第七話|彼女の「小さな動物」モード
その夜、嵐は前触れもなくやってきた。
激しい雨が窓ガラスを打ちつける。まるで闇の向こうで、誰かが必死に扉を叩いているかのようだった。
銀白の稲妻が空を裂き、一瞬だけリビングの片隅を照らし出す。
筱月はカーペットの上にあぐらをかいて座り、タブレットに向かっていた。画面の光が横顔を淡く照らし、ペン先はデジタルキャンバスの上を滑らかに走っている。描かれているのは、半透明のクラゲ。深い青の海の中で、静かに漂っていた。
次の瞬間、雷鳴が轟いた。まるで屋根の真上で炸裂したかのような大きな音。
筱月の体がびくりと強張る。指先が震え、タブレットが「ぱたん」と床に落ちた。
画面には、触手がかすかに揺れるクラゲの姿が映ったまま止まっている。
声は出さなかった。
けれど、驚いた小動物のように素早く立ち上がり、ひんやりとした床を裸足で駆け抜け、そのまま自室へ飛び込む。ドアはほとんど叩きつけるように閉められた。その音の奥に、わずかな震えが混じっていた。
キッチンで牛乳を温めていた曉雨は、その物音に眉をひそめる。
火を止め、湯気の立つマグカップを二つ手にして部屋へ向かった。明かりはつけない。ときおり窓の外で閃く稲光だけを頼りに、ベッドの上の姿を見つける。
筱月はすでに布団にくるまり、丸い目だけをのぞかせていた。まるで雨宿りする猫のように。
「また雷、怖いの?」
曉雨はくすりと笑う。からかいではない、ただ優しい理解が滲んでいた。
牛乳を枕元に置き、布団の端をめくって中へ滑り込む。
「怖くないし!」
筱月は強がるが、すぐに彼女の胸元へと身を寄せる。
「ただ……急にちょっと寒くなっただけ。」
「はいはい。寒くて、描きかけのクラゲまで放ってきちゃったのね。」
曉雨はそっと髪を撫でる。指先にわずかな湿り気を感じた。さっき慌てて走ったせいか、額にうっすら汗がにじんでいる。
再び雷鳴が響く。
筱月は反射的に、さらに深く胸元へ顔を埋めた。
曉雨は小さな子どもをあやすように、優しく背中を叩く。
外では嵐が荒れ続けているのに、部屋の中はふたりの呼吸だけが静かに重なっていた。
「知ってる?」
曉雨が低く囁く。
「雷はね、空が太鼓を叩いてる音なんだよ。稲妻は、雲が花火を上げてるの。」
筱月は腕の中でもぞりと動き、小さく返事をする。
「……うん。」
顔を上げないまま、しばらくしてから、そっと続けた。
「じゃあ……あなたが、私の花火になってくれる?」
曉雨は微笑み、腕に力を込めて彼女を抱きしめる。
「もちろん。ずっとそばにいるよ。」
嵐はまだ止まない。
それでも、この瞬間だけは、もう誰も怖くなかった。
――本当に強い人ほど、誰かに抱きしめてもらう時間が必要なのかもしれない。
そして、いちばん無邪気な誰かが、ときには静かに灯りを守っている。




