディオクレスは息が詰まる思いだった。まるで水の中に沈められているような、苦しさと心が凍るような寒々しさ。けれど、それを助ける者はいない。使用人の中に女主の意向に盾突く者などおらず、誰もが静観を決め込んだ。同情の目が向けられることはあれど、誰も手も口も出さないのなら、ディオクレスにとってはないも同じこと。
そんな日常に飽いたある日、ついにディオクレスは逃げ出す。
幼い彼の小さな世界。親に連れられ馬車に乗って遠くへ行ったことはあるけれど、それを除いた彼の世界は邸の中だけである。逃げると言っても、所詮は伯爵家の敷地内だった。
それでも、逃げた。逃げられると、信じていた。
そうして足を向けたのは、むせるほどに薔薇の香る庭園。
普段、なぜか使用人たちから近寄ってはいけないと言われていた、青い薔薇が咲く一角。赤や黄色や白い薔薇が咲く場所に赴いてもなにも言われないのに、どうしてか青い薔薇が咲くそこだけは禁じられていた。だからこそ、少年はそこに隠れれば見つからないと考えた。
ディオクレスの背丈よりも高い、青い薔薇の生垣に沿って少年は忍び歩く。邸から見えず、かつ大人の目線からは死角になりそうな空間を探す。だが、よく管理されたそこに隙間などあるはずもなく、かわりに見つかったのは茶を楽しむための小さな空間。薔薇の生垣は円形の空間を生み出し、出入り口は二箇所。ディオクレスの日常とかけ離れた、青い薔薇の異空間に、それまでの緊張を忘れて胸が躍る。
円の中心に立ち、深呼吸した。
――自分の居場所を見つけたと、思ったのだ。
芝に腰をおろし、空を見上げた時だった。
かさり、と音がする。ディオクレスがその空間へ訪れた時とは異なる、もう一つの出入り口からだ。
冷や汗がじわりと浮かぶのを感じながら、人の気配へと振り返った。
「はじめまして」
ディオクレスの存在を認めた直後、驚きに目を瞠っていた少女は、表情を強張らせながら笑んだ。
現れた少女は、背に届く黒髪を持っていた。なによりディオクレスが驚いたのは、彼女の瞳がそこに咲く薔薇のように、鮮やかな青だったこと。
まるで青い薔薇の妖精かと思った。
彼女は自らを”ルクレティア”と名乗る。なにやら自分の存在を知らないことに目を丸くしていたが、それはディオクレスにとっても同じだ。彼は彼で、自分の存在を知らない者が邸にいるとは思わなかった。
これまで出逢うことも、間接的接触をすることもなかった彼ら。ディオクレスは自分に害をなすことも、自分の存在が彼女にとって損にも得にもならないことを悟り、心を少しだけ開くことにした。
――話をしてわかったことは、彼女が人になれていないこと。それでも、独りに寂しさを感じていたということ。
どこか自分と重なるものを感じた。
ディオクレスよりも大人びた雰囲気を持つ少女。彼女はどこか受け身がちで、聞き上手だった。だからこそ、少年は気がつけばルクレティアに愚痴をこぼしていた。今まで誰にも吐けなかった本音。口にした時、心が清々しくなっていたことに気づく。
そして、その日を境に少年は青い薔薇の庭園に通うようになった。
ディオクレスにとって、ルクレティアは麻薬のような存在だった。一度知ってしまえば甘美で、時間の感覚は麻痺したように失われる。彼女と過ごす時間は心が軽くなるからか、浮遊感すら覚え、手放すことなどできず、時間の経過と共に依存は強くなる。
いつしか少女は、少年が心を許す唯一の存在になっていた。
時の流れは、ディオクレスに真実を教える。
それから成長した少年は、既にルクレティアの正体に気づいていた。彼女の口から明かされたことはない。しかし、条件を照らし合わせていくと、おのずと答えが出たのだ。
庭園に日中いられる若い娘。ルクレティア本人の口から告げられた年齢は、ディオクレスよりも五歳ほど年上だった。使用人の服を着ることはなく、上質な生地のドレスを纏う。黒髪を飾る装飾品は彼女が貴族である証であった。他、彼女の荒れることなく肌理細かな手や手入れの怠りを知らない濡羽色の髪。これらの情報は、ルクレティアが伯爵家の娘であり、ディオクレスの実姉であることの証拠となる。もし、彼女が庶子だったとしたなら、邸から追い出されていただろうから。
ディオクレスはすべてに気づいてからも、ルクレティアに会いに行く。
使用人が知れば、いい顔をしないだろう。両親もいわずもがな。
知りながら、こっそりと逢瀬を重ねる。
かつて、愚痴ばかりを少女に零していた彼は、今では面白い話題をかき集めて彼女に話すようになった。それは、彼女の笑顔を見たかったからだ。いつからそう思ったのかは、もう憶えてはいない。ただ、一日の内でルクレティアが笑む割合が増えればいいと願った。そしてその笑顔を自分に向けてほしかった。
そう思う理由に、ディオクレスは知らぬふりをする。
ルクレティアはディオクレスの実姉である。だが、彼にとって彼女は家族ではなかった。邸の中で顔を合わせることはなく、家族だと紹介されてもいなければ、幼い頃から家族として過ごしていたことすらない。琥珀色の髪と灰色の瞳を持つディオクレスとは、容姿も似ていない。
だからこそ、実姉と察していながら、ディオクレスは彼女を”ルチア”と呼んだ。”ルクレティア”と呼ぶより親近感があり、”姉さん”と呼ぶより距離を置くことができる愛称。
彼女は、親友であり、異性だった。
ルクレティアにとって彼がどのような存在だったかは知り得ないが、少なくとも、ディオクレスにとっては。
そんな日々を過ごしていたが、やがて、別れの日は近づく。
ディオクレスの寄宿学校入学が決まったのだ。
初めから入学することはわかっていたから、ディオクレスが驚くことはない。気がかりは、ルクレティアと離れることだけだった。
ある日、ディオクレスは使用人にルクレティアのことを尋ねた。すると使用人は、それまで彼女に関しては緘口令が敷かれているかのごとく口を噤んでいたのに、突如として饒舌に語った。ルクレティアの存在を隠すことを命じられていたのだろう。
そこで知った真実は、邸の中での迫害だった。
母は、実の娘であるルクレティアを魔女と罵る。使用人によれば、母は父の愛人と姉が重なって見えているのだという。偶然見てしまった父の愛人。頻繁にかわる浮気相手にも拘らず、母が偶然目撃した女は黒髪だったらしい。その愛人の黒髪とルクレティアの黒髪、たったそれだけの共通点だった筈である。けれど、母はルクレティアに国に伝わる王と魔女の御伽噺をさらに重ねた。魔女に誑かされた王の姿が父に見えたのだろう。そうして、母はルクレティアを魔女と呼ぶようになった。本来ならば、浮気をしている父にその憎悪をぶつければいい。しかし、母は父にぶつけられず、かわりに身近な彼女に怒りをぶつけ、己を保っていた。
そんなルクレティアは夜会にも滅多に出る事が許されず、従って邸の外の世界をほぼ知らずに過ごす。
まるで、邸に閉じ込められているような彼女。邸という大きな鳥かごは、いつまで彼女を囚われの身にさせるのか。
その事実を知ったディオクレスは、一つ、誓いを立てた。
(いつか、俺が解放するから)
寄宿学校を修了し、伯爵家当主になった、その暁に――。
ディオクレスが寄宿学校へ向かう前日、彼はルクレティアに会うため、いつものように青い薔薇の庭園へ赴く。
案の定、その日も彼女はそこにいた。
ディオクレスは誓いについて口にすることなく、寄宿学校へ入学すること、ゆえに今後会えないことだけを告げた。
――待っていてほしい、とは言えなかった。
自分こそが彼女の枷になりたくはなかったから。
「いってきます、ルチア」とディオクレスが言えば、ルクレティアは「いってらっしゃい」と微笑んだ。
――だから、いつの日か「ただいま」「おかえり」のやりとりができるのだと、漠然と信じていた。
+ + + + + + + + + +
寄宿学校に入学してから、数年という時が流れた。
その間、実家と必要最低限の文は交わしたが、それ以上のものはなにもない。ルクレティアへも、手紙を出すことはなかった。母が彼女に渡すことはないと予想がついたからだ。母の愛は、ルクレティアを除く家族に向けられている。従って、ディオクレスがルクレティアに手紙を出せば、母は嫉妬で彼女にさらなる八つ当たりをするかもしれない。それだけは避けたかった。
実家に比べれば過ごしやすい寄宿学校。気の合う仲間もでき、日々楽しかった。
そんなある日に届いた、実家からの手紙。
その手紙を読んだディオクレスは、時がとまったかのような感覚に陥る。
便箋に書かれていたのは、ルクレティアが死んだということ、密葬をする日付のみ。それ以外、なにも書かれてはいなかった。亡くなった理由が病気だとも、事故だとも、なにも書かれてはいなかったのだ。
突然のルクレティアの死を、信じられるわけがない。そも、彼女についての情報があまりにも乏しすぎる。
ゆえに、ディオクレスは即座に帰省することを決めた。両親は彼が勉強に勤むことを望んでいるから、帰ることを好ましく思わないかもしれない。だが、不可解な点があまりにも多かった。いくら邪魔に思っていた娘とはいえ、なぜ密葬するというのか。
両親への疑心と嫌悪は膨らむ一方だった。