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水晶魚【すいしょううお】  作者: 今西薫
【第1章】
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 ジェインはやかんを火にかける。いつもならそろそろ朝食の支度をはじめなければならないのだが、昨日の騒ぎの規模ならば、祖父も同居人もあと二時間は起きてはこないはずだ。その二時間をどう過ごそうか考えならテーブルにつき、窓の外を眺める。昨晩の吹雪が嘘のようだ。きらきらと光って美しい世界はまぶしくて。

--水晶ってこんなのかな。

 ジェインはそんなふうに考えてみる。昨夜ダグラスに話したせいだ。

 思い返して赤面する。なぜ話す気になったのだろう。父親のことは家の中で禁句だった。父親のことと母親のことと。

 母はとても美しい人だった。ジェインはそう記憶している。長い髪を一つにまとめ、ゆっくりと室内を歩いていた。目のみえない人だった。街で母とであった父はそれでもと母を妻にとのぞんだ。生活していくだけならと田舎にひっこみつつましく暮らしていた。六年前、父は旅に出た。母の目を見えるようにするためだと祖父から聞いたのは、半年後のことで、母も行方不明になってからだった。それ以来、父と母のことを祖父から聞いたことはない。そしてジェインからも話したことはないのだ。

 小さく息をつき、ジェインは気持ちを切りかえる。湯が沸いた。とりあえずお茶でも入れて飲み終わったら掃除でもはじめよう。

「っはよーさんっ」

 立ち上がると同時にばたんと音がしたのと同時に声が響いた。

「ジェイーン、どこだー? おっ、マックス元気そーじゃん。あ、炊事場か。おっはよー、じいさんはどこだ?」

「え……えっと……」

 炊事場の入口に姿を現した雪まみれの赤毛の少年は横にマックスをつれてにかっと笑った。隣の家に住んでいる同い年の少年のジャックだ。隣といっても、丘を一つ越えたところだが。

 ジェインはどの質問に答えていいのか少し悩んで、とりあえず朝の挨拶をした。

「おはよう」

「おう。じいさんは?」

「まだ、眠ってると思う」

「ふうん。あ、茶だろ? 俺も飲む」

「うん。……クッキー食べる?」

「おう」

 どかっと椅子に座った少年にとりあえず戸棚からクッキーを出す。

「じいさん、まだ寝てんの? 遅いんじゃない? いつもとくらべてさ」

「昨日の夜、ダグラスさんと飲んじゃって」

「酒? いつまでだよ。お、サンキュ。……もう八時だぜ?」

「たぶん、あと一時間半ぐらいは。--どうしたの? こんな朝早く。日曜日に」

 ポットにお茶の葉を入れ、湯をそそぐ。蒸らしている間にカップを用意して、ついでにマックスにクッキーを一枚与えて、ジェインも椅子に座る。月曜日から金曜日は村の学校へ行っている彼は、土曜日になると午後から祖父に機械いじりを教わりにやってる。土曜日に来られない時には日曜に来ることもあるが、昨日はいつも通りにやって来たのだ。なにか急用なのだろうかと不安になる。

「うん、昨日、うちに女の人が泊まりにきてさ、その人がじいさんに会いたいって言ってるんだ。でも、この雪だろ? じいさんの車を出してもらった方が早いからさ」

 つまり呼びにきたというわけだ。

 祖父の造った車はとても丈夫で、雪道だろうがなんだろうがおかまいなしにつき進む。それをあてにしてきたらしい。

「--どうする? 多分、今起こすと、もっのすごーく不機嫌になると思うんだけど」

「うーん。そうだよなあ……」

 ジャックは腕くみをしてうなる。

「起きるまで待ってると昼だよな? とすると、それまで待っててもらわないといけないってことで。え? じゃあ俺、この雪ん中もー一度家まで帰らないといけないって? げっ」

 心底嫌そうな顔をしてジャックは茶を一口飲む。

「あの車だよね、やっぱり……」

「うん。ま、そーじゃなくても時間がかかるって連絡できたらいーんだけどさ」

 ジャックはさらにうなる。ジェインはしばらくそれを見つめておもむろに口を開いた。

「マックスに行かせようか?」

「え?」

「マックスだったらジャックの家、知ってるし、雪の中も平気だし」

「いーのか?」

 ジャックは信じられないというように身を乗り出した。

 名前を呼ばれたゴールデンリトリバーは、まっすぐに主人を見ている。ジェインは逆に不思議そうに首を傾けた。

「いいけど?」

 言った彼女の顔がわずかに上がり、笑顔から不安そうな顔へと変わったのを見て、ジャックは振り返った。

「ジェイン、悪いが水をくれないか?」

 寝巻姿のぼさぼさ頭の男は、まだ眠そうな顔で片手でこめかみをおさえて立っている。

「あ……はい」

 慌てて、ジェインは水を入れにいく。

 あからさまに顔をしかめたジャックは睨むようにダグラスを見る。

「色男も二日酔いじゃ形無しだな」

「おまえ、トゲありすぎ。ガキまるだし。ってか、何でいるんだ?」

「二日酔いのくせに無理すんじゃねーよ。うちの宿の用事だよ」

 ダグラスはジャックのそのセリフに一瞬顔をしかめたが返事もせずにテーブルについた。

「ダグラスさん、はい」

 水を受け取って飲むとダグラスはうなった。

「大丈夫ですか?」

「自業自得だよ、ほっときゃなおるって、病気じゃないんだからさ」

 不機嫌に言うジャックに、ジェインは顔をしかめる。

「あー、ジェイン、気にしないで。こいつ、俺のことが好きなんだよ。だからつっかかるの」

 気配を察したのか、うつむいたままでダグラスは軽く手を挙げた。

「ちがうっ」

 真っ赤になってジャックが叫ぶと、ダグラスが耳をふさいでテーブルに伏す。

「ジャック、もう少し静かに……」

 はらはらしながらジェインが口をはさむ。

「けっ。口の減らねーおっさんだぜ」

「……もおっ」

 呆れたように、悲しげに頬を膨らます。思えばこの二人は出会った頃から仲が悪い。どちらかといえばジャックが一方的につっかかり、ダグラスがそれをからかっているのだが。一度祖父に相談したのだが、祖父は笑って相手にもしなかったのだ。

「じいさんは、まだ寝てる?」

 テーブルに伏したまま、ダグラスが静かに言った。

「まだ、起きてきていません」

「そうか……」

 ほとんど死にそうな声で返事をしたまま、沈黙が訪れる。

 ジャックとジェインは顔を見合わせ、ジャックが肩をすくめた。

「あ、紙とペン。手紙、書くから」

「……おい少年。どこか行くのか」

「違うよ。--どこにつけるのがいい? 首輪だとうちの家族、気づかないかもよ?」

「袋をぶら下げるのは? 目立つし」

「マックスをどこかにやるのか?」

 唐突にダグラスが振り向いた。急に起き上がった彼は頭痛に呻いている。

「うるさいよ、おっさん。静かに寝てろよ」

「うるさい。そうじゃない。じいさんを見てこい」

 思い切り不機嫌な声になってダグラスが言う。二人は少しひるんだ。

「なんだよ」

「いいから。ジャック、じいさんを見てこい」

 頭を抱えこむようにしてうつむいているダグラスの背を二人は見つめる。

「早くしろ。--ジェイン、マックスから離れるな。それから、水をもう一杯くれ」

「--はい」

 言われてジェインはすぐに動いたがジャックは伏したままのダグラスを驚いたように見ていた。

「早く」

 急かされてジャックは苛立たし気に炊事場から出ていった。

「どういうことですか」

 水をわたしながらジェインが尋ねた。

「--気のせいならいいんだ」

 沈黙の後、ダグラスはその一言だけを発した。訳がわからないまま、ジェインはすり寄ってきたマックスの首に手を置き、ダグラスを見つめていた。



 ジェインをもらってくれと、ディルに言われた時に、本当なら気づくべきだったのだ。田舎で長年暮らしているわりに正確な知識ととんでもない技術をもっている少女の祖父は、酒の席でそんなバカげたことを言いだすほどにせっぱつまっていたのだと気づいたのは泥酔の半歩手前だ。気づいた時には既に遅く、目が覚めたら朝だ。頭痛がするのをいまいましく思いながらダグラスは水を飲む。冗談じゃないというのが心の底からの気持ちだ。ディルにはディルの事情があるとしても、やり方というものがあると思う。

 いつもならいるはずのない少年の家が宿屋でさえなければ、あるいは昨日の夜見かけない女が村にやってきたという話を耳にしなければ、その女の容姿をめずらしくディルが気にしさえしなければ、おそらくこんな推理はしなかっただろう。ディルが孫娘を自分にたくそうとしているだろうとは。

--だが、どういうことだ……?

 推測の域を出ていない考えは、二日酔いの頭の中ではまとまらない。ジャックがやってきた理由と、マックスを外に出そうとしている二人と。

「おいおっさんっ。じいさんがいないっ」

 どたばたと足音が響いて、ジャックが現れる。

--じいさんがいなくなった理由と……。

 関係ありそうな事柄の一つに加えながら、頭痛に顔をしかめ、ダグラスは体を起こす。

「二階は? ジェインをつれて一緒に探してこい」

 つとめて冷静に言ってダグラスはジェインを見つめる。

「マックスを連れて、二階を探してきてくれないか?」

「あ……はい」

 気押されたようにジェインが歩き、その後をついて行きかけたマックスの垂れた耳が少し持ち上がる。二階へ上がろうとジャックが体の向きを変えたとき、扉が開く音がした。

 炊事場の入口の所でジェインは立ち止まり、出入口の方を見つめた。反射的に立ち上がり、立ちすくむ二人の所にたどりつくとダグラスにもその理由がわかった。

 若い女がいた。

 開け放された戸口に長い髪を揺らして仁王立ちになっている。逆光で顔は見えないが、二十歳前後のようだ。昨日この村にやってきて、ジャックの家に泊まったのは彼女だろうと容易に想像できた。

「博士に会いたい」

 息が荒い。雪の中を歩いて来たのだろう。濡れた長めのスカートの裾が重そうに見える。

「誰だ」

 壁に手をついて体重を支え、ダグラスは女の質問に答えずそう尋ねた。

「--博士はいないのか」

 女の声にわずかな苛立ちが感じられた。だが、とダグラスは気づいた。女は自分の方を見てはいなかった。



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