(八)彼女の記した日記
二人で図書館で読書したあと、館内にあるカフェで軽食を摂っていた。
BGMは静かなクラシック、弦がふわりと天井に溶ける。
コーヒーはブルーマウンテン、軽食はピザパン。
彼女は、いつも読んでいる推理小説をタケルに手渡した。
「はい。あなたが以前から読みたがった推理小説よ」
分厚い上製本をトートバッグから取り出し、机の上を滑らせるように差し出す。
タケルは目尻を和ませ、ページの重みを掌で確かめた。
「ありがとう。読書で通じ合えるって毎日が楽しいよ」
「私もよ」
粉チーズをひと振り、タバスコを二滴。
ブルーマウンテンの酸味が、彼の言葉の輪郭をやさしく整えていく。
注文票の裏に、彼女はさらさらと何かを書きつけていた。
タケルが首を傾げると、彼女はいたずらっぽく微笑み、薄紙のようなメモを折り畳んで彼に返した。
「のちほど、ね。今は読み進めて」
その夜。
帰宅したタケルがメモを開くと、そこには小さな扉のように見出しが記されていた。
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*彼女の記した日記(抜粋)
――れんげ草の花弁の間に綴じる覚書――
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【四月三日 図書館のカフェにて】
今、向かいに座る人は、私のページを静かにめくる。
コーヒーの湯気の向こう側で、彼の睫毛が光る。
恋は音にならない合唱だと思う。誰かの声に寄り添って、私の声はやっと自分の高さを知る。
紙をめくる音が、春の風に似ている。
今日、私は決めた。――「読む」だけではなく「書く」側で、彼の横に座り続けると。
【四月九日 早朝の窓辺】
夜明けの鳥たちは、いつも決まった順番で鳴く。
一番目の声が空に階段をかけ、二番目の声がその段を確かめ、三番目の声が私の胸に降りてくる。
私は手帳を開き、彼にまだ渡していない言葉たちの、靴紐を結び直す。
――「もし運命があなたを奪おうとしても、私はあなたを選び続ける」
この言葉は、手紙の中で一番最初に息をした。
今は、本の中で深呼吸している。
【四月十七日 祖母の家の台所】
祖母が紅玉でジャムを煮ている。
砂糖が溶ける匂いは、安心の色をしている。
祖母は言う。「お前の文は台所に似ているね」
私は尋ねた。「どうして?」
「分量と火加減で、人の心をあたためたり、焦がしたりできるからさ」
焦がしたことも、ある。
空港の回転ドアの前で、私は一度、火を弱めるのを忘れた。
でも、あの日の鍋は、神様がそっとコンロのつまみを戻してくれたのだと思う。
欠航という名の雨雲が、台所の窓の外までやってきて、湯気と仲直りした。
【五月一日 推敲の午後】
私は自分のことを「れんげそう」と名乗った。
本名でも偽名でもない、私の中の一番ひかえめな花の名。
レンゲは土を耕し、見えないところで土に栄養を返す。
書くことは、そういう根の仕事だと思う。
誰かの畑に、静かに空気を混ぜる。
タケルの畑は、よく耕されている。
そこに私の小さな根が伸びていくと、言葉が芽吹きやすくなる。
そう信じたい。
【五月四日 雨上がりの図書館】
彼が、棚の前で私の本を見つけた日のことを思い出す。
あの一節は、真夜中の台所で書いた。
小さな鍋にミルクを温めて、火を止めてから砂糖をひとさじ。
甘さが完全に溶けきる前に、私はペンを走らせた。
甘さが残るうちに、言葉は未来へ行く。
翌朝、私はそのページに、薄い折り目をつけた。
――図書館で、誰かがそこに指を置きますように。
指の温度は、祈りの温度に似ているから。
【五月十二日 小さな嫉妬の告白】
彼が推理小説を読みふけっている間、私は少しだけ不安になる。
紙の上の誰かに、彼の驚きが奪われてしまう気がして。
でも、次の瞬間、その不安は私のなかで形を変える。
――彼の驚きを増やす書き手になろう、と。
嫉妬の種は、光に当てれば発芽する。
暗闇に置けば、根が腐る。
私の嫉妬は、光合成の仕方を覚えたらしい。
【五月二十日 教会のベンチ】
バレンタイン司祭の講話。
祈りは、願いの分だけ長く伸びる影。
影が長いほど、光源は低く、夕刻に近い。
夕刻は帰路の時間。
帰る場所がある者だけが、影の長さを測ることができる。
彼の歩幅に影が寄り添うように、私の祈りはゆっくり伸びる。
伸びきったところで、私は影の端に名前を書く。
――「帰る」。
それは命令形じゃない、ただの現在形。
【五月二十八日 千本桜の余白】
桜の季節が過ぎても、私は小さな花弁をしおりにしている。
しおりは、読みかけの心に挟まる合図。
私たちの会話は、よくそこで再開する。
「桜の香りって、覚えられるかな」
「覚えるんじゃなくて、思い出させてもらうのかも」
香りは記憶の鍵穴。
私はポーチに小瓶を忍ばせている。
蓋をひねると、春が少し戻って来る。
【六月一日 小説の構造メモ】
序:出会いの図書館。
破:再現デート――桜、雪、映画。
急:危機――欠航のアナウンスと心の分岐。
転:祈りと手紙、本になる言葉。
結:まだ書かない。
「結」は、ページの外で少しずつ起こる。
読者の暮らしの中で。
だから私は、「結」を空白として残す練習をしている。
空白は、読者の息継ぎ。
そして私自身の、未来の椅子。
【六月八日 図書館カフェ、二席のあいだ】
タケルは時々、黙って手を伸ばしてくる。
指先が少しだけ、テーブルの縁で触れる。
たったそれだけで、私は今日も選ばれたのだと思う。
選ばれることに慣れたくない。
毎回、最初の一回として驚いていたい。
紙コップの縁に口紅が薄くつく。
私はそれをハンカチでそっと拭う。
残すことと、残さないことの境界線を、今日も学び直す。
【六月十五日 彼の弱さの強さ】
人は誰も、吹雪のときだけ別人になる。
彼はそう言った。
私はうなずきながら、彼の冬に私の海を分けると決めた。
シーフードピザの半月形は、たぶん月の欠片。
欠けた月は、完全じゃないから美しい。
完全を目指すと人は息が続かない。
欠けたまま抱き寄せ合う、それが「並走」だと思う。
【六月二十日 推理小説の栞】
彼に手渡した推理小説には、答えに辿り着く前に二度、誤誘導がある。
恋も同じ。
私たちは二度、違う出口に手をかけた。
でも、ドアノブが冷たすぎて、手を離した。
その冷たさを、私は信じている。
間違った出口の方が、時にノブが熱い。
熱に惑わされないために、私は手袋を持ち歩く。
それは、祖母の手編みのミトン。
祖母はいつも、温度のことばかり気にかける。
【六月二十五日 名乗らなかった名】
私は、まだ彼に「れんげそう」をはっきりとは言っていない。
秘密は、罪ではなく、熟成の猶予。
葡萄がワインになるまでの静けさを、私は愛している。
でも、秘密は長く置けば置くほど、栓を抜くのが怖くなる。
私は自分のコルク抜きの場所を、たしかめているところ。
深呼吸を三回。
それから、開ける。
*
ここまで読んで、タケルはメモを裏返した。
奇妙なほど胸が静かだった。
騒がしさを経由して訪れる静けさ――雪が降る直前の空の気圧のような。
翌日。
彼は図書館の廊下で彼女を待ち、メモの返事を、同じくらい薄い紙に書いて渡した。
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*タケルの返信(断章)
「選ばれることに慣れたくない」という一文に、僕は立ち止まった。
慣れないでいてくれて、ありがとう。僕も慣れないでいる。
欠けた月は、美しい。
僕はたぶん、満ち欠けを報せる潮騒でいたい。
満ちすぎたら、引かせる。引きすぎたら、満たす。
君の根が伸びる畑で、生きものみたいに季節に従いたい。
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彼女はそれを読み終え、目尻を拭い、微笑んだ。
「行こっか。今日は“書きデート”」
そう言って、文具売り場で同じノートを二冊買い、またカフェへ戻った。
店員が覚えているのか、何も言わずにブルーマウンテンを二つ置いた。
二人はノートの一ページ目に、それぞれの「章立て」を書いた。
彼女は躊躇なく見出しを書いていく。
「第一章:出会いの棚」
「第二章:再現の散歩」
「第三章:欠航の祈り」
「第四章:れんげそうの根」
「第五章:秘密の栓」
「第六章:並走の手袋」
「第七章:海と吹雪」
そして彼女はペンの先でそっと空白を撫でた。
「第八章:読者の椅子」
「第九章:まだ書かない」
タケルは、その空白の隣に小さく書いた。
「第八章:彼女の記した日記」
彼女は笑った。「ね、同じ章に辿り着いちゃった」
「きっと入口が同じなんだよ」
その日から、二人は週に一度、同じ場所で同じノートに「日記小説」を書き足した。
形式は決めない。
散文の隣に短歌が生まれ、箇条書きの端に比喩が芽吹く。
彼女は時々、祖母の言葉を挟み、タケルは時々、物理の比喩で宙を支えた。
ページが重なっていく速度に、二人の生活の速度が寄り添っていく。
ある週の終わり。
彼女はとうとう、その一行を書いた。
【七月二日 告白】
――私は「れんげそう」です。
やっと言える。
名前は仮名でも、書いた心は本名です。
隠していたのではなく、育てていました。
栓を抜いたら、ほのかな香りがしました。
祖母が笑いました。
あなたの畑に、私の根を正式に移します。
これからも、よろしくね。
タケルは読んで、すぐに返した。
彼の返事は、彼女のノートの余白に、まるで欄外注のように寄り添っていた。
【七月二日 応答】
――ずっと知っていたような、いま初めて知ったような。
君の仮名も本名も、僕は同じ温度で読む。
根の移植には、雨が必要だ。
今夜、雨が来る。
屋上で待っている。
傘は一本でいい。
夜。
予報通り、雨は静かに降り始めた。
あの夜の再演ではない。
けれど、似ていた。
ふたりは屋上のテラスに立ち、透明な傘を肩に寄せ合い、街の照明が濡れた世界に灯台を点けるのを眺めた。
彼女は言った。「書く前に、少し黙ろう」
タケルはうなずいた。静けさは、言葉の前菜だ。
雨脚がわずかに強くなる。
遠くで救急車のサイレンが一度だけ鳴り、すぐに遠ざかる。
彼女は掌を広げ、雨粒のサイズを確かめるように見つめた。
「この雨なら、移植にちょうどいい」
そして二人は、同じタイミングで、同じ言葉を口にした。
「――アーメン」
翌朝。
図書館の開館十分前、玄関脇の小さな掲示板に「読書会 次回テーマ:日記文学」と掲げられたポスターが貼られた。
彼女は足を止め、ポスターの下に、控えめな手書きのカードを差し込んだ。
「れんげそう――『運命を変える恋人たち』制作ノートより」
タケルは、その下にもう一枚。
「共同書簡『並走日記』抜粋」
読書会の夜。
十数人の参加者の前に、彼女は震える声で読み始めた。
読み上げるのは、空港の欠航を知らせるアナウンスの場面。
あのときの自分の呼吸の速さまで、文字に刻んである。
読み進めるうちに、彼女の震えはおさまり、声は自分の高さを取り戻す。
タケルは彼女の隣で、ページをめくる係に徹していた。
彼の指が、節ごとにしっかりと止まる。
それだけで、彼女は最後の行まで辿り着けた。
拍手。
終わったあと、年配の女性が近づいてきて、そっと言った。
「あなたの“空白”が好き」
彼女は目を瞬かせる。「空白?」
「はい。読者が息を継げるところ。そこに、私の昔の恋が入り込めたの」
彼女は胸の奥で小さく礼拝をした。
――空白は、読者の椅子。
ノートに書いた定義が、初めて外の空気に肯かれた瞬間だった。
帰り道。
街路樹は夏の濃い緑。
街灯の輪が、葉を一枚ずつ通して地面に落ちる。
霧雨はない。
けれど、あの夜と同じように、二人は手を繋いだ。
彼女は囁いた。
「私、これからも“日記”を書く。あなたに読んでほしくて」
タケルは笑って答えた。
「僕は“余白”を書く。君が座れるように」
夏が深まる。
海へ行く計画、祖母の家の台所の修繕、教会のボランティア、そして新しい章立て。
スケジュール帳は埋まっていく。
でも、二人は必ず週に一度、同じノートに向き合った。
そこでは期限も正解も求められない。
ただ、今日の温度だけが、正直であればいい。
ある週、彼女は短い詩を残した。
【七月二十三日 短詩】
言葉とは 雨の素。
雲のなかで 静かに生まれ、
落ちる場所を 自分で選べない。
だから私は 地面をならす。
あなたの畑が やわらかいように。
タケルは、その詩の隣に一文を書いた。
「落ちてくる場所に、いつも君がいる。だから、雨は怖くない」
八月の初め、図書館に新しい展示が設けられた。
「市民が綴る一冊」――地域で書かれた本や、寄稿の断片を並べる展示。
そこに、れんげそうの名はまだない。
代わりに、無署名の一枚が留められていた。
『彼女の記した日記』とだけ題された、活字になっていない手書きのページ。
見る人は足を止め、数行読んで、少し笑み、そして静かに歩き出す。
図書館の空気に、誰かの生活がそっと混ざる。
それは、レンゲの根が土に混ざるのと同じ仕方で。
その夜、彼女は日記にこう結んだ。
【八月六日 締めくくりではない締めくくり】
私の日記は、あなたへの手紙で、町への置き手紙で、自分への連絡表だ。
明日の欄には、まだ何も書かない。
空白を、空白のまま、大切に持ち運ぶ。
そこに、次の雨をためるために。
いつか展示の棚に、私たちの“共同の背表紙”が並ぶ日が来たら、
その本の最初の一行は、こうであってほしい――
「運命は与えられるものではなく、二人で描く物語である」。
私は日記に署名する。
れんげそう――そして、本名の私。
どちらも私。
どちらも、あなたに向いている。
ペン先の音が止む。
窓の外、八月の夜風がカーテンの裾を揺らす。
遠くで、かすかな花火の音がした。
彼女は机の引き出しから封筒を取り出し、書き上げたページをそっと入れた。
宛名は、たった一言。
――「図書館へ」。
そして、もう一通。
もっと小さな封筒には、もっと短い宛名。
――「あなたへ」。
翌朝、彼女は二通を持って家を出た。
図書館の返却ボックスに一通を落とし、もう一通は、いつものカフェのテーブルで、彼の掌にのせた。
彼は封を切らずに、胸ポケットにしまう。
「今夜、読む。雨が来たら」
雲は、ゆっくり集まり始めていた。
午後の予報は、弱い雨。
移植にちょうどいい。
新しい根は、目に見えないところで、もう伸び始めていた。