第三話
竹―四
「やっぱり榊先輩だ! 懐かしい!」
萌子はここが病院の廊下だということも忘れて、窓辺に佇む男性の背中に抱きついた。
男性は身を固くしているが、今の萌子には彼の様子を観察している余裕など無かった。つい先ほどまで彼の事を考えていた所に、いきなりの本人登場ですっかり舞い上がってしまったのだ。
やんわりと体を引き剥がされて、萌子はようやく我に返った。
驚いたように見下ろしてくる涼しげな瞳は、間違いなく三つ年上のサークルの先輩、榊宗一郎だった。
「先輩、私です。林萌子。覚えていませんか? 大学の登山サークルで一緒だった、萌子です」
榊は瞳を大きく見開いたまま、ひたすら萌子の顔を見つめている。ひょっとして、忘れてられてしまったのだろうか?
「……先輩?」
「あ、ああ……林萌子さん。そう、そうだよね。あ、あんまり綺麗になっちゃったから、わ、わからなかったよ」
ああ、この声。間違いなく懐かしい榊部長だ。
「こんなところでお会いするなんて、偶然ってあるんですね」
「そ、そうだね。偶然って……恐ろしいね」
歯切れの悪いしゃべり方にも気付かず、萌子は夢見るように両手を組み合わせて彼を見上げた。
先ほど一階のロビーで、片隅にある鉢植えのゴムの木にミネラルウォーターをやっている男性を見かけた。大学時代より顔の輪郭が少しだけふっくらしていたから、良く似た人物が居るなあと思っただけだった。けれど、水遣りを終えた後、植木に向かって話しかけるような仕草を見て、一旦病院の外に出たものの、「ひょっとして?」と、考え直し、また引き返してきたのだった。
ここで榊宗一郎に再会したのはきっと偶然ではないのかもしれない。今回の竹林のことを相談する相手は彼しかいない。もしも榊が今回の開発について賛成意見であれば、萌子の胸のつかえはなくなる。もし反対であるならば、出来る限りの手を尽くしてこの話を白紙にしよう。難しいかもしれないが、あの頃のように地球環境について語り合い、自然保護の尊さと「仮称・エコロジータウン」の問題点を指摘してもらえれば、きっと何かの役に立つに違いない。
萌子は宗一郎の腕をつかむと言った。
「先輩、ここでお会いできたのはきっと偶然ではありません。どうか私の悩みを聞いてください」
ちょっと忙しいから……などとごちゃごちゃ言っているのを無視して、萌子は病院の外へと彼を引きずっていった。
林萌子と名乗る女性に引きずられながら、宗一郎はだらだらと汗をかいていた。どうやら萌子は生前の、いや本物の榊宗一郎を知っているらしい。
まずい。非常にまずい状態だった。何とかうまく理由をつけて逃げ出さないと大変だ。榊宗一郎に関する情報など皆無だから、長時間しゃべればきっとボロが出る。
「あ、あのっ、林さん。僕ちょっとこれから仕事なんで、またの機会にしたいんですけど」
苦し紛れに言うが、萌子はニッコリ笑って返してきた。
「大丈夫です、実は私も仕事中ですから」
林萌子はよほど話がしたい様子で、宗一郎の腕をがっちりホールドしたまま近くのファミレスへと連れて行った。窓際の席に向かい合わせで座った彼女を、宗一郎はメニューを見るふりでじっと観察した。
淡い水色のスーツが爽やかな印象だ。細面の顔に、不釣合いなほど大きな目をしている。マスカラの乗った睫毛はバサバサと音がしそうなほどに豊かで長い。体つきもほっそりと華奢で、たおやかな一輪の花のようだ。榊宗一郎の知り合いでなければ、是非こちらからお付き合いをお願いしたいほど、文句なしの美人だった。
注文を取りに来た店員にコーヒーを頼もうとすると、萌子が口を開いた。
「先輩は確かコーヒー嫌いでしたよね。お好みはハーブティーだったでしょう?」
え、そうなの?
黙っていると、萌子は二人分のハーブティーを勝手に注文してしまった。
ハーブティーなんか、一度も飲んだことがないのに。ってゆうか、コーヒーが飲みたかったのに。
恨めしげにメニューを閉じて店員に渡すと、萌子は愛くるしい笑顔で尋ねてきた。
「先輩、いつこっちにきたんですか?」
こちらの心の準備が出来ていないというのに、早くも大ピンチだった。宗一郎は引きつった笑顔で懸命に質問返しを試みた。
「そういえば、キミと最後に会ったのはいつだっけ?」
「んもう! 先輩の就職祝いで飲みに行ったきりですよ。ほんとに先輩って忘れっぽいですよね。まあ、あれから八年も経っちゃいましたけどね」
そうか、八年も会っていないのか。ということは、この女性と榊宗一郎はそれほど親しい間柄ではないのだろう。少しだけホッとした。
「先輩は仕事ってことは、出張か何かですか? 環境化学研究所って、出張なんかあるんですか?」
「ああ、うん。会議とかね……」
適当に相槌を打ちながら、宗一郎は考えを巡らせた。本物の榊宗一郎は環境化学研究所というところに勤めていたのか。すると、日記に書いてあった『緑化生』なるものの研究も、そこで行っていたのだろう。今回の件が片付いたら、是非その研究所のことを調べてみよう。
考えていた所に、萌子はいきなり違う話題を振ってきた。
「そうだ、先輩。サッチーは元気ですか?」
ぬぬ? サッチーって誰なんだ! 二人の共通の友達か、それとも妹?
「ああ、元気だよ」
何と返してよいかわからず、適当に答える。
「ええっ! あんな寒いところで、大丈夫なんですか? だってあの子、大学のとき、温室みたいな佐々木教授の研究室に居たし、その前は東京にあるSK製薬のバイオ化学研究所に居たって言ってたでしょう? 長野で元気にしてるんだ。すごい長生きですよね」
「…………」
長生きって、何でだよ? 『サッチー』っていうのは、ひょっとしてバアさんなのか?
「じゃあ、今でも一緒に研究所に居るんですね」
なんだ、研究所の仕事仲間のことか。榊宗一郎はバアさんと一緒に働いていたのか。さぞつまんねぇ職場だっただろうな。
「まあね、サッチーは正直言ってあんまし好きじゃないんだ。やっぱり僕としても若い方が好みっていうか……」
萌子が怪訝な顔で見ている。ひょっとして、余計なことを言ってしまったのだろうか。
ハーブティーが運ばれてきて、会話が途切れたので、宗一郎は彼女から見えない角度で大きく息を吐くと、不器用な手つきでティーポットから茶を注いだ。
なんだこれ? 色、薄っ!
「先輩!」
「え?」
いきなり萌子に手首を握られて、宗一郎はドキリとして固まった。もう一方の細い手が伸びてきて、彼の手を引き寄せると、その指先にそっと触れる。
「先輩……」
可愛らしい声で囁かれ、心臓がバクバクしてきた。見つめてくる大きな瞳に吸い込まれそうだ……! 次の瞬間、握っていた手首を放り出すように放すと、彼女は宗一郎の手の中のモノを取り上げて言った。
「先輩、普通ハーブティーにお砂糖は入れないでしょう?」
思わずコケてしまいそうだった。
知らねぇよ! 飲んだことないんだから!
喉元まで出掛かった言葉を懸命に飲み込むと、宗一郎は力なく笑った。
ああ、早く帰りたい……。このままではいずれボロが出てしまう。それに、本当はこんな所で美女とお茶をしている余裕など無いのだ。一刻も早く武山老人の孫の所在を確認しなくては、落ち着いて眠れやしない。なんたって、こっちは命が掛かっているのだ。
そんな宗一郎の気持ちも知らず、萌子はニコニコ顔で昔語りを始めた。
「先輩は大学時代から、本当に色々なことに詳しかったですよね?」
「え、そ、そうかな」
宗一郎の背中を嫌な汗が伝う。
「ほら、私に質問したでしょう? 何故、落葉広葉樹は赤や黄色に染まるのか、とかね」
宗一郎は目線を泳がせて固く口をつぐんだ。紅葉するのに理由なんかないだろう。秋になれば木々の葉が赤や黄色になるのは当たり前じゃないか!
萌子は「ふふふ」と笑ってクイズに答えるように言った。
「黄色はカロチノイド、赤はアントシアン、それぞれ葉が元々持っている色素です。秋になると、日照と気温の寒暖差で緑の色素クロロフィルが壊れてそれぞれの葉の持つ色素が顔を出す……」
「へえ……」宗一郎は思わず頷きそうになって口を引き結んだ。頷いている場合じゃない。 本物の榊宗一郎なら、知っていて当たり前の事柄なのだ。心拍数が一気に跳ね上がった気がして、彼は自分のシャツの胸元を握り締め、大きく深呼吸した。
萌子はちょうど手元のハーブティーをひと口飲んだところだった。怪しまれた様子はなさそうである。彼女はティーカップを揺らしながら続けた。
「でも、そう答えた私に、先輩、言いましたよね?『それは、ただのしくみだ』って。樹木が紅葉するのは、本当は、森に住む小動物たちのためなんだって」
宗一郎はうつむいた。榊宗一郎青年のことが理解できない。まずい! まずいぞ!
宗一郎の沈黙の前で、萌子はさらにしゃべり続ける。
「紅葉するのは、土壌が肥沃で安全であるって意味だって、いいましたよね? だから、広葉樹は小動物たちに『落葉した葉の下で温かく冬を越していいよ、春には必ず芽吹きが約束されているからね』って語りかけてるっていう話。あれ、とても心に残ってるんです」
宗一郎は笑顔の萌子に曖昧な笑みを返した。植物だけでなく、自然を愛した榊宗一郎青年の思考がまったくわからない。とにかく、早く席を立たなければ。
いとまごいの言葉を探していると、萌子が問いかけた。
「先輩って、今でも色々とエコしてるんですか?」
「え? 何、してる……?」
「エコ。エコロジーですよ」
エコロジーが何かってことぐらい、さすがに宗一郎もわかる。でも、「してる」とは……?
いい加減なことを答えられないので、微笑を湛えてハーブティーを一口すすった。
うえっ! 不味い!
何とも言えないニオイだった。どこかで嗅いだことがあるが、いったい何のニオイだったのかわからない。薄い黄色の液体を見詰めて、ニオイの記憶を辿っていると萌子が言った。
「そう言えば、先輩って、エコバッグ持ち歩いてましたよね」
「え、そうだった……かな?」
宗一郎は必死に会話を合わせようと努力したが、内心ではパニック状態だった。可愛らしく小首をかしげる萌子の仕草に動悸がすると同時に、噛み合わない会話に眩暈を起こしそうだった。
大体が、エコバッグといえば主婦が買い物するときの、畳める布袋のことではないか。榊宗一郎は、あんなものを持ち歩いていたのか? どうにもセンス無さすぎのような気がする。
「あの時は、正直言って私たちちょっと引いちゃったんですけど、今は当たり前のようになってますからね。先輩って凄いですよ。十年以上前から『レジ袋をもらわない運動』を一人でやっていたんですものね」
褒められたのと同時に、さっきのハーブティーのニオイが何だったのか思い出した。
「そうだ、草むしりをした時の汁のニオイだ」
思い出せそうで思い出せないというジレンマから抜け出して、思わず言葉が口から出てしまった。
怪訝そうな萌子の瞳に出くわして、宗一郎は口元を押さえて顔を伏せた。きっと萌子は変に思ったことだろう。俯いた彼の顔を覗き込むようにして、萌子が気遣わしげに尋ねてきた。
「先輩、ひょっとしてお疲れですか?」
本当の事なので大きく頷くと、彼女はバッグをかき回して、赤い名刺入れを取り出した。
「それじゃあ、また日を改めて。本当は大規模開発でつぶされてしまう自然について、先輩のご意見を伺いたかったんですけど……。なんだか先輩、ちょっといつもと話し方が違うっていうか……」
ボロが出る寸前ってヤツだったか。危ない危ない。どうやらこのまま解放してくれそうで、宗一郎は嬉しくなってしまった。
「ごめんね。またの機会に……」
そう言って、差し出された名刺を受け取った彼は、思わず大きな声を上げていた。
「ド、ドリーム開発産業?」
「はい。私、そこの開発部に所属しているんです」
宗一郎の脳裏に武山老人の病室がよぎった。老人の枕元にあった果物籠が、記憶の中でクローズアップされる。
『ドリーム開発産業開発部 林萌子』
視線を落とすと、記憶の中の名刺と同じものが手元にあった。宗一郎は名刺を見つめながら、ハーブティーをひと息に飲み干した。大嫌いな味だったがそれどころではない。
まさかこんな可愛い女性が刺客だったとは! 残念でたまらないが、竹林をつぶそうと企む者は、宗一郎にとってまさに敵。たとえ美女であろうと情けは無用だ。
「さっき、またの機会にって言ったけど、もうキミとは二度と会わないから」
いきなり冷たい言葉と共に立ち上がった彼を、萌子が驚いたように見上げている。宗一郎はテーブルの伝票を引っつかむと足早にファミレスを出て行った。
萌子は放心状態から醒めると、慌てて席を立ち榊宗一郎の後を追いかけた。
なぜ彼は急に態度を変えてしまったのだろう? 二度と会わないなんて……。
ファミレスを出た時には、もう彼の姿は遥か彼方に小さくなっていた。行く先には市立総合病院がある。走れば追いつくかもしれなかったが、そうしなかった。出来なかった。思えば彼に突っぱねられたのは初めてではなかった事を思い出した。
あれは五年前のクリスマスイブだった。
突然、榊宗一郎からメールが来たのだ。所用で東京に来ているので、萌子も含めた大学時代のサークルメンバー四人で飲もうというお誘いだった。
当事萌子は大学三年生で、年末年始を関東の実家で過ごす為に帰省していた。他の二人は榊と同じ三つ年上で、関東に就職先が決まって、三年前からこちらに出てきているのだった。
午後五時に渋谷の居酒屋で待ち合わせをしたが、その日は関東では珍しく大雪が降っていて、メンバーのうちの一人が遅れるという連絡を入れてきた。
「仕方が無いわね。じゃあさ、萌子と私、女二人で先に飲もうか」
先輩の沢本美紅がビールを注文した。
「榊さんから連絡は無いんですか?」
萌子が尋ねると、美紅は首を振った。
「メール入れたけど、返信無し。まあ、アイツがわざわざ大好きな信州を離れて、東京で会おうなんて、そんな珍しーい事言うから、見てごらん、この大雪」
美紅は窓の外を指差してケタケタ笑った。萌子もつられて笑う。
そう、何より彼からメールが来たこと自体が驚きだったのだから。
――エコロジーオタク。彼はサークルのメンバーから密かにそうあだ名されていた。ストイックな彼は、女の子より自然を愛し、その美声で言葉を交わす相手は白樺やサボテンなのだから、まったく変わっている。
クリスマスイブの街は、大雪にも関わらず大勢の人が繰り出していた。街路樹も豆電球に加えて雪まで被って重たそうだった。
「榊の頭ん中はさあ、植物のことだけしか入ってないから、待ち合わせも忘れて街路樹の雪、払い落としてるんじゃないかな。寒くて可哀想だね、とか言っちゃってさ!」
美紅の言葉にまたまた二人で笑う。
一時間ほど遅れてメンバーの佐野がやってきたが、いくら待っても榊宗一郎は来なかった。
萌子はトイレに行くフリで、居酒屋の外に出てみた。榊からのメールを開いて読み返す。
『所用で東京まで来ました。久しぶりにキミの顔が見たいので、よかったら会ってくれませんか』
――うそつき。
私の顔が見たいって言ったくせに、他の人呼んでるし。自分から誘ったくせにすっぽかして……。
「先輩のバカ。サイテーのエコロジーオタク!」
萌子の頬に舞い降りた雪が涙に溶けた。
あれから何度連絡しても、榊からの返信は無かった。美紅や佐野は「気にするな」と言っていたが、とてもそんな風に割り切れなかった。榊宗一郎が変わり者だという事は知っていたが、彼は約束を違えたりするような、いいかげんな人物ではない。
きっと何か理由があったんだ。そう思っていたが、今日ハッキリした。自分は彼に嫌われているのだ。あの時の携帯は買い替えてしまったから調べようもないが、榊からのメールは、ひょっとしたら他の二人にも同じ文面で一斉送信されていたのかもしれない。
『久しぶりにキミの顔が見たいので……』
いや、ひょっとしたらあれは美紅に送るつもりで間違えたのかもしれない。榊と美紅は幼馴染だし、学部も一緒でとても仲が良かったから。
萌子はため息を吐いた。名刺など渡すべきではなかったのだ。ただでさえ嫌われていたのに土地開発の会社に就職しているなんて、いったいどういう神経してるのかと思ったことだろう。だから彼はもう二度と会いたくないと言ったのだ。せっかく再会できたのに。これなら会わないほうが良かった。
五年前のあの日のように、萌子の頬を伝った涙は、渇いたアスファルトの上にぽたりぽたりと零れ落ちた。




