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水晶魚【すいしょううお】  作者: 今西薫
【第1章】
6/28

 渡された日記を持ったまま、彼は去っていくアリシアの背を見ていた。

 一緒に部屋に戻っても良かったが、なんとなく彼女のためについていかないほうがいいように思えたのだ。

 それにしても、と、彼は笑う。

 終始無表情に近い彼女の驚いたかおが思い出されておかしくなる。一般的に見ても、驚くほどのことなのだと再認識すらする。そして、苛立ちを覚える。

 --じいさん、何やってんだよ。

 右手に持った日記の表紙を見つめる。

 ここに何がしかの答えがあるだろうと思われたが、今開くことは躊躇われた。

 読むのなら、誰にも見られない場所が良いように思われた。

 溜息を一つ落とし、部屋に戻ることにする。

 そろそろアリシアは落ち着いただろうか。

 そんなことを考えて歩き出すと、名前を呼ばれた。

 彼は、その声の方角を見た。階段の下のほうだ。

「パティ…」

 以前の勤め先の後輩だ。街ゆく人々とは違う、きっちりしたスーツを身につけて立っている。一生懸命がとりえのような新人で、やけに懐かれていた。

 赤に近い金髪の巻き毛を肩のところでふわふわ揺らし、不安そうな瞳で見上げている。

「どうしたんだ?」

 言いながら、自分のセリフに苦笑する。街まで来たということは、そういうこと--昔の同僚に会う可能性があるということだ。それをまったく思いついていなかった自分に呆れる。

「さっき、そこで見かけて…」

 ジャックと買い物に行った時だろう。

「あの。お時間ありますか?」

 必死の形相で見上げる彼女に笑みを返し、ダグラスは階段を降りる。

「そうだな。少し話そうか」

 隣の食堂へと足を向ける。

 そういえば、誰にも何も言わずに辞めたのだと、改めて気づく。

 この先、アリシアの言うことを信じるなら、二年間は逃げ回らなければならなくなるのだろう。ならば、伝えておいたほうが良いと思ったのだ。

 二年間なんて長い期間、逃げ切ることが可能かどうかなんて判らない。

 判らないが、この運命からは逃げられないのだと、なんとなく気づいていた。

 認めたくない現実と、認めたくない未来は、感覚を麻痺させている。

 それでも、大変なことが起きていることはどこかで理解できている。

「課長は元気?」

 テーブルについて、飲み物を頼んだところで口を開く。パティは無言のまましっかりと肯いた。

「良かった。心配してたんだ。最後にわがままを言ったから」

「課長も心配してました。連絡の一つくらいよこせ、って言ってました」

 彼女の責めるような口調に思わず笑う。

「ありがとう」

 というと、ぽかんとした顔でみつめられた。

「………何?」

 問いかけると、小さく首を横に振る。

「今、幸せなんですね」

 なんとなく、彼女が言いたいことが判り、ダグラスは思わず苦笑した。

 仕事を辞める前、いかに自分が酷い顔をしていたのかが想像できる。

「うん。幸せ、かな」

 いろいろ問題は抱えていても。

 その言葉は飲み込んで、肯定する。

 時間に追われ、数字に追われ、必死で仕事をしていた。

 初めは楽しかったのだ。

 それが、いつの間にか楽しくなくなっていた。

 楽しくなくなって、どんどん自分の時間が減っていった。

 のめり込み過ぎて、いろんなことを自分で抱え込んだ。

 そして、上司から、休むように言われた。

 意味が、判らなかった。

 彼は説明しようとしたが、理解することを自分は拒否した。

 拒否して、逃げて、酒にすがって、ディルに拾われた。

 拾われて、社会人としてあるまじき無断欠勤をし、ようやく長期休暇を願い出た。わざわざ山の麓まで下りて、電話で伝えた。

「課長に伝えておいてくれるかい?」

「はい」

 彼が表情を改めると、後輩はすっと背筋を伸ばした。

「本当は直接挨拶に行きたいけれど、どうやら無理そうだから」

 と前置きをして、辞めたいことを伝えた。

 彼女はどこかで気づいていたのだろう。特に驚いた顔はしなかった。

「……私、外で見かけた時にちょっと判ったんです」

 パティは静かに話しだした。

「もう、戻って来ないつもりなんだ、って」

「そういう顔をしていた?」

 問うと、小さく、しかししっかりと肯く。

「それでも、どこかで戻ってきて欲しいと、もっといろいろと仕事を教えて欲しいと思っていました」

「君なら、大丈夫だよ」

「そんな言葉、欲しくなかったなあ…」

 後輩は、昔よく見たような、泣き笑いのような顔で呟くように言う。それから、頭をふって、表情を改めた。

「私で、お力になれることはありますか?」

 以前なら、根掘り葉掘り聞き出そうとしていたのが、こういうところで成長したなと思わせる。

 だが、ダグラスは、試すように彼女の瞳を見つめた。

「なぜ?」

 理由を問うと、パティは苦笑を落とした。

「今の服装は、旅装ですよね? しかも、かなり慌てて用意をされた、と感じます。第一に足元。履きなれた靴が良いとはいえ、その服装にその革靴はあり得ません。次にコート。どこの雪山に行くんですか?」

「合格」

「………昔を知っているから、とても切羽詰った状況に見えます」

 責めるような真剣な表情になる。

「連れに、十歳の女の子がいるんだ」

「男の子じゃなくて?」

「あの子とは別に」

「判りました。出発はいつですか?」

「話が早くて助かる。早くて明日の朝」

 期限を告げると、彼女は立ち上がった。

「すぐに用意をします。今晩もう一度うかがいますが、どちらに行けばよいですか?」

「さっきのところで」

 後輩はうなずくとすぐさまきびすを返した。

 頼もしく見えるその背を見送って、椅子の背もたれに体を預ける。

 アリシアは二年という。

 自分にとっても、ジャックにとっても二年など、大した問題じゃない。

 問題は、ジェインなのだ。

 十歳の少女は、成長する。今は子供でも、大人になっていく過程で、避けては通れないものがある。

 本気で逃げようと思ったら、そういったことも覚悟が必要だ。

 だが、自分は男で、正直な話どうしたら良いのかまったく判らない。

 また、単に体の成長の問題だけの話ではない。

 知り合いとはいえ、血縁関係でもなんでもない男との二人旅なのだ。それも、気楽な旅ではない。何かから逃げるための旅なのだ。なにが精神的負担になるかも判らない。

 後輩に頼んだのはそういったことも含めてのフォローだった。

 商社の営業という仕事柄、女性とはいえ、出張は多い。

「おや? お連れの方は帰られたんですかい?」

 酒の入ったグラスをテーブルにおいて、店のおかみさんが声をかけてきた。

「そうなんだ。ちょっと振られてしまってね。俺一人じゃ飲みきれないから、よかったら」

 と、グラスを一つ手に持ち、もう一つを勧める。

 おかみさんは、大げさに喜びを現して、躊躇なく飲み干した。

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