閑話2
ディルの家に居候し始めて、ダグラスが一番驚いたのは、その快適さだ。
街から一時間以上も車を走らせてようやく辿り着くような場所で、ガス、水道が使えるのだ。
酔いつぶれて気がついたら見知らぬ家にいたことに彼は驚いたが、最初のうちは街のどこかの家だと思っていた。そのわりに、やけに空気が澄んでいる、とは感じていたが、室内しか移動しなかったので気付かなかったのだ。二日酔いで、自分がどこにいるという疑問にまで頭が回らなかったというのもある。
階段を降りていくと、すぐ横の炊事場で甲斐甲斐しく働く少女が一人。同時に昨晩一緒に飲んでいた老人の顔を思い出す。孫と二人暮らしと言っていたか。
「あ……おはようございます」
と、少し慌てたように小さな声で挨拶をする少女に、小さく右手を上げて表情と口の動きだけで挨拶を返す。少女は小さく首を傾けて、「お水、飲みますか?」と訊ねてきた。
うなずくと、少女はコップに流しの水道から水を入れて渡してくれる。街では普通、沸騰して冷ました水をポットに入れて、それを飲むようにしているが、子どもは知らないらしい。そんな感想を抱きつつも水を口に含むと、あまりの美味さに目を瞠った。
「……どうか、しましたか?」
心配そうに言う少女に小さく首を振ってみせる。単に、大きく振れないだけなのだが。
「いや……。水が美味いね」
そう言うと、少女は嬉しそうに微笑んだ。そして、少しすまなそうな表情になる。
「あの、おじいちゃん、まだ寝てるんです。多分、もう一時間くらいすると起きてくると思うんですが」
少女が視線を向けた先には時計があり、まだ七時にもなってないことを知る。一緒に飲んで自分を連れ帰って、一時間後には起きてくるというのが、なかなか驚異的だ。
だが、彼はその驚きはかくして、右手を上げた。
「いや、大丈夫。一人で帰れるから」
言ったとたんに心配そうな顔をした少女に、水をありがとう、と告げ、のろのろと玄関と思しきドアに向かい、開け、彼はその動きを止めた。
……見えるのは、山の斜面。…草の生い茂った丘。一軒の家も見えない。
ここは、どこだ?
「あの」
焦った声を発しながら炊事場から小走りに近寄ってくる少女を振り返る。
「ここは、どこだ?」
昨晩までは、街の飲み屋にいたはずだ。街からこんなところまでくるには、どれくらい移動したらいいのか。
少女が告げた場所は、彼の知らないところだったが、後の説明で街までは車で一時間以上かかると知らされ途方に暮れる。
「ごめんなさい」
謝る少女に疑問の眼差しを送ると、よくあることなのだと告げられる。どうやら、少女の祖父は、街で知り合った人間をよく連れて帰るらしい。道理で、少女はやけに慣れていると思った。
そして、水の美味さにも、納得した。
納得して、更に驚いた。あの水道は何だ、普通は井戸ではないか、と訊ねると祖父がそのテの細工が得意なのだという。ついでにガスコンロも紹介され、そういえば目の端に映っていたことを思い出す。水道とガスコンロが見えていたから、街中だと疑いもしなかったことに思い至る。
聞けば、この辺りに住んでいる家では、この祖父の細工が大活躍しているらしい。この辺りと言っても、十数件で、それぞれ山を一つ越えたようなところにあるらしいのだが。
そこで少女は一つの宿屋の名前を告げた。それを聞いて納得をする。景色と料理で有名なその宿屋のもう一つの売りは、その快適さなのだ。街中での快適さに慣れた人々は、捻れば水が出てくる水道……つまり、シャワーが使える環境に魅力を感じるのだ。その宿屋が、この家から一番近い「ご近所」なのだと言う。そして、早く戻ったほうがよければ、その宿屋の家に少女の友人がいて彼が街まで送ってくれると言う。その時間を問えば、無線の「電話」があり、早ければ二十分もすればこの家に着くとのこと。
水道、ガスときて、無線だ。ダグラスは半ば呆れながら少女の話をきく。
無線など、ダグラスの住む街でも普及してはいない。
その様子に気付いたのか、少女は慌てて口元を両手で押さえた。
「……もしかして、言うなと言われていた?」
問うてみれば、少女は肯く。つまり、彼女の祖父は、それなりの知識を持った人物だということだ。
いろいろ興味は尽きないが、彼は詮索するつもりはない。
「大丈夫、黙っているよ。…だから、おじいさんが起きるのを待たせてもらっていいかな?」
微笑んで言うと、少女は安心したように小さく微笑んで肯いたのだった。
そして、やがて起きてきたディルに街まで送られ、飲み直し、同じように二日酔いで目が覚めたのがこの家だったのが、居候の始まりだった。