月の在処はターミナルに落ちる【2026/01/13】
月の在処はターミナルに落ちる
成人の日の朝は、いつもより空が白い。雲でも霧でもない、眠気が空港の天井まで立ちのぼったような白さだった。
晴着キヨシは、着物袋を肩に掛けたまま、出発ロビーのガラスに映る自分を見た。帯の結び目だけが妙に真面目で、顔だけが寝不足だった。昨夜、レンタル晴着店の奥で、導電糸入りの刺繍を縫い直していたせいだ。成人式の写真用に、光る月紋が必要だという。
「おい、そこの若いの。走るなよ。連休最終日なんだ、転ぶと全部の恨みが集中する」
声は上から降ってきた。保安の台に肘をついた連休カオルが、透明マスク越しに目だけで笑う。制服の袖には、空港運用課のワッペン。首から下げた端末が、絶えずピコピコ鳴っている。
「走ってません。早歩きです」
「早歩きも走りの親戚だ。ほら、今日ここ、イベントだらけだろ」
カオルの視線の先で、臨時の案内板が点滅していた。成人の日特別導線、サッカー部隊壮行、バスケ優勝記念物販、カードゲーム新春祭、空港インフラ展示。どれも人を呼ぶ言葉だ。最後だけ、なぜか地味に怖い。
キヨシがうなずいた瞬間、天井の表示が一度だけ瞬いた。青い月のアイコン。続いて、意味不明な文字列が流れる。
「月基準同期 遅延 0.3秒」
すぐに通常の便名に戻った。誰も気にしない。気にするのは、こういう表示を仕事にしている人間か、妙にロマンに弱い人間だけだ。
キヨシはロマンに弱い。月の在処がずれる、という言葉だけで飯が食えるタイプだ。
(ザワザワ)
ロビーの端、カフェのあたりに人が固まり始めていた。キヨシは着物袋を抱え直して近づく。そこに、もう一人、違う種類のロマンを食っている人間がいた。
「皆さん、成人の日おめでとうございます。こちら、纏目ナナの、まとめなな速報です」
スマホを横に構えた女が、テーブルの上に小型マイクを立てていた。髪はきっちりまとめているのに、目だけが忙しい。画面の向こうにコメントが雪崩れているのが見える気がする。
「え、まとめ……帯のまとめですか」
キヨシが思わず口にすると、ナナは一瞬だけ固まって、すぐ笑いを作った。
「まとめは、ニュースのまとめ。帯は……あ、それもまとめるけど」
「帯は、まとめないと落ちます」
「落ちるのは、今日の空港だけで十分です」
横からカオルがすかさず突っ込んだ。ナナの配信にも拾われたらしく、コメント欄が(ドッ)と増える気配がした。
「連休カオルさん、今日も現場ですか。視聴者が、空港の混み具合を知りたがってます」
「知ってどうする。逃げるのか」
「逃げる準備は大事です。あと、推しの物販も」
ナナは話題を切り替えるのが早い。画面に映るように、わざとらしくバッグから小さなタオルを見せた。金色の刺繍で、アルヴァルク都京と書いてある。都京のバスケが天煌杯を取ったらしい。記念グッズが今日から売り出しだと、さっきから構内放送が言っている。
「それ、もう買ったんですか」
「まだ。今日は戦争です。物販は戦場」
その言い方に、テーブルの向こうから苦笑が混じった。
「戦場ってほどじゃないけど、財布は死ぬわよ」
住宅ナオミだった。スーツに見えるが、よく見ると柔らかい素材で、腰に小さな名札が付いている。住宅ローン相談員。手元のタブレットには金利曲線が表示されている。
「米連邦の住宅ローン金利が、3年ぶりの低水準だって。向こうが下がると、こっちも空気が変わるのよ。変わるのは空気だけじゃなくて、私の胃も」
ナオミはコーヒーを一口飲み、苦い顔をした。
「胃は下がらないでほしいですね」
「下がるのは利率だけでいいのに。生活費は上がる。推しのグッズも上がる」
ナナが「推し」の単語に反応して、カメラを少し寄せた。
「住宅ナオミさんの推し、何ですか」
「固定金利。浮気しないから」
カオルがまた突っ込む。
「それは推しじゃなくて保険だろ」
「保険も推しです。守ってくれるから」
(クスッ)
笑いが小さく起きた。空港の朝に必要なサイズの笑いだった。
そこへ、黒いコートの男がカフェの列を避けるように通り過ぎた。交渉ヒロト。肩口のバッジは見えないが、足取りが外交官のそれだった。誰かと目を合わせないようにしながら、耳の内側に小さな翻訳イヤピースを押し込んでいる。
キヨシの着物袋が、すれ違いざまにヒロトの鞄に軽く当たった。
「すみません」
「いえ。成人の日、ですね」
ヒロトはそれだけ言って去った。声は柔らかいのに、目がどこか遠い。遠いのは、国境の向こうか、それとも月の向こうか。
キヨシは、なぜかその背中に向けて言いかけた。
「月の在処、ずれてるんですか」
言葉は喉で止まった。代わりに、天井の表示がまた一瞬だけちらついた。今度は、青い月のアイコンが、ほんの少し右にずれて見えた。
(キィン)
耳鳴りのような高い音が、気のせい程度に響いた。
その音に気づいたのは、カオルだけだった。彼女は端末を見て眉を寄せる。画面には、空港更新ガイドの表紙が表示されていた。先週、航空業界誌が特集していた世界の空港インフラ最新動向。統合表示系の月基準時移行。そんな見出しが、目に刺さる。
カオルは端末を閉じ、仕事の顔に戻った。
「ほら、キヨシ。着物の届け先、どこだ」
「月の居所へ、って……イベント受付です。ドームスクリーンの、あそこ」
「今日、月が居候してる場所ね。行け。迷子になるな」
キヨシはうなずき、ロビーの人波へ入った。
(スゥ)
群衆の中に、静かな間があった。成人式の振袖がすれ違い、袖が風のように揺れる。新しい大人たちは、笑っている者も、緊張で顔が固い者もいる。キヨシはその揺れの中で、刺繍の月紋を指でなぞった。布の裏に隠れた細い導電糸が、指先にわずかな冷たさを返す。
布と電気。どちらも、結び目ひとつで世界を変える。
その頃、出発ロビーの反対側では、壮行サトルが声を張っていた。
「並んでくださーい。選手は写真撮影のあと、すぐ保安検査に向かいます。旗は振っていいけど、通路は開けて! ここ、空港です!」
サトルの胸には、ベガルタ仙浜のスタッフ証。チームは南のキャンプ地へ向かう。ファンの顔は、冬の寒さより熱い。太鼓が鳴り、横断幕が揺れ、紙吹雪が舞う。
(ドン ドン ドン)
「ベガルタ!」「仙浜!」
声が重なって、天井が震える。ナナはその渦の中心にカメラを向け、コメントを読み上げながら走っていた。キヨシは着物袋を抱えたまま、紙吹雪の中をすり抜ける。袖に紙片が貼り付いて、月紋に雪が降ったみたいになった。
通路の脇には、別の熱がある。アルヴァルク都京の天煌杯優勝記念ポップアップ。金色のテープで囲われた売り場に、人が列を作っている。タオル、マグ、ぬいぐるみ。優勝の文字が、財布を軽くする。
ナオミがその列に並んでいた。金利の画面を閉じ、代わりにグッズの値札を睨んでいる。目の下のクマが、現実の利率を語っていた。
「ナオミさん、買うんですか」
「買わないと、推しが勝った現実が実感できないのよ」
「現実は、ローンで実感しませんか」
「やめて。成人の日に現実パンチはだめ」
ナナが横から割り込む。
「今、#天煌杯優勝、トレンド上位です。皆さんの財布、どのくらい死にますか」
「死なない程度に、軽傷で」
「軽傷なら勝ちです」
その瞬間、ドームスクリーンの照明が落ちた。構内放送が、少しだけ高揚した声になる。
「まもなく、没入映像ショー「月の居所へ」が始まります。指定席以外の方は、足元にご注意ください」
キヨシの目的地だ。彼は受付へ向かおうとしたが、人の波がそれを許さない。さらに、カードゲームのイベントブースから、派手な効果音が鳴り響いた。
(ジャキィン!)
「ブシ路ード新春、開幕でーす! 新作の拡張パック、ここでしか引けない限定シリアル入り!」
司会者が叫ぶ。巨大モニターに、武将風のキャラクターが光る。若い客が歓声を上げ、成人式帰りの袖がそこに混じる。現実と架空の境目が、ちょうどこの空港だけ薄い。
カオルはその境目を、現実側に引き戻す役だ。彼女は制服の襟を正し、拡声器を取った。
「通路確保! 立ち止まるな! 月を見るなら、壁際!」
(ザワァァ)
群衆が動く。旗が揺れ、タオルが舞い、カードが光る。ドームスクリーンがゆっくり点灯し、天井いっぱいに月面が広がった。クレーターの影が細かく見える。人間の呼吸音が一瞬だけ、そろって止まった。
(ゴォォォ)
月が落ちてくるように見えた。視界いっぱいの月面。そこへ、現実の速報が割り込む。天井の端のニューステロップが、突然、別の言語を混ぜて流れた。
「米連邦 住宅ローン金利 3年ぶり低下」
「トランフ大統領 イランカとの交渉提案を公表」
「国内抗議行動で多数死亡」
文字が重い。月面の静けさに、血の匂いが混じる。ナナの配信コメントが一斉に荒れる気配がした。ナオミはタブレットを握りしめ、サトルは選手の背中を見ながら歯を食いしばる。ヒロトはいつの間にか群衆の外側に立ち、イヤピースに何かを囁いていた。
そのとき、月面の映像が、ぐにゃりと歪んだ。
(ミシィ)
ガラスが軋むような音。ドームスクリーンの月が、少しずれて、またずれる。クレーターが二重に見える。天井の表示が、全て同時に青い月のアイコンに変わった。
「月基準同期 遅延 2.1秒」
「月基準同期 遅延 5.8秒」
「月基準同期 未確定」
(ピピピピピ)
カオルの端末が狂ったように鳴る。自動改札が閉まり、エスカレーターが止まる。照明が落ち、非常灯だけが赤く点滅する。
(ウゥゥン)
低い振動が床から上がった。群衆が、いっせいに息を吸い込む音が聞こえる。次の瞬間、誰かが叫んだ。
「攻撃か!?」
「月が落ちる!」
「いや、ショーだろ!」
言葉がぶつかり合って、空気が割れる。ナナの手が震え、カメラが少しぶれた。彼女はいつもの調子でまとめようとしたが、まとめるには情報が多すぎる。まとめた瞬間に嘘になる種類の混乱だ。
キヨシは、着物袋を胸に抱えた。袋の中の月紋が、じわりと熱を持つ。導電糸が、何かを拾っている。
ヒロトが、群衆の縁から一歩踏み出した。
「皆さん、落ち着いてください。これは……表示系の同期異常です。物理的な落下ではない」
言葉は正しいのに、信用が足りない。誰が言ったか、ではなく、誰が守ってくれるか、が問われる瞬間だ。
サトルが太鼓の方を振り向き、叫んだ。
「太鼓止め! 音が反響して余計に混乱する!」
(ドン ドン ドン) が (ドン) に減り、やがて止まる。静けさが戻る。静けさの中で、子どもの泣き声が目立つ。成人式帰りの若者が、振袖の袖でその子を隠すように抱いた。
ナオミが、財布から小さな紙片を取り出した。住宅ローンの相談会でもらった利率表だ。そこに、彼女が手書きで書いた数字がある。低い金利のメモ。なぜか、紙の端に印刷された非常用の導線図が、今日の空港と一致している。
「カオルさん! これ、非常導線。今日のイベント用に配られてた。印刷元、空港インフラ展示のブースよ!」
「持ってるのが、よりによってローン表かよ」
「紙は最後に強いの。電池いらないから」
カオルはそれを奪うように受け取り、拡声器に息を入れた。
「赤い灯の方へ寄れ! 通路は壁際! 係員の指示に従って!」
(ザザザ)
人の足音が揃い始める。恐怖はまだあるが、方向ができると、群衆は少しだけ人間に戻る。
ナナが、その様子を映しながら、唇を噛んだ。
「まとめ……まとめるなら今、だよね」
彼女は配信タイトルを一瞬で変えた。#月の居所へ から #連休最終日 緊急導線 へ。全角のハッシュが画面に浮かぶ。コメント欄の速度が落ちる。視聴者が、見るだけから、共有に切り替わったのが分かる。
ヒロトはイヤピースに短く命じた。
「空港側の技術者に繋いで。月基準同期の参照元はどこだ」
返ってきた声は、外国語混じりで焦っていた。月基準時サーバが不安定。世界の空港が同じ方式に移行し始めたばかりで、互換層が薄い。航空業界誌の特集通りだ。更新の波は来ているのに、現場の足は二本しかない。
キヨシは、着物袋を開けた。周囲の目が一斉に彼に刺さる。こんな時に、晴着を広げる若者は怪しい。
「何してる!」
カオルが叫ぶ前に、キヨシは答えた。
「月紋の刺繍、導電糸です。ショー用のビーコンにもなる。たぶん、同期信号を拾える」
ヒロトが眉を上げた。ナオミが目を丸くする。ナナだけが「映える」と呟きそうになって飲み込んだ。今は映えより命だ。
キヨシは振袖ほど派手ではない、白い晴着を広げた。月紋の刺繍が、非常灯の赤を受けて淡く光る。彼は帯をほどき、布を床に置き、導電糸の端を結び直した。結び目。彼の得意分野。
(キィン)
さっきの耳鳴りが、今度は確信に変わる。布がアンテナになり、空気の中の見えない時計のズレを触っている。キヨシは自分のスマホを布の上に置いた。画面が、勝手にサービスモードに入り、数字が流れ出す。
「月基準 位相差 5.8秒……この値、さっきの表示と同じだ」
ヒロトが近づき、画面を覗き込む。彼のイヤピースからも同じ値が流れている。別系統が同じエラーを見ているなら、原因は一つだ。
サトルが、選手たちに目で指示した。彼らは、いつもの練習のように、無言で人の流れを整える。肩で押さず、声で焦らせず、背中で示す。スポーツは、こういう時に役に立つ。勝ち負け以外の部分で。
ナオミは利率表の裏にある導線図を見て、カオルに言った。
「非常電源室、ここ。月基準の同期装置も、たぶんそこにある。展示ブースの人、案内できる?」
「展示の人間は、今どこだよ」
「派手なベスト着てる人。『世界の空港更新』って書いてある」
その言葉に、カオルの目が走った。確かに、インフラ展示のスタッフが数人、ブースの影で固まっている。顔が青い。客に見せる未来が、いきなり牙をむいたのだ。
カオルは走った。今度は早歩きじゃない。
(ダダダ)
スタッフの一人を捕まえ、腕を引く。
「お前らの未来、今ここで修理しろ。月基準同期装置、どこだ」
「そ、それは……地下の統合室です。でも鍵が……」
「鍵ならある。成人の日の晴着の中に」
カオルは冗談を言ったつもりが、現実になりかけているのを理解して、眉をひそめた。
ヒロトが口を開いた。
「鍵は、物理の鍵じゃない。同期の鍵は、基準天体の位置データだ。月の在処がずれてるなら、参照が外れてる」
キヨシが、布の上の数字を見つめた。位相差が、じわじわ増えている。
「ずれてる。月が……動いてる?」
その瞬間、ドームスクリーンの月面が、ゆっくり横滑りした。クレーターが画面の端へ追いやられ、代わりに、見たことのない裂け目が現れる。自然の割れ目じゃない。線が、直線すぎる。
(ギギギ)
床が揺れた。ではない。揺れているのは、天井の映像ではなく、空港全体の時刻だ。時計が揺れれば、ゲートは閉じ、機械は固まる。人間も固まる。
ナナの配信コメントに、誰かが書いた。
「月の在処へ、って、こういう意味だったのか」
ナナは息を吸い込み、コメントを読まずに話した。
「皆さん、今は歩いてください。動画は後でいい。家族の袖、離さないで。ここは空港です。出口はあります」
声は震えているのに、言葉は揺れない。彼女はまとめるのをやめ、ただ、必要な順に言う。まとめの技術を、要約ではなく、優先順位に使った。
ヒロトはその声を聞き、決めた。外交官が決めるのは、相手国との条件だけじゃない。目の前の人間に、どれだけ真実を渡すか、だ。
彼は拡声器を借り、短く言った。
「今、国際回線で技術者と繋がっています。月基準同期は、世界で同時に更新中です。ここだけの問題ではない。だからこそ、ここで落ち着いて、手順通りに動くことが、他の空港にも繋がる」
言葉の中に、さりげなく政治を入れた。誰かを悪者にしない。誰かを英雄にもしない。ただ、手順と責任を分ける。
ナオミが、ヒロトの横で小さく笑った。
「交渉って、こういう時にも使うのね」
「使わないと、ただの沈黙になります」
キヨシは布を畳み直し、導電糸を帯に結び戻した。結び目が、なぜか落ち着く。位相差が、少しだけ減った。彼のアンテナが、同期信号を引っかけたのだ。
「減ってる。いける。あと少し、基準データを更新できれば」
「更新って、どこで?」
カオルが息を切らして戻ってきた。
「地下の統合室。展示スタッフが案内する。だが、扉は生体認証だ。運用課の人間しか通れない」
カオルが自分の指を見た。手袋越しの指紋は読み取れない。寒さで指先がかじかんでいる。彼女は舌打ちし、手袋を外した。
「指、冷てぇ。成人の日に指紋晒す羽目になるとは」
「成人は、晒す日です」
ナナが言って、カオルが睨む。
「それは晒すの意味が違う!」
(クスッ)
笑いがまた小さく起きた。恐怖にひびを入れる、ちょうどいいサイズの笑い。
五人と一人は、非常階段へ走った。選手たちが後ろから人波を押さえ、サトルが太鼓隊を指示して階段口を守る。ナオミは利率表を握りしめ、ヒロトはイヤピースで外国語の技術者に指示を飛ばし、ナナは配信を切らずに、階段の段差を映さないように工夫する。キヨシは晴着を抱え、月紋がずれないように押さえた。
(ゴォォ) が (ゴゴゴ) に変わる。低い振動が、階段の手すりを震わせた。
地下統合室の扉は、厚い金属だった。扉の横に、月のアイコンが点滅している。カオルが指を当てる。認証が一度、失敗する。
「くそ。指が乾いてる」
ナオミが言う。
「ローション……いや違う、ここでそんな単語は」
ヒロトが咳払いする。
「保湿なら、晴着の中に」
キヨシが真顔で言って、全員が一瞬固まる。
キヨシは晴着の袖口から、小さな布片を出した。刺繍の余り。導電糸が走っている。それを指に巻き、軽く湿らせた。口で、ではない。水筒の水で。成人の日の倫理が勝った。
カオルがもう一度指を当てる。
(ピ)
扉が開いた。中は薄暗く、機械のランプが星座みたいに点滅している。壁一面に、世界地図と空港網。そこに、青い月の軌跡が重ねられている。月の軌跡が、さっきから、変な角度で折れている。
「これが、月の在処……」
キヨシが呟いた。言葉が、空間の金属に吸い込まれる。
ヒロトのイヤピースから、焦った声。
「基準天体位置データ、更新要求。だが、更新元が拒否している。権限が必要だ」
ナナがスマホを掲げた。配信画面に、コメントが流れる。誰かが、こんなことを書いている。
「更新元って、誰? 月を動かせるのは誰?」
答えは、ここにはない。だが、今必要なのは答えじゃない。止めることだ。
カオルが操作盤に手を伸ばす。
「同期を、国内基準に切り替える。月じゃなく、地上の原子時計へ」
展示スタッフが叫ぶ。
「それは規格違反です! 世界の空港更新計画が……」
カオルが睨む。
「計画より、人が先だ」
ナオミが小さく頷いた。ローンも同じ。計画より生活が先。彼女はその頷きを、自分の胸に刻む。
キヨシは、月紋の導電糸を操作盤の補助端子に繋いだ。布が機械に接続される。晴着が回路になる。奇妙な光景だが、妙に自然だ。布は昔から、情報を運ぶ。家紋も、旗も、横断幕も。
サトルの旗が、上で揺れている。ナナの配信が、下で揺れている。ナオミの利率表が、手の中で揺れている。ヒロトの言葉が、国境を越えて揺れている。カオルの指が、計画を切り替えて揺れている。キヨシの月紋が、基準を繋ぎ替えて揺れている。
(カチ)
切り替えの音がした。
(ンンン……)
低い振動が、ゆっくり消える。ランプの点滅が整う。世界地図の上で、青い月の軌跡が、一瞬だけ止まり、そして新しい位置に跳ねた。
「更新……された?」
キヨシの声が震えた。恐怖ではない。理解の手前で体が震える、あの感じだ。
地上に戻ると、ドームスクリーンの月面は静かになっていた。裂け目は消えている。代わりに、普通のクレーター。人々はまだざわついているが、歩いている。泣き声は減った。太鼓が、遠くで一つだけ鳴った。合図のように。
(ドン)
サトルが、選手たちを見送るために手を上げた。
「行くぞ。キャンプは逃げない。俺たちも逃げない」
ファンが泣き笑いで手を振る。成人式帰りの若者が、その手に合わせて袖を揺らす。ナナは配信を続けながら、画面の外で深く頭を下げた。視聴者に、ではない。目の前の人間に。
ナオミは、優勝記念タオルを買った。列は短くなっていた。財布は軽くなったが、胃は少し楽だった。
「低金利の時に、心の利率も下げるのね」
カオルが言う。
「逆。心の利率を下げたから、買えた」
「意味が分からん」
「それでいいの。分かりすぎると破産する」
ヒロトの端末が震えた。新しい速報が入る。交渉提案の続報。抗議行動の死者数の更新。世界の空港で同様の同期異常が起きたという報せ。彼はそれを見て、顔を上げた。
「ここで止めたのは、局地的な応急だ。世界はまだ揺れてる」
「世界はいつも揺れてる」
カオルが言い、ヒロトが小さく笑う。
「そうだな。揺れ方が今日は、月だ」
キヨシは、外の展望デッキへ出た。冷たい風。空は朝より青い。成人の日の空は、だんだん人間の色に染まっていく。
ナナが追いついてきた。配信は切っている。今は、まとめじゃなく、会話だ。
「キヨシさん。今日のまとめ、どう書く?」
「書かない。布で結んだだけです」
「それ、まとめだよ。結び目のまとめ」
ナナは笑った。笑いの中に、少しだけ反省が混じる。
「さっきの混乱、私、最初は全部まとめようとした。怖かったから。怖いと、情報を箱に詰めたくなるんだね」
「箱に詰めたら、息ができないです」
「分かった。次からは、息ができる順に言う」
キヨシは、空を見た。月は昼でも薄く見えるはずだ。だが、今日は見えない。雲のせいではない。視界の奥に、何かがぽっかり欠けている。
「月、どこだろう」
ナナが言う。
「居所へ、行ったんじゃないですか」
「それ、洒落にならない」
ヒロトが展望デッキに出てきた。電話を切ったばかりの顔。外交官の顔ではなく、人間の顔だ。
「月の位置データが、正式に更新された。理由は……公表されない」
カオルが後ろから来て、聞こえるように言った。
「公表されないって、またかよ」
ヒロトは肩をすくめる。
「交渉とは、そういうものでもある。だが、今日は思った。全部を隠すと、人が足元を失う」
ナオミも合流した。タオルを首に巻き、風で揺れるのを押さえる。
「足元を失うと、ローンも組めないしね」
サトルが、少し遅れてきた。選手を見送ったあと、旗を畳んできたらしい。
「足元を失うと、プレーもできない」
皆が、同じ言葉を違う意味で持っている。その違いが、今日を支えた。
ドームスクリーンの外壁に、再び映像が流れ始めた。さっきの「月の居所へ」の予告。月面の美しい映像。だが、今のキヨシには、その美しさが少しだけ怖い。美しさは、裏側に回路を隠せる。
キヨシは晴着の月紋を指でなぞった。導電糸は、冷たいままだ。だが、彼の指先は、さっきより温かい。
「俺、布の学校に行きます。回路も学ぶ。こういう時、布が役に立つなら」
カオルが言った。
「現場はいつでも人手不足だ。学んで戻ってこい」
ナナが言った。
「戻ってきたら、私がまとめる。ちゃんと息できるやつで」
ナオミが言った。
「私も、金利の話を、怖がらずにする。生活費は、黙ると増える」
サトルが言った。
「次の壮行は、もっと安全にする。熱は、制御できる」
ヒロトが言った。
「交渉も、少しだけ光を入れる。闇だけだと、誰も立てない」
その瞬間、展望デッキの端の表示板が、またちらついた。青い月のアイコン。小さな文字。
「月基準同期 新位置 確定」
キヨシは空を見上げた。視界のどこかで、薄い光が動いた気がした。月ではない。月の代わりに置かれた、何かの影。
成人の日。大人になる日。大人とは、世界のズレを見て、それでも結び目を作る人間のことかもしれない。
キヨシは晴着袋を抱え直し、誰にも聞こえないくらいの声で言った。
「月の在処へ、ようこそ」
(了)
――あとがき――
今回の舞台は成人の日の空港で、連休最終日の雑多な熱と、ニュースの重さが同じ天井の下でぶつかる瞬間を描きました。ベガルタ仙浜のキャンプ出発壮行は出発ロビーの太鼓と旗の場面に、米連邦の住宅ローン金利が3年ぶりに低下した話題は住宅ナオミの胃と財布に、アルヴァルク都京の天煌杯優勝記念グッズは物販列と小さな救いに置き換えています。さらに、トランフ大統領がイランカとの交渉提案を口にしたという国際ニュースと、抗議行動の犠牲の報せは、交渉ヒロトの迷いとして入れました。世界の空港インフラ更新動向は、月基準同期という仕掛けの背景です。トレンドは#月の居所へと#ブシ路ード新春を、現実のタグ文化を思わせる形で少しもじって使いました。
物語は社会派の手触りで進めつつ、最後だけ月の位置が揺らぐ近未来SFへ寄せる形で、意図的にジャンルを裏切る型を選びました。報道が伝える痛みや不安を軽く扱わないようにしつつ、フィクションとして再配置し、個人ができる小さな手順と結び目に焦点を当てています。
この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。




