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『精霊たちが去った後で』  作者: ホワイト・ブラック
第一章 『彗星が去りし後の黎明』
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プロローグ 『白紙の始まり』

ヴェリディアの街は、暗闇に沈んだのではない。不自然な色彩の濁流に焼き尽くされていた。


かつて現代文明の宝石と謳われた街の空から、青色は失われていた。彗星の衝突以来、大気は目を刺すようなエレクトリック・バイオレットとネオン・ピンクに染まり、その毒々しい美しさは世界の終焉を予兆していた。眼下のひび割れたアスファルトの上では、人間と亜人たちが入り混じり、パニックの濁流と化していた。


「撃て! 撃ち続けろ! あの怪物を居住区に近づけるな!」


人間の指揮官の怒号は、爆発音の中にかき消された。

淡い青光を放つマナのルーンが刻まれた重戦車部隊が、航空母艦ほどもある巨大な**「アノマリー(異形の存在)」**へと凝縮されたエネルギー弾を放つ。クリスタルのような混成体、長く伸びた四肢、そして古代の爬虫類を彷彿とさせる滑らかな頭蓋。その怪物は、かつての古城をも蒸発させるはずのマナの直撃を受けても、わずかに後退するだけだった。胸部から結晶の破片を散らすが、その不安定な肉体はエメラルド色の閃光とともに瞬時に再生していく。


数メートル先では、軽装鎧をボロボロにし、顔を煤で汚したエルフの弓兵大隊が魔法矢の雨を降らせていた。人間の武器とは異なり、エルフの魔力は怪物の密度を貫き、内側から亀裂を走らせる。しかし、敵の数が多すぎた。一体のアノマリーを倒すたびに、崩落したビルからさらに二体が這い出し、魔導障壁を無力化する熱波と電磁パルスを撒き散らす。


屈強な身体能力を誇る悪魔族でさえ、後退を余儀なくされていた。彼らの爪や黒炎の魔術は、怪物の面取りされた皮膚に弾かれ、怪物は重力そのものを歪ませる咆哮で応じる。数世紀にわたる紛争の末にようやく築かれた種族間の共存は、今、自らの首都の瓦礫の下に埋もれようとしていた。


マナ・キャノンの轟音とエルフたちの戦叫びが響き渡る中、一人の男が路地裏を必死に駆けていた。埃と血にまみれたその手は、妻の手を固く握りしめている。臨月を迎えた彼女は、一歩ごとに重い息をつき、もう片方の手で膨らんだ腹をいたわるように押さえていた。


「止まるな!」男が叫ぶ。背後では、雷を纏ったアノマリーの重圧に耐えかねたアパートが崩壊し、凄まじい音を立てていた。「避難民用のトンネルまで行けば、助かるはずだ!」


妻は頷いたが、その瞳には苦い真実が映っていた。これほどまでに眩しく、そして残酷に変貌した世界に、安全な場所などどこにもない。彼女の恐怖は自分自身のためではなく、胎内で胎動を繰り返す命――絶滅の爆心地で産声を上げようとしている新しい命のためのものだった。


突然、大地が耳を劈くような周波数で震えた。


彗星が作り出す人工的なピンク色の太陽が、巨大な影を二人の上に落とした。彼らは凍りついたように足を止める。路地の突き当たりには、氷の結晶を纏ったアノマリーが鋭い爪を地面に突き立て、唯一の出口を塞いでいた。半透明で冷徹なその体からは霧が立ち上り、触れる先からアスファルトを凍結させていく。眼のない長い頭蓋がゆっくりと傾けられ、獲物である夫婦に狙いを定めた。


男は妻を背後に押しやり、自らの体を死との間に割り込ませた。物理法則を無視する存在を前にした、人間らしい、気高くも無力な抵抗。怪物はクリスタルのあぎとを開き、その喉奥には属性エネルギーの輝きが凝縮され始めた。彼らの世界の最後のかけらを、完全に消し去るために。


アノマリーの喉奥で凝縮された冷気エネルギーが臨界点に達し、路地裏を死の色を帯びた蒼い輝きで照らし出した。男は目を閉じ、妻を抱きしめた。終わりの瞬間を待つために。


だが、衝撃は訪れなかった。


凍てつく霧を切り裂き、純粋で強固な黄金の光が爆発した。何もない空間から一人の男が姿を現し、怪物と夫婦の間に割り込んだのだ。男は銀色の甲冑を纏い、その金髪は独自の輝きを放ちながら風にたなびいている。


「下がれ、人間よ」


その精霊の声は叫びではなく、深い共鳴となって男の胸のパニックを一瞬で鎮めた。「避難所を探せ。私が汝らの盾となろう」


「せ、精霊……?」

男は喘ぐように呟いた。そこに立つ威風堂々たる姿――十二大精霊の一柱、白羊宮アリエスの具現たるアウレリウスの姿を認識したのだ。


アウレリウスは答えなかった。流れるような動作で氷のアノマリーへと手を伸ばすと、その拳の中に幾何学的な光の槍が具現化する。次の瞬間、ソニックブームとともに彼は突撃した。繰り広げられたのは凄惨な戦いだった。精霊と結晶の怪物が衝突するたびに衝撃波が走り、周囲の窓ガラスを粉砕していく。アウレリウスは銀色の落雷のごとく動き、光そのものを凍らせようとする怪物の四肢を次々と断ち切っていった。


「走れ! 今だ!」

男はその隙を突き、妻に叫んだ。


二人は火の粉と熱を帯びた瓦礫を避けながら、足を引きずり前へと進んだ。通りの突き当たりには、鋼鉄とルーンで補強された避難所への入り口――救済の門が見える。あとわずか二十メートル。急げと手招きする兵士たちの姿も確認できた。


しかし――。


彼らの数メートル上空で、燃え盛るクリスタルのマンタのような姿をした飛行型アノマリーが、脆くなった高層ビルの外壁に激突した。その衝撃は致命的だった。


「危ないッ!!」

男が咆哮したが、アスファルトの上で足が滑った。


時間が止まったかのように感じられた。巨大なコンクリートの塊と鉄骨がビルから剥がれ落ち、数トンのギロチンとなって二人へと降り注ぐ。男は爆風によって後方へ吹き飛ばされ、地面に頭を強く打ちつけた。


視界が霞み、耳の奥で鳴り止まない耳鳴りの中、男は必死に立ち上がろうとした。


「……エレナ?」

妻の名を呼び、必死に周囲を探す。


返答はなかった。先ほどまで妻がいた場所には、今や煙を上げる瓦礫の山があるだけだった。彼女がいたはずの場所を、一本の鉄骨が正確に貫いている。悲鳴も、泣き声もなかった。そこにあるのは、ただ沈黙だけだった。


男は瓦礫の山に向かって這いつくばろうとした。自分の脚が折れ、激しく出血していることさえ忘れて。指先がコンクリートを掻きむしり、血の跡を残すが、構造物はあまりにも重すぎた。ショックが彼を支配していく。瓦礫の下からのぞく妻の服の切れ端を見つめる彼の瞳から、理性の光が失われていった。


遠くでは、アウレリウスの放つ黄金の輝きが今も空を照らしていた。だが、この男にとって、世界は完全に真っ暗闇へと塗り潰されていた。


男は叫ばなかった。折れた脚の激痛など、胸を焼き尽くすような喪失感に比べれば、あまりにも些細なことだった。彼はその場に膝をつき、血にまみれた指でコンクリートの縁を無益にかきむしる。周囲の世界――爆発、勝鬨、アノマリーたちの咆哮――は、すべて遠い雑音ホワイトノイズへと変わっていた。


ただ、次の一撃が最後であることを願った。


運命がその願いを聞き届けたかのように、崩落を引き起こした飛行型のアノマリーがビル群の間を舞い降りてきた。火炎を纏った結晶の翼を羽ばたかせ、男の数メートル先の瓦礫の上に降り立つ。怪物は顎を開き、迅速な死を約束する不安定なエネルギーの核を露わにした。男は静かに目を閉じ、諦念の溜息をついた。


その時、空気が震えた。


網膜に焼き付くほどの速さで、コバルトブルーの閃光が空を貫いた。それは爆発ではなく、鋭く、絶対的な衝撃だった。アノマリーの巨体は一瞬で貫かれ、数千の結晶の破片となってアスファルトの上に降り注いだ。


男は困惑しながら目を開けたが、次に目にした光景はあらゆる論理を超越していた。


妻を埋め尽くしていた瓦礫が輝き始めたのだ。それはアノマリーの放つ暴力的な光ではなく、虹のすべての色を内包した、柔らかく脈動する輝きだった。巨大な鉄骨やコンクリートの塊が、重力を失ったかのように宙へと浮き上がる。


埃と光の中から、一人の影が浮かび上がった。


それは少年だった。見たところ十三歳にも満たないだろう。無造作な茶髪に、超常的な純粋さを湛えたエメラルド色の瞳。破壊の灰色とは対照的な、汚れなき純白の衣を纏っている。色彩豊かなエネルギーの球体に包まれながら、その少年は身重の女をその腕に抱きかかえていた。


「エレナ……?」

男は声を震わせ、嗚咽を漏らした。


妻は生きていた。だが、その顔は崩落によるものではない苦悶に歪んでいた。彼女は震える手で腹部を必死に押さえている。破水し、埃まみれの地面に命の雫が混じる。死の舞台の真ん中で、生の循環が始まろうとしていた。


宝瓶宮アクエリアスの具現たる少年、カリは、首をかしげながら男を見つめた。その眼差しには悲しみも恐怖もなく、ただ新しい玩具を見つけた幼子のような、純粋な好奇心だけが宿っていた。彼は、自分がまだ理解し始めたばかりの世界の不思議な現象を見るかのように、女の汗と男の涙をじっと観察していた。


戦いの熱を帯びた甲冑を纏い、銀色の閃光となってアウレリウスが傍らに降り立った。彼は槍を収め、幼き精霊の肩にそっと手を置いた。


「よくやった、弟よ」

アウレリウスの声には、厳かな切迫感が籠もっていた。「だが、我らの務めはここで終わりではない。この命を、死にゆく街の地で誕生させるわけにはいかぬ。よく聞け、カリ。我々がなすべきことは……」


カリは瞬きをし、傷ついた男から視線を外して兄を見上げた。その緑の瞳に宿る無垢さは、完全なものだった。

真っ白な紙。

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