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第六話

竹―七


 休暇最終日の未明、宗一郎とリョクはテンの大きな声で起こされた。

『大変や! じいさんがやばくなって、別の部屋に運ばれたらしいで!』

 きっと、じいさんの病室に置いておいたゴムの木が知らせてくれたのだろう。テンは宗一郎よりもずっと遠くの植物の声を拾うことが出来る。もしかしたら、植物たちは彼らだけが持つネットワークでつながっているのかもしれない。インターネットが普及するずっと前から、彼らは人間とは全く違う手段で地球全体を緑の輪で包み込んでいたのだろうか? ふと、そんなことを考えて、思わず苦笑が漏れた。

 起こされてから数分後、宗一郎は助手席にリョクを乗せて、武山老人の入院する市立総合病院に向かっていた。もうそろそろ日の出の時刻だが、今日は天気が悪いらしく、まだ辺りは薄暗い。

 武山老人とリョクを会わせるのは、あの竹林の開発が白紙になった時にしたかったが、そんな時間は無いのだと悟った。

「オレのじいちゃんが死にそうって……。でもさ、その人って本当に本物の、オレのじいちゃんなのか?」

 リョクはいまいち危機感が湧かないらしく、助手席でぼそぼそと呟いた。彼の手には、宗一郎が老人から借りた年賀葉書と、何故だかテンの植わっている黄色い植木鉢が握られている。リョクの手の中からテンが言った。

『ゴムの木の話なんやけど、じいさんな、随分とお前さんに会いたがっていたらしいで』

 テンの言葉に宗一郎は舌打ちした。

「当たり前じゃないか。この子はたった一人の身内なんだから」

『何言ってるんや、ソウイチロー。お前や。じいさん、お前の名前、呼んでたそうやで』

 え……?

 赤信号で宗一郎は慌ててブレーキを踏み込んだ。テンとリョクが前のめりになって悲鳴を上げた。

孫の名前を呼ぶならわかるが、赤の他人の宗一郎の名前を呼んでいたって、どういう事なのだろう?

 疑問を抱えたまま、宗一郎とリョクの乗った車は病院に到着した。


 武山老人は、ナースステーションの隣の部屋で治療中だった。廊下で待つ二人のそばを、車椅子の老婆が器用に車輪を操りながら通りかかった。彼女は二人を見るともなしに見て呟いた。

「あそこに入ったら、もう駄目だよね。大抵は、そういう流れになっているんだよね」

 嫌なことを言うばあさんだ。宗一郎は聞こえなかったフリをしたが、リョクは違った。彼は老婆の脇をすり抜けると、ノックもせずに病室に飛び込んだ。

「待て、リョク、待ちなさい!」

 宗一郎もサボテンの鉢植えを抱えたまま、リョクの後を追いかけた。

 中には医師と看護師が二人付いていたが、飛び込んで来た二人を認めても、何も言わなかった。

 老人はちょうど喉に詰まった痰をとっているところだった。ぜいぜいと呼吸が苦しそうだ。鼻腔に、酸素のチューブをつけられていたが、意識はあるようだった。

 医師が治療を終えて、カルテになにやら書き込んでいるので、宗一郎は近づいて行った。

 若い医師は二人をチラリと一瞥して言った。

「身内の方ですか?」

 宗一郎は黙っていたが、リョクは大きく頷いていた。彼の横顔を見て、宗一郎は固まってしまった。なんと、あのリョクの目から涙が溢れているではないか。初めて会ったというのに、泣けるものなのか? そんな疑問がふと宗一郎の脳裏をよぎった。

 医師はもっとそばへ来るように、二人に手招きをして言った。

「実は昨夜、武山さん、ベッドから落ちたらしくて床に倒れていましてね。消灯時の見回りで気付いて。本当に申し訳なかったです」

 老人はその際に風邪をこじらせてしまい、肺炎を起こしかけていた。

「薬でおさまれば良いのですが、何分体力が落ちていますので……」

 覚悟しておいてください、と医師は言い、看護師一人を残して出て行った。

 宗一郎は苦しげに呼吸する老人を見やった。何だか急に重病人になってしまったように、武山老人の顔はやつれている。リョクが老人の枕元の椅子に腰掛けて呟くのが聞こえた。

「お母ちゃんの時も、雨降りだった……」

 ふと見ると、窓にたくさんの雨粒が付いていた。窓の外は降り出した雨に白く煙っている。

 宗一郎はリョクの隣に立つと、武山老人に声をかけた。

「武山さん、待ちに待った、お孫さんですよ。緑と書いて、リョク。何とか探し出して来ましたよ」

 老人は苦しげな呼吸のまま、僅かに目を開いて、視線をさまよわせた。宗一郎はリョクの背中を小突いた。彼はハッとしたように宗一郎を見上げ、次いでベッドの上の老人に声をかけた。

「じ、じいちゃん……オ、オレ……」

 老人はリョクではなく、宗一郎の方に目を向けたまま、何か口の中でしきりにもぐもぐ言っている。リョクが聞き取ろうと耳を寄せたが、宗一郎には老人の言いたいことが何となくわかるような気がした。だけど、今ここで彼の問いかけに答える事は、とても勇気が必要だった。

 ぱくぱくと口を開け閉めする老人が、急に咳き込んだ。看護師が慌てて絡んだ痰を吸引する。老人の顔は土気色で、宗一郎はとても持ち直せないだろうという、暗い予感に襲われた。

「じいちゃん、じいちゃん」

 リョクがちょっと躊躇いがちに呼びかけながら、老人のシワのある手に触れた。老人は、今度はリョクを目だけで見ると、小さく頷いたようだった。

 宗一郎の中に、今まで感じたことの無かったものが込み上げてきた。心拍数が急上昇し、顔が一気に熱くなる。今、老人が生きているうちに、彼の思いを孫のリョクに伝えてやらなければ。そのことだけで頭がいっぱいになってしまった。

 気付けば彼はリョクに向かって竹林の相続のことを話していた。

「え、オレがじいちゃんの山をもらうの?」

 リョクは急な話に、よく意味がわからないといった顔をした。

 宗一郎は、廃校になった学校のこと、それに絡んでの大規模開発で、開発業者が買取りを申し出ていること、そして、その具体的な金額についてまで、全てを話した。

「おじいさんは、全てリョクに譲るそうだ。だから、お前が楽に暮らせるように、あの竹林を売ってしまったらどうかとおっしゃっている。開発の話があるうちが、売り時だそうだ。俺の説明、わかったか?」

 リョクはポカンとした顔のまま、老人をじっと見下ろしている。

 老人は目を瞑り、満足気に頷いた。

『ソウイチロー、お、お前……。どないするん? なあ、それゆうたらまずいやろ!』

 宗一郎の手の中で、テンが慌てたように言ったが、彼は無視した。上がっていた心拍数がようやく落ち着いてくる。少々の後悔と大きな満足感。

 これでいい……。最初からこうするのが正しかったのだ。あれこれと策略をめぐらせて、竹林を騙し取っても、これから先、一生後味の悪い思いと後悔を抱えて生きてゆくことになる。そんなことになるなら、今、自分が正しいと思えることをしたい。

「榊宗一郎なら、きっとそうする……」

 呟いた声は、テンにしか聞こえていなかったようだった。



 早朝、老人の容態が急変したという知らせを受けて、萌子は市立総合病院にやってきた。毎日お見舞いに来ていたので、何かあったら知らせてください、と看護師に名刺を渡しておいたのが役に立った。ノックしようとすると、わずかに開いたドアから、男性の声が漏れ聞こえてきた。

 どうしよう、きっとお見舞いの方だわ。

 先客が居るのでは、入ってゆくわけにもいかない。どこかで時間をつぶして出直そうかなどと考えながら、白いドアの前でぐずぐずしていた萌子は、中から漏れる会話が聞こえてしまい、その場で固まった。

 驚愕の内容は、老人があの竹林の所有権をとうに孫に譲ってしまっていたのだ、という事だった。

 萌子は老人の今までの対応を思い出して、納得してしまった。

「いくらお金を積まれても、売ることは出来ません」

 そう何回も繰り返した老人の言葉は、まさに言葉通りだったのだ。権利が無いものは売れない、そういう意味だったのだろう。

 立ち聞きなど、いけないことだと思いつつ、萌子はドアの隙間にそっと手を入れていた。

 老人のベッドを囲んで看護師とあと二人、見舞いの人が居る。こちらに背を向けて立っている男性の背中を見て、萌子は息を飲んだ。

 榊先輩?

 榊は先日と同じで黒っぽい半袖のコットンシャツを羽織っている。彼の傍らに、見た事のない少年が座っていた。赤茶けた髪を後ろでひと括りに束ねている。僅かに見える横顔は、とても幼い印象だ。恐らく、彼がその孫に違いない。

 ドアの隙間からじっと見ていると、榊が言った。

「今売るなら、ドリーム開発産業の林さんという人に連絡をすればいい」

 萌子は瞳を大きく見開いた。榊の口から「竹林を売る」というセリフが出たこと自体に驚きを隠せない。

 少年が榊を見上げて、よくわからないという風に首を振っていた。そりゃそうだろう。あんな幼い少年に、億単位の不動産売買の話など、ピンと来ないのが当然だ。榊の声がした。

「あの竹林は、開発の話があるからこそ高値がついているんだ。開発の話が無くなれば、恐らく金銭的な価値はまるで無くなってしまう。決めるのは、リョク、キミだよ」

 萌子はゴクリと唾を飲んだ。自分がいくら自然を守りたいと願っても、当の持ち主が売ると言ったらそれまでだ。武山老人は最初から売る気の無い態度だったから、心のどこかで安心していたけれど、目の前の少年はたぶん違うだろう。少年の身なりを見た限り、とても裕福な生活をしているようには見えない。もしも自分があの少年の立場だったら、きっと売ってしまうだろうと、萌子は思った。不動産など管理するのは面倒臭いし、持っていてもあの山の中に家を建てることは絶対にしないだろう。あの辺りは田舎で不便だし、人里から離れていて怖い。

「あ、のさ……。そういちろー、オレ……」

 少年の少し高い声が聞こえた刹那――。

 何の前触れもなく榊が振り返った。



 宗一郎は、ドアに張り付くようにして立っている彼女を睨み付けた。たった今、テンを介して窓の外の桜の木が教えてくれた。

 ――女性が聞いていますわよ、先ほどからずっと……。

「あ……あの、私……」

 萌子はパールグリーンのスーツの衿元を意味も無く擦りながら、瞬きを繰り返している。マスカラの乗った睫毛が音をたてそうな勢いで上下した。

 少し怯えたように小さくなっている萌子に、宗一郎はふっと表情を弛めると、入ってくるように手招きした。彼女が毎日老人の元を訪れていた事は、昨夜テンを通じてゴムの木から聞いていた。

 いったい彼女はどのあたりから聞いていたのだろうか。宗一郎は怪訝そうな表情のリョクに、彼女を紹介した。萌子は会釈をすると、静かに入ってきた。ミニ丈のタイトスカートから伸びる細い足は、真っ直ぐに老人に向かっていた。宗一郎は、足元から上へと視線をずらして、彼女の顔を見たときにハッとした。その細面の顔は、まるでこれからリングに上がるボクサーみたいに何やら鬼気迫る表情だったのだ。彼は体をずらすと、彼女のために場所を開けた。

 隣に立った萌子は、決意を秘めた瞳で宗一郎を見上げて言った。

「武山さんのために、お孫さんを捜しに行っていると伺っていました。だから、この病院でもう一度先輩にお会い出来たら、是非言いたいことがあったのです」

 萌子は老人の顔に目を向けて、震える声で言った。

「あの山を売れば、大金が手に入ります。私もきっと営業成績が上がる。でも、その前にもっと大切なことを考えなければいけないと思うのです」

 萌子は視線を傍らの少年に向けた。

「あの竹林は、おじいさんにとってとても大事な家族との思い出が詰まった土地です。あなたのお母さん、美砂子さんとの思い出です。竹林を、お金として見る前に、あそこにどれだけおじいさんと美砂子さんの思い出があるのかということを、考えてくれませんか?」

 宗一郎は淡々と語る萌子を、驚きと称賛の入り混じった目で見ていた。自分が敵だと思い込んでいた女性は、実は竹林を保存したいと願っていたのだ。そのことに素直に敬意をはらいたくなった。

 でも……なぜ?

 宗一郎の疑問は、リョクの口を借りて飛び出した。

「あんた、開発業者のクセに、そんな事言っていいのかよ。なんか、ウラがあるんじゃねぇの?」

 さすがに一人で生きてきただけあって、リョクは用心深いようだ。

 萌子は彼の言葉に傷ついたような顔をすると、自分のバッグから封筒を取り出した。その表には、綺麗なペン字で『辞表』の文字がある。これにはさすがのリョクも「あ……」といったまま口をつぐんだ。

「私は、ドリーム開発産業を辞めるつもりで、今日竹林の持ち主である武山さんにお願いに上がったのです。どうか、あの山を売らないでくださいと。ところが、あれは……あなたのものだと、今そこで聞いてしまいました」

 萌子は一旦言葉を切って正面からリョクに向き直った。

 リョクが僅かに背筋を正す。

「改めて、あの山の持ち主様にお願いです。どうか、絶対にあの山を売ったりしないでください。自然を守ってください」

 深々と頭を下げる萌子を、リョクはどうしたらいいのかわからない、といった様子で見詰めているばかりだった。

 宗一郎は、そんなリョクと萌子を、ぼーっと見ていた。頭の中に、漠然とある考えが浮かんでいた。ひょっとして、竹たちの言っていた助っ人とは、彼女のことかもしれない。でも、もう遅いのだ。竹林の件は、宗一郎の手を離れてしまった。

 リョクは思案顔で黙り込んでいる。

 宗一郎は一歩下がって老人とリョク、萌子の様子を見ていた。開発業者と持ち主の少年、そしてその保護者の老人。三人が揃っているのだから、もう自分の出る幕ではない。あとはリョクが決めることなのだ。そして、リョクの決断を会社に持ち帰るかどうかは、萌子しだいということにもなる。どちらにしても、自分の命はこの二人に託された訳だ。

 大きく息を吐いたとき、宗一郎は胸の辺りに痛みを感じてうずくまった。きりきりと刺すような痛みは、今まで感じた事の無い種類の痛みだ。宗一郎は自分の胸を押さえて、苦痛のうめきを漏らした。

「先輩!」

 振り向いた萌子が、崩れ落ちる彼の体を支えてくれた。萌子とリョクに両脇から支えられ、宗一郎は激しく胸を掻き毟った。脇に転がった黄色い鉢植えの中からテンが叫んでいた。

『ソウイチロー! 竹の子供たちが泣いとる! きっとあの竹林で何かがあったんや!』


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