『わたくしの旦那様は素晴らしいのです』蛇足番外編(主人公はセラフィーナ) 1.男爵夫人に届いた報せ
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さらさらとした、春雨が降る。
カルヴァート男爵邸の庭園で咲き誇る薔薇に水滴が溜まり、やがてぽつりと落ちた。
薔薇庭園を眺められる特等の一室にその声が響いたのは、薔薇から零れた雫が地面に弾けると同時。
「……それは、本当ですか?」
訝るように夫であり邸の主 カルヴァート男爵オリヴァーを見つめる妻 セラフィーナ。
彼女の視線の先には、便箋を手に佇むオリヴァーの姿がある。今しがた使用人が持ってきた手紙の束を受け取り、気になる一通の封を開けたのだ。
「……ああ、本当だよ」
悲しげに目を細めたオリヴァーは、どこか途方に暮れたかのように見えた。そしてその姿は、彼がつい先刻に告げた言葉が真実であるのだとセラフィーナに知らしめる。
セラフィーナは小刻みに震える左手に右手を重ねて握り、俯いて唇を噛む。かたく目を閉じ、襲いくる激情に蓋をしようと試みた。
それでも、発せられる言葉は気持ちを反映させて揺れる。
「オリヴァー……私は、オルコック伯爵家に向かおうと思います」
「そうだね」
優しく穏やかなオリヴァーの声音。セラフィーナの心に沁みこむその声に、涙が頬を伝った。
――オルコック伯爵夫妻の死亡。
それが、カルヴァート男爵家に突如届いた、一通の手紙の正体だった。
*** *** ***
ぺちん、ぺちんと墓の石版を叩きながら、セラフィーナは蹲る。
淑女らしく化粧をし着飾ったものの、既に涙で化粧は崩れ、ドレスは汚れてしまった。
「馬鹿馬鹿馬鹿っ! 私、『オフィーリア様は幸せになってください』と申し上げたのに! あんなに念を押してお願いしましたのにっ!!」
セラフィーナの脳裏に過る、十代という若かりし頃の思い出。今では白いものが交るようになってしまったが、当時セラフィーナの髪は褐色一色であった。
ミモザの茶会の面々は、セラフィーナにとって”友人”ではなかった。”同士”であり、”仲間”であった。大切で、稀有な存在。きっとそんな人達に出逢える淑女は少ない、自分はなんて幸運なのだろう――いつだってそう想っていた。
あれから二十年程が経過しても、まだミモザの会の構成員らはそれぞれ連絡をとりあっている。体調面の問題により会を開けずとも、再びの再会を手紙で約束していた。
――けれど。
オフィーリア・オルコックは、再会を待たずして亡くなってしまった。
「オフィーリア様……っ」
(もう一度お会いして話したかった。たくさんたくさん、会えない間に話したいことは積もってた。その日をずっと待って……)
――違う。そんなことよりも。
「私、貴女のお話を、もっと、ちゃんとお聴きしたかった」
オフィーリアの生年没年と名前が刻まれた石版に、幾粒もの涙が落ちた。
シェイクスピア三大悲劇の一つ『ハムレット』のヒロインと同じ名前を持つオフィーリア。物語に感情移入してしまうセラフィーナは、悲劇よりも幸せな最後を迎える話の方が好きだった。だから、オフィーリアが幸せになったならば、自分の中の『ハムレット』に対するもやもやとした感情も消化できる筈だった。
当時オフィーリアに「幸せになってほしい」と願ったのは、そんな自己満足。それでも、そう願ったセラフィーナにオフィーリアは優しく笑んで「大丈夫」と答えてくれた。
「どこが……どこが、大丈夫だったのです……!」
ぺちん、と再び石版を叩いたセラフィーナを、背後からそっとオリヴァーが抱きしめた。
カルヴァート男爵夫妻が領地から出立し、オルコック伯爵家に着いた時には既に埋葬も葬儀も終わっていた。手紙を受け取ってすぐ出立したカルヴァート男爵夫妻ですらそうなのだから、間違いなくオルコック伯爵家は参列者に親族以外を集めるつもりがなかったのだろう。
――今のセラフィーナはその理由に納得しながら、心中ではどこかやりきれない思いを抱く。
「セラフィーナ……」
オリヴァーは妻を抱き寄せた。彼女を慰めるのは、オリヴァーだけの役目だから。そうオリヴァーは認識しているし、他の誰に代わってもらうつもりもない。
セラフィーナはいつだって強くあろうとした。まっすぐで素直ゆえに、物言いがきつくなってしまい、人間関係に亀裂を生むこともある。が、それを補修するのがオリヴァーの務めだった。
彼女は決して強くはない。人目のつかない場所、もしくは心を許した人の前でだけ弱音や本音を吐けるのだ。それは誰しもがそうかもしれない。だが、セラフィーナが泣くことができるのは、夫の前でだけだった。ミモザの会構成員の前でも、彼女はきっと泣くことができないだろう。
オリヴァーにとって、一人になったセラフィーナはあまりに脆く、儚い存在だった。そんな彼女を守れる存在であろうとした。
オリヴァーがセラフィーナを抱きしめる腕の力を強めると、彼女は小さな淑女に戻ったかのように嗚咽を漏らす。
「……私は、悲劇は嫌いです。大嫌いなのです……」
およそ一刻前。
亡き前伯爵夫妻の長男であり、現オルコック伯爵カーティスはカルヴァート男爵夫妻に挨拶すると、父 ローランドと母 オフィーリアの死について教えてくれた。
苦笑しながら遠くを見つめるように語ったカーティスの瞳には、淋しさと不思議にも安堵の色が浮かんでいた。
「母は、男爵夫人が御存知の通り、一年前から身体を壊し寝台に臥せっていました」
セラフィーナは一度頷く。それは、彼女も知っていた。身体を悪くしたから、セラフィーナとオフィーリアは直接会う機会を設けることができなかったのだ。
男爵夫妻の促す眼差しに、カーティスは言葉を続ける。
「母の身体が良くなることはありませんでした。それでも、寝台から鈴蘭の庭園を眺めて、父と話して、幸せそうに笑んでいました。両親は、とても愛し合っていましたから」
「ええ、私の目から見ても、いつだってお二人は幸せそうでしたわ。誰もが羨むほど仲睦まじかったのは周知の事実」
答えたセラフィーナに、カーティスは「だから、です」と笑みに失敗したかのような表情を見せた。
「父は、母を過ぎるほど愛していました。……本当は家族だけの秘密にすべきでしょうが、貴女方を母は信頼していましたし……どこかから風の噂で男爵夫人の耳に入る前に、お伝えしようと思いまして」
その言葉に、セラフィーナは眉根を寄せる。
「……それは、どういう」
「生前母は、男爵夫人は物語が大好きで、『ハムレット』のヒロインと同じ名のわたくしに”幸せになってください”と言ったのだと、楽しそうに話していました」
「お、お恥ずかしいですわ……」
セラフィーナにとっては過去の汚点である。わずかに頬を染めた彼女の隣で、オリヴァーはくすりと笑声を漏らす。
そんな中、カーティスは告げた。
「だから、母が――両親がこのような結果であったとしても、二人は幸せだったのだと知ってほしかったのです」
途端、セラフィーナは首を傾げた。
「このような、結果?」
それは、オフィーリアの死についてだろうか。しかし、セラフィーナやオフィーリアの年齢は既に平均寿命に近い。確かにオフィーリアの死は悲しいが、彼女が幸せであったならば、セラフィーナの嫌いな悲劇のようだと激しく落胆することでもない。
しかし――。不意に脳裏に過った、同時期に亡くなったローランドの存在。
カーティスはオフィーリアの身体が良くなることはなかったと語った。つまり、それゆえに亡くなったのだろう。ならば、ローランドはなぜなのか。
(……ローランド様が御病気だと、オフィーリア様の手紙には一言も……)
嫌な予感がした。
大々的に埋葬も葬儀も執り行うことはなくとも不思議はないが、部外者を立ち入らせないよう事後報告を狙ったのは、どうしても内密にせねばならないことがあってのことなのではないか。
オリヴァーもセラフィーナと同じことを考えたのだろう。彼は低い声で問うた。
「ローランド様も、御病気で?」
ゆっくりとカーティスは首を横に振る。
ごくり、と緊張孕むように男爵夫妻は唾液を嚥下した。
そうして答えたカーティスの言葉に、男爵夫妻は言葉を失ったのだ。
「父 ローランドは、母の枕元で自害しました」
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