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第八話

竹―九


 一階の自動販売機でミネラルウォーターを買うと、二人はエレベータで三階に上がった。

 老人の元居た個室は空き状態だった。ドアを開けて中に入ると、待ちかねたようにゴムの木が声を掛けてきた。

『あんた! 待ってたよ。誰も居なくなって退屈なんだ。出来れば下のロビーに戻してくれないかな』

 宗一郎は適当に頷きながら、ポケットからデジカメを取り出し、RECボタンを押した。

「先輩、デジカメで何するんです?」

 背後から萌子が声を掛けてきた。

「録音さ。五時間分の録画録音機能があるからね。今時のは便利だよ」

『なに? 写真撮ってくれるの?』

 宗一郎は停止ボタンを押した。ゴムの木の声がとれているかどうか、再生してみる。

 ――先輩、デジカメで何するんです?

 ――録音さ。五時間分の録画録音機能があるからね。今時のは便利だよ

 ――なに? 写真撮ってくれるの?

 ばっちり録音されている。首をかしげている萌子を振り返って満足気に微笑むと、宗一郎はもう一度RECボタンを押した。

 植木鉢いっぱいにミネラルウォーターを注いでやると、宗一郎はゴムの木に昨夜のことを尋ねた。

『ああ、男が二人来たよ』

 ゴムの木はご機嫌で水を吸い上げながら言った。

『しつこく土地の話をしてて、三十分くらいかなあ。紙に名前を書けって、若い男が言って、嫌がるじいさんの手を持って無理矢理書かせてたよ』

 やっぱり、思ったとおりだった。

『じいさん、相当痛がってたから、手をおかしくしちゃったかもね』

 男たちは仕事を終えるとサッサと退室したという。その際に、彼らを追いかけようとして、武山老人はベッドから落ちたのだとゴムの木は証言した。

 二人は病室を出ると、再び武山老人を見舞った。老人は今朝と変わらぬ様子で、鼻にゴムチューブを入れられた状態で眠っていた。宗一郎はそっと掛け布団をめくってみた。

「やっぱり……」

 ゴムの木の話のとおり、老人の右手首にはくっきりと握られた痕がついていた。宗一郎は老人の様子と手首の痣をデジカメに収めると、病室を出てゆこうとした。萌子がついてこないので振り返ると、彼女は老人の枕元にかがんで、ハンカチで額の汗を拭っていた。

 彼女の唇が小さく動いている。

 ――ごめんなさい、ごめんなさい

 口の形が、そう言っているのを目にして、宗一郎は何だか切なくなってきた。

 彼女はきっと大きな精神的苦痛を抱えながら毎日ここを訪れていたのだろう。仕事と自分自身の良心の間で板ばさみになりながら、小さな胸を痛めていたに違いない。宗一郎は萌子に近付くと、華奢な体を背中からそっと抱きしめた。彼女が一瞬身を硬くするのを宥めるように囁く。

「キミも、つらかったね……」

 萌子は無言で頷くと、体の向きを変えてしがみついてきた。彼女の黒髪を撫でながら、宗一郎は懸命に自分自身と戦っていた。

 萌子が好きなのは、俺じゃない!

 だからこれ以上、彼女に触れるなと。


「今日はもう会社に行きたくない」と言う萌子を乗せて、宗一郎は彼女の自宅に向かった。

 萌子と一緒に居ると、つい嫌なことから逃げてしまいたくなるから、これからの時間は一人のほうがいい。それに、これからしようとしている事は、ほとんど個人的な感情による行為なのだから。

 別れ際、萌子は宗一郎の携帯番号を教えて欲しいとせがんだ。この件がうまくいかなかったら自分は死ぬ。そんな人間が、これ以上の関わり合いを作るのは良くない。そう考えてやんわりと拒否した。

 萌子は悲しげな顔で見上げると「今日はありがとうございました」と言って懸命に微笑もうとしていた。宗一郎はそんな萌子を見詰めたあと、くるりと背を向けた。

 胸の中がざわつく。自分は榊宗一郎じゃないのに。彼女を騙していると思うと辛い。

 腕には彼女の体の感触がまだ残っていた。


 アパートに戻るとすぐに宅急便で荷物が届いた。

「ああ、忘れていた……」

 宗一郎は大量の観葉植物を前にしてぐったりと玄関に座り込んだ。

 彼らは口々に「水をよこせ」だの「光を当てろ」だのとワガママなことを要求した。うるさいので全員を狭いベランダに並べたところで、それまで静かだったウチワサボテンのサッチーが声を掛けてきた。

『あの、宗一郎さま。私、少々疑問に思ったことがございます』

 宗一郎はサッチーを部屋の真ん中に置いて、その前に座った。サッチーは宗一郎が今まで言葉を交わした植物の中で、一番賢そうだった。だから、遅かれ早かれ彼女には正体がバレてしまうのではないかと考えていたのだ。サッチーは躊躇いがちに言葉を発した。

『あの白樺の森が無くなって、もう五年になります。なのに、どうして宗一郎さまは、その……ご無事なのですか?』

 やはりきたか。

『私、先日はお会いできただけでもう舞い上がってしまいましたけれど、本日こうやって宗一郎さまに再びお会いして、お宅を拝見させていただいて感じたのです。……あなたは、どなたですか?』

 毎年花を咲かせる植物だけれど、その花はどれ一つとっても同じものは無いのだとサッチーは言った。

 宗一郎は大きく深呼吸すると観念したように口を開いた。

「キミは、榊宗一郎をとても慕っているようだから、きっと傷つくかもしれないね」

 そう前置きして、宗一郎は今までの経緯をウチワサボテンに話して聞かせた。

 長時間に及ぶ話をする間、サッチーは植物特有の静けさでもって彼の言葉に聞き入っていた。時折宗一郎は独り言を延々としゃべっているような錯覚に囚われて、そんな自分に苦笑した。

 夕方の温い風に混じって、セミの鳴き声が聞こえる。サッチーの背後から西日が差し込んできて、押入れの唐紙に聖母マリアの形の影を描き出した。

 サボテンの沈黙は、まるで魔法のように宗一郎の周囲を温かく包んでくれた。彼は懺悔をするかのように、テンにも話したことのない、あのクリスマスの日の惨劇を、ウチワサボテンに向かって淡々と語っていた。

『ヒトはいつだって、過ちを犯します。それがヒトであるということなのかもしれませんね』

 彼女の言葉が胸に沁みた。どんな姿になっても、年齢を重ねても、いつだってきっと自分は過ちを犯すのだ。

 話し終えた宗一郎は冷蔵庫からビールを取ってくると、窓辺に立った。

 永い沈黙のあと、サッチーがぽつりと言った。

『そうですか……。そんな寒い日に、宗一郎さまは亡くなられたのですか』

 サボテンの声は悲哀に満ちていた。同じ日に暴行を受けて亡くなった過去の自分に対して、サッチーのように悲しんでくれるモノがいったいどれだけ居るのだろう?

「だから、俺はキミの知っている榊宗一郎じゃないんだよ。……ごめんね」

 本当にすまないと思う気持ちを込めて言うと、サッチーはまた鋭い質問をしてきた。

『ならば、どうして宗一郎さまの研究内容を知りたいなどと、おっしゃるのですか?』

「そ、それは……」

 宗一郎は口ごもった。さっき、緑化生についてチラリと尋ねたことを指摘されてドキリとする。

『あれは、当時の宗一郎さま個人が、あるお考えの下に始めた研究です。ですから、今の宗一郎さまには何の関係もないはずです』

 サッチーは丁寧な口調で、本物と今の宗一郎とをキッパリと線引きした。

 宗一郎はいつの間にか小学校のときの担任としゃべっているような気分になっていた。些細な悪戯がバレて、犯人探しが始まってしまったときに、やんわりと、しかも一部の隙も無く理詰めで問われて、自白を余儀なくされたときのような、切羽詰った感じ。

 この先生を騙す事は出来ない、と敗北を認めたあの時のことが甦る。

「実は、緑化生をある人物に食わせたいんだ」

 宗一郎はさきほど病院で録音したゴムの木との会話をサッチーに聞かせた。

「これをネタに、少々オッサンを懲らしめてやろうかと思ってね」

 サッチーは呆れたような声を出した。

『やっぱりあなたは宗一郎さまではございませんのね。あの方でしたら、もっと底意地の悪いことも考えたでしょう』

「へ?」

 それっていったい……? 自分は榊宗一郎より甘いということなのか?

 サッチーはふっと笑ったようだった。

『懲らしめて、痛めつけるのですか?』

 宗一郎は上目遣いでサッチーの棘のある薄い体を見上げた。本気で出したアイデアに対して、鼻先で笑われたような不満が腹に溜まってゆく。

「……気持ちが、治まらない」

 ぼそりと言うと、サッチーは柔らかな声で言った。

『そんなことに、何の意味があるのでしょうか。私には解りませんけど』

 彼女は例のパソコンを出すように指示すると、低い声で言った。

『ひとつ、忠告させてください。ただの思い付きならば、緑化生に手を出すのはおやめになったほうがいいですよ』

 宗一郎はごくりと唾を飲み込んだ。そんなことを言われると、ますます興味が湧いてくるのだ、という人間の性分を植物である彼女がわかるはずもない。

 宗一郎は神妙な面持ちで頷いた。


 パソコンを見ながら、サッチーは緑化生についてわかり易く説明してくれた。

「じゃあ、リョクが食べたものは、試作品で未完成だったということか?」

『そうです。宗一郎さまはそうおっしゃってました。まだ、足りないと……』

 彼は桐の箱に整然と並べられたパンダの糞のような緑化生を見やった。

 彼女はそれがたぶんほぼ完成品なのだろうと言った。

「これには、日記にあるように『付加価値』とやらが追加されているわけだな?」

『そういうことになりますね。ただ、完璧ではないようですが』

「食ったら死ぬ?」

 食べただけで死ぬようなことはない、とサッチーは言う。

「付加価値って、いったい何なのかな?」

 その質問に対して、サッチーは沈黙した。リョクは緑化生を食べて植物の声が聞こえなるようになった。それ以外の追加効果とは、いったい何なのだろう?

 宗一郎は榊青年の手帳を取り出した。ラストのページを開いて見る。

 ――彼女に会いたかった。『緑化生』を完成させたかった。緑の地球を守りたかった。

「彼女」の部分を除いて、最後のフレーズを読み返す。緑化生の研究が緑の地球を守ることになる……。直訳するとそういう意味になるが。

 宗一郎は一粒つまんで和室の蛍光灯に透かして見た。大きさといい、手触りといい、色さえ見なきゃ本物の落花生と変わらないシロモノ。耳元で振ると、カラカラと豆の音がした。中身も落花生と同様に二粒の豆が入っているらしい。

 宗一郎は手の中の緑化生をポケットに入れると、パソコンを閉じた。


        *


 翌朝久しぶりに会社に出勤したが、三日も留守にしたのに宗一郎宛の連絡は一件も無かった。上司からねちねちと販売成績の不振を指摘されたが、殆ど上の空で答えた。

「いいんですよ、車なんか売れなくても。だって排気ガスは地球温暖化の原因ですし。ましてやここで扱う中古車なんてハイブリッドじゃないし。それって『毒ガス製造噴射マシーン』ですからね」

 上司はあんぐりと口を開けていたが、見る見るうちに顔を赤くして怒鳴った。

「御託はいい! 一台でもいいから車を売ってこい!」

 めまぐるしい三日間のあとの、いつもと変わらぬ日常に気が抜ける。宗一郎は真昼の商店街をぶらぶらと歩きながら林萌子へと思いを馳せた。

 自分の仕事に悩み、辞表を持ち歩いていた彼女はその後どうしただろうか。

「やっぱり、連絡したほうがいいかな?」

 出来るだけこの世に思いを残さないように、死ぬときは桜の花が散るようにあっさりと。そう心に決めていたけれど、やっぱり自分は往生際が悪い。本当にどうしようもないヘタレだ。

 宗一郎は萌子の名刺を取り出すと、開発室宛に電話を掛けた。

 電話に出たのは萌子ではなかった。

「榊……? ああ、あなたですか。昨日は本当にお世話様でしたね」

 電話の向こうの江古田が、ねちっこい声で嫌味を言った。彼は、萌子は休みだと言ったが、ホントかどうか怪しいと思った。

「ま、昨日も申し上げましたけれど、林は総務課に転籍したので、竹林の件は私が承りますよ」

 鼻にかかったような声で言う江古田に、何とか反撃したいと考えていると、彼が言った。

「そうだ、あなたが実質お孫さんの相談役なんですよね。どうです? 今夜、あの竹林について、ゆっくりと腹を割って話しませんか? 大人同士で……」そして彼は付け加えた。「もちろん、女子供抜きでね」


 終業時刻になり、宗一郎は帰り支度を始めた。同僚たちは皆残業やら得意先との食事会やらで、職場はまだ昼間のような忙しさだった。いつもなら忙しいフリをしてやることも無いのに居残っていたりするのだが、今日はこれから大仕事が待っているのだ。

 彼はカバンを抱えて職場を飛び出した。ポケットに手を入れると、指先でそっと中のものに触れた。緑化生。これをあのいけ好かない江古田という男に食わせる絶好のチャンスだ。もしもこの場にテンが居たら、『そんなことしてる場合、ちゃうやろ!』と、怒鳴られそうだがこればっかりはやってしまわないと気持ちが治まらないのだ。

 たぶん自分は死ぬだろう。その前に、思い残すことのないよう、やりたいことをやっておくのだ。


 江古田はもう店に来ていた。

「こういう店は初めてです」

 隣に張り付いた女性を気にしていると、江古田はにやにやと笑った。大手ゼネコン御用達なのだろうか。赤や黒のドレスを着た品のある女性たちが接客にあたっている。広いワンフロアに黒い革張りのソファでボックス席がぐるりと設けられ、中央にグランドピアノとスタンドマイクが置かれていた。

 青っぽい間接照明で照らされたボックス席とは対照的に、中央のピアノは白色に照らし出されている。

 今、宗一郎とそう年齢の違わない男性ピアニストが、クラシックな曲を奏で始めたところだ。

「ここは僕のお気に入りの店なんだ。あなたも気に入ってくれるといいんですけど」

 江古田は慣れた様子で隣の女性に酒とつまみを注文した。宗一郎は気になって隣に座った女性にメニューをもらうと広げてみた。

 うっ……! と言ったきり声も出ないほどの値段がずらりと並んでいる。固まってしまった彼に、江古田は見下すような目つきで言った。

「きょうはドリーム開発産業の接待ですから、気にせず楽しんでください」

 バカにされた? そう思って唇を噛むと、江古田はまったく気付かぬ様子で宗一郎のグラスに自分のグラスを無理矢理合わせて「乾杯!」と言った。

 この時点で、すでに宗一郎の心は江古田に対する嫌悪感でいっぱいだった。

 彼はなかなか土地のことについて持ち出そうとはしなかった。宗一郎はじりじりしながら様子を伺った。早く緑化生を食わせて、あの録音を元に江古田を追い詰めてやりたいのに!

 男性ピアニストが三曲目を弾き終わったとき、ようやく江古田が接待の女性二人を退席させた。いよいよかと背中を緊張させると、江古田はまったく予想外の話をし始めた。

「榊さんは林萌子さんの恋人ですか?」

 質問の意図がつかめずに黙っていると、江古田はため息をついた。

「彼女、清楚でいい子だと思っていたんですけどね。まさかあんな事をしでかすなんてね。あなたの影響ですか?」

 宗一郎は気勢を削がれて首をかしげた。萌子は何をしたのだろう?

「彼女、昼間本社に乗り込んで、社長に辞表を叩きつけて直談判を……」

「ええ?」

 宗一郎はぽかりと口を開けたまま固まった。江古田は苦笑いで言った。

「エコロジータウン計画を白紙にしろと言って、社長室で暴れたそうです。竹たちが泣いているとか、訳のわからない理由でね」

 あの萌子がそこまでするとは。

「まあ、すぐに摘まみ出されたようですけど。ホントに困ったはねっ返りだ。狂ったんじゃないかと心配ですよ」

 宗一郎はテーブルの下で両手の拳を握り締めた。ちょっと懲らしめてやろうとか、そんな悪戯程度のことでは済まされない気分になってきた。萌子の一生懸命を、竹たちの悲鳴を、この男はたったひと言で片付けようとしているのだ。

 ――狂ったんじゃないか

 冗談じゃない!

 宗一郎はポケットから緑化生を取り出して皮を剥いた。

「それは、何ですか?」

 江古田が気付いて尋ねたが、宗一郎は無言で緑色のピーナツを一粒彼に手渡した。

 江古田は気味悪そうに手のひらに乗せた緑の豆を見ている。

「林萌子さんが、本当に狂ってるのかどうか、自分で確かめたらいい」

「え……?」

 宗一郎は、ポカンと開いた江古田の口に、緑化生の乗った彼の手のひらを押し付けた。吐き出す前に、シャンパンをビンごと彼の口に押し込むと、江古田は目を白黒させて豆を嚥下してしまった。

咳き込んだ江古田に気付いて、店の女性が数人集まってきた。

「げほっ、な、なにをするんだ、いきなり!」

 喚く江古田を無視して、宗一郎は彼のネクタイをつかむと引きずるようにして店の外へと連れ出した。そのまま店の前に停まっていたタクシーに乗り込んで、行き先を告げた。

「郊外にある小学校跡地まで」

「なんだって? なんであんなところに!」

「うるさい! 黙ってろ!」

 暴れる江古田の衿元をネクタイで締め上げると、彼は大人しくなった。

「さっきの、あれはいったい何なんだ? どういうつもりで……。場合によっては訴えてやるからな!」

 江古田は不機嫌な顔で、ネクタイをつかんでいる手を払い除けた。

 宗一郎は江古田を一瞥して言った。

「裁判になって困るのは、あなた方のほうですよ」

 江古田はぶつぶつと文句を言っていたが、宗一郎は無視した。タクシーは夜の街を抜けて、街路灯も疎らな寂しい山道へと入って行った。程なくして廃校の門の前に停まった。

 門と言ってもただ崩れかけたブロック塀があるだけだ。一番近くにある街路灯が、かつて校門のあった辺りをぼうっと照らし出している。

「さあ、着いたぜ」

 江古田はなかなか降りようとはしない。宗一郎は彼の腕をつかんで無理矢理タクシーから引き摺り下ろした。酒のせいか恐怖のためか、江古田はよろよろとよろめいたかと思うと宗一郎の肩にもたれかかった。

 タクシーがUターンして去ってゆくと、辺りは静寂に包まれた。

 宗一郎は江古田を促して、古い木造校舎のほうへと歩いて行った。空にはまん丸の月が浮かんでいる。校庭に街路灯は無いが、青白い月明かりのおかげで歩くのに支障は無かった。シンとした夜の中に、革靴で砂を踏む音だけが響く。静寂に耐えられなくなったのか、江古田が上ずった声を出した。

「おい、こ、こんなところに連れてきて、ど、どうするつもりだ? また、昨日のように暴力をふるうつもりなのか?」

「暴力なんて、とんでもない。力で人に言う事をきかせるのは、そちらの専売特許でしょう?」

 宗一郎は立ち止まると、ポケットからデジカメを取り出した。無言でスイッチを入れる。

 ――ああ、男が二人来たよ。

 ――しつこく土地の話をしてて、三十分くらいかなあ。紙に名前を書けって、若い男が言って、嫌がるじいさんの手を持って無理矢理書かせてたよ。

 宗一郎は江古田の顔を盗み見た。彼は口を半開きにしたまま固まっている。

 ――じいさん、相当痛がってたから、手をおかしくしちゃったかもね。

 デジカメのスイッチを切ると、宗一郎は江古田の顔を覗き込んだ。

「身に覚えのあることでしょう? ちゃんと見ていた人が居たんですよ」

「だ、だれがこんな……デ、デタラメを」

「デタラメじゃないですよ。武山さんの手首には誰かの手の形の痣がありましたし、病院の防犯カメラにはあなたともう一人の男性が映っていました」

「そ、そんなの、証拠になるかよ!」

「さあね。なるかならないかは、警察に行って聞いてみましょうか? 恐喝と暴行の罪くらいには問えると思いますよ。それに、もしも武山さんが亡くなってしまったら、場合によっては過失致死も……」

「そ、そんな脅しには乗らないぞ!」

 江古田は声を裏返すと、校門の方に向かって走り出した。

「待て! 話はまだ終わってない!」

 追いかけようとすると、前方で江古田の悲鳴が上がった。彼は見えない壁にぶつかったように、後方に弾き飛ばされた。突然進行方向からこちら向かって突風が吹きつけたのだ。

「うわあああ!」

 風はころんだ男の周りをぐるぐると回りながら、「声」を運んできた。

 ――コイツは誰だ?

 問いかける「声」に宗一郎が答えた。

「この人が開発責任者だって。俺はどうしたらいいかわからないから、直接話をするように連れてきた」

 ――我らには、コイツと話をする意思は無い。お前の思うとおりにしろ。我々はそれにしたがって力を貸してやる。

「わかった」

 上空に向かって怒鳴る宗一郎に、江古田は必死で呼びかけてきた。

「どういうことだ。いったい誰と話しているんだ?」

 怯えたような目を向けている江古田に、宗一郎は艶やかな笑みを向けた。

「榊さん? ちょっと!」

 立ち上がろうとするたびに、江古田は強い風に煽られて尻餅をついた。

 ――この人が我らの命を狙っているのだよ。

 ――まあ、怖い。怖い、怖い。

「だ、誰なんだ?」

 風の音に混じって、江古田の悲鳴に近い声が聞こえる。

 ――この山の守護者に手を出したのか?

 ――許せない。この土地に手を入れようとするものを、我らは許さない。

 ――許さない、許さない、許さない

「声」は四方八方から江古田目掛けて押し寄せる。

「なんだ? この声はいったい誰が?」

 江古田は引きつったような顔で宗一郎に助けを求めた。

「残念ですけど、助けられるかどうか……。だって、彼らはとても怒っているから」

 宗一郎は竹たちに向かって意識を同調するようにと呼びかけた。今、この竹たちは、宗一郎自身であり、彼の意思一つで思いのままに動く。竹たちは宗一郎の命ずるままに、一斉に葉を揺らして江古田を責め立てた。この時点でようやく江古田は「声」の正体に気付き、自分の置かれている立場を理解し始めたようだった。

「やめてくれ、あれは仕事だから仕方なく……うわっ!」

 言い訳をした途端に悲鳴が上がった。

見ると江古田の尻の下から竹の穂先が突き出ていた。

「うひゃ! なんだこりゃ!」

 鋭い剣先のような竹が、江古田を狙って次々と地面から突き出てくる様子は、滑稽でもあり、また地獄絵図のようでもあった。

「榊さん、た、助けてください。お願いだ!」

 太腿やすねの辺りから血を流す江古田を、 宗一郎は黙って見守った。

 ――懲らしめて、痛めつけるのですか?

 ――そんなことに、何の意味があるのでしょうか。私には解りませんけど。

 ふとサッチーの言葉が頭をよぎる。宗一郎は月明かりの元で、巨大な神の手にいたぶられる、男をじっと見ていた。

 こんなことをしても、何の解決にもならないことは百も承知だった。暴力は、所詮何の解決にもならないのだ。しかも竹たちは、宗一郎の意を汲んでしているにすぎない。元々植物には恨むとか、憎むとかの感情は無いのだから。

 竹たちは獲物を追い詰めるように、彼を朽ち果てた校舎の中へと追い立ててゆく。

 バン! と爆発音がしたかと思うと、木造校舎の壁が崩れ落ちた。

「ひいいい!」

 江古田が悲鳴を上げて倒れた。彼の目の前でくずれた壁は大きな穴が開き、中から数本の竹が槍のように斜めに突き出てきたのだ。もう少し近くに居たら、串刺しになってしまうところだ。宗一郎はさすがに焦った。

 竹たちは相変らず容赦の無い攻撃を仕掛けながら無数の葉を擦り合わせて「声」を紡いだ。

 ――山を崩す事は許さない。

 ――何もここまでしなくても。

 ――もしも重機を持ち込んだら、徹底的に抵抗する。

 ――コイツをこれ以上いたぶって、何になる?

 その「声」は、宗一郎の意識と、竹の思いが入り混じって、バラバラに響き渡った。ヒトの感情と植物の念が入り乱れてメチャクチャになり、大きなざわめきとなって辺りを埋め尽くしてゆく。そのうち宗一郎は何が何だかわからなくなってきた。自分が何を望んでいるのか。「声」のうちのどれが自分の物で、どれがそうでないのか。

 わからない。自分は人なのか、竹なのか。

 混ざり合い、膨れ上がってゆく様々な感情の嵐に耐え切れず、宗一郎は絶叫した。

「もういい! もういいからああああ!」

 彼は叫んだ後、耳を覆ってその場に跪いた。



 リョクは武山老人の家の広い仏間を満足気に見渡した。部屋の中央に据えた大きな座卓の上に、盆栽がずらりと並べてある。金賞受賞と書かれた札のある松の隣で、小さなサボテンが居心地悪そうに縮こまっていた。

 開け放った縁側から、電灯の灯りを求めて大きな蛾が飛び込んでくるのもお構いなしで、リョクはうっとりと植木たちを眺めた。苔むした小さな松の木や、青葉をつけたボケの苗は、時が止まったようにまどろんでいる。

 緑化生を口にして、植物の声が聞こえるようになってから、リョクはいつも木々のそばで過ごした。そうしていると、とても落ち着くのだ。

 リョクは背後の仏壇に目をやった。にこやかに笑う老婆の隣にある母親の写真が目に飛び込んで来た。


 昼間リョクは竹林を隅々まで歩き回ってみた。竹たちは口々にリョクに声を掛けてくれた。

 ――美砂子の子供だって? ついこの前まで、小さな美砂子はたけのこ掘りに来ていたっていうのにねぇ。

 ――まあ、ホントにそっくり。小さな美砂子が戻ってきたみたいだ。

 ――リョク。いい名前ね。

 ――ヒトは何であっという間に死んでしまうのかしら。

 リョクは竹の梢を見上げて、じっと彼らの声に耳を澄ましていた。母親の名前を他人からこんなにたくさん聞いたのは初めてだった。彼の父親は、母親が亡くなる前から殆ど母子の元には寄り付かなかった。父親が何の仕事をしているのか、いや、そもそも働いていたのかどうかも、リョクは知らない。母親が病気で亡くなった時、数年ぶりに父親に会った。父親は葬儀のためだけに現れたようだった。

 母が亡くなった時、リョクは一人ぼっちで泣いていた。近所のおばさんたちが代わる代わるやって来ては慰めてくれたが、誰も彼を抱きしめてはくれなかった。

 父親は簡単な葬儀を執り行った後、リョクに向って言った。

「荷物をまとめて施設に行け」と。当時十歳の少年には、従うしかなかった。

 なぜ、父さんは自分を引き取ってくれないのだろう? 自分には他に身内は居ないのだろうか?

 疑問を抱えたまま、リョクは児童福祉施設に入れられた。施設が嫌いで、何度も脱走しては連れ戻されるということを繰り返していたが、十四のとき施設の職員を殴って飛び出してから、誰も彼を探してくれなくなった。

 それ以来、リョクは一人だった。なのに、この竹林に踏み入った途端、奇妙な感覚に陥った。竹たちは皆彼のことを昔から知っているように親しげに話しかけてくるのだ。母親以外で、こんなにも温かく、優しく、包み込むように迎え入れられたのは初めてだった。たった一人で野良犬のように生きてきたリョクは、愛情を知らない。

「お母さんのこと、もっと聞かせて」

 乞われるままに、竹たちは我も我もと母親の子供のころの話をしてくれた。


 仏間に突っ立ってぼんやりしていたリョクは、異変に気付いて我に返った。彼の目の前のサボテンがキーキー声を出した。

『なんや、騒がしいで? 山で何かあったん、ちゃうか?』

 リョクは縁側に出て、真っ暗な竹林に目を凝らした。だんだんと竹たちの騒ぐ声が大きくなってゆく。

 竹たちはどういうわけか、宗一郎の名前を叫んでいるようだった。リョクは首をかしげた。自分と同じように植物の声が聞こえているらしい青年。彼はいったい何者なんだろう? こんなにも竹たちに慕われているなんて。軽い嫉妬すら感じる。竹たちは昼間リョクの事を家族のように迎え入れてくれたが、何やら異変が起こった今、彼らは自分ではなく榊宗一郎の名前を呼んでいる。

 リョクは縁側から再び武山老人の古い仏間を振り返った。仏壇の中の母親の遺影が寂しげに微笑む。あの竹林を売るようにと、榊宗一郎も祖父も勧めてくれたが、本当にそれでいいのだろうか。

『リョク! 竹ども、おかしいで! 宗一郎が大変だって、騒いどる。ちょっと様子、見に行ったほうがええんとちゃうか?』

 テンの言葉にリョクは思考を中断された。彼は老人の家を出ると、真っ暗な田舎道を竹林に向かって走った。山から吹き降ろす風に、ただならぬ気配を感じ取って、リョクは戦慄した。

「なんか、やばいことが起きてる?」



 どれくらいの時間が経ったのか。ほんのわずかな時間だったかもしれない。宗一郎はゆっくりと耳から手を離した。辺りは死んだような静寂に包まれていた。

 ハッと気付いて校舎の方を見やると、江古田の姿が無い。宗一郎は立ち上がると、廃校の壁に開いた大きな穴に向かって一歩、二歩と踏み出した。ふいに右ひざの辺りにひりひりする痛みを感じてガクリとよろけた。

 ――助けて! 熱いよ!

 校舎の中がざわめき、子供たちの悲鳴が上がった。

「な、なんだ?」

 足の痛みを堪えて走り出すと、壁の穴から白い煙と共に江古田がふらりと出てきた。

「化け物どもが! 焼き殺してやる!」

 江古田の手にはライターが握られていた。

 ――助けて! 助けて!

 木造校舎の中で、若い竹たちが煙に巻かれているようだった。古くてぼろぼろになった木材は、燻りながら白い煙を大量に吐き出している。校舎の穴から、さらにもくもくとした白煙が上がり始めた。

 江古田は宗一郎に向かってライターを投げつけると、自分の耳を覆って狂ったように笑い出した。

「ひゃひゃひゃ、燃えろ燃えろ!」

「貴様! なんて事を!」

 宗一郎は息苦しさに襲われた。竹たちの異変は彼にも同じ苦しみでもって伝わるのだと実感する。

 げほっ、ごほっ……

 蹲って咳き込んでいる宗一郎の横を、江古田が高笑いしながら通り過ぎていった。

 ――助けて、宗一郎! 助けて!

 子供たちの悲鳴の中、携帯を握り締めて消防に連絡をとろうとしたが、呼吸困難になった彼はそのまま意識を手離した。


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