連載1回目
プロローグ
前方に横たわる広大な竹林を見わたして、宗一郎はため息をついていた。
ざわめく緑の遥かな先に、木造の小学校が垣間見える。過疎と少子化で廃校になってから、もう何十年も経っている。今では手を入れる者もなく、風雨にさらされて廃屋と化していた。
きっと、いつかはこんな日がくるだろうと予測はしていたが、いざそうなってみると何も対処できない自分を自覚して、ため息はますます深くなるばかりだった。彼は舌打ちすると、竹林に向かってのびる獣道を進み始めた。
初夏の陽射しが降り注ぎ、真昼の太陽が首筋を焼く。最近運動不足だったから、舗装されていない山道をゆくのは太腿にきつい。首からだらしなくぶら下がったネクタイを取り去ると、竹林から吹いてくる心地良い風が汗の肌を冷やしてゆく。竹の作る日陰に入り込んだときには、かなり息が上がっていた。まだ三十になったばかりだというのに、情けないことこの上ない。彼はスーツの上着を脱いで肩に引っ掛けた。どこまでも続く深い青竹の迷宮に目を凝らす。下草が踏まれて歩き易くなっている場所を選んで、彼は竹林に分け入った。
湿気を含んだ土の匂いがあたりに満ちている。落ち葉の中から盛り上がった地下茎や、大きな石を避けて進む。竹林は奥に入るにつれて登りの斜面になってきた。急な段差に足をとられて、咄嗟に太い竹に手を掛けると、ひんやりと気持ちのよい手触りがした。竹は宗一郎の手のひらに冷たい感触と一緒に生命力を注ぎ込んでくれた。
そう、文字通りそれは『生命力』。体内を満たしてゆく安らぎと満足感は、この竹林が間違いなく彼のテリトリーであることを証明しているのだ。
宗一郎はずいぶんと上り傾斜のきつくなった腐葉土を踏みしめながら、一本一本手近な竹に触れていった。触れるたびにつるつるした竹の表面が小刻みに震えているように感じる。彼らも、久々に訪れた男を歓迎してくれているのだろう。
一時間近く歩いた。下草や突き出た粘土岩を避けながら、目的の場所にたどり着くと立ち止まって天を仰ぐ。そこには、ひときわ太くてどこまでも背の高い、一本の古い孟宗竹があった。見上げた上空を掠めてゆく風が、何千という葉を擦り合わせて音を出す。黄緑の葉は、日の光を浴びて透きとおるように輝きを放ち、蜻蛉の薄羽のごとく羽ばたきながら涼やかな「声」を紡ぎ出した。
――お前の番だよ。やるべき事は、わかっているね。もし失敗したら……
「失敗したら?」彼は思わず囁き声で返す。
――ここはお前にとって大切な場所。言われなくてもわかるだろう?
――わかるだろう、わかるだろう、わかるだろう……
何千、何万という蜻蛉の薄羽が一斉に震えて、頭上から押し寄せる波のように彼を飲み込んでゆく。 竹の葉の一枚一枚から繰り出される音の洪水に、宗一郎はがくりと下草の上に跪いていた。
「わかった、わかったから、やめてくれ!」
誰も居ない竹林にひれ伏し、大きな声で叫んだ途端に周囲は静けさを取り戻していた。植物だけが持つ、圧倒的な静。あまりにも静かで、あまりにも無防備ゆえに、たやすく手折られてきた彼らの「声」は、いざと言うときに抗いがたい大きさでもって訴えかけてくる。しかも、我々ヒトが思いもよらぬ手段を使って。
宗一郎はゆっくり立ち上がると、スーツのズボンをはたいた。
やるべきことはわかっているが、それを叶える方法が全く思い浮かばない。彼は途方にくれて、荒れ果てた小学校へと続く斜面を下って行った。
人知れずがけ崩れでもあったのだろうか。校庭と裏山を隔てている古い金網の囲いは半分土砂に埋もれて校庭側に倒れ掛かっていた。流れ出した土の上に、クローバーが緑の絨毯を広げている。崩れてから相当経っているのだろう。ところどころに竹が進出してきており、鋭い穂先を踏まないように苦労しなければならなかった。
宗一郎は歪んで低くなった金網をまたいで校庭内に侵入した。
雑草だらけの花壇を踏み越え、錆びた鉄棒の脇を通ってゆっくりと歩いて行った。
山を背にして建つ木造の校舎は、真昼の陽射しの中で時を止めていた。割れた窓から中を覗くと、教室内に子供らの声がさざ波のように広がった。
――何して遊ぶ?
――背比べしよ。しよ、しよ、しよ……。
校舎の正面にまわってみた。入口には南京錠が掛けられており、市役所の看板で『立入禁止』の札が下げられていた。
「本当に、いらないよな、こんな廃屋なんてさ……」
小声で呟くと、風に乗って竹の葉音が大きく迫ってきた。まるでなじるような、ザワザワとしたその音に、彼は思わず肩をすくめた。
鍵の掛かった出入り口から横に目を向けると、かつて窓が並んでいたであろう箇所は、板が打ち付けられていた。ひとつひとつ見てゆくと、腐って弛んだ部分を発見した。棘を刺さないように気をつけながらぐいと剥がすと、意外にあっさりと板が外れた。
木造校舎の真っ暗な廊下に一筋の日光が差し込んだ。途端に、慌てたような子供の声が溢れだした。
――誰か来たよ。
――誰か来た。こわいよ、こわいよ、こわいよ……。
子供たちは突然現れた男のことを知らないから、驚くのも無理はない。
「大丈夫だよ。ちょっと見学させてもらうだけだから」
安心させるために、ごく小さな声で言うと、さやさやと衣擦れのような音が廃校舎の廊下を伝って奥のほうに消えた。いっとき待ってやると、前にも増して濃厚な静けさが彼を包み込んだ。宗一郎は中の様子を見るために、もう一枚板を引き剥がした。
強い陽射しに照らされて、眩い緑が彼の目を焼いた。
学校の廊下だったところには、若竹が一斉に芽を出していた。何年も掛かって地下茎を伸ばし、腐った床板を押し上げて、とうとう彼らは校舎の下まで侵入していたのだ。あと十年もすると、この学校の建物も、竹林の一部となるはずだ。いつもながら、気の遠くなるような彼らの計画だ。そして、そんな彼らを、宗一郎は全面的にバックアップしなければならない。そう思うと、正直気が滅入る。
彼は南京錠の掛かったドアの前まで引き返した。風雨に晒された『立入禁止』の札の横に手を伸ばした。もう一枚取り付けられた、真新しいプラスチックの札の文字を、声に出して読み上げる。
「開発予定地につき、関係者以外の立ち入りはご遠慮願います」
このままスムーズに話が進めば、ここは取り壊され、背後の竹林まですべてを更地にして、全十八棟からなるマンション群が建設されるのだという。
廃校舎の入口に佇む宗一郎の足元を、一陣の風が吹き抜けた。風は蒼竹の香りと「声」を運んできた。
――とうとう我らが目をつけられた。風が教えてくれた。風は我々に色んなことを教えてくれる。仲間のこと、天気のこと、鳥のこと。そして、お前のことも……。
宗一郎はごくりと唾を呑み込んだ。竹がささやく。
――あのときの約束を違えることのないように。くれぐれも、違えることのないように。
風と共に、竹たちの言葉が宗一郎の脳内にわんわんと響いてきた。風は確かな意志を持って彼の周囲をぐるぐる廻りながら、校庭の砂粒を巻き上げ、叩きつけてきた。
わかっている。わかっているとも。
宗一郎は吹きすさぶ風の中で大声を張り上げた。
「頼みがある。俺一人では手に負えないかもしれない。お願いだ、誰か助っ人を寄越してくれ!」
――情けない人間だな。お前のような奴が、我らの運命共同体かと思うと、悲しくて今にも花が咲いてしまいそうだ。
「おいおい、竹ってさ、花咲いたら死んじまうんだろう? それだけは勘弁してくれよな」
苦笑混じりに叫んだが、反応は無かった。今までの経験から、こちらの問いに対する返事は滅多にないということを宗一郎は知っている。
程なくしてピタリと風がおさまり、頭の中の声も聞こえなくなった。ホッと息を吐くと、宗一郎は元来た斜面を引き返し始めた。
竹―1
最初から、この地域の開発は乗り気じゃなかった。でも、彼女はただのOLだ。社長が、いや、そんな雲の上の人でなくとも、上司が「やれ」とひと声掛ければ、「はいはい」と二つ返事で動かなくてはならない。
「でも……ホント、どうにかして止めさせることって、出来ないかしら」
近代的なオフィスビルの窓際で、林萌子はため息混じりに呟いた。眼下には直線的なコンクリートの建物と、整然と並んだ街道の並木が見下ろせる。レゴブロックの箱庭を覗いているような景色は、人によっては造形的な美の極みだと言うが、萌子はこの人工的な街並みが大嫌いだった。建物がひしめき合い、そのわずかばかりの隙間に造られた公園には、窮屈そうに緑が植えられている。都会のオアシスなどと誰が呼ぶものか。あんなところに置き去りにされた木々は、毎日拷問を受けるように排気ガスまみれになっているのだ。
萌子は窓から目を背けると、フロアの片隅にあるコピー機に歩いて行った。誰も居ないだだっぴろい開発室に、ヒールの音がカツカツと無機質に響く。
彼女の手の中には、社外秘の書類があった。これから、この書類を持って例の地主の家に行くのだ。今回の宅地開発には、萌子の勤める大手ゼネコン、ドリーム開発産業のほかに数社が名乗りを上げている。廃校になった学校の建物を取り壊すという話が出たときに、その土地を含めた周囲の竹林まで一緒に買い上げて、そこに新しく永住型のマンションを作る計画が浮上したのだ。その権利を巡って、数ヶ月前から竹林の持ち主に、買い取り交渉を続けているという訳だった。
萌子は書類をぱらぱらとめくった。『環境に優しいマンション』の文字が目に飛び込んで来た。太陽光と風力発電のシステムを採用して、敷地内の共用部分の電力をまかなう設計になっている。イメージのイラストを見ると、マンションの屋上は銀色のパネルで覆われている。これが太陽光発電の装置なのだ。風力はどうしたのかと見ると、白壁に金属屋根の低層のマンションの中心部に管理事務所として白亜の風車小屋が建てられる計画になっていた。異常に大きい風車は、風力発電装置であると共に、新しいこの街「仮称・エコロジータウン」のシンボルになっているのだった。
エコロジータウンと銘を打つからには、各家庭に生ゴミ処理機や、雨水ろ過装置が標準装備されているのも目玉だった。その他にも、ホタテの貝殻から作った塗料を使用し、シックハウスを防ぐだの、ケナフ素材の壁紙を使用して環境に配慮しているなどのうたい文句がこれ見よがしに羅列されていた。
「あれ?」
萌子は、とあるページに目を留めた。パンフレットが一部訂正されている。敷地内駐車場100%確保と書かれているのは、以前と変わらない。でもその部分にカッコ書きで、『平置き駐車場100%確保』と変更されているではないか。
萌子は全体の見取り図を見た。当初の計画では立体駐車場にする予定で、その分あまった敷地にヒートアイランド対策と緑化の目的で芝を植え、花壇や遊歩道を整備する計画になっていたはずであった。その緑のスペースが、すべてコンクリートを打った駐車場に変更されていた。
彼女はパンフレットを閉じると、コピー機にセットした。機械から吐き出されてくる書類を見ていると、自然と眉間にシワが寄ってしまう。
「何がエコロジーよ」
吐き捨てるようにつぶやく。エコロジーが聞いて呆れる。せめてもの言い訳にと、芝生の面積を通常の二倍に増やした当初の計画も、結局利便性の前にはあっさりと覆されたらしい。
なんてことだ。こんないい加減なエコロジーのために、大切な緑が失われようとしているのだ。発電装置にコストが掛かることがわかりきっているから、このマンションの価格は驚くほど高い。しかも、都心から離れている上に、交通の便もあまり良いとは言えない。十八棟も建てたって、完売するとは到底思えなかった。
こんな無意味な開発は、関連企業の話題づくりのためでしかない。昨今のエコブームに乗ろうとしているのが見え見えだった。こんなことをして、いったいどこがエコロジーなのか、意味がわからない。そう思うと、今自分がコピーをとっているパンフレットでさえも無駄だと思えてくる。紙の無駄。紙は木材から出来ているのだから、今この瞬間、自分は大自然に対して罪を犯しているような錯覚に囚われてくる。
彼女はあの竹林の緑を思い浮かべた。すると、昔聞いたあの人の言葉が脳裏をよぎった。
――僕はね、植物の声が聞こえるのさ。今、彼らはとても恐れている。地球環境の悪化を嘆いている。
そう言って悲しげに微笑んだ男性は、大学時代のサークルの先輩。彼は非常に優秀な人物だったが、時折少年のような夢物語を繰り広げた。そして、話の最後に決まって言うセリフがあった。
――僕は、彼らに代わってこの星の緑を守る約束をしたんだ。
開発に着手するたびに、彼の事を思い出す。べつに恋人だったとか、そういうわけではない。けれど……。
山を崩し、緑をなぎ払って宅地をつくるのが萌子の会社の仕事だ。それで毎月お給料をもらっている。けれども、開発部に回されたときから、彼の言葉はつねに萌子にプレッシャーを与えていた。大企業だからというだけで、親の勧めるままに就職を決めてしまったが、もっと自分に合った職業を選択するべきだったのだと、最近強く思うようになった。
そして今回、いつもよりはるかに規模の大きな開発に着手するにあたって、緑豊かな竹林を目の当たりにしてしまい、ストレスは溜まる一方だった。
「どうにかして止めさせることって、出来ないかしら」
つぶやいた時、名前を呼ばれた。
「林さん、そろそろ例の地主の所に出掛けるから、一緒に来てくれ」
エコロジータウン開発室長の江古田が鼻息も荒くフロアに入ってきた。彼は大股に近付いてくると、萌子の肩をポンポンと叩いた。今回の開発プロジェクトの責任者に抜擢された江古田は、やる気満々だった。色黒の顔に太い眉がうっとうしい。濃すぎる顔の中年は四十代半ばの独身で、何かにつけて萌子のボディにタッチする。それが尻や胸ならば、即刻セクハラで訴えたいところだけれども、肩や腕、背中という位置は非常に微妙だった。なるべく近付きたくないと思っていたのに、つい最近江古田自身の『ご指名』により、萌子は彼付きの専任スタッフに任命されてしまったのだ。ただのOLである彼女には業務命令に逆らう力は無い。それにこれは傍目から見ても異例の大抜擢だった。
「はい、かしこまりました。コピーをとり終わりましたらすぐに」
萌子が言いかけた時、江古田の携帯が鳴った。彼は険しい顔つきで応答していたが、通話を終えるなり満面の笑みを浮かべた。彼は太い眉をめいっぱい下げた顔で萌子に言った。
「あのじいさん、とうとう入院したそうだ。ヘルパーさんから連絡があった」
萌子は無表情を装ったが、内心かなり憂鬱だった。あのじいさんというのは、これから会いに行く予定だった地主のことだ。竹林を手離すことを頑なに拒否していた老人を、萌子は密かに応援していたのだ。彼の合意がなければ開発は白紙になり、あの緑豊かで美しい広大な竹林は無くならずに済むのだから。けれどもその老人が入院したとは。
かなりの高齢なのに身寄りも無いのか、いつも中年女性のヘルパーが身の回りの世話をしていた。そのヘルパーがわざわざ江古田に連絡をして寄越すのは、たぶん先日手渡した手土産の効果かもしれない。江古田に頼まれて、萌子が選んだブランド物のバッグは、ヘルパーの心を鷲づかみにしたようだった。
ぼんやりしていたのだろう、萌子は江古田の声で我に返った。
「かなり弱っているらしい。もう時間の問題だな。僕が病院まで行くのは、いかにもという感じで良くないから、林さん一人でお見舞いに行ってください。くれぐれも、土地の話はしないように。こういうときは、ビジネスの事はタブーです」
そんな紳士的なことを言っておきながら、江古田の相好は崩れっぱなしだった。萌子は不快な表情を隠すために、深く一礼して言った。
「それでは、これからすぐに出掛けます」
竹―2
その報せは彼ら特有のやり方で宗一郎のもとにもたらされた。
『はよう起きんかい! このボケェ!』
休日の朝、リラックス状態の脳内に響き渡った甲高い「声」。宗一郎は呻き声と共にゆっくりと寝返りをうちながら薄目を開けた。
『ホンマにしゃーないやっちゃ、こんな光合成日和に、何時まで寝とるつもりや!』
声の主はテレビの上からへたくそな関西弁で捲くし立てた。最近お笑い番組ばかり見ていたせいだろう。今度は関西弁にはまってしまったらしい。ちょっと前までビデオレンタルで洋画ばかり見ていたときは、英語やフランス語が混ざった、みょうちきりんな言葉を吐いていたのに。
『はようカーテン開けてや。お日さま無くなってまうで! はようせい、はよう!』
宗一郎は欠伸をすると、再び目を閉じて布団を被った。うるさいけれども害は無いので無視していると、そいつはビックリするようなことを言い出した。
『あ、そうや! こんな事言うとる場合、ちゃうねん。やばいで、ソウイチロー。めっちゃやばいで。じいさんが死にかけとるで!』
宗一郎は一気に覚醒した。布団を蹴飛ばして起き上がると、彼は「声」の主を黄色い鉢ごと持ち上げた。
「じいさんって、あの竹林の持ち主の?」
無意識に手が震えた。
『おい、乱暴はやめい! おいらに触ると怪我するで、ベイベ! って、おい、ソウイチロー! ゆするな! おいらめっちゃ根っこ浅いんやで。抜けてまうがな!』
宗一郎は大きく深呼吸をすると、手にしていたサボテンの鉢植えを元の位置に戻した。
お椀ほどの黄色い植木鉢に鎮座するサボテンは『連絡係』だ。コイツは、宗一郎の耳には聞こえない、遠く離れた「竹」たちの声を聞き取って教えてくれるのだ。サボテンは人の言葉を理解すると聞いていたから選んだのだが、完全に失敗だった。このサボテン――宗一郎は彼のことを「テン」と呼んでいるのだが――テンは物凄くおしゃべりな奴だった。
『ホンマに、おいらがでっかくなったらな、この素晴らしいトゲトゲの腕でエルボー食らわして、突っ込み入れまくって、ぎったんぎったんの針山地獄を見せたるからな!』
悪態をつくテンを無視して、宗一郎は大急ぎで着替え始めた。
地主のじいさんが死んだら、いったいあの竹林はどうなってしまうのだろう? 宗一郎は言いようの無い不安に駆られた。とにかく、じいさんの元を訪ねなければ。
十分と経たぬうちに宗一郎は自宅を出て、地主の家に向かって車を走らせていた。
じいさん――武山竹善老人とは盆栽を通じて親しくしていた。あの竹林の持ち主がどんな様子なのか知りたくて、わざと近付いたのだ。宗一郎は竹善老人の趣味である盆栽の会に入会して、接触の機会を待った。松の木の枝振りが気に入らないと言って、悪戦苦闘している竹善老人にアドバイスしたのがきっかけだった。宗一郎にとって盆栽はいたってつまらないものだ。苦労せずとも、彼がきちんと話して聞かせれば、植物たちは思い通りの方向に枝をはり、花を咲かせてくれたからだ。植物と会話する能力。竹たちとの「約束」によって得た副産物的な力が役に立ったのだ。
宗一郎のアドバイスによって、竹善老人の盆栽が見事金賞に輝き、それから二人は一気に親しくなったのだった。
老人と接触し始めてから二年あまりの間に、彼についてはすっかり調べがついていた。老人には身寄りが無く、財産と呼べるものは彼の住んでいる古い一軒家とその裏に広がる広大な竹林だけだった。その時点で、彼に頼んであの山を丸ごと売ってもらっていれば良かったのだと、宗一郎は今さらながらに後悔した。当事あの土地の価格は二束三文だったのだから。まあ、広大な面積がある分、ある程度のまとまった金が必要になるだろうけど、盆栽が金賞をとった、ご機嫌な時期であったならば、多少の無理は利いたのではないかと思う。値切ることも、分割払いだって承諾してくれたかもしれないのに。
今では、あの山はとても個人レベルでは買えないくらいになってしまった。廃校の処分に絡んで、大規模開発の話が出た途端に、地価が一気に値上がりしたのだ。
老人から、竹林売却の話が持ち上がっているのだと聞かされたときには、目の前が真っ暗になった。
「とにかく、あの山は売らないほうがいいですよ」宗一郎は懸命に説得を試みた。
「先祖代々の土地を売るなんて、罰当たりです。しかもあんなに美しい竹林は滅多にないですよ。そのうち日本の絶景百選に選ばれるかもしれないというのに……駄目です。マンションなんて建てさせてはいけません」
竹善老人は特に金に困っている様子でもなかったので、宗一郎の話をいちいち頷きながら聞いてくれた。けれども、開発業者の交渉も執拗で、しかも老人が折れないとなると、どんどん地価をつり上げていった。目玉が飛び出しそうなほどの金額を提示されたと老人から聞いたときには、時間の問題かもしれない、と諦めムードになってしまった。なぜなら、その金額たるや、もしも竹林の所有者が宗一郎だったら、間違いなく承諾していると思われるほどだったのだ。
先日確認した限りでは、まだ売ってはいないと言っていたが、病気になったとなれば話は別だ。無意味に土地を所有しているよりも、それを売って治療費を得た方がいいと考えるに違いない。
宗一郎はステアリングを握りながらため息をついた。車窓を流れる商店街の風景を、見るともなしに眺め、心の内を声に出してつぶやく。
「今さら顔を出して、どうするよ、俺……。最後の説得ったって、なんて言えばいいのか、全然思いつかねぇ。ちくしょう!」
思えば今までの人生は、後悔の連続であった。もっと行政に興味を持って、廃校処分の議案が出たときに対処すべきだった。市議会に顔の利く人物をつかまえるなりなんなりして、積極的に働きかけて早く手を打っておけばよかったのに。いや、やはりあの時竹林を買い取っていれば……あの時、あの時……。どんどん記憶が遡る。三年前、四年前……。
そもそもの後悔の原因はあの時だ。そう、五年前のあの出来事は、まさに『魔がさした』と言うほか無い。
宗一郎は過去の記憶へと思いを馳せた。
寒い日だった。曇天からこぼれ落ちる雪は、正午あたりからますますその勢いを増して、止む気配が無かった。こんな日はまったく仕事をする気にならない。いや、雪のせいばかりではない。クリスマスを前にして、付き合っていた女性に振られたことが、無気力の最大の理由だった。結婚まで考えていたのに。
そして今夜はクリスマスイブ。傷心の彼にとって、最もつらく忌まわしい日だ。同僚たちは定時を前にさっさと帰り支度をして、終業時刻と共に聖夜の街へと散って行った。
取り残された彼は、店じまいをしようとガラスの自動ドアから外に出た。恨めしげに空を見上げると、店の青い看板灯にはすでに十センチ近くも雪が積もり始めていた。宗一郎は、看板の雪をはらおうかと思ったが、やめにした。うちはケーキ屋でもレストランでもない。クリスマスイブに高級外車を専門に取り扱う販売店に用事のある客は、まず居ないだろう。
白い真綿のような雪が飽きることなく舞い落ちて、彼の頭に、肩に、静かに降り積もる。どんどん降って、電車もバスも止まってしまえ。さらに停電でもしたら、クリスマスイルミネーションが台無しになって、さぞ愉快だろうに。
「ああ、俺って性格悪いな」
ため息をつき、店のシャッターを下ろそうと手をかけた時にひとりの女性が来店した。降りしきる雪の中を歩いて来たのだろう、女性はブーツもコートも雪だらけだった。大きなスーツケースをひきずって、彼女は店の前に佇む宗一郎に声をかけてきた。
「ああ寒い。こんなに寒いと死んでしまいそう。中に入れてくださらないかしら?」
訛りのあるしゃべり方だった。彼女は日本人ではなかった。黒髪が目立つ、アジア系の美人。たぶんフィリピンとか、タイとかそっち方面の国の人だと思った。目鼻立ちがハッキリしていて、肌がつやつやで小麦色だったから。
「どうぞ」
宗一郎はそっけなく言って、若い女性を来客用のコーナーに案内した。ここのように高級外車だけを扱う販売店に来る客は、たいていがパンフレットをもらいに来たりするだけの、いわゆる「ひやかし」なのだ。しかも、女性が一人で来ること自体がめずらしい。
「あの、どういった車をお探しですか?」
パンフレットの棚に手をかけながら尋ねると、女性はライトアップされたショーウィンドウに飾られているドイツ製の白い高級車を指さした。
「これでいいわ」
「え……?」
宗一郎は思わず女性と車を交互に見た。からかっているのだろうか。それでなくても今日は特別いらついているというのに。
「すぐに乗って帰れる車って、あるかしら?」
宗一郎は眉根を寄せた。レンタカーと勘違いしているに違いないと思った。車を購入するには登録手続きなどがあるのだから、いきなり買ってその場で乗れるわけがないだろう。それに、女性が指さした車は、車体価格だけで一千万円以上はする。
失礼のないように勘違いを指摘してやると、彼女はおもむろにスーツケースのファスナーを開けた。
途端に宗一郎の喉から、呻き声が漏れた。
「これだけあっても駄目ですの?」
女性は上目遣いで宗一郎を見上げて、困ったような顔になった。スーツケースには万札が束になって呻っている。
「いえ、そ、そんな……ことは……」
暑くもないのに汗が流れた。
女性はしなやかなその細い手でスーツケースの中から札束をつかみ出すと、テーブルの上に積み上げた。数えると十束ある。チラリと見えたスーツケースの中身は、一千万円取り出したにもかかわらず、まだまだ山のように札束が詰まっていた。
女性は現金を宗一郎のほうに押しやると、壁の時計に目を向けて言った。
「売ってくださらないのなら、他を当たらなくては。パーティーが始まってしまいます」
「パーティー?」
そう問い返し、宗一郎は馬鹿みたいに口を開けた。女性はこれから大切なパーティーに出席するのだと言った。宗一郎はもう一度女性を上から下まで眺めた。
いったいこの女性は何者なんだ?
黒いレザーのロングコートは柔らかそうで、良く見れば上質な品のようだ。毛皮だけが金持ちの定番アイテムではないのだろう。さらさらの黒髪の間からチラリと覗く耳には、大粒の宝石が光っていた。
宗一郎は心の中で頷いた。そうだ、この女性は物凄い金持ちに違いない。それにしても、高級車を即金で買おうとするなんて、まったく常識知らずのお嬢さまだ。いや、お姫様か? しかも、大金をスーツケースに入れて持ち歩いているなんて、犯罪に巻き込まれでもしたらどうするのだ。そう考えて、宗一郎はハッとした。この状況、まさかとは思うが、犯罪に絡んだ金ではないのか?
いやいや、そんなことあるもんか。なんたって、これほどの大金だ。怪しい金だったら、こんなおおっぴらに使う者は居ないだろう。心の中でもう一人の宗一郎が笑って否定する。
「あのぉ……?」
気が付けば、女性のほうが彼を不審な目で見上げていた。宗一郎はテーブルの上の金を見た。次いで店内をぐるりと見渡す。店長も同僚も皆帰ってしまい、今この店の中には客の女性と自分しか居ない。宗一郎は「少々お待ちください」と言うと、店の奥に引っ込んだ。
彼は事務室に入り、防犯カメラの電源を切った。真っ黒なガラス窓に自分の顔が映ってドキリとする。これからしようとしていることを考えると、手のひらが汗ばみ、口の中が乾いてきた。宗一郎は一人分のコーヒーを淹れると、窓ガラスに向かって笑顔を作ってみた。不自然ともとれる笑みを湛えながら、彼は事務室を出た。
店に戻ると客の女性はそのままの姿勢で待っていた。宗一郎はつくり笑いで提案を持ちかけた。
「どうしてもすぐに車が必要でしたら、私のをお売りしますよ。もちろん名義変更などの手続きはこちらでやっておきます。実は最近買い替えたばかりで。今飾ってある車よりグレードは低いですが同じ車種ですし、色も白で一緒ですよ」
お金の問題ではなく、手続きに時間が掛かるのだという事を強調すると、女性は嬉しそうに目を輝かせた。
「そんな、あなた様の大切なお車を譲っていただけるなんて、よろしいんですか?」
「もちろんです。お客様のためですから」
いくつかの書類に手早くサインを済ませると、女性はニッコリ笑って宗一郎から車のキーを受け取った。
彼女が車を運転して雪の街に消えたあと、宗一郎は恐る恐る札束の一つを手に取っていた。上と下だけで、中身は全部新聞紙だった、なんて洒落にならない。ぱらぱらめくる。めくるたびに福沢諭吉が出てきた。自分の財布から一万円札を引っ張り出して何度も見比べたが、女性が支払った金は間違いなく本物だった。
宗一郎の口元に、さっきまでとは違う、本物の笑みが広がってゆく。新車など買えるはずもない彼は、半年ほど前に中古の高級車を三年ローンで買ったのだ。理由は最近まで付き合っていた彼女とドライブするためだ。見栄っ張りな女だったから、その車は彼女のハートをがっちりつかんだかに見えた。でも、もうそんな事は今となっては過去の話だった。
あの中古車の総額は四百万。ところが彼の目の前には女性が置いた十の札束があった。
これはあきらかに詐欺だ。六百万の儲けである。しかも女性はよほどの世間知らずなのか頭が弱いのか、領収証すらも貰っていかなかったのだ。
宗一郎は女性がサインした書類を無造作にスーツのポケットに突っ込んだ。本当はこんなもの書いてもらう必要など無かったが、それなりの手順くらいは踏んでおかないと、逆に怪しまれる。
「今日はクリスマスイブだし。俺にもサンタがビッグなプレゼントをくれたんだろう」
宗一郎は店のシャッターを閉めると、女性の痕跡を全て消した。彼女が来店したときの防犯カメラのテープも、彼女が飲んだコーヒーカップも。店の前についたブーツの足跡と愛車の轍は、降りしきる雪が消してくれた。
「彼女は今夜ここには来なかったんだ」
宗一郎は小さく呟いた。そう、彼の車は盗まれたのだ。店の駐車場に停めておいたが、気付いたら無かった。そういう事にしてしまうのだ。金なんて、知るもんか。領収証も何も無いのに、後から返せと言われても返すバカは居ないし。そう、今年のクリスマスイブは誰にも会わなかったし、何も無かったんだ。そういうことだ。
宗一郎はもう一度店内を点検し、家路に着いた。
その夜は宗一郎にとって最高にハッピーなイブだった。彼にしてみれば、今まで一度も飲んだことのないような高級ワインをデパ地下で買い、つまみにローストビーフとチーズまで用意した。最高にして最初で最後……。
万札に埋もれながら、高級ワインに舌鼓を打つ。まさにそれは、最後の晩餐だったのかもしれない。
クリスマスの朝は、警察からの電話で始まった。雪は止んでおり、閉め忘れたカーテンから眩しい陽射しが差し込んでいる。宗一郎は自宅マンションのベッドで受話器を手に呆然としていた。
『あなたの車、どうされました?』
電話をかけてきた警察官の第一声はよく覚えている。酒が残っていたせいで、何と答えたのかは自信が無かったが……。
「営業所に置いてきました。雪があんまりひどかったから……」
そんな風に答えたような気がするも、定かでない。次の警察官の言葉で、頭の中がいっぱいなってしまったのだ。
『昨夜あなたの車が事件に使われたんです。トランクからビビアン三宅さんの遺体が発見されまして……』
それがどういう意味かを理解するのに、かなりの時間を要した。ぼんやりと霞む脳内に、黒髪の美女が去来する。
「ビビアン……?」
『ビビアン三宅さんという女性をご存知では?』
黙っていると、警察官が言った。
『ビビアンさんは商用のためにかなりの金額を持ち歩いていたそうなんですが、その所持金がですね……』
――金! スーツケースの、現金!
その後の会話はまったく記憶が曖昧だった。電話を切った後、宗一郎は物凄い勢いでスーツのポケットを漁った。数枚の書類を取り出すと、ライターで火をつけてキッチンのシンクに放り込んだ。めらめらと燃える紙片には『ビビアン』という文字があった。
「あの女が……殺された?」
宗一郎は一気に酔いが醒めた。スーツケースに現金を詰め込んで持ち歩いていた若い女。
彼はキッチンを出るとリビングに入って行った。ソファの上やら、テーブルの下やら、いたるところに散らばった一万円札を見て、突然寒気に襲われた。
何故、あの女性が殺されたのか。そんな事は知る必要がない。いや、知りたくもなかった。ビビアンという女性と自分は、昨日一度だけしか会ったことがないのだから。
――でも。
宗一郎は再びキッチンへ行くと、ビニール袋を手に戻ってきた。彼は散乱する紙幣を、物凄い勢いで拾い集めては、スーパーのビニールに突っ込んでいった。
状況はかなりまずい。たとえ車を盗まれたのだと主張しても、トランクから死体が出てきたのだから、車の持ち主である自分は間違いなく容疑者リストのトップに上がっているはずだ。
「車を譲ったのだと、正直に言おうか?」
そう思って手元を見つめる。白いビニール一杯の、この現金をどう説明すればいいというのだ?
あの車は装備など、かなり手を入れてマニアックな仕様になっているから、素人同士ならば多少の金額の水増しはありかもしれない。しかし自分は自動車販売の営業マンなのだ。六百万も多く取っているのだから、そちらの方で逮捕されてしまうだろう。
「まず、すぐにここを離れないと」
逃げたと思われても仕方がないが、手元の現金を何とかしなくてはならない。これをどうにかしないと、このままでは詐欺どころか殺人犯にされてしまう。うろうろとリビングを歩き回りながら、何とか落ち着こうと努力した。とにかく考える時間が必要だった。
どこかで落ち着いて考えるんだ。
宗一郎はナイロンバッグに現金の入ったビニールを突っ込むと、パスポートや通帳、保険証など、気がつく限りの貴重品をかき集めた。どこかに逃げなくてはならない。そのことだけが、頭の中を占領していた。
ジャージの上に分厚いベンチコートを羽織ると、玄関ドアまで行って、もう一度引き返す。ニットの帽子と大きめのマスクをつけてサングラスをポケットに突っ込んだ。
どこに行こうか。
玄関の鉄扉を開けると、キンと冷えた朝の空気が彼を包んだ。数歩歩くとエレベータホールになっている。宗一郎は階数表示を見た。どんどん下がってゆく。
もしや、もう警察が来たのか?
開放廊下の手すりから覗くと、マンション前に白いセダンの乗用車が止まっている。雪の上に泥の足跡がいくつも付いていて、玄関ホールのエントランスに向かって点々と茶色くなって見えた。
パトカーではなさそうだが、警察かもしれない。今は慎重に、かつ素早く行動するのだ。彼は開放廊下を奥へと進んだ。行く手には非常階段がある。彼は非常階段を数段上がったところで開放廊下の様子を伺った。
エレベータの開閉する音と共に、複数の足音がした。やはり警察かもしれない。三人くらい居るようだった。男性が彼の名前を呼びながら玄関ドアを叩いているのが聞こえた。
宗一郎は身を縮めるようにして、一つ上の階へ上がった。昨夜の雪が積もっており、鉄製の階段はところどころ凍っている。その代わりに、響く足音を消してくれた。
一つ上の階から様子を伺うことにして、宗一郎は静かに開放廊下を移動した。休日の早朝だからか、廊下に人影は無い。下から見えないように頭を低くして進み、自分の部屋の真上辺りで座り込んだ。すると若い男の声が聞こえてきた。
「いねぇな。野郎、さっきの電話で逃げやがった」
「……ったく、まずいことになったな。どうするよ、アニキに知れたらマジやばくねぇ?」
違う男の声だ。こちらは若いというより学生のようなしゃべり方だった。くちゃくちゃとガムでも噛んでいるみたいな音が聞こえた。
「あの女が妙なマネしなきゃよお!」
「だからって、殺しちまうことなかったのに、お前頭悪すぎだ。バーカ」
宗一郎は汗でびっしょりの手のひらをぎゅっと握り締めた。
『殺す』って、どういうことだ?
こいつら、警察じゃ、ないのか……?
「おい、お前、さっき余計なこと言わなかったか? そのせいで怪しまれたんじゃないか?」
「オレは別に、言われたとおりにしゃべってたろう?」
あ、この声。さっきの電話の警察官。
宗一郎は恐る恐る開放廊下から首を出した。真下の階で派手な赤いジャンパーの背中が動いている。金髪のたてがみみたいなヘアスタイルが手すりの所から見え隠れした。どう見ても警察には見えない。
彼らはしばらくドアノブをいじっていたが、そのうちバタンと開閉する音がした。ピッキングの要領で開けられたのだとわかった。
間違いない、彼らは警察ではない。警察が空き巣のようなマネをするはずがない。じゃあ、誰なのかなんて考えたくないような人種に違いない。そんな奴らから、自分は大金を騙し取ってしまったのだ。ただで済むはずが無い。
やばい、やばすぎる。
女性は言葉通りに殺されているのだろうか。彼らがそう言ったのだし、三人は平気で人殺しをしそうな、いかれた風体だ。
やっぱりあれは、犯罪に関係のある金だったのだ。そんな金を手に、警察に行くのもまずい。かと言って、今のこのこと出て行って、「ごめんなさい、お金は返します」と言ったって「はいそうですか、どうもどうも」なんて友好的に済むはずもないだろう。
三人が部屋の中へ消えたのを確認すると、宗一郎は先ほどと同じように足音を忍ばせて非常階段を降りて行った。大きく深呼吸しながらマンション脇の駐輪場の陰に回りこんで、エントランス前の駐車車輌を観察した。数分後、三人の若い男性がエントランスから出てきた。間近で見る三人の若者は、いかにもまともでなさそうに見える。彼らは腹を立てている様子だった。部屋はもぬけの殻で、現金も無かったから、そのことでお互いを罵り合っていた。彼らは駐輪場の陰の宗一郎には全く気付かず、停めてあったセダンに乗って走り去った。
宗一郎は現金の入ったナイロンバッグを胸に抱えてその場に座り込んだ。
早くこの金を処分してしまわなければ。首をめぐらせると、マンションのゴミ捨て場が目に入った。ちょうど資源ゴミの日で、大量の新聞や雑誌、ダンボールなどが山積みされている。あの紙くずに混ぜて、捨ててしまえばいい。そしてやっぱり警察に行こう。あの男たちを、殺人容疑で先に捕まえてもらうのだ。
宗一郎はゆっくりと立ち上がり、ナイロンバッグから現金の入ったビニールを取り出した。紙ごみの中にビニールが混在していては目立つ。ゴミの中から紙袋を探し、それに現金を移し替えようとして、札束をつかんだ途端に手のひらを伝ってねっとりと欲望が這い登ってきた。
なにも、捨ててしまわなくたっていいじゃないか。これは金だ。紙くずじゃないんだから。ほとぼりが醒めるまで、どこかに上手く隠しておけば……。それに、下手に警察にタレこんで、やばい連中を敵に回すのも浅はかなのかも。
暫くどこかに、例えば海外にでも身を隠そう。彼女との結婚を真剣に考えていたから、貯金だって一年や二年は余裕で暮らせるぐらい持っている。それに、自分が突然姿を消しても、心配してくれるような身寄りは無い。
宗一郎は自宅に引き返した。中は彼らに荒らされて酷い有様だったが、さっきの電話が警察からでないとわかると、何故だか気持ちの上で少々のゆとりが生まれ始めた。
彼はいつも商用で海外に行くときに使う大きめの旅行カバンに手回り品を詰めた。それとは別に、貴重品とパスポートと例の現金を入れたリュックを持った。衣服もジャージからセーターとジーンズに着替えてコートを羽織ると、まるでこれから楽しい旅行に行くような気分になってきた。
「まずは空港だな」
宗一郎は開放廊下から下の様子を確認すると、出勤するときと変わらぬ足取りでエレベータに乗った。怪しい奴らは見当たらないし、警察も居ない。宗一郎は詰めていた息を吐いた。女性が本当に殺されていたのなら、電話など掛けずに警察は直接ここへ来るはずだ。電話を掛けてきた時点でそのことに気付くべきだったのだ。
「慌てて損したぜ。あいつら相当間抜けだな」
声に出してみると、一緒に苦笑が漏れた。先ほどまで生きた心地がせず、慌てふためいていたことが滑稽に思えた。
深刻に考える事もないかもしれない。彼らが適当なことを言っている可能性もあるのだから。あの頭の悪そうな三人の男たちが相手なら、どうということもなさそうな気がしてくる。それでも用心深く周囲に気を配りながら、宗一郎は表通りでタクシーを拾い空港へ向かった。
昨夜の大雪のせいで首都圏の交通は完全に麻痺状態だった。
「お客さん、首都高も使えないし、環状線もどうかわからないですよ」
宗一郎はカーラジオの情報に耳を傾けた。
ラジオからは雪による被害状況が報告されていた。鉄道もかなりダイヤが乱れ、各線で運休が相次いでいるようだ。当然空の便も殆どが運休しているだろうと思われた。
空港についたらどうするか考えながら、宗一郎はタクシーの後部シートに深くもたれかかった。休日のためか、このあたりの道路は今のところ順調に流れている。車窓から眺める雪景色の街並みは、朝日を浴びて金色に輝いていた。
交通情報が終わり、ニュースが始まった。
五年後の地球環境会議が日本で開催されることになった、と伝えている。
「最近エコブームですからね。環境に少しでも配慮したくて、ハイブリッドカーにしたんですよ」
そう言って個人タクシーの運転手は笑った。
宗一郎はバックミラー越しに、運転手に向かって曖昧に笑みを返した。二酸化炭素がいくら排出されようとも、自分が死ぬまでには地球が滅びることもないから関係ない。宗一郎は運転手のおしゃべりに心の中で反対論を唱えつつも、適当に相槌を打った。
『次のニュースです。今朝未明、Y埠頭から乗用車が海へ転落。車のトランクから女性が遺体で発見されました』
雪化粧をした都会の街並みに目を細めていた彼は、ラジオの音声に凍り付いていた。
『亡くなったのは身元不明のアジア人女性で、黒い皮のコートと黒っぽいドレスを身につけており……』
ドクンドクンと大きく心臓が鳴っていた。
ラジオは淡々とニュースを告げる。
『女性の死亡状況から、警察では事件の可能性が高いと見て、女性の身元の確認を急ぐと共に、乗用車の持ち主の行方を追っているとの事です』
宗一郎は目の前が真っ暗になった。もはや楽観視は危険だ。彼らは間違いなくあの女性を殺したのだ。そして死体を宗一郎の車に乗せたまま海に沈めた。トランクの現金を回収した際に、一千万の不足に気付いたのだろう。車のナンバーから持ち主を割り出すことは不可能ではない。彼らはすぐに見慣れぬ車の持ち主を疑った。だからマンションに来たのだ。金を取り返すために。
そして彼らだけでなく、警察も彼を追っている。
逃げるなら今しかない。交通機関が混乱している今がチャンスなのだ。空港にいって、どこかへ……。どこでもいいから遠くへ行ける飛行機に乗るんだ。遠くへ……。そう、成田がだめなら関空だっていい!
「運転手さん、やっぱり羽田へ行ってもらえますか?」
それは一つの賭けだった。
殺された女性が外国人であることから、現場に近い東京国際空港からの海外渡航は危険な気がしたのだ。何とか遠くへ移動して、関空からの便で海外へ行く方が捕まる可能性が少ないように感じた。
あれこれと思いを巡らしているうちに羽田に到着した。不安な面持ちでタクシーを降りた彼は、ほっと胸を撫で下ろした。パトカーや警察の姿はまったく見当たらなかった。空港の建物内に入った彼は、ニヤリとして呟いた。
「どうやら俺にはツキがあるみたいだ」
運休していた飛行機は西日本方面への便から再開の目処がたったようで、空港内にアナウンスが響いていた。これで関東から脱出すれば、なんとかなる!
気楽な気持ちで航空会社のカウンターに行って、チケットを取るための行列に並んでいたところ、宗一郎はあっさり捕まった。
警察ではなく、例の三人組だった。
「うまく逃げたつもりでも、残念だったな」
金髪男と警察官の真似をしていた男に両脇からがっちりと捉まえられて、宗一郎は引きずられるようにして空港の外へと連れ出された。彼らは引き揚げたふりをしてタクシーのあとをつけていたようだった。頭が悪そうに見えて、なかなかやるじゃないか、なんて感心していられる状態ではなかった。
その後は、思い出すだけでも身震いするような仕打ちが待っていた。彼らの車に乗せられて、人里離れた雪深い山林へとドライブ。
廃校になった小学校の裏の竹林で、宗一郎は徹底的に痛めつけられた。
「知らないじゃねぇだろ! あの女からどこまで聞いたんだよ!」
拷問。そう文字通り、拷問だった。女性からあの金に関することを聞いたのだろうと、彼らはしつこく捲くし立てた。知らないものは知らないのだと繰り返すたびに、手足を一本ずつ折られて雪の中に転がされた。悲鳴を上げて意識を飛ばすたびに、泥と血液にまみれた雪に顔を擦り付けられる。
「お前、あの女に逃亡用の車用意してやるような間柄だったんだろ? 知らないってことはありえない。さあ、秘密をどこまで知ってるんだ? ええ! 碓井正志さんよぉ!」
朦朧とする視界の中に、緑の竹林とその遥か高い位置に見える青空が映った。
「ああ、綺麗だ……」
呟いた刹那、顔の上に雪混じりの土砂が降ってきた。
――死んだ。
高級車の販売店に勤める青年、碓井正志は確かに死んだ。広大な竹林の雪の下で生きたまま埋められて、彼は確かに死んだのだ。
死にたくなかったのに。なんでこんな目にあわなきゃいけないんだ?
悔しい。ほんの一時、魔がさしただけなのに。誰にも看取られずに、こんな辺鄙な山奥で生き埋めにされて死ぬなんて。信じられない。お願いだ、誰か……。
――死にたくないんだね。じゃあ、助けてあげる。
雪混じりの土砂の中で、確かに「声」を聞いた気がした。いったい誰の「声」だかわからないが、子供の声のように可愛らしかった。
誰でもいい、助けて欲しい。
――でもね、その体はもう使えないよ。だから、探して。この広い竹林で、ついさっき死んだ若者の遺体があるの。彼は「約束」のために死ななきゃならなかったけど、あなたはそうじゃない。あなたは生きたがってる。
遺体を探す?
――そう、遺体を探して。雪が降ったから、綺麗なままだよ。
動けない体で、いったいどうやって探すのか。第一自分は死んでるだろう?
――探せるよ。ただし、条件がある。
子供の声が言う。
――生き返ったら、あなたは僕たちのために生きるんだよ。僕たちと運命を共にするの。一緒に生きて、一緒に死ぬの。
謎の「声」は囁くように繰り返すが、まったく意味がわからない。
――あなたは僕らの一部になるの。生きるにはそうするしかないの。生きていたいんでしょう?
そうだ、生きたい。生きていたい。こんなところで、朽ち果てて腐葉土に混じって白骨化するなんて、絶対に嫌だ!
悲痛な思いが地中に溢れ、竹の張り巡らせた根を伝って竹林中を駆け巡った。
気がつくと雪の竹林に半ば埋もれて倒れていた。酷く寒かったが、どこも痛むところは無い。
「あれ?」
声が掠れたのか、何だか自分の声ではないような気がした。ゆっくり起き上がると、頭上から「声」が降ってきた。
――お前は我らによって生かされた。だから、お前はこの地に縛られている。お前はここから……我らの元から一生離れられない。
「なんだって?」
周囲を見渡すが、青々とした竹が隙間なく生えているだけだ。吹き渡る風が彼の前髪を揺らし、次いでさやさやとわずかばかりの竹の葉を鳴らした。
「え?」
彼は自分の顔に手をやった。ぷっくりと下膨れだった頬がスッキリとしている。天然のくせ毛だったはずの髪は、さらさらと額に掛かっていた。
「いったい、どうなってるんだ?」
小声で呟くと、尻の下に食い込むような痛みを感じた。悲鳴をあげて飛びのくと、尻の下の地面から、たけのこが顔を出している。
――あなたは生まれ変わったの。ぼくらを守護することを条件に、新しく、この竹やぶで生まれたの。
先ほどの子供の声だった。
「たけのこ……?」
――ぼくらを守る。たったそれだけが条件。なぜなら、ぼくらが枯れるとあなたも死ぬから。ぼくらを全力で守る。それが「約束」だよ。あなたは生まれてしまった。だから、「約束」を違える事は許されないよ。
「なんで……? なんで、そんなこと?」
彼は小さなたけのこの先っぽに向かって話しかけていた。
――僕らも生きたいから。あなたも生きたかったんでしょう?
それっきり、「声」は聞こえなくなった。彼はポケットの中に手を入れた。指先に触れた黒革の手帳と共に財布が出てきた。震える指先で財布の中から免許証を取り出して、上空から降り注ぐ陽射しにかざしてみる。
『榊宗一郎』という名前と、端正な顔立ちの青年の写真が目に飛び込んで来た。
「生まれ変わった……?」
彼は自分の顔に手をやって、高い竹の梢を見上げた。さっき朦朧とする視界の中で見たのと同じ、綺麗な青空が垣間見えた。
チンピラに痛めつけられて生き埋めにされた、高級車販売店の営業マン・碓井正志は死んだのだ。そして、彼は今まさに生まれ変わった。
「俺は今日から、榊宗一郎……!」
信号が黄色から赤に変わり、宗一郎は慌ててブレーキを踏んだ。もうかれこれ五年になる。そんな過去の出来事に浸っていては、事故を起こしてしまう。今は余計なことを考えている場合ではない。テンの情報によれば、老人は近くの市立総合病院に入院したとの事だった。
信号が青になった。
「何とか話ができる状態でいてくれ」
祈るような思いで、宗一郎はアクセルを踏み込んだ。




