第九話
竹―十
宗一郎は薄暗い部屋で目を覚ました。板張りの天井は、雨漏りのシミが怪獣の形に見える。かび臭い布団をはいでゆっくり身を起こすと、半開きの襖の向こうにリョクの背中があった。
「リョク……」
出た声は掠れていたが、彼は気付いて振り向いた。
「そういちろー、よかった。大丈夫か?」
リョクはみしみしと軋む畳を踏んでそばに来た。
「ここは?」宗一郎は首をめぐらせた。狭い和室に寝かされていた。
リョクは縁側に面した雨戸を開けた。
昨日とはうって変わって明るい朝の陽射しが差し込んできた。庭の木々たちの雑談が、さざ波のように聞こえてくる。
「ここはじいちゃんの家だよ」
ぼうっとしていた頭に、一気に記憶が巻き戻った。白い煙、竹の子供の悲鳴、焼かれるような痛み……。
「リョク、小学校が火事だ。消防車を!」
リョクは大丈夫だと言うように頷いた。
「ここに居たんだけど、なんだか急に竹林が騒がしくなって、そしたらテンが学校で宗一郎が倒れてるって知らせてくれた」
消防車も彼が呼んでくれて、ボヤ程度で消し止められたということだった。
「オレ、あんたが放火したのかと思っちゃってさ。それで見つかったらやばいって、じいちゃんの家に連れてきたんだ」
宗一郎はリョクの機転に感謝した。何故あんなところに居たのかと聞かれても、答えようがない。彼は立ち上がろうとしたが、何だか体に力が入らず、布団の上に座り込んだ。
リョクが心配そうに布団の脇に跪いた。
「……校舎の中の竹たちは?」
尋ねると、リョクは首を横に振った。
「わからない。不審火だって、警察と消防が来てたから、近づけなかった。警察の人が、今日うちに来るって言ってた。あの山はオレのだから、オレ、ここに居なくちゃいけないみたいなんだ」
宗一郎はため息をつくと、昨夜のことをリョクに話した。彼は黙って聞いていた。
「つまらない感情的なことから、若い竹たちを傷つけてしまった。まさか、あんなことになるとは」
江古田の仕打ちを思い出すと、怒りが込み上げる。あの気の毒な竹の子供たちの悲鳴を聞いても尚、あんなひどい仕打ちが出来る人間がいるなんて、信じられなかった。
「どうして、アイツはあんなヒドイこと……」
『それは、普通のことやないの?』
いつの間にか、枕元に黄色い鉢が置かれていた。サボテンは相変らずへたくそな関西弁で言った。
『所詮人間と植物やからな。それに、お前と違って、竹が焼けようが枯れようが、アイツには何にも関係あらへん。声が聞こえたところで、なんも変わらんよ』
リスクが無いと、ヒトは無関心で居られるのだと言いたいのだろうか。確かにテンの言う事は正しい。そうやって、ヒトは今まで数えきれないほどの緑を斬り倒してきたのだ。そして、これからもそれは続く。
この竹林が開発をまぬがれたとしても、江古田のような人間は、きっと別の森をすぐに探して同じようなことをするのだろう。利益が出ればそれでいいと。そして、それが彼の仕事なのだ。
「ねえ、教えてくれないかな」
考え込んでいると、リョクが声を掛けてきた。
「そういちろーは、どうして緑化生を作ろうと思ったの?」
「え……?」
どうして……? そういえば、そんなこと考えてもみなかった。榊宗一郎は何故緑化生を作ったのだろう?
「元々そういちろーは植物の声が聞こえたんだろう? なら、緑化生なんていらないんじゃないの? それとも、仲間が欲しかったの?」
いや、そんな遊び半分の研究ではないはずだ。榊宗一郎が生涯をかけてやろうとしていたことは、もっと別の理由があるはず。江古田の場合が良い例だ。たとえ植物の声が聞こえたとしても、それを単なる騒音程度にしか感じない人間には、全く意味がない。
『所詮草木のたわごと』程度の反応では、地球環境の改善を訴えるには弱すぎる。
――付加価値。榊宗一郎が新しい緑化生にプラスした追加効果を探ってみる必要がある。それによっては、江古田に開発の撤回を求めることが出来るかもしれない。
「リョク、俺はアパートに戻るよ。何かあったら電話してくれ。……そうだ、サッチーも来たから、夜はうちに帰って来いよな」
『サッチー』と聞いて、リョクの顔がパッと明るくなった。あの賢いウチワサボテンは、きっとリョクにとって母親のような存在なのかもしれない。
アパートに戻ると、サッチーが声を掛けてきた。
『宗一郎さま、お体は大丈夫ですか? なにやら物凄いことになっておりましたね』
昨夜のボヤ騒ぎは、遠く離れたこの場所にまで聞こえていたらしい。宗一郎はパソコンを持って来ると、サッチーの前に座った。
「頼む、教えてくれ。榊宗一郎がやろうとしていたことを」
サッチーはしばし沈黙した後、尋ねた。
『昨夜、何があったのですか?』
宗一郎は昨夜のことをサボテンに話した。
「オレの命がどうのなんて、そんな事はもういいんだ。オレの山が無事でも、また無意味な開発のために別の山が削られては意味が無い。そう思ったんだ」
『……何だか不思議な感じがいたします。まるで、以前の宗一郎さまとお話しているようですわ』
サッチーの声が震えて、無数にある棘の先からわずかに水分が滲み出した。
ひょっとして、泣いているのだろうか?
故人を悼む……。植物に、そこまで感情があるとは思えないが、本物の榊宗一郎のようだと言われた事が、妙に嬉しかった。
サッチーはパソコンで、ある画面を開くように指示を出した。
『パスワードは、エコロジーOTAKU』
パスワードを入力すると、物凄い勢いでパソコンがデータを解凍し始めた。ブーンとうなる音が部屋に響く。
「いったい何だ? この大量のデータは」
画面を食い入るように見詰めていると、サッチーは懐かしそうに言った。
『これが、宗一郎さまの生涯をかけた計画です。私は、この計画を引き継いでくれる人が現れるのを待っていました。試作品の緑化生と金庫の鍵を一緒にして、私の植木鉢に隠しておくというのは、一つの賭けだったんです』
サッチーは静かな声で語り始めた。
榊宗一郎の余命があとわずかとなったとき、誰に計画を引き継ぐかということで、サッチーと宗一郎は揉めたらしい。
『宗一郎さまの計画は、ある意味とても特殊なものです。彼が白樺と共に生きてきて、そして死んでゆく運命であったことを信じてくれて、尚且つ本当に理解してくれる人間でなければ、この計画は成功しません。残念ながら、その時周囲には適任者は見当たらなかった』
あれこれと話し合った末に、運命に任せてみようという結果に落ち着いたのだという。
『もしもリョクが緑化生を口にして、私の声を聞いてくれなければ、そこでお終いだったのです。私と宗一郎さまは、この賭けが成功しなかったら、計画をあきらめようと、そう決めていました』
「榊宗一郎の計画……」
サッチーは真剣な声で言った。
『先日も言いましたが、緑化生に関わる事は中途半端では許されないのです。それは、ある意味あなたの立場が一般の人間と対立することになるかもしれないからです』
宗一郎はサッチーを見て笑った。
「大丈夫だよ。もう覚悟は出来てる」
榊宗一郎の遺志を継ぐ。それが、生まれ変わった自分に課せられた使命であり、この体をくれた青年に対する恩返しだと思った。そして、本物の榊宗一郎に一歩でも近付くことが出来たならば、自分は後ろめたさを感じずに、胸を張って生きてゆくことが出来るのではないか? 榊宗一郎の面影に引け目を感じる事無く、もう一度萌子に会うことが出来るのではないだろうか?
データの読み込みが終わったようだった。宗一郎はサッチーの指示に従って、画面に映し出される驚愕の内容を読み進めていった。
火災の現場検証が終わり、昨夜のことを聞きに来た警察官も帰って行った。
リョクはテンの植わっている黄色い鉢植えを抱えて、祖父の入院先へ向かっていた。昨日は、ろくに顔も見ないままに病院を飛び出してしまった。具合が悪そうだったが、祖父は大丈夫だろうか?
誰も居ないバス停で、駅方面のバスを待ちながら、リョクはテンに尋ねた。
「そういちろーとあの竹たちの間に何があるのか、教えてくれないかな」
テンはずっと沈黙を守っていた。植物たちは、決して余計な事は言わない。それが心地良いのだが、こんなときはとてももどかしい。
「竹たちに、直接聞いたほうがいいのかな?」
すると、黙っていたテンが声を出した。
『もう、あの竹林には行かない方がええよ』
「どうして?」
テンは再び沈黙してしまった。リョクは意地の悪い笑みを湛えたあと、黄色い植木鉢をバス停のベンチに置いた。そのまま道路端に出て遠くを見やると、カーブを曲がってバスが近付いてくるのが見えた。
『おい、もうすぐバスが来るで』
テンの声を無視して、リョクはバス停のポールをぐるぐる回って遊んでいる。
『おい! リョク、聞こえてるんやろ?』
エンジン音がして、バスが目の前に止まった。リョクは開いた扉の前で振り返って、テンを見詰めた。
「オレの質問に答えなきゃ、ここに置いていっちゃうよ」
『のああああ! なんちゅうガキじゃ!』
観念した様子のテンを抱えてバスに乗り込むと、リョクは最後部の座席に座ってにこっと笑った。
萌子は市立総合病院のロビーでぼんやりと時計を見やった。武山老人は何とか持ち直したが、まだ安心できない状態だった。本来ならば、開発室から総務課に移った時点で、ここに来る用事は無いはずなのだが、老人のことが心配で、会社を抜け出して来てしまったのだった。
先日本社に出向いて社長に直談判したが、結局まともに取り合ってはもらえなかった。ただ、救いなのは、社長の言った言葉だった。
「エコロジータウンについては、世間が注目している企画だからね。開発自体に意味が無いとまで言われては、私としても大いに気になるところだ。再考してみるよ」
どこまで期待できるかわからないが、自分の行動は無意味ではなかったのだと納得するしかない。辞表は受け取ってもらえず、未だに手元にあるけれど、エコロジータウンの行方を見届けた時点で退職しよう。何か別の、もっと自分に合った仕事を見つけて、ストレスの無い生活を送りたいと、心の底から思った。
「お花屋さんにでもなろうかな……」
見舞いの花束を持って通り過ぎる人を見て、ふとそんな事を考えた。榊と二人で花屋でも開いて、自分たちで育てたお花を売る。そんな毎日だったら、どんなに楽しいだろう。
「先輩と二人で……」
うっとりと妄想に浸っていると、声を掛けられた。
「すみません、ドリーム開発産業の方ですよね?」
振り向くと、先日会った武山老人の孫が立っていた。少年はぺこりとお辞儀をすると、「座ってもいいですか?」と、問いかけた。萌子は頷いて体をずらした。
ソファに並んで腰掛けると、少年が躊躇いがちに口を開いた。
「さっき、祖父と少しだけ話をしました。あの竹林のことです」
萌子はハッとして身を硬くした。今は担当を外れてしまったが、少年はそのことを知らないのだろう。本当は江古田に直接話をするように言うべきなのだが、少年がどのような決断をくだしたのかとても知りたかった。
少年は、膝の上に乗せたサボテンの鉢植えをいじりながら言った。
「お金は、欲しいです……」
萌子は「やっぱり……」と、肩を落とした。が、次の言葉で大きく目を見開いた。
「でも、やっぱり売る事は出来ません」
少年はキッパリと言って、萌子の顔をじっと見詰めた。
「あなたの言うように、あそこには祖父や母の思い出が確かにありました。でも、そればかりでなく、あそこはそういちろーにとっても重要な場所だから」
「榊先輩にとって、重要……?」
萌子は痩せた少年の、茶色い瞳をじっと覗き込んだ。
宗一郎は短くなった自分の影を踏んで、アパートの階段を上がっていった。いつの間にか気温がぐんぐん上がっていた。彼の手元には土の入った植木鉢がある。今アパートの外の土を入れて部屋に持ち帰るところだった。
「これでいいのかな?」
彼が鉢を差し出すと、サッチーは言った。
『そこに、緑化生を埋めてください』
宗一郎は指で深さ五センチほどに穴を開けると、緑の豆を一粒まいた。それは、昨夜江古田に食わせた緑化生の片割れだ。この残った豆こそが、緑化生を食べた人物に対して追加効果を発揮するのだ。不思議な豆は、彼らの見ている前であっという間に芽を出した。それは一時間ほどで高さ十五センチくらいの苗木に成長する。元々植物の研究をしていた榊宗一郎は、植林の際に早く育つ苗木の研究・開発をしていたのだという。
「じゃあ、サッチー。行ってくるよ」
『宗一郎さま、くれぐれも、お気をつけて』
宗一郎は、緑化生の苗木を持って、ドリーム開発産業に向かった。
都心のオフィス街にドリーム開発産業のビルはあった。宗一郎はガラス張りのエントランスに入ると、受付で名前を告げた。さっき電話で連絡したところ、江古田は何事もなかったかのように応対してきた。
「昨夜は飲みすぎたものですから、ちょっとよく覚えていません」
そう電話で言った江古田は、本当に食えない男だと思った。宗一郎は胸に抱えた苗木をチラリと見やると、エレベータで上階を目指した。
だだっ広い開発室には江古田しか居なかった。本来ならば、ここで萌子も仕事をしているはずなのだが、別の部署に移ったというのは本当のようだった。いや、移されたと言った方が適当か。
江古田は来客用の応接セットに宗一郎を迎えると、いきなり言った。
「で、売ってくださるのですか?」
バカじゃないのかと思う。昨夜あれだけ痛めつけられても、まだ懲りないのだろうか。
「今日は、開発の話を白紙に戻してもらうよう、お願いに上がりました」
何をバカなことをと、江古田は鼻で笑った。
「妙な仕掛けを作ったり、でっち上げの録音を聞かせたりして、今度は開発中止の要請? まさか本気ではないでしょう? 目的はわかってますよ。いったいいくら出せばいいんです? じわじわと値段を吊り上げるくらいなら、単刀直入に言ってください。私は回りくどい事は苦手なんでね」
宗一郎は醒めた目で江古田を見ていた。どうして、こういう考え方しか出来ないのだろう。
「僕が、金欲しさに言ってると思っているんですか? あなたって人は、最低ですね」
江古田は意味がわからないといった様子で、太い眉を片方だけピクリと上げた。
「僕は、開発の白紙を本気でお願いしているんです。あの竹林に限らず、今後行われる大規模開発に対して、もっと自然環境のことを真剣に考えて、それから着手して欲しいのです」
江古田はいきなり笑い出した。可笑しくて堪らないという風に、身を二つ折りにして笑っている彼を見て、宗一郎の中で最後の躊躇いが吹っ切れた。
宗一郎は笑い転げる江古田に向って、感情を抑えた声で言った。
「僕の言ったことが可笑しいですか?」
江古田は涙目になりながら、懸命に笑いを押さえ込もうとしているようだった。ひとしきり笑った後、江古田は一転して態度を変えると言った。
「今どき自然環境なんてさ、建前だよ。金が欲しくないヤツなんか居ないのさ。まあいい。あの場所が駄目でも、Y市の山村に広大なブナ林がある。そこが第二候補地だからね。まあ、あの竹林ほど良い条件じゃないけど」
宗一郎は呆れて物が言えなかった。開発とは、こんな簡単に行われてしまうものなのか。改めて、萌子のストレスの大きさを知る思いだった。
「もう、お宅には頼まないから。帰ってください」
クルリと背を向けた江古田に向かって、宗一郎は言った。
「植物の声、聞こえているんでしょう?」
江古田は振り向いてニヤリと笑った。
「ああ、妙なもん飲まされた途端にね。でも別に……。植木とか興味ないし。BGMみたいなモンじゃない?」
「BGM……」宗一郎は絶句した。
泣き叫ぶ竹の子供たちや、車が通るたびに苦しんでいる街路樹の声が、BGMだと?
宗一郎はポケットからライターを取り出すと、胸元に抱えた苗木に炎を近づけた。
「うわっ!」
江古田が顔を覆って床にうずくまった。
「お、おまえ! 何したんだ?」
江古田は片手で顔を抑えたまま、四つん這いで宗一郎の足元に這って来た。宗一郎は無言で彼を見下ろすと、同じようにまたライターの炎で苗木を撫でた。
――熱いよう!
「うわああああ」
宗一郎はライターをポケットにしまうと、床を転げている江古田に向って言った。
「あなたが自然環境について真剣に取り組むように、リスクを課します。今体験した痛みを、よく覚えておいてください」
「ど、どういうことだ?」
江古田はようやく立ち上がった。
宗一郎はニヤリと笑って言った。
「この苗木はあなたの分身です。この木が傷つくと、あなたも傷つきます。この木が排気ガスに晒されるなら、あなたもきっと毎日苦しい思いをするでしょう」
江古田の目が大きく見開かれた。
「そ、それを寄越せ!」
宗一郎は高い高いの要領で、苗木の鉢を自分の頭の上に乗せると、再びライターを取り出した。江古田の動きが止まる。
「竹林を手離さずに、金だけを強請る気か! とんだ悪党だな。幾らだ! 早く言えよ!」
「こんなになっても、まだあなたはそんな事を言っているのですか? 本当に、救いようがないですね」
引きつった顔の江古田に向かって、宗一郎は心の底から憐れみの眼差しを向けた。
「金なんか強請る気はありません。でも、竹林の件を蒸し返したら、どうなるか良く考えてくださいね」
宗一郎は礼儀正しく一礼すると、開発室を出てゆこうとした。
「ま、待ってくれ! その苗木は……?」
「江古田さん、植木とかには興味ないんですよね。だからこれは僕がお預かりさせていただきます。そのうちどこかのブナ林にでも植えてあげますから、心配しないでください」
*
一ヶ月後、宗一郎はリョクを連れて、市立総合病院に来ていた。孫に会えたことで気力が戻ったのか、武山老人は順調に回復し、本日めでたく退院の運びとなった。
内科病棟の廊下を歩きながら、宗一郎はリョクに尋ねた。
「リョク、あの話だけど、本当によかったのか?」
リョクはボサボサのポニーテールを揺らして大きく頷いた。彼はあの竹林を売らないことに決めて、ドリーム開発産業に正式な断りを入れたのだ。これでもう、あの山にエコロジータウンが作られる事は無い。
「オレさ、あの竹たちが気に入っちゃったんだ。じいちゃんも売らないことに賛成してくれたからさ。それでね、オレそのうちあそこの山を公園にしようかと思うんだ」
「公園?」
宗一郎はギクリとした。マンションの件が白紙に戻ったのに、また新たな開発の話が出たのかと、内心おおいに慌てる。リョクは彼に悪戯っぽい笑顔を向けると言った。
「あの綺麗な竹林を誰にも見せないのはもったいないかなって。それに、このまま所有しているだけってのも、オレどうしたらいいのかわからなくてさ。そうしたら、萌子さんが会社を通して市のほうに提案してくれたんだ。竹林の中に緑道を整備して、季節の木々や花を植えた散歩コースにしたらどうかって」
確かに、あんな広い山は、リョクにとって重荷なのかもしれない。エコロジータウンが立ち消えになったことで、新たな町おこしの一環としてあの廃校の土地を中心にハイキングコースなどを作って、緑の街として活性化を図ろうという計画が出ているようだった。
宗一郎は、萌子の晴れやかな笑顔を思い起こした。エコロジータウン計画を見直して欲しいと、社長に直談判したという彼女とは、先日武山老人の病室で顔を合わせたばかりだった。
そのとき彼女は生き生きとした表情をして言った。
「先輩、実は私、先日総務課から別の課に移ったんです!」
彼女の新しい配属先は、環境開発部というところだそうだ。ただの開発部のように宅地を作るのではなく、公園や公共施設などをプロデュースするらしい。
「竹林は、放っておくと他の植物の領域を侵して、果ては里山の荒廃を引き起こすってこと、先輩ならご存知ですよね? だから、なるべく生態系に配慮して、尚且つ自然を生かした施設や公園づくりを提案してゆこうという方針なんです。大学で勉強してきたことが生かせるし、私、今の仕事にとてもやりがいを感じてます」
生まれ変わったように元気になった萌子は、とてもキラキラしていて眩しい。一月ほど前まで、バッグに辞表を忍ばせていたことが嘘のようだ。宗一郎は目を細めると、彼女を見詰めて言った。
「キミの熱意に震撼して、江古田さんも職種変更を希望したらしいね。僕はよくわからないけど、森林調査部ってどんなところかな?」
彼の言葉に、萌子は驚いたようだった。
「先輩、どうして知っているんですか?」
森林調査部は、ドリーム開発産業が、自然保護団体に対して建前で設置しているような部署だった。仕事は全国の山野を歩き回って、生態系を調査したり、植林をしたりするのが主な仕事になっている。開発で木を切り倒したぶんだけ、きちんと植林していますよ、というのをPRするために作られた部署で、実体は殆ど何もしていないところなのだという。噂では、働きすぎで心にゆとりのなくなった社員が、リフレッシュの目的で転籍させられるのだと萌子は言った。
「でも、どうして江古田さん、急に転属願いを出したんでしょう? エコロジータウンの話が白紙になったことが、そんなにショックだったのかしら?」
首を傾げる萌子に、宗一郎は笑顔を向けただけで、本当の理由は言わないことにした。
あの後江古田は自らエコロジータウンの開発室長を辞任し、大規模開発によって失われる自然資源と環境破壊についてのリスクを提言したようだった。彼の意見が取り入れられ、今後の開発方針についても、大きな修正がなされるだろうと江古田は言った。彼はその後、森林調査部に転職願いを出した。それは、日本のどこかにある「彼の木」を探し出すためだが、それを知っているのは宗一郎だけだ。同じ過ちを繰り返さないように、どこに植えたか教えてやる気は無い。
こうやって、少しずつでも問題を取り除いてゆくことが、緑を守り地球を守ることなのではないかと宗一郎は思う。リスクを課さなければ真剣に取り組めないというのは、とても悲しい状況だが、それが今の時代の現実なのだ。
「とにかく、これで全て円くおさまったというわけだね」
リョクの言葉で、宗一郎は思考を引き戻された。目の前はもう老人の病室だった。
病室のドアに手を掛ける宗一郎に、リョクが尋ねた。
「そういちろー、中古車の会社辞めたって言ってたけど、これからどうするの?」
宗一郎はリョクに背を向けたまま、ゆっくりと言った。
「俺にはやるべきことがある」
「やるべきこと?」
怪訝そうなリョクに頷くと、宗一郎はとびきりの笑顔で片目を瞑って見せた。
「この俺が、緑の地球を守るのさ」
エピローグ
鳥の鳴き声に混じって、さやさやと竹の葉が踊っている。宗一郎は竹林の中央に立って遥かな高みを見上げた。抜けるような青空は、本格的な夏の訪れを感じさせる。
――お互い、生きているのだな。
「ああ……」
宗一郎は一番太い孟宗竹に触れた。慣れ親しんだ感触が手のひらに心地良い。爽やかな風が吹き抜けて、宗一郎の黒髪を揺らした。風に乗って「声」が囁く。
――苗木を育てているんだって?
「ああ。リョクがそうしたいって言うから」
榊宗一郎の研究を引き継ぐ形で、通常の三倍の速度で育つ苗木を栽培することにした彼を、リョクが手伝いたいと申し出たのだ。有名な種苗メーカーに話を持っていったところ、先方が大いに興味を持ったようで、宗一郎は中古車販売の会社を辞めて、リョクと二人で本格的に苗木栽培を始めたのだった。彼は武山老人の家に住み込んで、裏山の敷地で苗木の栽培に追われる日々を送っていた。
――そろそろ、秋だな……
「え? まだ八月にもなっていないぜ?」
宗一郎は孟宗竹に寄りかかり、その梢にのぞく眩しい夏空を見上げた。毎日の農作業で日焼けした顔に、竹の葉の影が不規則な模様を描き出しては揺れる。
リョクには話していないが、宗一郎にとって苗木の栽培はサイドビジネスにすぎない。
三倍早く育つ木を植えたとしても、人々の意識が今のままでは、地球環境は改善されない。それに、三倍早く育つというのがまた曲者なのだ。榊宗一郎青年の研究データを調べてわかったことがたくさんある。新種の苗木は自然の樹木たちから見ればいわゆるよそ者であり、繁殖力の旺盛な侵略者という側面をもっている。榊宗一郎青年の、苗木に関する研究が頓挫していたのも、その部分に問題があったのだろう。彼は一人で研究していたが、宗一郎はこの問題を当面種苗メーカーと共同で取り組むことにしたのだった。しかし、この件に関しては、宗一郎の中では、まだもやもやしたものが拭い去れない。
「結局、俺たち人間の作り出すものは、どれも自然界から見れば異質なものばかりなのかもしれないな……」宗一郎はぽつりとひとりごちた。
毎日のように思いを巡らせるが、やはり地球環境の改善という大きな問題だけに、行き着く先は榊青年と同じ方向になりそうだった。
別の角度からも取り組む必要があるのだ。そう、もっともっと、『自分のことのように』真剣に取り組まなければ……。
宗一郎の本当の目的は、今年の暮に日本で開かれる地球環境会議だ。
「世界各国から集まった代表に、緑化生を食べさせることが出来れば……」
植物たちの代理人となって特定の人間にリスクを負わせ、半強制的に地球環境の改善を訴える。それが榊宗一郎青年の考えたエコロジー計画だ。緑化生を使って行われるそのプロジェクトが、果たして正義かと問われれば、簡単に答える事は出来ない。
竹の葉のそよぎに混じって、呼び声が聞こえた。
「そういちろー、エコロジーパークのことで、萌子さんが来てるぞ! 早く来いよ!」
頭に白いタオルを巻いたリョクが竹林の傾斜を登ってきた。
「もう少し、公園について竹たちの意見を聞いてから行くよ」
宗一郎は眼下のリョクに向かって手を振った。少年は山猿のように素早い身のこなしであっという間に居なくなった。
宗一郎が緑化生を使ってこれからやろうとしている計画を、リョクは知らない。宗一郎の野望を知っているのはウチワサボテンのサッチーだけだ。それでいい。
それにしても、エコロジーパークってなんだ?
センスの無いネーミングにちょっと眉根を寄せた時、今度は女性の声で名前を呼ばれた。
「榊先輩。待ってるの退屈だから、来ちゃいました」
リョクと入れ替わりに、Tシャツにジーンズ姿の萌子が竹林の傾斜を登ってきた。軽装の姿に驚いているふりをして、宗一郎は彼女を上から下まで眺めた。いつものスーツ姿と違って、何だか新鮮だ。思わず緩みそうになる表情を引き締める。
「仕事で来たんじゃないんですか?」
「あら、仕事ですよ。モチロン! 環境開発部の仕事は現地調査が主ですから。今日は登山サークル時代のブーツ、履いて来ちゃいました」
見覚えがあるでしょう? と言って足元を指差す彼女に、宗一郎は曖昧な笑みを向けた。
こういう瞬間が宗一郎にとって、もっとも苦しいのだ。大学時代を共に過ごした榊宗一郎ではないという事実を、未だ告げられずに居ることに、後ろめたさを感じる。
萌子は彼の様子に気付かず、肩にかけたバッグから大きな包みを取り出した。
「私お弁当を作ってきたんですけど、一緒に食べませんか?」
宗一郎はドキリとしたが、すぐに心の中で苦笑した。どう見ても二人分の量ではない。
「弁当ならリョクも呼んでやりましょう」
武山邸のほうへ引き返そうとすると、萌子が宗一郎のシャツの裾を摘まんだ。
「あの、リョクくんは車椅子を押して、お祖父さまと一緒にお蕎麦屋さんに行っちゃったの。だから……」
ふいに頭上からクスクスと笑い声が降ってきた。風も無いのにさやさやと葉が揺れる。
――リョクが、頑張れって。どういう意味かな?
一人ぼっちだったリョクは、他人の気持ちにとても敏感なようだ。宗一郎は萌子の荷物を受け取ると、困ったような笑みを向けた。リョクの厚意を無駄にしたら怒られそうだが、緑化生計画がうまくいって、本物の榊宗一郎のようになれる日まで、萌子とはまだ一線を引いておかなければ。宗一郎は慎重に言葉を選んで萌子に話しかけた。
「せっかく作ってきていただいたから、ごちそうになりますね。萌子さん、こっちで食べましょう。この先に見晴らしのいいところがあるんですよ」
歩き出した宗一郎の腕に、萌子がそっと手を添えてきた。宗一郎は一瞬身を硬くした。彼女の気持ちはわかっている。でも、まだ自分は、本物の榊宗一郎にはなりきれていない。
唇を噛んで、温かな手のひらを払い除けようとしたとき、彼女が言った。
「先輩、あのとき、どうして来てくれなかったんですか?」
「え? あのときって?」
宗一郎は首をかしげて立ち止まった。傍らの萌子を見やると、彼女が怒ったような目で見上げている。彼女は宗一郎の腕をぐいと引き寄せて言った。
「五年前のクリスマス。東京で会う約束をしていたのに、先輩ったら時間になってもとうとう来なかった」
宗一郎はハッとして大きく目を見開いた。榊青年の手帳にあった最後の文が頭の中にぱあっと浮かび上がった。
――彼女に会いたかった。『緑化生』を完成させたかった。緑の地球を守りたかった。
萌子さんだったのか……!
宗一郎は肩を落として目を伏せた。榊青年の思いが、この体に残っていたのだろうか。だから、自分も萌子を好きになったのか?
悔しい思いが込み上げる。二人は知らず知らずに思いあっていたのだと思うと、この場から消えてしまいたくなった。
「あの日からずっと音信不通で、サークルの仲間もとても心配していたんですよ」
萌子は宗一郎の腕に自分の腕をからめて懐かしそうに言った。
「でも、こうしてまた緑の中で一緒に過ごせるなんて。私、すごく嬉しい」
宗一郎の背中に冷たい汗が伝った。これ以上、自分と榊宗一郎のことを萌子に黙っているのは罪だ。心臓が早鐘の鼓動を刻む。口の中が渇いてきて、声が掠れた。
「萌子さん……実は……」
言いかけた宗一郎を遮るように、萌子は明るい声で言った。
「私、最近感じていたんですけど、先輩、何だか大学時代よりも変わった気がする」
「え……?」宗一郎はギクリとした。
どういうことだろう? 姿かたちは同じでも、やっぱり、どこかでボロが出てしまうものなのだろうか?
彼女の顔を見詰めると、萌子は花のように微笑んで、驚きのセリフを言った。
「私、あの頃より、今の先輩のほうが好きです。……大好きです」
宗一郎は信じられない思いだった。
「今の、榊宗一郎が……好き、なの?」
奇妙な彼の問いかけに、萌子は頬を赤らめて大きく頷いた。
今の……俺が?
宗一郎は空を振り仰ぎ、竹の薫りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「あら……? どうしたのかしら?」つられて見上げた萌子が、声を上げる。
竹たちが一斉に体を震わせたかと思うと、空から薄羽のようなものが降り注いだ。大きな安堵感に包まれた宗一郎に、竹たちが祝福を贈ってくれているようだった。
はらはらと、二人の頭上に黄緑色の葉が降り注ぐ様は、何ともいえず幽玄で美しい。問いかけるように艶やかな幹に触れると、「声」が降ってきた。
――竹の秋といってな、我らは夏に落葉するのだ。周囲が色づく頃、我らは鮮やかな新緑に染まる。
だから、竹の緑は何よりも美しいのか……
宗一郎は降り注ぐ葉をひとひら手に受けた。舞い散る煌めきに、五年前の雪の日を思い返す。
この場所で無念の死を遂げた本物の榊宗一郎と碓井正志という名前だった、当時の自分。何故、二人のうち一方だけが生きることになったのか。いや、自分が彼の代わりに生き残ったのは、間違いだったのではないかとずっと悩んできた。けれど、今、萌子のひと言に救われる思いだった。本当の意味で、榊宗一郎を理解し、受け入れられたように感じる。
――何もかも、キミに任せたよ。
竹たちの囁きに混じって、榊青年の声が聞こえたような気がした。
宗一郎は恥ずかしそうに俯いた萌子の手をそっと握った。本物の榊宗一郎にはかなわない、ずっとそう思っていたけれど……。
夏から秋へ、過去から未来へと移ろう中で、自分なりに色鮮やかな榊宗一郎になればいい。竹の花が咲き、命がつきるその日までに。
幸せそうに微笑む萌子の顔に、真夏の太陽が竹の葉の影を刻んで揺れる。宗一郎は彼女を連れて、小学校の校庭へと続く山道を下って行った。
眼下にあったはずの廃校舎は火災のあと取り壊された。現在その跡地には、若竹とクローバーが美しい緑を茂らせている。焼け野原にも必ず緑が芽吹くように、宗一郎がこれから撒こうとしている緑化生の『種』も、いつしかこの地球上のあらゆる所で芽吹いてくれるに違いない。
「そのことを信じて、オレは榊宗一郎でありつづける」
「何言ってるの?」
萌子が可愛らしく首をかしげた。宗一郎は満面の笑みを浮かべると言った。
「緑の地球を守りたいなんて……オレもつくづくエコロジーオタクだな、ってさ」
眩しい緑の中で、二人の笑い声がはじけた。
(竹の花が咲く日まで――完)
これで完結です。
もしもお読みくださった方がいらっしゃいましたら、長いものを読んでくださってどうもありがとうございました!




