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やけに疲れた顔をしてジェインは眠っていた。ダグラスはそれを見て、溜息をつく。やっと宿に泊まれたことへの安堵というよりは、これから先のことを思っての不安のためだった。
ジェインが悲鳴をあげ気絶してしまった後、ジャックに運転させていた車は捨てることにした。街中に入ってからでは却って目立つと思ったからだが、それでもこの四人と犬一匹のとりあわせは、奇妙で随分と目立つように思われた。十二年に一度の大祭のため、街が人で溢れていなかったらと思うと、背筋が凍るような気持ちになる。だが、とりあえずは……。
ダグラスは椅子に座ったまま頭の後ろで手を組んで、アリシアを見上げるようにした。腕を組んで壁に寄り掛かるようにしている。その視線は何を見ているのか。
「どうする」
訊ねたのはジャックのことだ。本当なら車を捨てた時点でジャックは家へ帰すつもりだった。出来なかったのは、少年の真剣な表情ゆえだ。甘いと責められると覚悟していたダグラスは、アリシアが特になにも言わなかったことを不思議に思いながら、感謝していた。どうせ、二、三日姿を隠したあとは別れなくてはならないのだ。その間、一緒にいてもかまわないはずだった。宿を見つけたあとはどこかへ行くと思っていたアリシアが一緒に泊まることを知るまでは、彼もあえてそのことに触れるつもりはなかったのだが、どうやら事態はどこかで変わってしまったらしい。
「予定は変わらない。おまえ達はここでしばらくじっとしてから動けばいい。私は今夜ここを発つ」
「今夜。……だからか」
呟くように言うと彼女は軽く肩をすくめる。
「祭りが最高潮に達した頃に人込みに紛れる」
「おれ、家に連絡したいんだけど」
アリシアの横で床に直接座ってジャックが言う。ようやく言えたという感じだ。無理だろうなという気持ちが伝わってくる。
「あきらめろ。それなら、車を捨てた時点で帰れば良かったんだ」
アリシアの声は冷たい。それは正論だからジャックは反論できない。
ダグラスも押し黙る。ジャックの両親はきっと心配してジェインの家までやって来るだろう。そこで見るものに驚き、もちろん息子の心配をするだろう。無事であると一言告げたいジャックの気持ちはよく判る。だが、恐れているのは、襲って来る者たちが、あれで全部ではないだろうということだ。アリシアが、急いで家を離れようとしたのは、そのままそこにいると、また襲われるからだろう。雪の上に残るタイヤの跡を見て、追手がかかるだろうが、人数が多ければ家を見張る者もいるはずだ。その見張りが、ジャックの両親を見て、どういう行動に出るか。それを考えると恐ろしかった。ジャックを帰しておけばよかったと、ダグラスは後悔する。
「私にも、一つ聞きたいことがあるんだが」
アリシアの声は、少し迷ったように響いた。
「博士との関係だが、いいか?」
真っ直ぐな視線を向けられて、ダグラスはわずかに躊躇った。
「それを聞いてどうする」
「別に、どうもしない。お前のような男がいることを知らなかったので驚いた。それだけだ」
理由は、本当にそれがすべてなのだろう。アリシアの言葉に嘘はないように思えた。だが、理由のすべてを語ったとしても、その意味はとりかたによって随分と変わってくる。
「……居酒屋で拾われた。飲んでいたら、じいさんも飲みに来ていた。気があって、話が合って、気がついたらじいさんの家で寝ていた。それ以来、居候している」
「変わった経歴の男だな」
アリシアは笑った。
「……その娘のことは頼んでもいいか?」
「ただの知り合いの孫娘のことを、やけに心配するんだな」
ダグラスには、それは別に意味のない受け答えに過ぎなかった。だから、アリシアは素直に肯定するだけと思っていたのだ。だが、彼女は少し黙ってから「生きていれば、同い年の少女を知っている」と言った。まるで言い訳のような言葉に、ダグラスは驚いた。
「巻き込みたくなかったんだが、悪いことをしたな」
「……いや……」
どう答えたらいいのか、少し迷う。そこに真実があるような気がした。
懐かしい歌が聞こえた。
ジェインが目を開けると、女が壁際に椅子を寄せ、片膝を抱くようにして座って歌っていた。
話している時は、ぶっきらぼうでまるで男のようだと思っていたが、歌声は透明で美しい。薄い色の金髪に透き通るような白い肌、そして青い瞳。それらとその透明な声は、とても似合っている。
粗末な衣服が勿体無いと、思いながら、ジェインは彼女の歌声に自分のそれを重ねた。
歌声が止み、顔がこちらに向けられる。
「目が覚めたのか」
透明な声の代わりにまたぶっきらぼうな低めの声が出た。
「ダグラスたちは食糧を買いに出ている」
「今の歌、子どもの頃、お母さんが歌ってくれてた」
と言っても、実際に歌ってもらった記憶はあまりない。子守歌だったらしい。
「そうか」
「おじいちゃんを知ってるの?」
ダグラスとの会話の中でそう言っていたのは覚えているが、ちゃんと聞きたいと思った。
「古い知り合いだ」
「ごめんなさい。おじいちゃん、出かけていて」
「気にしなくていい」
女は小さく首を横に振る。
ふと、その瞳の色が柔らかくなったのを見て、ジェインは微笑んだ。
--笑っている方が似合うのに。
「こちらこそ、巻き込んでしまって悪かった」
「あ」
唐突に思い出した。
目の前の美しい女が、ただの女ではないことを。自分が車の中で悲鳴を上げたことを。その理由を。
だが、女の瞳が翳るのを見て、ジェインは唇を噛んで湧き出してくる恐怖に耐えた。
何故だか、女に辛い思いをさせたくないと思ったのだ。
カツンと小さな音がして、金色の毛のカタマリが姿を現した。床に爪が当たった音だろう。
「マックス」
小さく鼻を鳴らして顔を近づけてくる犬を撫でてやると、少しだけ気持ちがおさまった。
「無理しなくていいい」
女は同じ姿勢のまま言う。だからジェインは小さく笑うことができた。
「大丈夫。思い出しただけだから」
倒れていく男の映像が頭の中でフィードバックされる。そして、倒れたまま身じろぎしない姿。
それがどういうことなのか、考えると自然と体が震えてくる。
けれど、見なかったふりはしたくない、とジェインは思った。
「怖かっただろう」
静かな声が心に入ってくると、自然に肯いていた。
「そういう時は、怖がっていいんだ」
また一つ肯くと、涙がこぼれた。
「近づいて、いいか?」
ぶっきらぼうな声が少し掠れる。
ジェインが肯くと、立ち上がる気配がした。
ベッド脇にいるマックスが様子を窺っているのに気づいて、安心させるように撫ぜてやる。
その横に立った女は戸惑うように見下ろしていた。
「触っても?」
何故そんなことまで訊くのだろうと思いながらバカの一つ覚えのように肯くと、手が伸ばされ頭を撫ぜられた。
ゆっくりと、そっと、撫ぜられる。
たどたどしい動きが繰り返され、ジェインは次から次へと溢れてくる涙が止められなかった。
いつの間にか膝立ちになった女の顔が近い。
「………こ………かっ……た」
「ああ」
「こわ…かった…」
手を伸ばして、女の体にしがみつき、自然と上げて泣いていた。
ジェインは、ただただ、頭を撫ぜる女の手の感触を感じていた。
「なあ、よかったのかよ」
パンとソーセージやチーズを入れた紙袋を抱えて、ジャックが不機嫌に言う。
「何が?」
聞き返すまでもなく意味は判っていたが、ダグラスはそう言ってみる。だが、少年は黙々と歩くだけだ。
仕方ないので、カツカツと石畳に響く靴音に耳を傾けながら、次に何か言うのを待ってみることにした。
大祭の関係でか、宿からそう遠くない所に屋台を見つけ、食糧を仕入れて帰る途中だった。
道行く人々は、普段着と呼ぶには少々小奇麗な装いで、どこか浮き足立っている。
男たちはジャケットを羽織って帽子を被り、女たちは長めのスカート姿はいつもと同じだが髪を整え化粧をしている。
それらを見るともなく眺め、先を行く少年の後頭部を見つめた。
「……あの女、危険じゃないのかよ」
話はちゃんと続いていたらしい。こちらをチラリとも見ようとせずにスタスタと歩いていく。
「大丈夫だろ。マックスもいるし」
「マックスじゃ無理だろ」
今度はすばやい返事だった。
「なんだろな。アリシアはジェインに危害を加えない、そんな気がする」
「言い切れるのかよ」
「じゃあ何か? じいさん家での態度は、俺達を油断させて、ジェインに何かしようと思ってのことか?」
「そうじゃないとは言えないだろ」
まあな。と心の中で返事をしながらもダグラスは別のことを口にする。
「そんなことをする理由が判らないだろう」
理由なんていくらでも想像できたが、それでもダグラスにはアリシアがジェインをどうこうする姿を思い浮かべることができなかった。
「それに」
振り返って口を開きかけたジャックを制するように言葉を継ぐ。
「必要なことのように思えるんだよ」
ダグラスの言葉にジャックは立ち止まり思いっきり眉を顰める。
「…それは、ジェインに何かあってもいいって思ってるってことか?」
「そうじゃないけどさ」
呟くように言って横を通り越す。
そうではない。そうではないが、アリシアが反対しなかったことが、二人を置いて買出しに出たことが悪い判断ではないと思えるのだ。
眠っているジェインを置いて食糧を買いに出ると言ったのはダグラスだった。
どうやら追われているらしいアリシアを外に出すことが良いこととは思えなかったし、ジャック一人を大祭で賑わっている人ごみの中に行かせるのも心配だ。消去法で自分しかいないと結論付けただけだ。
それに対し自分が行くと言い出したのはジャックだった。仕方ないので一緒に行くことにすると、不満そうな視線が二人から注がれた。
一つはジャックからの不審を露わにした視線。もう一つは困惑の混ざった視線。
その表情が意外で、興味をそそられた。
だが、彼女はすぐに元の無表情になり、それがいい、と肯いた。
あの困惑は嘘ではない、そう思えるのだ。
であるなら、彼女はジェインに危害を加えることはない。そう思ったのだ。
「おいっ」
ジャックが呼びながら早足で追ってくる。
「おい、おっさん。そうじゃないって、何だよ。言いかけて黙るなよ」
ダグラスはにやりと笑ってみせる。
「ガキには判らないこともね、おっさんには判るんだよ」
どう説明したところで理解できないかもしれない。それだけでなく、宿屋はすぐ目の前だ。話を打ち切らねばならない時もある。
「さて。ジェインは起きたかな」
気持ちを切り替えるように言ってみせると、ジャックは気づいたようだった。悔しそうに唇を引き結んで上目使いで見てくる。
「ま、あとでな」
片手で後ろ頭を軽くはたき、狭い入り口から中に入る。
そんなに不機嫌になるなら残ればよかったのだと、少しだけ思わないでもない。でも、出かけてからようやくジェインが危険かもしれないということに思い至るくらい、彼も極限状態だったのだと考えたら、苛めるのはまた今度にしようと思えたのだ。
狭い階段は木製で、一段ずつ上がるとミシミシと音を立てる。後ろをゆっくりと上がってくるジャックの足音は、たった一人に向けて音がしないように配慮されたものだった。
階段を登りきり廊下のどん詰まりの目的の部屋が近くなると、歌声が聞こえてきた。美しい、透明感のある声は、アリシアのものだろうか。
「この歌、ジェインがよく歌っている歌だ」
呟くように言うジャックの言葉は聞こえたが、ジェインの声ではないことも確かだ。
こういう部分が、ジェインに関してアリシアを信用できると判断した理由だ。そう言ったところで、ジャックに理解できるかは不明だが。
やがて、か細い声がその歌声に重なり、すぐにどちらも聞こえなくなった。
「目が覚めたのか」
ドアの向こうから、ぶっきらぼうなアリシアの声が聞こえる。
どうやら、ジェインが目覚めたらしい。
部屋の前でダグラスとジャックは足を止めて、二人の会話を聞いていた。
どうしてか、ドアを開ける気にならなかった。
静かな会話だった。人見知りの激しいジェインにしては、やけに打ち解けた雰囲気を感じさせる。
不安を覚えないわけではない。
車で移動している途中で、彼女は突然悲鳴を上げた。あの時ジェインは、アリシアが放ってよこした拳銃を見ていた。
おそらく、拳銃を見て、恐怖が蘇ったのだろう。
無理もない話なのだ。たった十歳の子どもで、初めて人が目の前で殺される場面を見たのだから。
むしろ、男達が倒れたあの時に悲鳴を上げなかったほうがおかしいくらいだ。
だとすれば、アリシアといることであの時と同じように恐怖を思い出すことも考えられる。
だが。
部屋の中の二人の会話は、一瞬そんな危うさを感じさせたが、すぐに落ち着いていく。
そして、アリシアの移動する気配がし、ジェインの泣き声が聞こえてきた。
ダグラスは天井を仰いで軽く息をついてから、立ちすくむジャックを見下ろし、その肩を軽く叩いた。
どこか泣きそうな顔つきで見上げてきた少年に、床を指差す。
意味が判らず眉間にシワを寄せるのを無視し、廊下の床に腰を下ろし、壁に背中をあずけた。
二人っきりにした理由はこれだ、と、彼は思い至った。
ジェインが、ちゃんと恐怖を心で感じること。
だが、それが目的だったとは判ったが、何故、恐怖の対象となるアリシアに任せようと思えたのかまでは答えが出ない。
--何故だ?
ジャックが隣に腰を下ろす気配を感じながら、彼は目蓋を閉じた。
カチャリと小さな音がして、ドアが開き、横に座るジャックが見上げる気配を感じた。
ダグラスは目を開けてからゆっくりと見上げ、顔を覗かせたアリシアの様子を窺う。
「すまない。待たせてしまった」
泣いているのでは、と思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。
ジェインの泣き声が聞こえ、しばらくしてそれが止んだ。それからさらにしばらくしてから、ようやくドアが開かれたのだ。
ジェインは泣きながら眠ってしまったのだろうと想像できる。それが、泣き声が止んだ時だ。では、泣き声が止んでから、ドアが開くまでの間のこの数分は、何をしていたのだろう。
なかなか次のアクションを起こさない女の顔を思い浮かべながら、ダグラスは何故か彼女も泣いているような気がしていたのだ。
「ジェインは、また眠ったのか?」
「ああ」
アリシアは、ドアを大きく開けて、中に入るよう促した。
「もう、大丈夫だろう」
大切なのは、怖い体験を無かったことにすることではなく、その気持ちに寄り添い、認めてやることだ。そして、感情を吐き出させることだ。
奇しくも、アリシアがその役を引き受けることになったのだが、本人にもその自覚はあったらしい。
「助かった」
立ち上がり、ドアの隙間から部屋を覗くと、ジェインの寝顔が見える。
ジャックはその隙に部屋の中に入り、壁際に置かれた机の上に荷物を置いた。
それを確認してから、アリシアのほうを向く。
「ちょっといいか?」
軽く首を横に傾けた彼女は、薄いブルーの瞳をダグラスに向ける。なにもかもを見透かそうとしているようにしばらく見つめていたが、ふと目をそらし、部屋から出てきた。
「ジャック」
小声で呼ぶと少年は顔を向けた。
「マックスと留守番を頼む」
名を呼ばれた犬は床に寝そべったまま頭を上げて振り返り、ジャックは黙ってうなずいた。
後ろ手でドアを閉めたアリシアは「どこへ?」と問うてきた。
それは考えていなかったダグラスはふと黙る。
夜まで人目を避けたい彼女と話せる場所。
「とりあえず、そこの踊り場で」
下の酒場へ行けば座って話せるだろうが、そういうわけにはいくまい。
見通しが良い場所というのは、逆に言えばこちらからも見易いということだ。そういう意味では安心と思える場所だった。
「判った」
返事を合図に歩きだす。
少し歩いたところで、肩越しに振り返る。
「改めて礼を言う。助かった」
「……いや」
アリシアは小さく首を横に振る。
「あの歌は、子守歌?」
「さあ?」
とぼけるふうでもなく、アリシアは首を傾げる。
「ジェインもよく歌ってるんだ。歌詞からすると子守歌っぽくはないから、不思議でね」
そう言うと納得したように肯き、くすりと笑った。
「言われてみればそうだな」
階段を降りながらその様子を窺っていたダグラスは、踊り場で足をとめて、壁に寄りかかる。
「あの男たちとの会話は、悪いけど聞こえてたんだ。正直なところを教えて欲しい。…二~三日姿を隠すだけで本当に安全なのか?」
「あの家に戻らなければ、すぐにどうこうということはないだろう」
意図的なのかそうでないのか、アリシアは質問と少しずれた回答をよこす。
「ってことは、戻れば、すぐに何かある可能性が高いわけだ」
アリシアは小さく笑った。
「二年逃げ切れば、大丈夫のはずだ。それまでは、追われる可能性もある」
またもやずれた回答だ。
「じいさんを探した方がいいってことか」
「巻き込んでしまったことについては、詫びる。すぐに帰ればよかった」
どうやら、アリシアはストレートに答える気がないのだとダグラスは判断した。
だが、情報はよこす気があるようだ。
戻れば、危険。二年間は逃げたほうがよい。
「きみは、どこへ行くつもりだ?」
「私は博士から手紙をもらったんだ。騙された」
苦笑を漏らす。
「どうしても会わねばならない」
ダグラスは肩をすくめた。
「じゃあ、じいさんに会えたら伝えてくれ」
昨夜のディルの様子を思い浮かべる。ジェインを嫁に貰えなどというバカな話は別として、なんら変わったところは見られなかった。だが、そこが一番の問題だと、ダグラスは考えた。
ジェインとは二十歳も違う。決して恋愛に発展しない年齢差ではないが、相手はまだほんの子供だし、それよりもなによりも、唯一の身寄りとも言える祖父が大切な孫を託す相手としては一番の問題となるだろう。
突拍子ないにもほどがある。
問題は、何故そんな突拍子ないことを言い出したか、だ。
思い返してみれば、ひと月ほど前からなにやらそわそわしているように思えた。ディルとそれほど長い付き合いではない彼には確証はなかったが、何かを待っているような、そういう様子が窺えた。
ある日、ジャックの母がやってきて世間話に見慣れない若い女が麓の町に現れたと言った時には、その容姿をさりげなさを装って聞き出していた。
今となれば、怪しい態度だったと思えるが、その時には気にもとめなかったようなことばかりが思い出された。
「約束は守る。取り消しは無効だ、と」
次の日目が覚めて二日酔いの頭痛に思考力を奪われながらそれでも考えていたら、普段ならいないはずのジャックがいた。そして、普段ならめったに側から離さない愛犬を使いに出そうとしていた。
確証はない。まったくない。
だが、ピースがはまったような気がしたのだ。
昨晩のディルの発言と併せて、何かが起こる、あるいは、何かを起こす合図ではないか、と。
「約束? そう言えば伝わるのか?」
「あんたの孫は大切にするよ、と」
にっかりと笑ってみせると、アリシアは目を見開いた。
その意外な表情にダグラスは内心首を傾げる。
「……人の趣味にとやかく言うつもりは無いが」
アリシアは酷くうろたえながらようやく口を開いた。
「おまえは、まだほんの子供が、好きなのか?」
言葉を選びながらのセリフは、微妙に変になっていたが、言わんとしていることは判ったのでダグラスは肯いた。
「年齢なんて関係ない。彼女が好きなんだよ」
もしディルが嫁云々の部分は本気ではなかったとしたら、どんなにか焦るだろう。
だから、ちゃんと本気と伝わるようにアリシアに伝える。
少なくとも、アリシアが誤解しないと、ディルを騙すことはできない。
しばらくダグラスの表情を読むようにじっと見ていた彼女は、ゴクリとツバを飲み込んだ。
「……判った。伝えよう」
まだ動揺を隠せない様子で肯いて、目をそらす。
様子はおかしいが、仕方ないとも思えて、ダグラスは軽く息を吐き気持ちを切り替えた。
「ありがとう。じいさんに会えることを祈っているよ」
そう伝えると彼女は再び見上げてきた。
「悪いことをした。本当にすまないと思っている」
薄いブルーの瞳には濁りが無い。透き通っていてガラス玉のようだが、だがどこか温かみがあった。
「渡そうかどうしようか迷っていた」
懐から一冊の本を取り出す。
「博士の日記だ。逃げるのに、必要な情報もあるかもしれない」
「君に必要だから持ってきたんじゃないのか?」
「もう読んだ。読み終わったら破棄することをすすめる」
押し付けるように渡されて、ダグラスが受け取ったらアリシアは背を向けて階段に向かった。
「話は終わりだ。夜まで、もう少し辛抱してくれ」
振り向きもせずそう言うと、彼女は階段を登って行った。