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第二話

竹―三


 萌子は鬱々とした気分でタクシーを降りた。お見舞いの果物が入った籠を手に、市立総合病院の内科病棟に入ってゆく。受付で尋ねると、老人は個室に入院しているとのことだった。萌子は教えられた病室に行くためにエレベータに乗った。三階のボタンを押して、壁に寄りかかると、思わずため息が漏れる。個室というと、どうしても重篤なイメージがあるからだ。それに、武山老人が入院するに至った原因の一つは自分たちにあるのではないか、という思いが拭い去れない。

 上司の江古田はしつこい男だった。毎日のように老人の家を訪問し、あの手この手で懐柔しようとした。それだけなら、普通の営業となんら変わらなかったが、訪ねるたびに咆える年老いた犬が気に食わない、と言って犬を殺してしまったのだ。

 まあ、彼が殺したという証拠があるわけではない。けれども、彼がヘルパーさんにドッグフードを手渡しているのを、萌子は確かに見ている。そして翌週訪ねたときには犬小屋は空っぽだった。

江古田は営業のとき、たいてい萌子を同伴させたが、ごくたまに別の男性社員に行かせることもあった。地上げ屋の手口がどんなものかわからないが、なだめたりすかしたり、時には脅しに近いことをしていたのかもしれない。

 初めて会ったとき、武山老人は健康そのもので、まるで竹のように背筋もしゃんとしていたが、最近ではめっきり元気が無かった。自分たちが訪問し始めてから老人が精神的な苦痛を感じていたのは一目瞭然だった。

「お見舞いなんて、きっと迷惑なだけね……」

 小声でつぶやくと、エレベータが止まって大きく扉が開いた。萌子は重い気分でエレベータを降りた。


 病室に入ると、窓際のベッドで老人が眠っていた。いつものヘルパーは見当たらない。

 萌子は枕元のデスクにお見舞いの品を置くと、手近なパイプ椅子を引き寄せて座った。

 名刺を置いて、また出直そうか。彼女は小さくため息をついた。江古田のにんまりと笑った顔を思い出すと、会社に戻りたくなくなってしまう。そういえば、今夜食事でもどうかと江古田に誘われていたのを思い出した。返事はしていないが、あまり早く帰ると強引な彼に食事を付き合わされる事になってしまうかもしれない。

「やっぱり、もう少しここに居よう」

 萌子はタイトスカートのシワを伸ばしながら、椅子に深く座り直した。

 眠る老人に目を向けて、彼女は眉根を寄せた。老人は顔色が悪かった。もしこのまま亡くなってしまったら、あの竹林はどうなってしまうのだろう。遺言など、きちんと書いてあるのだろうか。うまくやらないと、亡くなった後では遅い。ドリーム開発産業をはじめとする、大手の開発会社があの山を狙っているのだから。

 ――このまま緑が失われ続ければ、今に地球は砂漠と化す。そんなことが許されるだろうか。こうやって安穏と過ごしている間にも、一分ごとに東京ドーム三個分の緑が地球上から消えているんだ。

 そう言って力説していたあの大学時代の先輩は、今頃どうしているだろう。やたらと最近彼の事が思い出されてならない。長野の大学で出会った三つ年上の先輩は、きっと今もどこかで地球環境の改善を訴える活動をしているに違いない。彼が萌子の立場だったら、この窮状を黙って見過ごすはずはない。

 植物と話が出来る、などという馬鹿げた妄想以外は、いたってまともだった彼は、登山サークルの部長だった。登山と言っても高い山に登るわけではなく、いわゆるトレッキングで、信州の自然に触れながら地球環境を考えるというのがそのサークルの趣旨だった。楽しそうな活動内容だったので、わりと人気があるサークルだったが、入部するには部長自らの面接による厳しい審査があった。

 萌子と共に面接を受けた友人は、不用意な発言から入部できなかったのだ。

「豊かな緑を満喫して、マイナスイオンを体いっぱいに浴びながら、楽しいハイキングなんて、最高じゃないですか?」

 そう言った友人を、彼は冷ややかに見返した。

「緑の中をハイキングか……。残念ながら、ここ数年はリゾート開発予定地や、立ち枯れの森を調査中だから、キミの求めるものはこのサークルには無いよ。それに、森林浴より、渓流や瀑布を訪れた方が、マイナスイオンは大量に摂取できるという報告がある。参考までにね」

 淡々と理詰めでモノを言う彼を見て、萌子は堅く口をつぐんだ。サークル活動の根底にあるのはエコロジー精神だったから、ただのアウトドア感覚で入部しようとする者は皆はじかれた。

 そういえば、あのころ皆で歩いた山もリゾート開発で切り拓かれて、今ではスキー場やゴルフ場になってしまったのだっけ。もともと関東出身の萌子は、大学を卒業して以来、長野には行っていない。

 彼女は病室の窓に目を向けた。桜の木が緑の葉をいっぱいに広げている。眩しい青葉に目を焼かれながら、萌子は当時の記憶を掘り起こした。

 何のために自分は四年間あのサークルに参加していたのか。ここであの素晴らしい竹林が失われたら、自分の学んできたことの意味が無いように思われた。星空の下で、毛布に包まって地球の環境について何時間も議論したことが思い出される。

「二千五十年を待たずして、地球の平均気温は二度上昇するだろう。気温が二度上昇したら、その温暖化を食い止めることは、生半かなことではない」

 議題の提案者はいつも榊部長だった。

「植林をすすめる必要がありますね」

 誰かが言うと、答えはすぐに返ってくる。

「今のままのスタイルでは追いつかないよ。三倍の速さで成長する樹木を作らなければ、間に合わない。僕は今、佐々木教授の研究室で、その研究も進めている」

「素晴らしいですね。そんな品種の苗木が出来れば、森林の伐採による砂漠化の問題も一挙解決じゃないですか」

「それはどうかな」

 物事はそんなに単純ではない、と彼は言う。榊宗一郎のテーマはとても壮大なのだ。萌子は黙って耳を傾けたものだった。

「確かに、三倍の速さで木が育つならば、数の上では問題ないだろう。けれど、早く成長するということは、それだけ土壌にも負担がかかるということだ。うまくやらないと、結果的にはその一帯に立ち直れないほどのダメージを与えてしまうかもしれない。自然の樹木に対して、新しい品種はいわば『亜種』だ。外来種が在来種を脅かすように、ひとつ取り扱いを誤れば自然界の生態系を乱すことになりかねない」

「じゃあ、どうすれば?」

 問いかける男性メンバーに、榊は小さく微笑を向けた。

「どうしたらいいのかな……。彼らは、樹木たちは多くのことを知っているが、けっしておしゃべりではないから。もっと彼らの「声」が聞けたらいいのだけれどね……」

 メンバーの間に、微妙な空気が漂う。この気配で議論がたいてい収束へと向かうのだ。

 榊宗一郎は、その知識の豊富さでは皆の尊敬を集めていたが、植物の声が聞こえるという思い込みから、変人扱いされていた。さざ波のように広がる、嘲りを含んだささやきを聞くたびに、彼を心から尊敬していた萌子は、顔をしかめた。

「とにかく、緑を減らさないことだ。自分の家族や友達を思うように、自然を愛することが出来なければ、いつまでたっても環境の悪化は改善されないだろう。彼らは生きているのだということを認識しなければいけない」そう言ってしめくくったあと、榊総一郎はぽつりと付け加えた。「みんなにも、彼らの声が聞こえるといいのに……」

 萌子は物思いから意識を戻し、眠る老人に目を落とした。今目の前で二つの命が失われようとしている。一人の守護者と、緑豊かな自然。どちらも失ってはいけない大切なものだ。

 彼女は静かに席をたつと、老人の病室から出て行った。



 宗一郎は病院に着くと、真っ直ぐ老人の病室に向かった。受付で聞かずとも、ロビーの片隅で歌を歌っている、おせっかいなゴムの木が教えてくれたのだ。よほど退屈しているのだろう。ゴムの木は『帰りに寄っていけ』と言ってうるさかった。

 病室に入ってゆくと、老人は明るい窓際に据えられたベッドで天井を見ていた。彼は宗一郎を認めると、ちょっと驚いた顔をしたが、にこっと笑って弱々しく手招きをした。

「武山さん、倒れたって……大丈夫ですか?」

 宗一郎がベッドに近寄ると、老人は頷いた。

「ヘルパーさんから連絡行きましたか?」

 老人の問いに、宗一郎は曖昧に頷いて見せた。まさか、サボテンから聞きました、とは言えない。老人は彼に、金賞を獲った盆栽の世話を頼みたいと言った。

「そんなことならお安い御用ですよ。武山さんとは趣味の仲間なんですから、僕にできることなら何でもします。遠慮なく言ってください」

 内心では、盆栽じゃなくて竹林を任せてくれないかな、と思っていたが、今この場で口に出すのはさすがに憚られた。

 老人は盆栽のことで一安心したのか、すっと目を閉じると静かになった。宗一郎はベッドの脇の椅子に腰掛けて、暫く様子を見ていた。老人の胸の辺りが規則正しく上下するのを認めて、物凄くホッとした。急に静かになったから、死んでしまったかと思ったのだ。

 危篤状態かと心配したけれど、思っていたよりは元気そうで良かった。この分なら今日明日どうにかなってしまうということも無さそうだった。

 じいさんも寝ちまったし、とりあえず帰るか……。

 音を立てないように立ち上がったとき、老人が前触れもなく口を開いた。

「榊さん、もう一つ頼みがあるんですが……」

 すっかり寝ているものと思っていたので、宗一郎はドキリとして固まった。

 頼みとは? まさか、いよいよきたか?

 武山老人は、宗一郎の予想通りの言葉を口にした。

「私の家の裏にある、竹林のことです」

 老人はチラリと枕元のデスクに目をやった。『ドリーム開発産業開発部 林萌子』という 名刺の付いた見舞いの果物籠が置かれている。

「以前に少しだけお話したかと思いますが、開発業者が売ってくれと言って、うるさいんです……」

 宗一郎はドキドキする胸を押さえつつ、黙って老人の言葉に耳を傾けた。次の言葉はおおよそわかっている。

 ―――私に代わって、竹林のことをあなたにお任せしたいのですけれど。

 期待に拳を握り締める宗一郎の耳に聞こえてきたのは、予想外の言葉だった。

「実はあの竹林は、私の名義ではないんです」

「へ?」

 今、何て言ったのか? 私の名義ではないとは?

「相続の関係でややこしいことになるといかんって、盆栽仲間の弁護士に言われたことがありましてな、たったひとりの身寄りである孫の名義に変えてしまったのです。元々ほとんど価値の無い山林ですから、税金も微々たるもので、私が代わりに納めました。ですが売るとなると、私にその権限は無いんです」

「お……お孫さん、が、いらしたとは……」

 なんということだ! 身寄りが無いって、あんた確かに言ったじゃないか。宗一郎は腹の中で老人を罵った。これではまったく振り出しだ。竹林の件で話をするのなら、今度はその孫に当たらなければならない。それなら最初から、そう言ってくれればよかったものを! いやいや、自分とこの老人は、そんなに突っ込んだ話はしたことがなかった。そりゃそうだ。最初からこの人が地主だと思い込んでいたんだから。

 ……ってことは?

 ぐるぐるする頭でも、瞬き二、三回程度のわずかな時間で、一つの結論に辿り着く。

 非常にまずい!

 自分がその孫だったら、どうするか。そう、間違いなく今が売り時だ。もしもじいさんが死んだらなおさら、誰にも気兼ねは要らないじゃないか。一筋の汗がこめかみを伝った。

「……さん、榊さん、どうされました? あなたのほうが、具合が悪いんじゃないですか? お医者を呼びましょうか?」

 自分を見上げているしわだらけの顔を見下ろして、宗一郎は力なく微笑んでいた。本当に倒れてしまいそうだ。

「大丈夫です。ここんとこ、ちょっと仕事が忙しかったものですから」

「そうですか。確かお勤め先は中古車の販売店だとおっしゃってましたよね」

 武山老人はにこりと笑って言ったが、今この段階で職業の話をされるのは、訳もなくむかつく。そんな気分が顔に出てしまっていたのだろう、老人は目を伏せて弁解した。

「そうですね……。お疲れのところ、わざわざお見舞いに来てくださった方に、ずうずうしく私事をお願いするわけに、いきませんな。まったく、年寄りはせっかちでいかんです」

 おいおい、言いかけてやめるのは、反則だ!

 あちらこちらに揺れる心を押し隠し、宗一郎は努めて明るい声を出した。

「いえいえ、僕のことはお気使いなく。それで、お孫さんの話でしたよね」

 とりあえず先を促すと、老人は困ったように彼を見上げてまたまたとんでもないことを言った。

「実は、その孫が現在行方知れずでして」

「はあ?」

「榊さん、孫を、捜してくれませんか」

 宗一郎は老人を見下ろしたまま、口をぽかりと開けていた。

「お孫さんを、捜す? 僕が……ですか?」

 声が震えてしまったが、それどころではなかった。宗一郎は、忙しく考えを巡らせた。

 いつから消息不明なのかわからないが、その行方知れずの孫は、老人の病気のことや、土地の買収の話を知らないということか? これは、ひょっとしたら、チャンス到来かもしれない。

 思いがけない方向に転がりそうな話に、ついつい頬の筋肉が弛みそうだった。そんな彼に気付かず老人が言った。

「実は、手続きは済んでいるのですが、孫は自分があの竹林の地主になっている事を知らないのです。それで、友人の弁護士に相談した所、買い手があるうちに売ってしまったほうがいいかもしれないと言われましてね。ただ、売るには孫の承諾が……」

「ええ! そ、そりゃそうでしょうとも!」

 あまりに大きな声が出てしまい、老人が不審な目を向けた。宗一郎は逸る気持ちを抑えるために、小さく深呼吸を繰り返しながら言った。

「でも……。あ、あんな素晴らしい自然を売ってしまうなんて、そんなの僕は……」

 相槌を打ちながら、宗一郎は今後のことを考えていた。なんと、こちらの思惑通りじゃないか。孫が知らないなら、知らせなきゃいい。適当に理由をつけて孫と老人を遠ざけておくのだ。そうするうちに、開発の話は消えるに違いない。

 黙りこむ彼に、老人は労るような目を向けると言った。

「ありがとう、榊さん。あの竹林は何の価値もなかったけれど、私にとっては心を癒してくれる大切な山だったんです。あなたも私と同じような価値観であの山のことを思ってくれている。それだけで十分です。あの竹林も、それで本望でしょう」

 老人は遠い目になって昔のことを語りだした。捜している孫は、実は勘当した娘が生んだ子供なのだということだった。

「頑固親父のせいで駆け落ちして……。苦労したと思うんです。だからか、娘は早くに亡くなりました。孫は娘が亡くなってから父親である男と二人でしばらく同じ住所に居ましたが、今はどこにいるのやら」

 そこまで聞いて、宗一郎ははたと思いついた。もしも、宗一郎の知らない所で老人と孫が再会してしまってはいけない。たちまち土地の話が出るだろう。そうなったらアウトだ。

 いったいどうすればいいだろうか? とりあえず、孫の居場所は突き止めておかなければならないだろう。彼らを会わせないために、孫は是非捜しておかなければなるまい。

「わかりました。僕がお孫さんを捜してみましょう。何か手がかりがあるかもしれないので、お孫さんのお名前と住んでいた住所を教えてください」

 老人は病室に備え付けのキャビネットを指さした。中に入っているカバンを渡してやると、彼は一通の年賀葉書を取り出した。

「榊さん、どうかよろしくお願いします」

 手渡された年賀状には、生まれて間もない赤ん坊と母親が写っていた。母親はなかなかの美人だった。宗一郎は葉書を表にした。差出人のところに長野の住所と名義がある。

 ―――武山美砂子。これが老人の一人娘の名前だろう。旧姓であるところを見ると、結婚しなかったのだろうか?

『緑(生後三ヶ月)』葉書の年号は十六年前のものだ。

「ということは、お孫さんは十六ですか」

 宗一郎の言葉に、老人はぐったりとしたまま頷いた。

「……歳をとると余計頑固になってしまって、一度も会っていないんです。家内が入院した時、ようやく娘に会う理由が出来て、それで訪ねたんですが、やはりいざとなると顔を合わせられなくて……。その翌年の正月に年賀状が。後にも先にもこれきりです。娘は家内の入院先に出入りしていたようでしたが、家内が亡くなって、また音信不通になりました。そのうち娘も亡くなって……」

 気の毒な老人はため息をついて言った。

「一人になってしまって、何度孫に会いに行こうと思ったことか。けれど今さら会って、おじいさんだよ、なんて言えないでしょう?」  

そのうちその孫はどこかに引越ししてしまったらしい。

「誰かに頼んで捜してもらおうかと思ったんですが、誰に頼めばよいやら……。なにしろ手がかりが無いし……」

 普通は探偵でも雇えばいいだろう。こういうのはプロに任せるものなのだ。きっと老人はそんなこと思いつかなかったのだろうけど。

 武山老人の話を聞きながら、宗一郎はある計画を思いついていた。こんなに孫に会いたがっている老人を悲しませるのは忍びない。かといって、本物の孫に会わせるのは危険だ。必ず土地の話になるだろう。だから、娘さんに面差しの似た人物を雇って孫のふりをさせよう。そして、その偽者に、「山はもらうけれども、売らないよ」と言わせればいい。老人はそれだけできっと満足するだろう。宗一郎にとっては、相続云々よりも、とりあえず開発の話をつぶすことが先決なのだから。

 この話が無くなれば、あの山林はまた二束三文になる。その時点で本物の孫に会って、適当な価格で買い取ればいい。我ながら最高のアイデアだった。

 宗一郎は笑みを浮かべながら老人の手を取った。ツキは自分にある、そう確信した。

「大丈夫ですよ。きっと僕がお孫さんに会わせてあげます。それまでに、どうか元気になっていてください」

 老人はホッとしたのか、涙を浮かべて礼を言った。宗一郎は立ち上がると病室のドアに手をかけた。振り向いて釘を刺すように強い口調で言う。

「武山さん。そういうことですから、くれぐれも、誰にも……とくに開発業者には内緒にしないと。お孫さんの所にまで彼らが出入りしたら、可哀想ですからね」

 神妙な面持ちで頷いた老人に再び笑顔を向け、宗一郎は病室を出た。


 一階のロビーで名前を呼ばれ、宗一郎は振り返った。フロアの片隅で、ゴムの木が喚いていた。

『さっき帰りに寄ってくれって言ったじゃないか! 素通りするなんて、失礼だぞ!』

 宗一郎は玄関脇に置かれた自動販売機でミネラルウォーターを買うと、ゴムの木の鉢になみなみと注いでやった。

『うひょ! あんた気が利くじゃん。こんな美味い水久しぶりだよ』

 ゴムの木は嬉しそうに根っこから水分を吸い込んだ。宗一郎は植木を見下ろしながら、いいことを思いついた。老人の様子を知るために、こいつを病室に連れてゆこう。

 彼は小声でゴムの木に話しかけた。

「お前、病院のこと詳しいだろ? なあ、病室でじいさんの様子見てて、色々と知らせてくれたら、また『オイシイ水』を一本やるけど、どうする?」

『どうするって、やるに決まってるじゃん。もう七、八年同じ所に置かれっぱなしだから、ここの景色にも飽き飽きしていたんだ』

 宗一郎は大きなゴムの木の鉢植えを抱えると老人の病室に引き返した。

 いきなり大きな鉢植えを持って戻ってきた宗一郎を、老人は驚いたように見つめて言った。

「さ、榊さん? いったい何事です?」

 宗一郎は曖昧に笑って適当に言い繕った。

「あの、こいつけっこういい奴で……。じゃなかった、植木はマイナスイオンが出て、癒されますから……」

 彼の言葉に老人は何度も頷いて言った。

「……そうですか、私が一人で寂しいかと思ったのですね。あなたはなんて心の綺麗な人なんでしょう」

 病は人を気弱にさせるのかもしれない。頑固者だと思っていた老人の言葉に、宗一郎は恐縮して目を逸らせた。心が綺麗だなんて、とんでもない。自分は彼の信頼を利用して、事を有利に運ぼうと企んでいるのだ。そんな言い方は、頼むからやめてくれ。それに、自分は元々死に損ないの犯罪者なのだから……。自分の欲望のために、見ず知らずの女性から六百万円を騙し取ろうとして、リンチの果てにあの竹林に埋められて。

 そう、あの山は彼自身の墓標だった。かつての自分、『碓井正志』という男の墓だ。生まれ変わった今、竹たちから情けを受けて体を手に入れ、『榊宗一郎』と名乗っているけれど、自分は今でも何ひとつ変わっちゃいない。武山老人に近付いたのも自分のため、竹たちを守るという「約束」も、自分のため……。

 いつだって自分のため……。

 宗一郎は老人に「また来ます」と挨拶をして病室を出た。

 西日の差す廊下を歩きながら、ウエストポーチを探ると黒革の手帳を取り出した。それには、この体の持ち主であった、本物の榊宗一郎の日記が綴られている。


五月×日

 僕はふるさとの自然も守れない、情けない人間だ。せめて『緑化生』の研究を誰かに引き継いでもらわなくては。僕には時間が無い。先月、あの白樺の森を含む地域一帯のリゾート開発が決まってしまった。

六月×日

『緑化生』は試作品段階までこぎつけた。これが世に広まれば、皆が地球環境に目を向けざるを得ないだろう。あと、今一歩。『緑化生』に付加価値を持たせることが出来れば。

七月×日

 久しぶりに実家に帰省した。あの山を一人で歩いてみた。思い切って彼女を誘ってみるべきだったが、大学を卒業して二年、どんな顔で会えばいいのか思いつかない。でも結局一人でよかったのだ。今日はゆっくり白樺たちと話ができた。

十月×日

 突然切り裂かれるような痛みに襲われた。そろそろ山林の中央付近に開発の手が入ったのだろう。彼らと運命を共にするというのはこういうことだったのかと、今さらながらに痛感した。白樺たちが倒されるときの悲鳴が、こんなに離れた研究所の中にまで聞こえてくるなんて。

十一月×日

 もう間もなくテリトリーの半分が失われる。雪のために工事はそろそろ休工になるはずだが、それまでこの体が持つのか不安だ。

 彼らによれば、半分以上消失した時点で、僕は動けなくなるらしい。それまでに、ひと目だけでも、もう一度彼女に会いたかったな。都会育ちの彼女は僕のような田舎者が声をかけるのも躊躇われたから、結局同じサークルに居ながら殆ど言葉も交わせなかった。クリスマスまであとひと月。彼女は実家に帰っているらしい。思い切って東京まで出かけてみようか。

十二月二十三日

 信州を離れ、とうとう東京に来てしまった。彼らが持たせてくれた白樺の若木も、こんなに離れてしまっては効果が薄いようだ。まるで高地に居るみたいに終始頭がぼうっとしている。テリトリーを離れると危険だといわれた意味がようやくわかった。こんなんで、彼女に会えるのか不安になる。

十二月二十四日

 関東でも滅多に降らないという大雪に見舞われた。長野の豪雪地帯で生まれ育ったくせに、雪道で何度も転んでしまった。朝から僕の体は言う事をきかない。どこか、緑の多い場所で、少しでも『生命力』を分けてもらわなくては。僕にはまだやり残したことがあるのだ。それにしても、都会はなんて緑が少ないのだろう。冬場に都会で緑を探すことが、こんなに大変だったとは……。


 そして、手帳の最終ページに、震える文字でこう書かれている。

 ――彼女に会いたかった。『緑化生』を完成させたかった。緑の地球を守りたかった。


 宗一郎は手帳を閉じて廊下の窓から外を見た。病院の駐車場を囲むようにして、ぐるりと植えられた桜の木々が風にそよいでいる。彼はサッシの鍵を外すと、窓を開け放った。

 うふふふふ……

 あはははは……

 桜の枝が風と戯れている。とても楽しそうな笑い声だ。

 宗一郎は黒革の手帳をウエストポーチにしまった。この体を手に入れたときに、上着のポケットから財布と一緒に出てきたものだった。宗一郎は初めて彼の日記を読んだときの衝撃を思い出した。

 榊宗一郎という人物も、自分と同じように植物と「約束」をした人間らしいということがわかった。彼は長野の人間で、白樺の森がテリトリーだったらしい。

 こんな不可思議な運命に見舞われた人間が、自分以外にも居たことが驚きだった。最初のうちは自分の身に起きたことが信じられなかった。ただ、生きていること、いや、生まれ変われたことに対して、純粋な驚きと喜びだけを味わった。けれども、その代償がとんでもないものだという事実を、榊青年の手帳は、宗一郎に教えてくれた。

 折に触れて聞こえてくる植物たちの声は、楽しいものばかりではない。意味無く切られ、枯れてゆく命の叫びまで聞こえてしまうという苦痛。そして、「約束」が果たせなかったとき、自分自身がどうなってしまうのかという事までも。

 榊青年の辿った末路を確認するために、宗一郎はこの体になってすぐに長野まで行った。

 彼のテリトリーだった白樺の森は跡形も無く、そこには一大リゾートタウンが建設中だった。ダンプカーがひっきりなしに出入りする工事現場に、宗一郎は呆然と佇んでいた。

竹たちの言ったことは嘘でもはったりでもない。全部本当のことだった。

 白樺の森が死んだとき、榊青年も死んだのだ。それがちょうど五年前のクリスマスだった。

 そして今、自分も彼と同じ運命を辿りつつある。竹林がなくなるとき、自分も死ぬ。ただ、自分と榊宗一郎とは、あきらかに違う点があった。榊青年は、自分の生だけに執着しているわけではなかった。彼は運命を受け入れ、さらに緑を救おうと日々研究をしていたらしいことがわかった。彼の日記に度々出てくる『緑化生』なるものが、いったい何なのかわからないが、自分が彼と同じ立場になった今、宗一郎にはなんとなく榊青年の気持ちが理解出来たような気がしていた。

「この件がうまく片付いたら、榊宗一郎の研究を調べてみようかな」

 榊宗一郎については何ひとつ知らない。彼の住まいは遠く離れた長野県だったから、この関東では知り合いにばったり会ってしまう心配も無かった。けれども、考えてみれば彼にだって親や兄弟は居るだろう。五年間も行方知れずではさぞ心配していることだろう。

 あの日竹林で生き埋めにされて死んだ自分――碓井正志に身寄りは無い。だから、榊宗一郎のことを誰かが心配しているかもしれない、なんて事を一度も考えなかった。でも、会ったことも無い孫に会いたがっている武山老人を見て、少し考えを改めた。本物の榊宗一郎を知る人物に会うのは怖いけれど、親にはせめて一度は電話をして、声を聞かせてやるべきなのかもしれない。ばれそうになったら通話を切ればいいのだから。

 そんなことを考えていたときだった。

「先輩? もしかして、榊先輩じゃありませんか?」


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