表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/13

第五章|うちの子猫が風邪をひいた日

曉雨あめが目を覚ましたとき、

太陽はすでにカーテンの隙間から斜めに差し込み、枕の片隅を照らしていた。


彼女はこめかみを指で揉みながら、そっと眉をしかめた。

頭がぼんやりと重たい。まるで誰かが綿をぎゅうっと詰めて、

その上からやんわりと押さえつけているような鈍い痛み。


でも、彼女は何も言わなかった。

ただ静かに体を起こし、布団を丁寧に直して、

まるでいつも通りの朝のように、何事もなかったふりをした。


キッチンへ行き、水を一杯注ぐ。

指先が冷たいガラスの感触に触れて、少しだけ頭がすっきりするような気がした。


普段なら、そこに蜂蜜を一さじ。

子どもの頃、薬を飲むのが嫌で、ママが入れてくれたあの甘さ。

でも今日は――入れ忘れた。いや、思い出しもしなかった。


リビングに戻り、昨日読みかけの本を拾い上げてソファの隅に丸くなる。

膝に薄いブランケットをかけ、静かにページをめくるけれど、

視線はページを追わず、しばしばどこか遠くを見てしまう。

まるで、陽の中を舞う埃を数えているかのように。


いつもなら、本を読みながらキャンディの包みを剥くのが彼女の小さな習慣。

カサカサという音が、彼女にとっての静寂のリズム。

けれど今日は、その引き出しの中のカラフルな飴玉たちに、一度も手が伸びなかった。


筱月さつきが熱いお茶を持ってリビングに入ってきた時、

その違和感には一瞬で気がついた。


「ん?」

彼女は声にならない疑問を口にしつつ、

カップをサイドテーブルに置き、しゃがんで曉雨の顔を覗き込む。


曉雨はまばたきをして、無理やり笑ってみせた。

「……なに?」


「今日のあんたさ」

筱月は指で曉雨の額をつついた。

「魂が抜けたテディベアみたい」


「そんなことないし!」

曉雨は口を尖らせる。


「そんなことない子は、大好きなイチゴキャンディを忘れたりしないと思うけど?」

筱月はにやりと得意げに眉を上げ、からかうような口調で言った。


そのままそっと、曉雨の手から本を引き抜き、ぱたりと閉じる。


「ちょっ……」

曉雨は本を取り返そうとするが、動きが鈍く、筱月に軽くかわされてしまう。


「……もう、いい加減にしなよ」

筱月はそのまま隣に腰を下ろし、湖のような緑の瞳で彼女をまっすぐに見つめた。

「頭、痛いんでしょ?」


曉雨は一瞬たじろぎ、目を逸らして「別に……ちょっと疲れてるだけ」と呟いた。


「疲れぇ?」

筱月は鼻で笑いながら、額に手を当てた。

指先はひんやりと冷たく、心地よい。


「熱はないけど、顔が真っ白。あんたってさ、体調悪くても絶対に言わないよね?

前の風邪のときだって、夜市で臭豆腐食べたいってついて来て、途中で道端でゲーゲーだったくせに」


「……あれは、臭豆腐が悪かったんだもん……」


「はいはい、全部臭豆腐のせいってことで♡」

筱月はクスクスと笑いながらも、その声はどこか優しくて。

「でも今日は、逃がさないよ。言うまで、ここから動かないからね?」


陽の光が、カーペットの上を少しずつ移動していく。

重なったふたりの影の上にも、やわらかく落ちる。


ついに観念したように、曉雨の肩がすとんと落ちた。

「……ちょっとだけ、頭が痛いだけだから。大したことないってば……」


「小雨にとっては大したことなくても、私にとっては“大事件”なんだけど」

そう言って、筱月はそっと彼女を腕の中に引き寄せた。

「ちゃんと甘えてよ。病気になるのって、別に悪いことじゃないんだし。

あんたが無理するから、私、世話焼き癖が定着しちゃうじゃん」


曉雨は何も言わなかった。

ただそっと筱月の胸に頬を預け、まるで冷えた体をようやく温めるように寄り添った。


彼女の胸からは、ほのかに柑橘系の香り。

太陽の匂いを吸い込んだセーターのぬくもりが混ざって、曉雨はふと、

「あれ……さっきより痛くないかも」と思った。


台所の冷蔵庫は、今日も変わらずブーンと低く唸っている。

まるで午後の静けさに、そっと囁くように。


リビングの隅では、ふたりの少女がただ寄り添っていた。

もう誰も「頭痛」なんて言葉は、口にしなかった。


だって――

本当の「思いやり」は、言葉なんか、なくてもちゃんと伝わるのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ