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第四話

竹―五


「テン! あいつらからの連絡は、無いのかよ!」

 アパートに戻るなり、宗一郎はテレビの上のサボテンに向かって怒鳴った。サボテンは植物特有の静けさで、ひっそりと鎮座したままだ。彼は急に腹が立ってきた。いつも余計なことばかりしゃべっているくせに、肝心な時には本物の植物みたいに黙っているなんて、許せない。いや、テンは正真正銘、本物の植物なんだけど。

「おい! 助っ人を寄越してくれるって、言ったじゃないか。人を探さなくっちゃいけないんだよ。一人じゃ、絶対に無理なんだけど! 無理無理無理! なあ、テン! 何とか言えって!」

 黄色い植木鉢を持ち上げて揺すると、テンは悲鳴を上げた。

『バカ! それ、やめろってゆうてるやろ!』

 宗一郎は今日病院であったことをテンに話して聞かせた。

「だーかーらー、とにかく俺はあのじいさんの孫の所在を確認しなくっちゃいけないの。それでもって、代役の子を探してから、開発業者を斬って捨てる! ……はずだったんだけど」

『なんや、ややこしい事になっとるなぁ』

 テンの呑気なセリフに、宗一郎はサラサラの髪を掻き毟った。

「ややこしいなんてもんじゃない!」

 もう二度と会いたくないというのに、断りを入れるべき相手が、あの林萌子嬢だなんて。

「だからさあ、頼むよ。事情を知った上で俺に協力して、彼女と交渉してくれる人物が必要なんだってば」

『そんな都合のええヤツ、おるかい! だからお前は……』

 テンは何だか言いにくそうに口をつぐんだ。

「なんだよ、はっきり言えよ」

 彼がサボテンに顔を近付けると、植物はため息混じりに――ため息がどこから出るのかわからないが――言った。

『自分でやらな、あかん。じいさんのために孫の代わり探すのも、開発の話をうまいことなくなるように持って行くのも、人に頼めることやないやろ? その女に会いたくないからなんて、理由にもならん』

 確かにその通りだが……。宗一郎は、何とかもっともらしい理由はないかと懸命に言葉を探した。

「り、理由はあるさ! 行き先は長野だ。けど俺はこの土地を離れられない体なんだぜ。そんな遠くまで、絶対に無理だし」

 どうだ、というように胸を張る宗一郎に、テンは冷たく言い放つ。

『離れられないんじゃなくて、離れたら自分の体がしんどいだけやろ。それにお前、以前に長野まで行ってきたって、ゆうてたやん?』

 宗一郎は唇を引き結んで、サボテンを睨み付けた。本当に、いちいちムカツク植物だ。

そうなのだ、榊宗一郎青年の手帳にあったことを確認したくて、長野県の北部にある白樺の森を見に行ったときのことを言っているのだろう。青年が書き残したように、テリトリーを遠く離れると、酸欠状態になって、苦しくなるのだ。竹たちは、そのことを『土地に縛られているのだ』という言い方で表現した。

 知り合いも居ない信州の地で、具合が悪くなった時は、本当に死んでしまうかと思った。それ以来、宗一郎は自分のテリトリーである竹林のある町に住み、仕事場も電車で一時間もかからぬところを選んだのだった。

 竹林買収の話が出るまでは、平和そのものだった。時折『生命力』をもらうために、竹たちに触れに行く以外、何不自由のない生活だった。いや、以前の「碓井正志」だったころよりも、榊宗一郎青年の体になってからのほうが、ずっと女性にもてるようになったのは、嬉しい限りだった。宗一郎は生まれ変わってからの五年間を振り返った。竹林の緑がいつまでも色褪せないのと同じように、平和で自由な時間がいつまでも続くと錯覚し、何も対策をしていなかったのは、誰でもない自分なのだ。けれどもそれをどうしても認めたくはない。

 宗一郎は新しい言い訳を思いつくまま口にする。

「テン、林萌子は昔の宗一郎を知っているんだ。それが、たった数年の間にまったく別人みたいになっていたら、絶対ヘンに思うだろう?」

『ヘンに思われようと、それがなんだっちゅうねん?』

 テンが宗一郎にそう問いかける。

「そ、それは……」宗一郎は口ごもった。

 しょせん中身は別人なのだから、仕方がないことなのだ。今度もあっさりと植物にやりこめられてしまった。でも……。 

 林萌子の大きな瞳を思い出す。自分を見て、あんなに嬉しそうに笑う彼女を、拒絶し続けることが苦痛なのだと気付く。そう、自分は、面と向かって彼女を敵に回すことが出来ない、ヘタレなのだ。肉体的苦痛も、精神的苦痛もどちらも受けたくないなどと、ぬるいことを考えている、駄目なヤツなのだ。

唇を噛む宗一郎に、サボテンは労るように言う。

『都合が悪くなったら、黙っときゃええ。おいらたちみたいに。前から思っとったけど、ヒトは皆しゃべりすぎなんや』

 お前に言われたくない! と言う言葉を、宗一郎は懸命に飲み込んだ。テンに当たっても仕方がないことぐらい、わかっている。

『お前、人にばっか頼らんと、自分でなんとかせぇや。そうせなマジで……死ぬど』

 宗一郎はサボテンの鉢を静かにテレビの上に戻した。テンは大真面目な声で言った。

『なあソウイチロー、助っ人当てにしとっても、あかんで。竹どもはさぁ、嘘つかんけど時間の感覚が無いねん。これはな、おいらたち宿根草の植物に共通のことや。ま、おいらは特別で天才やから色々とわかっとるけどな。せやさかい、助っ人が来た頃にはもうどうにもならなくなってるって事もあるんよ』

 テンの言う事はいちいち尤もだった。黙り込む宗一郎に、諭すようにテンは言った。

『これは、お前の果たすべき約束なんやで』

 宗一郎は敷きっぱなしの布団に倒れるようにして突っ伏した。くぐもった声で、拗ねたように囁く。

「わかったよ。ひとりで……何とかするよ」


         *


 宗一郎は翌日から三日間の休暇を申請した。自分が休んでも、今の職場では体制に影響は無い。過去の経験を生かせる仕事として、中古車販売のセールスをやっているのだが、昔高級車を扱っていたときのクセなのか、ついつい客を見下したような、高飛車な態度で接客してしまったりする。その度にクレームが絶えないので、彼はあまり成績が良い社員ではなかった。

 宗一郎は長野へ発つ前に竹たちを訪ねた。竹林の中央付近のいつもの場所に立つと、彼らの「声」が聞こえてきた。

 ――遠くへ行くなら、コイツを持ってゆけ。

 バリンと背後で何かが砕けた音がした。振り返ると、野球のバットほどの長さの青竹が落下してきて地面に突き刺さった所だった。

「ひっ!」

 宗一郎は驚いて飛びのいた。あんなものが頭に刺さったら、確実に死んでしまう。

「声」が言った。

 ――それに『生命力』をたっぷりと注いでおいてやった。苦しくなったら触れればいくらかマシになるだろう。


 それから数時間の後に、宗一郎は武山老人から借りた葉書を手に、松本駅のホームを踏んでいた。そこから大糸線に乗り換え、さらに到着駅でバスに乗り継ぐと、豊かな水田と北アルプスの峰々が出迎えてくれた。空気は澄み、空がどこまでも青い。うっすらと雪を頂いた山並みがはっきりと見え始めたころ、ようやく目的の町についた。そこは緑豊かな新興住宅地で、中心部を外れると、周囲に山と畑がどこまでも広がっているような、のどかな土地だった。駅前からタクシーを拾って、書かれている住所を訪ねたが、何の手がかりも得られなかった。関東から来たと言って、訳のわからないことを尋ねてくる宗一郎に対して、現在の居住者の男性は怒ったような口調で言った。

「オレは五、六年前に越して来たんだ。前に住んでいた人間のことなんて、知らねぇよ」

 何とかなだめすかして管理を任されている不動産屋を聞き出したが、不動産屋の担当者も彼らの引越し先は知らないと言った。

 宗一郎は早くも途方に暮れていた。同じような家が立ち並ぶ住宅街を歩くと、風に乗って樹木たちのおしゃべりが聞こえてくる。小鳥たちの歌声に心惹かれて、宗一郎が足を向けた先には緑豊かな公園があった。彼は公園に入ってゆくと、白い花を付け始めたミズナラの木に向かって歩いて行った。涼しげな木陰のベンチに腰を下ろし、暑苦しいネクタイを取り去って、ホッと息をつく。キチンとした恰好で接触した方がいいだろうと考えて、スーツで来たのだが、結局空振りだった。

 宗一郎はポケットから葉書を取り出した。母子の写真にじっと見入って考えを巡らせる。

 いったいどうすれば行方がわかるのだろう? 孫に関する情報は、個人情報保護の関係で役所に出向いても、簡単には手に入らない。そうなると、誰かに聞くしかないのだが。

「この近辺の学校にでも行って、十六歳くらいの女の子に聞いてみるか」

『緑』という名前だけで、苗字もひょっとしたら武山ではない可能性がある。そんな子を、しかも五、六年も前に引越ししていったのに、覚えている人がいるかどうか、かなり確率は低いように思われた。でも、なにかをやらなければ先に進めない。

 買ってきた明細地図で一番近くの高校を探すと、彼はタクシーでそちらに向かった。時間はたった三日間と限られているのだ。とにかく学生に聞いてみようと思った。

 その高校は、私立の女子高だった。切羽詰った状況が、宗一郎をどんどん行動へと駆り立てた。彼は校門を入ってゆくと、休み時間で校舎の外に出てきた女子高生の中に突撃し、葉書を手に聞き込みを開始した。

「誰か、緑さんという名前の子を知りませんか? おじいさんが病気で、彼女に会いたがっているのです」

 女子高生たちは彼を、思いっきり不審者を見る目で睨み付けては騒いだ。

「お願いです、僕の話を聞いてください!」

 恥もプライドもかなぐり捨てて、大声で叫んだ途端に、背後から強い力で羽交い絞めにされ、宗一郎は慌てた。もがきながら首をめぐらせると、警備員の男性が二人、怖い顔で彼を睨んでいた。

 宗一郎は言い訳する間も与えられず、そのまま引きずられるようにして警備員室まで連行された。

「ですから、死にそうなおじいさんのために、生き別れの孫娘を探していてですね……」

 事務机に座らせられた彼が懸命に釈明していると、ドアが開いて若い警察官が入ってきた。

「不法侵入者というのは、この男性ですか?」

「ええ? 不法侵入?」

 今度も宗一郎は理由も聞いてもらえぬままに、パトカーに乗せられて交番へと連れて行かれた。

 交番で、小さな会議室のようなところに押し込められた宗一郎は、彼を連行した警察官よりも年かさの警察官に、葉書を手渡して事情を繰り返し説明した。警察官はメモをとっていたが、宗一郎の身元を確認するからと言って、どこかに行ってしまった。

 しばらくして、ようやく武山老人に確認が取れたようで、宗一郎の容疑が晴れた。

 警察官は、わざわざ遠くから人探しにやってきた彼に同情して、老人の孫の事を親身になって調べてくれると請合った。

 さらに三十分ほど待たされたあと、その警察官が戻ってくるなり言った。

「榊さん、お探しの方の行方がわかりそうですよ。なんと、長野県警の刑事さんが知っているということでした」

「え!」宗一郎は驚いた。

 まったく期待していなかったので、喜びとかそういった感情を表すことができなかった。それに、長野県警って?

 警察官は宗一郎に葉書を返却し、得意げに胸を張って言った。

「長野市の長野県警少年課を訪ねてください。話はしてありますから」

「な、長野市……?」

 警察官は満面の笑みを浮かべて胸を張った。『ひと仕事終えた』感が滲み出しているその顔は、『調べてやったのだから、今すぐに行け!』と言っている。

 宗一郎はお礼を言うと、ついでに訪ねた。

「すみません。ここから長野市へはどのように行けばいいのでしょうか?」


 宗一郎はバス停の時刻表を見て、がっくりと肩を落とした。次のバスは二時間後だ。彼は手元のマップを確認した。親指と人差し指を伸ばして距離を測ると、今居る場所から長野市までの距離より、富山県、もしくは新潟県のほうがよっぽども近い。

「時間をとるか、金をとるか」

結局タクシーをつかまえて、長野市へ向かった。タクシー運転手はニコニコしながら言った。

「お客さん、長野までお急ぎでしたら、有料道路が便利だよ。ほら、長野五輪でものすごく便利になったからね」

 宗一郎は眉根を寄せて、ガンガン上がり続ける料金メーターを睨みつけていたが、心の中では泣いていた。これに、有料道路の料金が加算されるのかと思うと、まったくトホホな話だ。

 長野県警察署前に着いた時には、座りっぱなしだったにも関わらず、何故かくたくたに疲れていた。これもテリトリーから離れているせいだろうか。それとも、予定外の出費で懐が寂しくなったせいだろうか。先程の交番から長野市内までで、持ってきた一万円札が半分消えた。悲しすぎて涙も出ない。宗一郎は鈍い痛みに襲われ始めた右のこめかみを気にしながら、手元の青竹をぎゅっと握り締めた。

 警察署の受付で尋ねると、会議室に通された。そこで待たされること十分余り。背広姿の初老の男性が会議室に現れた。彼は宗一郎に向かって、少年課の内山刑事だと名乗った。

「代理で武山竹善さんのお孫さんを捜していらっしゃると伺いましたが?」

 初老の刑事は温厚そうな顔で宗一郎に笑みを向けた。

 宗一郎は上目遣いで尋ねた。

「交番のおまわりさんは、こちらで何かわかるかもしれないとおっしゃっていましたけど、やっぱりわかりませんか?」

 何だか内山刑事の顔が、ひどく同情しているように見えた。察するに、たぶんわからなかったのだろう。はるばる関東からやってきた自分を気の毒に思っているのかもしれない。

 宗一郎が心の中で落胆したとき、刑事が口を開いた。

武山緑(みどり)さん、という女の子は残念ながら該当者無しでした。――でも」

 思わず刑事の顔をじっと見つめると、彼はゆっくりと言った。

「武山美砂子さんと、内縁の夫の間に生まれた男の子でしたら、所在はわかりますけど」

「ええ? お、男の子?」

 ――武山緑(りょく)。それが少年の名前だった。ミドリではなく、リョク。女の子ではなくて、男の子だったとは。しかもリョクはある事件の関係者として逮捕されたとのことだった。

 麻薬取締法違反。

「彼はドラッグを所持していて、密売人と深く関わりがあるのではないかと疑いがかけられていたのです」

「ドラッグって、いったいどうして?」

 尋ねる宗一郎に、内山刑事は一瞬嫌そうな顔をしたが、渋々答えてくれた。

「武山緑は、少年少女がよく出入りするクラブでの、一斉摘発で捕まったんですがね、そのときに麻薬のようなものを所持していましてね」

「麻薬のようなものって、何ですか?」

 内山刑事は宗一郎の質問には答えずに、続きを話し始めた。

「とにかく、摘発からもう何ヶ月も経つのに、保護者の行方がわからなくて、誰も引き取りに来ないんです。せめて身元引受人が居れば、初犯だし未成年なんで保護観察とか、なったでしょうけれど。可哀想に、武山緑はそのときからずっと警察病院に居るのです」

 時々彼のことが気になって、病院まで見舞いに行っているのだと、内山刑事はため息をついた。

「武山緑の所持していた薬は、服用すると一種の中毒症状に陥るらしいのです。だから、治療のために精神科に入院させてあるんですよ」

 宗一郎はお礼を言うと、会議室を出ようとした。すると、彼の背中に内山刑事が声をかけてきた。

「あの、榊さん、でしたっけ? 出来ればリョクのおじいさんに、身元引受人を頼んでみてくれませんか。いくらなんでもこのままじゃ、あの子が可哀想ですから」

 宗一郎は曖昧に笑って会釈をした。このまま警察病院に入っていてくれるのなら、それが一番ありがたい。正直そう思った。それに、武山老人になんと言って説明すればよいのか思いつかない。せっかく行方のわかった孫が、犯罪に加担していたなんて聞いたら、きっと具合の悪い老人はすぐに死んでしまうかもしれない。仕方がない。善光寺の近くのホテルで一泊したら、このまま黙って関東に帰ろう。知らない方が幸せということもあるのだから。

 けれど、次の内山刑事の呟きに、宗一郎の頭の中が真っ白になった。

「薬で植物の声が聞こえるようになったなんてなぁ。一人ぼっちだから、きっと寂しかったんだろうよ。ホントに、気の毒なことだ」



 警察署の一階ロビーで、宗一郎はぐったりとソファにもたれかかっていた。手元で布袋に入った青竹を弄びながら、さっきの刑事の言葉を心でなぞってみる。

 服用すると、植物の声が聞こえるようになるドラッグだって? そんな、まさか……。ひょっとして、自分もそのドラッグを飲んだのだろうか? いや、碓井正志のときも、榊宗一郎になってからも、そんなものは一度も口にした記憶はない。

 でも……。もし、そのことが事実だとしたら、宗一郎の今置かれている、切羽詰った状態を打開する、何かの役に立つかもしれない。それに、ただ単純に、自分と同じ能力を持つ人間と語り合ってみたいという欲求が湧いてきた。

 宗一郎は警察病院の場所を聞くと、武山緑を訪ねることにした。


 警察病院の四階に、リョクの入院する精神科の病室があった。受付で名前を名乗っただけなのに、すぐに彼の病室へ案内された。ひょっとしたら、内山刑事が話を通しておいてくれたのかもしれない。

 太った女性の看護師について、エレベータを四階で降りた途端に、宗一郎は息を飲んだ。エレベータホールの正面に、いきなり大きなグレーの鉄扉が立ちはだかった。扉と同じく、大きな南京錠が目を惹く。宗一郎は他者を拒絶するようにそびえる扉をしげしげと眺めた。鉄製のドアには中央に格子がはまっており、そこから先に長い廊下があるのが見える。看護師は鍵束をチャラつかせながら、南京錠を開錠すると、先に立って歩き出した。

 入ってすぐの左側の部屋を指差して、彼女が言った。

「ここです。面会時間は十分ですから、時間になったらまた来ます。何かありましたら、室内のインターフォンで監視カメラに向かって話してください。すぐに誰かを寄越します」

 看護師は事務的にそういうと、病室の鍵を外して立ち去った。外側からしか開けられないようになっているなんて、病院とは名ばかりで、まるで牢屋のようだと思った。

 ノックをしたが答えが無い。宗一郎はそっと扉を開けた。

「うわっ! な、なんだよ、これは!」

 ギョッとして思わず声が出てしまった。中は病室というより温室だった。日当たりの良い窓辺にズラリと観葉植物の鉢植えが並べられている。その数ざっと二十以上は有りそうだ。中でも一番目を惹いたのは、人の背丈ほどもある、巨大なウチワサボテンだった。ウチワサボテンの葉肉は水分に富み、食用にもされると聞いたことがある。

 しかし、なぜここにこんなものが?

 ウチワサボテンの横にベッドがあるが、そこはもぬけの殻だ。武山緑少年は、いったいどこへ行ってしまったのだろう?

 しばし呆然と佇んでしまった宗一郎の耳に、全く聞いたことの無い声が言った。

「でてゆけ」

 至近距離で話しかけられて、腰が抜けてしまうかと思った。ゆっくりと首をめぐらせると、ドアのすぐ横の壁に、張り付くようにして男の子が立っていた。訊くまでもなく、この少年が武山緑なのだろうけれど、訊かずにはいられない。

「キ、キミがリョクくん……だよね?」

 リョクは薄汚い少年だった。病院に居ながら、この不衛生なナリはどういうことなのだろう? 赤茶けた髪はボサボサで、一番長い部分は背中の中央あたりまで伸びている。人間ドッグのときに着るみたいな、ぶかぶかの寝巻きをまとってはいるが、それはかなり汚れているようだった。もともと水色だったと推測するが合っているかどうか微妙だ。肉の薄い胸と、筋張った枝のような手足が小汚いその布からはみ出ているので、かろうじて案山子ではないと認識できるが、もしも田んぼに立っていたら本物と見分けがつくかどうか、自信が無い。

「聞こえなかったのか? でてゆけ」

 リョクはざんばらの前髪の間からギラギラする目で絶句している宗一郎を睨み上げた。

 と、その時、まるで女性の声のような可愛らしい澄んだ声が聞こえてきた。

『リョク、大丈夫よ。この人は知っている人だから。ね、宗一郎さま』

 名前を呼ばれて宗一郎はリョクから病室内へと視線をさまよわせた。巨大なウチワサボテンが目に止まる。サボテンは無言で目を見開いている宗一郎に、親しげに話しかけた。

『会いたかったわ、宗一郎さま。お懐かしゅうございます』

 宗一郎は目だけをサボテンの方に向けた。その様子に、リョクがハッと息を飲む。

『あの、宗一郎さま。私、とても大切なことを申し上げたいのです。実は、緑化生のことなのですが……』

「え? りょ……」

 ドカン!

 宗一郎は体ごと吹っ飛んだ。勢いあまってベッドに背中から激突して床にくず折れた。

「うぐっ……」

 呻きながら腹をさすって身を起こすと、目の前に激しい怒りに燃えたリョクの目があった。彼がみぞおち辺りに頭突きを喰らわせたのだとわかった。いきなり何をするんだ、と叱ってやろうとしたが、息が詰まって声が出ない。

 顔をしかめている宗一郎を助け起こすように屈み込んで、リョクは押し殺したような声で囁いた。

「アンタ、本当に榊宗一郎なんだろうな」

 宗一郎の心臓が大きく打った。今の彼には一番答えにくい問いだ。宗一郎の沈黙を「YES」と解釈したのだろう。リョクは低い声で言った。

「アンタを探していた。とにかくここから出してくれ」

 廊下で複数の足音が響き、すぐに病室のドアが引き開けられた。

「リョクくん、暴力をふるってはいけません!」

 先ほどの看護師がリョクの痩せこけた体を羽交い絞めにした。リョクは中年の女性看護師を振り解こうと、大暴れをはじめた。

「出てけよ、このブタ女! オレに触るんじゃねぇ!」

 豹変したように暴れるリョクを、宗一郎は呆然と見詰めていた。

 な、何なんだ? コイツは……! 

「リョクくん、大人しくしなさい。初めて面会に来てくれたお客さまなのよ、お願いだからいい子にしてちょうだい!」

 看護師の叫び声に混じって、ウチワサボテンの声が聞こえてきた。

『宗一郎さま、リョクは例の鍵を肌身離さず持っているのです。取り上げられないうちに、どうか私たちをここから出してください』

 宗一郎はウチワサボテンとリョクを交互に見ながら、物凄い勢いで考えを巡らせていた。脳内で色々な事柄が瞬時に閃いては消え失せる。竹林、正当な遺産継承者、ドリーム開発産業、違えることの出来ない約束と死。榊宗一郎の日記と緑化生――。

 そして今、新たな事象がまた発生した。自分を、いや、榊宗一郎青年を捜していたのだと言う少年と、「例の鍵」とやらの存在……。

 宗一郎は首筋の辺りに粟立つようなものを感じた。榊宗一郎を中心に、何か大きな事が動いている。それなのに! 当人であるにも関わらず、今の宗一郎にはその全てがまるで理解できない。大きな渦の中心にでも居るような、周りのよく見えない不安。すごい勢いで加速し続ける周囲に、いつ引きずられてもおかしくない、そんな恐怖が彼の足元から音もなく這い上がる。

 竹林の件を思い通りにするためには、リョクの存在は非常にマズイ。けれども、度々登場するキーワードのような『緑化生』というモノについて調べておかなければ、取り返しのつかないことになるのでは? そんな、思いがどうしても宗一郎の頭……ではなく、胸に留まって消えてゆかないのだ。理屈ではなく、本能というものなのだろうか。

「リョクくん、何か隠してるんじゃないの? 今、硬いものが触ったわよ」

 看護師の声で、宗一郎は争っている二人に目を向けた。リョクは太った看護師にあの薄汚い部屋着をつかまれており、半裸に剥かれて喚き散らしていた。

「うるせんだよ! クソババア!」

「まさか、まだ例の薬物を隠し持っているんじゃないでしょうね。そうなの? 出しなさい! さあ、出しなさい!」

 看護師は容赦なくリョクを床に押し倒すと、巨体を生かしてのしかかった。リョクの情けない悲鳴が聞こえた。

『宗一郎さま、リョクを助けて!』

 ウチワサボテンの言葉に促されるように、宗一郎は動いていた。

 彼は看護師の肉厚のウエストを抱えると、渾身の力でリョクから引き剥がした。

「いやあああん」

 妙な声を上げて悶える看護師に、なるべく無表情を作ると言った。

「リョクには今後ボクがきちんと躾をしますから。手荒な事はどうか……」

 宗一郎の言葉に、看護師の目がキラリと光った。

「それでは、あなたがリョクくんをお引取りになるということで、よろしいですか?」

 宗一郎は渋々頷いた。


 リョクを引き取るに当たり、色々な手続きがあるとのことで、宗一郎は再び警察署に来ていた。

 一階のロビーで待っていると、忙しそうな警察官たちの間に、先ほどの少年課・内山刑事の姿が見えた。声を掛けると、内山は気さくな笑みを浮かべて、自らリョクを引き取るための手続きに奔走してくれた。

 ――数十分後。

「いやあ、お待たせしました」

 そう言って、内山は突き出た腹の脇の辺りをさすった。

 リョクは病院でかなり問題児扱いされていたのだと、内山は言った。ドラッグの容疑が一応晴れたのに、精神科に監禁状態にされていたのは、彼が非常に暴力的であり、また彼独自の感性に従って生きていることが原因だった。

「暴力的なのは、無理も無い」と内山刑事は言った。引受人が居ないということで、同じ日に捕まった他の若者たちよりも、警察署に長く拘留されていたのだ。誰彼かまわず当たりたくもなるだろう、という事だった。

「だけど、榊さん。本当に大丈夫ですか? 精神鑑定では一応、あくまで一応ですが、健常者という結果が出ていますけど……」

 そう言って、内山刑事は口ごもった。宗一郎はちょっといらいらしてきた。煩雑な手続きで散々待たされて、やっと済んだと思っていたのに、まだ何かあるのか?

「刑事さん、はっきりおっしゃってください。あなたは武山老人に、引受人になってもらうように頼め、と僕に言ったのですよ。あなたの言葉によって、病気の老人の代わりに僕が引き受けたのですから、遠慮は要りません。何でも教えておいてくださらないと」

 少し強い調子で言ったが、内山は曖昧に笑っただけだった。刑事は「念のため」と言って、宗一郎とリョクの今後の予定を訊いて来た。

 今後の予定……? 宗一郎ははたと考えに詰まった。あの小汚いリョクを本当の血縁、つまり武山老人に会わせるわけにはいかない。あの竹林の件が白紙に戻ったと確認できるまでは、竹林の本当の持ち主になっている彼の存在を隠しておかなければならない。万が一、開発業者にバレて莫大な金額を提示されたら、いくらリョクが少しばかり変わっているとしても、きっと彼らの思い通りに売ってしまうに違いない。

 宗一郎は決心したように一人頷くと、内山刑事に向って言った。

「とりあえず……彼には人並みの生活を送るように指導しなければいけないような気がしますので、僕のアパートに同居させることにします」

「そうですか……。それでは、お気をつけて」


 その後、病院でも似たような手続きを踏み、ようやくリョクの退院が許された。

 ョクはよれよれのロングTシャツと、天然ダメージ加工状態のジーンズを穿き、素足にスニーカーを突っかけてロビーに現れた。彼の背後から、男性の看護師が台車に乗せた大小の観葉植物を運んでくるのが見えた。

 お前の荷物は植物だけなのか!

 どうして自分はこんな小汚いガキを引き取ってしまったのだろう。宗一郎はにわかに後悔の念に囚われた。

 宗一郎はさっき警察署で少年課の内山刑事と話した時の事を思い返した。

 精神鑑定で、一応健常者と認められたと言っていたが、嘘かもしれない。いったい、母親が亡くなってから、この少年はどういう生活をして今まで生きてきたのだろう?

「リョクくん、榊宗一郎です。キミの身元引受人だ。今日からキミは僕と一緒に生活するんだよ。そのうちおじいさんにも会わせてあげるから」

 よろしく、と差し出した宗一郎の手を、リョクは一瞥しただけだった。

 荷物を運んでくれた男性看護師と目が合うと、彼はリョクをチラリと見て、大げさなゼスチュアで肩をすくめて見せた。

 宗一郎は気を取り直して、尋ねた。

「この植物たちは、この病院に預かってもらうということでは駄目かな?」

 途端に、鉢植えの植物たちが一斉にブーイングした。どうやら彼らはこの少年のことをとても気に入っているらしい。リョクは植物たちを振り返ってニコッと笑うと、今度は宗一郎に正面から向き直った。彼の手元の長い物を指さして、少年は言った。

「あんたがそれを置いてゆくなら、オレもこいつらを置いてゆく」

 この意味、わかるよな? といいたげな顔をして、リョクは口の端を僅かに上げた。

 こ、こいつ……!

 宗一郎は、思わず青竹の入った布袋をギュッと握り締めていた。


 植物たちを関東の自宅まで運ぶために、予想外の運賃が掛かってしまった。どうせなら全部まとめて宅急便で送って欲しいのに、リョクはどうしても一鉢だけ自分で持ち歩くのだと言って暴れた。その一鉢は、よりによって例の大きなウチワサボテンだった。サボテンは、大きなダンボールに梱包されて、二宮金次郎のような背負子でリョクの背に括り付けられている。彼はとても満足気だった。

 病院前からタクシーに乗ろうとしたが、荷物が大きすぎると言って断られた。二人は仕方なく、病院前のバス停からバスに乗った。

 最後部のシートを占領して腰掛けると、床に置いたダンボールの中から、ウチワサボテンが声を掛けてきた。

『宗一郎さま、よくぞご無事で戻られました。私、ずっと心配しておりましたのですよ』

「そうかい、済まなかったね」

 このサボテンとは全く面識が無かったが、榊宗一郎をよほど慕っている様子がいじらしいので、ついつい優しい言葉をかけてしまった。本当は、中身が違うのだという事を、早く知らせてやらなくちゃいけないのに、どうしても言えない。すると、今まで黙っていたリョクがボソリと言った。

「あんた、本当にコイツの声、聞こえているんだな」

 彼の言葉に頷いて、そちらを見るとざんばら髪の間から見上げてくる、くるくるした瞳と出合った。リョクの目には、もう先ほどの殺気のようなものは見当たらなかった。

「僕を探していたと、さっき言っていたけど、探していたのは僕のほうなんだよ」

「だろうな」

 リョクは訳知り顔で返事をする。ひょっとして、彼は竹林の件をどこからかすでに聞いて、全部知っているのではないのだろうか。宗一郎の胸中に、不安なものが去来する。

 でも、おかしいだろう? 自分が竹林のことを老人から頼まれたのは、つい昨日のことだ。では、リョクは「本物の」榊宗一郎を探していたことになる。それはとても厄介なことだ。

 おいおい……。宗一郎は心の中で頭を抱えた。やっぱり、長野なんて、来るんじゃなかった。というより、榊宗一郎について、もっときちんと調べておけば……。またまた後悔する。

 こうなった以上、自分は「本物の」榊宗一郎として振舞うしかない。

 宗一郎はリョクに探りを入れた。

「キミとは……どこで会ったんだっけ?」

 リョクが怪訝そうな顔をしたので、慌てて言い直した。

「いや、僕のことをいつ知ったんだっけ?」

 ああ……、とリョクは返事をすると周囲にさっと目を走らせた。バスの最後部から運転席まで、立っている人は居ない。四つ前の席におばあさんが座り、そのさらに前の方に乳幼児を連れた二組の母子が居るだけで、車内は空いていた。

 リョクは小さな声で話し始めた。

「あれは今年の、まだ雪が降ってる頃だったな……」


 バイトの金も底を尽き、浮浪者同然の暮らしをしていた彼は、夜中の寒さをしのぐために歩き回っていたと言う。

「へんなとこで寝るとさ、凍死するんだ。だから、あんまり冷える夜は起きて動いていた方がいいのさ」

 ビジネス街を抜けて、街外れにやってきたリョクは、ある建物に侵入した。それは病院か学校みたいなところで、レンガ塀の内側に、大きなもみの木が何本も見えていたと言う。

「雪がひどくなってきたから、建物に入れれば良し、駄目でももみの木とレンガ塀の間の雪に穴でも掘ってしのごうかと思ってさ」

 おまえは野良猫か! 宗一郎は、リョクがなんだかとても気の毒になってきた。彼は完全なるストリートチルドレンというやつなんじゃないのか?

 リョクはその夜のことを思い出そうとしているようで、視線を斜め上の辺りに向けた。

「それで、うとうとしてたら、ガラスが割れる音がしたんだ」

 警報装置などは全く作動していないのか、建物は相変らず真っ暗だった。リョクは建物の裏に回った。すると、雪明りの中、犯人の足跡の先に誰かが倒れている。大変だと思い、近付いてみるとそれはただのサボテンの鉢植えだった。見るとすぐそばの窓が割られていた。おそらく犯人が入ったか出たかしたときに、引っかかって外に落ちてきたらしい。室内には他にも多数の観葉植物が置かれていたからだ。

 割れた窓から中をのぞいたが、犯人の姿は無かった。足跡がそこいらじゅうについているから、もう逃げてしまったのかもしれない。

 雪の上には、サボテンの他にも鉢の割れた植木やファイルなどが散らばっていた。

「散らばったものを物色したが、金目のものは無かったな」と、リョクは鼻を鳴らした。

 普通、泥棒に荒らされた現場を見たら、怖くて逃げ出すか、警察に言うだろうに、と、宗一郎は傍らの少年を呆れた目で見た。

 唯一リョクの興味を惹いたものは、サボテンのそばに落ちていた物だけだった。それは、保存用のビニール袋に入った落花生だった。腹の減っていたリョクは、その場で落花生の皮を剥いて食べたという。食べた途端に女性の声が聞こえ、リョクはギクリとして振り返った。あたりには誰もおらず、ただ雪が激しく舞い踊っているだけだ。

 彼は怖くなり、コートの襟をかき合わせると、来た通りに引き返そうとした。

『待ってください! あなた、私の声が、聞こえているのですね? 私はここです。あなたの足元のサボテンです』

「モノを言うサボテンかよ!」

 リョクはしばらくの間驚いて立ち尽くしていたが、これは売れば金になると思い、鉢植えを持っていくことにした。サボテンは榊宗一郎という人を探して呼んできてくれと必死に訴えたが、リョクは完全に無視した。

 翌日彼は早速ペットショップにサボテンを持っていった。

「しゃべるサボテンだから、高く買い取ってくれ」と頼んだが、店長は信用してくれない。リョクはサボテンを脅して一曲歌わせた。サボテンは素晴らしい歌唱力で『天城越え』を熱唱したが、ペットショップの店長はリョクを店からたたき出して言った。

「こっちも忙しいんだ、ふざけるのも大概にしろ!」

 そこでようやく気付いた。サボテンの声が聞こえるのは自分だけなのだと。


 リョクは言葉を切って、ポケットから見知らぬ鍵を取り出すと、宗一郎の鼻先に突きつけた。

「あの落花生と一緒に袋の中から出てきたんだ。あの落花生……いや、『緑化生』は、腹が減ってたからほとんど食っちゃったけど」

「緑化生を……食った?」

 緑化生というのは、食い物だったのか? 宗一郎は目の前の鍵と少年の顔を同時に見ていたが、目に映っているだけで、頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 少年は、誰かが盗んで落としていった『緑化生』を食った。それでサボテンの声が聞こえるようになった。それと一緒に入っていた何かの鍵を、自分に返そうとして探していた、ということか。

「これでようやくオレも肩の荷が降りたよ」

 リョクの言葉に、宗一郎は無意識のうちに鍵を手にしていたことに気付いた。

「コイツがさ、宗一郎さまを早く見つけてくれってうるさくてさ。人のいっぱい居る所に出入りしてたらいきなりケーサツにパクられて……」

 そういえば、リョクはクラブの一斉摘発で捕まったのだと聞いた。警察がドラッグと呼んでいたのは、きっと緑化生のことに違いない。間違って食べてしまうということは、きっと落花生に似ているのだろう。名前も落花生と緑化生だし。まあ、ダジャレにしてはお粗末だが……。

「身体検査された時には冷や汗が出たぜ。警察はオレのポケットの中にあった緑化生にばかり気をとられてたからさ、助かったよ。だって、この鍵どう見ても、家の鍵じゃないし。何か聞かれたらどうしようってさ」

「え? じゃあ、これはいったいどこの鍵なんだ?」

 リョクは箱詰めされたウチワサボテンを見やった。トントンとノックをするように箱を叩くと、悲しげな声が聞こえてきた。

『宗一郎さま、いったいどうなさってしまったのです? ひょっとして、リョクを警戒しているのですか? この子はあの日からずっと私を大事にしてくれていますし、あの研究についても理解しています。ですから、そんなすっとぼけたマネをなさらなくても大丈夫ですよ』

 ううっ、マズイ……。何のことやらさっぱりわからない。すると、ウチワサボテンは箱の中から比較的大きな声で言った。

『ああ! そういうことですか! 私ったらついつい……。私にとってはつい最近のことのように感じますけれど、宗一郎さまにとってはもう何年もの月日が流れておりますのね。五年、そうですよ。もう五年もお会いしていませんでしたからね、私たち』

「そ、そうなんだよ。実はちょっとした事故にあったりして、記憶が曖昧なんだ」

 宗一郎が適当に誤魔化すと、サボテンは納得したようだった。

『では、記憶が不安な部分は、私が教えて差し上げますからね』

 そう言うと、サボテンは静かになった。

 バスは駅前に着いた。リョクは元気良くバスから飛び降りると、駅とは逆方向の人混みに向かって走り出した。宗一郎は慌てて呼び止めた。

「リョクくん! 駅は逆だよ。いったいどこへ行くんだい?」

 リョクは怪訝そうな顔をすると、戻って来た。彼の背中でサボテンが訳知り顔(顔は見えないが)で言った。

『宗一郎さま、すでにお忘れですのね。駅前銀行の貸金庫に、全部預けたじゃないですか。緑化生の研究データを、パソコンごと全部』


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