8
目を覚ますと心配そうに覗き込むジャックと目が合った。目が開きにくい。泣きながら眠ったから腫れているのだろうと思うとジェインは赤面してしまう。
「大丈夫か?」
「うん」
小さく肯くと、ぎゅっと寄せられた眉根が少しゆるむ。それに笑みを返してから上体を起こし、アリシアを探した。
体を起こすと、ジャックの体の陰になっていた女の姿が見えた。天井から吊るされたランプの光のが届かないところに、ひっそりと座っていた。うっすらと見える表情は、心配そうに眉が寄せられているようだった。
「アリシアさん」
声をかけると無言のまま問い返される。
「ありがとうございました」
小さく首を左右に振るだけの返事だが、嫌な感じはなかった。
ふっと、アリシアにしがみついて泣いたことを思い出す。頭を撫ぜられた感触と、匂い。
――お母さんみたい。
思ってから慌ててその考えを打ち消す。アリシアは自分と七歳しか変わらないのに、失礼すぎる、と。
「腹、すかねえか?」
一人頭の中であたふたしていると、ジャックが少し焦ったような声で言う。視線を動かしたその目の端で、アリシアが小さく微笑んだように見えたが、慌てて視線をもとに戻した時には既にいつもの無表情に戻っていた。
「うん。食べる。……あ、ダグラスさんは?」
確か、車の中まではいた、と思いながら視線を室内に動かすと、自分の荷物と一緒に見たことのあるリュックサックが目に入る。ここまで一緒に来たことは間違いない。
再びジャックに視線を戻すと彼は少し不機嫌な顔になり、アリシアのほうを見た。
「二人で出ていったのに、一人で帰ってきたよな」
そのセリフはアリシアに向けられたものだった。どこか棘がある物言いにジェインは眉根を寄せた。
「知り合いと会って、どこかに行ったみたいだ。すぐ帰ってくるだろう」
アリシアは淡々と答える。不信感丸出しのジャックのセリフに慌てた様子はまるでない。ジェインは、少しだけほっとして、彼女のその言葉を信じることにした。
「じゃあ、先に食べる。……ね、何があるの?」
ジャックの顔を見ると、彼は慌てて笑顔になり、ベッド脇のテーブルの上の紙袋を抱え上げる。そして、部屋の中央にあるテーブルにそれらを並べていく。大急ぎでパンにソーセージにチーズ取り出すと、何か飲み物を貰ってくると、部屋を出ていった。
ばたんと閉まったドアをしばらく見てから、ジェインはアリシアの方を向いた。
「アリシアさんも、どうですか?」
一人ではとうてい食べ切れない量だ。というか、四人分以上あるような気がする。
「少し、貰おうか」
「はい」
ジェインはにっこり笑って返事をすると、ベッドからするりと降りて、自分の荷物をあさった。取り出したのは小さなナイフだ。それを持って、テーブルまで移動し、紙袋の上にパンを載せた。
本当は何か野菜が欲しいところだが、贅沢は言えない。
適当な厚さにスライスしたパンでソーセージやチーズを挟む。あとは、ジャックが飲み物を持ってきたら完了だ。
「何も訊かないんだな」
アリシアは呟くように言った。
視線を向けると、準備が整ったのが判ったのか、壁際の椅子から立ち上がってその椅子を持って歩いてくる。
ジェインは少しだけ笑ってみせた。
「逃げなきゃダメって聞こえました」
家を出る時に着替えを持っていくようにと言われたこと。車の中での会話。それらを思い出す。「逃げる」ということが、現実とうまく結びつかなかったから、確かめるのはダグラスが戻ってきてからにしようと、なんとなく考えていた。
「その理由は、知りたくないのか?」
テーブルの横に椅子を置いて、彼女は座り、出来上がったサンドウィッチに手を伸ばしながら、さらに質問をしてきた。
ジェインは俯いて小さく首を横に振る。振ってから、口を開いた。
「……知ってたほうがいいことですか?」
「知りたくても、教えられないこともあるな」
アリシアは苦笑する。
「訊かれると困ると思っていたのに、何も訊かれないから、不思議に思っていた」
教えられないこと。
ジェインはちょっと安心する。多分、自分はそれを無理に聞き出すことはしないのだ。いや、できない。だから、はっきりと言ってもらえてとても助かった。
ジェインはまたもやうつむいたまま首を左右に振った。
それからアリシアをまっすぐに見た。
「私が、知らなくちゃいけない時がきたら、教えてください」
サンドウィッチを口に運ぼうとした手が一瞬止まり、アリシアは小さく、だが力強く肯いた。
「判った」
アリシアの返事とともに、ドアが開けられた。
カップを四つ載せたトレイを持ったジャックが、ちょっと真剣な顔をしてカップを見たままの状態で入ってくる。
「あ、お帰りなさい」
ジェインは慌てて近寄る。ジャックの家は宿屋だ。彼は家の手伝いもするから、不慣れなことではない。が、よく見れば、カップにはなみなみとお茶が注がれていて、今にもこぼれそうな状態だ。
「うん。ドア、閉めて」
「うん」
ゆっくりゆっくりと部屋の中央のテーブルへと進む彼の邪魔にならないようにドアに近づき閉めようとすると、そこへ丁度ダグラスが帰ってきた。
「……あれ、罰ゲームか何かか?」
あれ、とはジャックのことらしい。
なんと答えたものか困ってジャックとダグラスを交互に見ていると、ようやくテーブルの上に載せて一息ついたジャックが振り返って睨んだ。
「おっさん、うるせーよ」
「カップを四つと、お茶を入れたポットにしてもらえばよかっただろうに」
「さっき、後悔したとこだよ!」
ジャックは真っ赤になって叫ぶ。
「あー……、すまん」
あまりの状態にダグラスもからかうのをやめることにして、素直に謝った。
「謝るんじゃねえ!」
さらに叫ぶ。
ジェインが思わず吹き出した。
それを見て、ダグラスは、ポンと、ジャックの頭に手を載せた。
「良かったな、笑ってもらえたぞ」
「うるせえ!」
頭の上に載せた手が払われる前に離し、ダグラスはポケットに手を突っ込んだ。
「ジェイン、これ、おみやげだ」
小さな革製の袋を差し出され、ジェインは思わず受け取った。
受け取ってから、ちょっと照れたように笑う
「さっきそこの露店にあったからね。日ごろのお礼」
「あの。開けてもいいですか?」
お礼と言われても、普段、大したことをしているわけではない。かと言って要らないともいえない。…というより、ジェインは素直に嬉しさを感じていた。だから、早く中が見たくてじっとダグラスの顔を見る。
「どうぞ。そんな大したものではないけどね」
照れ笑いから苦笑に変わり、ダグラスは逃げるようにして、アリシアの背後を回って移動してテーブルの上のサンドウィッチに手を伸ばした。
ジェインは袋の口をゆるめると、中を覗き込んだ。ランプの光に少し反射して何かが光る。指を入れて取り出すと、ペンダントだった。ペンダントトップには何かが彫られた金属の小さな板に緑色の石が埋められている。可愛いと言うよりは、不思議なデザインと深い緑の色に目が吸い寄せられる。
「おい、おっさん」
立ち直ったらしいジャックが呆れたような声を出す。
「どういうセンスしてんだよ」
「いいんだよ。これは、お守りなんだから」
ダグラスは面倒くさそうにジャックの相手をする。が、その言葉と表情はどこか胡散臭い。
ジェインは、手のひらにペンダントトップを載せてひたすらじっと見つめていた。
緑の石は濃い深い色。鋼色の金属は鈍く光り重そうで、実際に、見た目の大きさよりもずっしりとしている。小さな穴に通された革紐は、だからか丈夫そうに太い。
「ダグラスさん、ありがとうございます」
ぎゅっと握り締めて、見上げて礼を言う。可愛いと言うよりは不思議なデザインだが、その不思議な感じが気に入った。
「あ、ああ…」
ダグラスはぽかんと口を開けてなんとか返事をした。横でじゃれていたジャックも思わず動きを止める。
ジェインは知らずにこにこと微笑みながら、そのペンダントを早速首にかけた。
「翡翠だな」
サンドウィッチを食べ終わったアリシアが、ジェインの胸元を見ながら言う。
「え?」
「その、緑色の石。ちょっと色が濃い目だが、間違いないだろう。良いものを貰ったな」
「え? あの」
ジェインは急に不安になって、ダグラスとアリシアの顔を交互に見る。もしかして、随分と高価なものなのでは、と急に不安になったのだ。
「大丈夫。そんな高くないから。…っていうか、プレゼントされた本人の前で言うのもなんだけど、安物だから、気にしなくていい」
ダグラスは苦笑してみせた。
「でも、翡翠とは驚きだ。こんな色、あるんだな。もっと薄い色だと思っていた」
「そんなに多くはないらしいが、たまにある。……ジェイン、それは、服の中に入れて肌に近い場所に置いた方がいい。外からは見えないが、お守りとしての効力はその方がある」
肯きかけて、でもジェインは躊躇した。服の中に入れたら、デザインが見えなくなってしまう。それはなんだか淋しく感じられたのだ。
「アリシアさん、詳しいんですね」
ぎゅっと胸元のペンダントトップを握って、とりあえず、思いついたことを告げる。
と、アリシアは軽く首をかしげた。
「石のこと。見ただけで判るんだな、って」
その顔がわずかにほころんで、彼女は服の下からペンダントを取り出した。
小さな緑色の丸い石に穴が開けてあり、革紐を通しただけの簡単なものだ。
「あ、その石」
「同じ翡翠だ。母の形見で、ずっと身につけている」
似たような色合いの石を、親指の腹でさする。
「最初は、私もこれが翡翠だとは判らなかったんだ」
「アリシアさんも、お守りに?」
問うと、小さくうなずいた。
「これのおかげで、すごく助かった」
ジェインは、その顔を見つめた。どこか目を逸らせない表情と口調で、きっぱりと言い切る。
「私も、そうします」
ぎゅっと握っていた金属は少し生暖かくなっている。それを服の中、下着の上に落とした。
それを見て、彼女はまた、小さくうなずいた。