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外は吹雪だ。暗闇の中は三歩あるいただけで方向感覚を失いそうだ。暖炉のそばの敷物の上に座ってそれを見ながらジェインはほっとして息をつく。
「こんな日は」
傍らのマックスを見下ろしてジェインは小さく笑った。ゴールデンリトリバーはじっと主人をみつめる。
「お父さんのいなくなった日を思い出しちゃうね」
もう六年も昔のことだ。ジェインはまだ四歳のだった。
その時、小さな爆発音が響いた。地下室の祖父を思ってジェインは笑う。
「おじいちゃんも元気だよね」
マックスは、くうんと鳴いて同意を示した。
「まだ起きてたのかい?」
不意にドアが開いてダグラスが顔を出した。
足音に気づかなかったのは、外の吹雪のせいか。同居人を不思議そうに見上げてジェインはうなずいた。
「おじいちゃんがまだがんばってるんです」
ダグラスはちらりと地下室へと続くドアを見やって肩をすくめる。
「じいさんも元気だな」
「お茶いれますね。そのへんに座って下さい」
「悪いね」
ジェインはいいえと首を横に振って立ち上がった。
一月前からこの家の二階に住みだしたこの男は、人に気を遣わせまい遣わせまいとしている。どこがとははっきりとは言えないが、ジェインはなんとなくそう思っている。マックスの傍らに腰を下ろすダグラスを見やってジェインは炊事場に入った。
やかんを火にかける。偉大なる祖父の発明の成果だ。天然ガスを利用している。
ジェインはちょっと考えて大きなカップを三つ取った。地下室の祖父にもわたして寝るように勧めよう。無駄だとは判っていたが、今はもう二人っきりの家族だ、気持ちだけは伝えておきたい。
「なんてね……」
ため息をついてジェインは小さく笑った。
「何を造ってるの?」
何やら大きな機械の上に乗っかり、スパナを持っている祖父のディルを見上げる。
「飛行機だ」
「ひこうき?」
「空を飛ぶ機械だ」
ジェインは想像力をめ一杯使って考えてみる。ひこうき。ひこうき………。
「鳥みたいに?」
ディルはちらりとジェインの方を見て、なんだか怪しげに嬉しそうに笑った。
「風船みたいにだよ」
やはり判らない。ジェインは諦めることにした。なんにつけ、天才の考えることはよく判らないものなのだ。
「お茶、ここに置いておくね」
「すまないな」
「もう休んだ方がいいよ」
「判っている」
返事はするが、言葉通りにはしないことは判っている。ジェインはおやすみなさいと言って背を向けた。
「お前は、ダグラスのことをどう思う?」
ジェインはちょっとびっくりして振り向いた。
「びっくりした。どうしたのおじいちゃん。いきなりそんなこと」
「いや、随分となついてるものだと思ってな」
「ダグラスさんは……やさしいから」
ジェインは言葉を探す。
「待っててくれるから、あたしが話すのを。……おじいちゃんとジャックはちゃんと待っててくれるんだけど、ほかの人はそうはいかなくって、でも、ダグラスさんは違って……」
物心ついた時には祖父と二人きりで町から離れたこの家に住んでいた。めったに人のこないところで暮らしていたせいか、ジェインは人が苦手だ。学校に行くようになってもしばらくは友達もできずにいて、友達ができるまでに一年くらいかかったものだ。今でこそ町の人にも挨拶はできるが、それでも知らない人はやはり苦手だ。だが、ダグラスは初めて会った時から違っていたのだ。
「でも……どうしてそんなこと聞くの?」
「私も気に入っているからな」
「え?」
「いや……。お茶が冷めてしまうからもう行きなさい。私ももう寝るから、ジェインももうやすみなさい」
ジェインは口をひらきかけてやめた。祖父はもうこちらを向いていない。なにも答えるつもりがないということだ。
「うん。おやすみなさい」
ダグラスとマックスは暖炉の前に座っていた。どちらも考え込んでいるように見えて、声をかけるのがはばかられたジェインは黙ってその横に座った。
「じいさんはまだするって?」
気づいたダグラスが聞いてくる。ジェインは小さくうなずいた。
「ひこうき、造ってるんだって」
「ひ……こうき、ねえ」
ダグラスはなにやら知っているようだ。
「風船みたいだって言ってたんですけど」
確認するように言うと彼は顔をしかめた。
「そりゃ、また……。まあ、そういうのを言わない事もないが……」
「ダグラスさんは物知りなんですね。おじいちゃんってば、教えてくれるのはいいんだけど、説明してくれないから結局何だか判らないの」
「確かにそうだよな、あのじいさんは」
床に置いたトレイからカップを取ってダグラスは口に運んだ。
「ジェイン、君ももっとくいさがって聞けばいいんだよ」
「うん。そう思うんだけど……」
ジェインはうつむく。簡単にはいかない。しようと思っても体が動かない。そんな自分がくやしい。
「…むずかしく考えることはないさ。思ってるより簡単なことだよ。やってみるとね、わかるんだ」
ジェインはくすくすと笑ってみせた。おどけた表情のダグラスは安心したようにかすかに瞳の色をゆるませた。それに気がついた。
「がんばらなくちゃね」
自分に言い聞かせるように言ってみる。
がんばらなくちゃね。
なんだか、本当にがんばれるような気がしてくるから不思議だ。
「がんはろうな」
ぽんと頭に手を乗せられる。まるっきりの子供あつかいにジェインは淋しさを覚えながら、うなずいた。
時計の針が十一時を指し、鳩が十一回鳴いた。外はまだ吹雪だ。この様子では朝まで止みはしないだろう。
「すごい雪だな」
ジェインの視線を追ってダグラスは外を見た。たった一枚の壁を隔てただけで外と中はこうも違う。たった三時間車を走らせただけで、こうも違う。驚かされたのはこれが初めてではない。空気の澄み方、人々の温かさ、緑の鮮やかさ。花が咲き、鳥が歌い、虫が飛び、季節を知らせる。たった三時間だ。半日もかからない。
「……こんなのは、めったにないんですよ」
「それでも、街ではこんなには積もらない。雪なんて見るのはもう何年ぶりかな」
目を細めてダグラスは言う。
「街では降らないんですか?」
「そうじゃないんだけどね。少ないんだ。夜のうちに積もっても次の日の朝のうちにはもう溶けてしまう」
「温かいんですね」
タグラスはちらりとジェインのことを見て口許で笑った。
「そうだね」
ジェインはふと口をつぐんだ。まずいことを言ったのかなとダグラスをみつめる。黙りこんだ彼は気づかずに暖炉の火をみつめている。唐突に訪れた沈黙はジェインには重すぎた。重すぎて耐えられなくて、ジェインは口を開いた。
「さっきね、マックスに言ってたんです。こんな日はお父さんのいなくなった時のことを思い出すねって」
唐突な沈黙をジェインが唐突に破り、我に返ったダグラスが目を丸くするのもかまわずにジェインは言葉を続けた。
「こんな日だったんです。冬の、雪の降る日。風がきつくて、お父さんは夜なのに出ていって。あたしはまだ小さかったから、よく判らなくって」
「お父さん?」
ジェインはうなずいた。
「四歳の頃です。水晶魚を探しに行ったんだと思います。それっきり、未だに帰ってこないんです」
目をつむるまでもなく思い出せるその光景を昔は持て余していた。今は? と自分に問いかけてジェインは変わってないことに気付く。今でも持て余している。
「水晶魚?」
「水晶でできた魚なんだそうです」
「………それを取りに行ったの?」
いぶかしげに、探るようにダグラスは言った。
ジェインは首を横に振った。
「水晶魚は一年にたった一つだけ卵を産むってお父さんは言ってたんです。水晶魚の卵は親の望む形に変わってくれるから、取っても意味はないんです。お願いしなくちゃいけないんだってお父さんは言ってました」
「お願いって?」
「分けてもらうんだそうです」
「お願い、して?」
ダグラスは信じられないといった顔でジェインを見ていた。ジェインはうなずいた。
「一年に一度、一個しか産まない卵の形を決められるのは水晶魚だけだから」
水晶魚が心動かされた人だけが願いがかなえられるんだよ。
父親の言葉をジェインは思い出す。
「盗んでも役にはたたないってわけか……」
「溶けちゃうんです。……でも、水晶魚の住んでいる谷は遠くて険しいところだから、めったに人がたどりつくことはできなくって、卵も魚になれたとしてもなかなか育たないから水晶魚は一つがいしかいなくて、願い事をかなえてもらうことなんてそうないことらしいんですけど」
ダグラスはつられたように軽く笑った。
「その方がいいのかもしれないね」
ジェインはうなずいた。
「あたしもそう思います」
地下室のドアが開いた。
祖父が顔を出した。
「まだ起きてたのか」
「あ、もう寝るところ。おじいちゃんは終わったの?」
「誰に頼まれたことでもないからな」
ぶっきらぼうな物言いに、どうやら上手くいかないらしいと想像できる。
「……もうお休み。明日も朝が早いんだろう?」
「あ、うん」
ジェインは立ち上がるとマックスも立ち上がり足下にピッタリとくっついた。
「おやすみなさい。ダグラスさん、おじいちゃん。カップはそこに置いといてね」
「ああ、おやすみ」
「おやすみ」
ジェインは身をひるがえして階段を上っていった。
その足音が聞こえなくなるとダグラスが溜息をついた。
「何か用ですか」
「そう身構えなくてもいい」
めずらしく真剣な顔のディルを見てダグラスは色々考えを巡らせてみる。
「ジェインを下がらせてまでするような話となるとやっぱりね」
「大したことではないよ。いても構わんが、いない方があんたのためだと思ったんだ」
ドアを閉め、部屋の中に入ってくると、ディルはダグラスの向かいに腰をおろした。
「あれは、父親の話をしただろう」
「しました……けど?」
「水晶魚のことも話したな」
ふいにダグラスは嫌な予感がした。
「話しましたけど」
ディルはしばらくじっとダグラスの顔を見ていたが深く溜息をついた。
「ジェインをもらってやってくれ」
ぽつりとひとり言のようにディルは言った。
「……は?」
「ジェインを嫁に貰ってやってくれ。冗談ではないぞ」
冗談ではないと言うならなんなのだろう。ダグラスは目の前にいる老人の言葉の真意をはかりかねてただただ黙っていた。
「わたしももう年だ。いつぽっくりいくとも限らん。そんなことは怖くはないが、母親も父親もいないあの子のことだけが心配だったんだよ。でも、あんたがいれば安心だ」
「勝手に安心しないでくれませんか?」
ダグラスは溜息をつきながら言った。
「俺をいくつだと思ってるんですか。ジェインは十歳ですよ、まだ! いくらなんでも」
「年齢など関係ないよ」
「彼女の気持ちはどうするんですか!」
「さっき聞いたら、あれもまんざらでもなさそうだ」
「それは今の話でしょう。何度も言いますが、ジェインはまだ十歳ですよ。この先、好きな男ができることだってある。彼女の人生を決めるのは彼女だ」
「いーや、おまえさんほどの男はいない」
きっぱりとディルは言った。褒められて悪い気はしないダグラスも、その根拠は一体どこにあるのかとか、そういう問題ではないとか言いたいことはあるのだが、あまりにも呆れて物も言えない。
「よし。決まりだ」
ダグラスは口を開きかけてやめた。何を言っても今は無駄のようだ。
階下から祖父の大笑いが聞こえてきた。ベッドの中に入ろうとしていたジェインは付き合わされるダグラスのことと、明日の片付けのことと祖父の体のことを考えて思わず溜息をついた。酒を飲みだしたようだ。
祖父がどんな話を聞かせたくなかったのか知りたくないわけではないが、くいさがってまで聞くほどのことではない。臆病者と自分を罵ってみても事態は変わらない。ジェインにも判ってはいるのだ。そんなことは。
「おやすみマックス」
ベッドの足下に座り込むマックスにあいさつをすると、ランプの火を消して目をつむった。
--お父さんが生きて帰ってきますように……。
思いついて祈ってみる。昔父親から聞いた話では、旅人は卵を貰えて、望みもかなったという。父親もそうであって欲しいとジェインは思う。帰ってきて欲しいと思わずにはいられない。
--おやすみなさい。
そう呟いて、ジェインは目をつむった。