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前夜、街は免疫になる【2026/01/12】

日曜の夜。海風が総合スタジアムの外壁を撫で、駐車場に並んだ白い車体の列が街灯を鈍く返していた。屋根の縁に取り付けられた大型モニターは、ニュースのテロップを無表情に回す。南の海溝で想定される巨大地震の被害が、専門家の会合で更新される。自動車各社は通年の販売台数を公表し、電動車の比率がまた上がったという。日アセナンの外相級会合では、経済安全保障の協力が確認されたらしい。がんの免疫療法をめぐる新しい臨床研究も始まった。明日の全国高校サッカー選手杯決勝を前に、選手たちは最終調整中。


ピロン。五つの通知が、別々の指先から同時に弾けた。

「……今の、見た?」

スマホを掲げたのは、纏目ナナだった。髪を後ろで束ね、首から下げた配信者用の許可証が胸元で揺れる。彼女の画面には、赤い帯の文字が踊っていた。

(演習アラート:南海トラフ帯 警戒レベル3)

誰かが誤配信したのか、それとも今日は、そういう日なのか。スタジアム前夜の空気が、一瞬だけ硬質になる。


「落ち着いて。まず深呼吸」

すっと割り込んだ声は、備え語りのジン。薄い防寒着の下に、膨らんだ非常用リュックを背負っている。肩ひもに小さなホイッスルが結び付けられ、金属が街灯にきらりと光った。

「これ、公式? 非公式?」

「非公式だったら、いま炎上してる」

ナナは指で配信画面をなぞり、コメント欄の流れを止めようとする。画面の隅に、もじったタグが二つ並んだ。

(#南海トラフ想定改 #EVシフート)


「そのタグ、早いな」

と、ケーブルを抱えた男が苦笑した。電走カズ。白い車体の横で、分厚い充電コネクタを両手で支え、背中の工具袋がぶつかってカチャカチャ鳴る。

「早いのが仕事なんで。まとめのナナ、いや、纏目ナナ」

「その言い直し、わざと?」

「わざとじゃない。脳が勝手に……」


その背後、スーツに近い硬い服装で、胸の名札だけが妙に柔らかい色をしている女が立っていた。調停ミライ。視線はスマホではなく、人の顔と足元の動線を追っている。

「演習アラートなら、会場内の放送と同期するはず。同期してない。つまり、まだ誰も全体を把握してない」

言い切る声が、夜の冷気を少しだけ切る。


「こっち、関係あるかも」

低い声で近づいたのは、免疫レン。片手に小さな保冷箱、もう片手に厚い書類袋。箱の側面に貼られたステッカーが目に入る。(免疫は眠らない)

「今日から新しい臨床研究が始まった。データ連携の試験で、アラート系の回線も触ってる。もし誤って……」


「誤って、は困る」

芝生のほうから息を切らせて走ってきた少年が、会話をぶった切った。決戦タクミ。練習着の上からウインドブレーカーを羽織り、袖口から白いテーピングが覗く。胸の番号は7。手首に結び付けた小さな鈴が、走るたびにカランと鳴った。

「明日、決勝なんだ。ここ、変な騒ぎにしないでくれ。……いや、変な騒ぎが起きるなら、先に知りたい」


五人の視線が一度だけ交差し、次の瞬間、別々の方向へ散った。ジンは警備員に近づき、ミライは通用口の表示を確認し、カズは車体の充電口へしゃがみ込み、レンは保冷箱を胸に抱え直し、タクミは芝生の端で仲間に合図を送った。ナナは、その全部をスマホで追いかけながら、配信のタイトルを打ち替える。

(前夜スタジアム 安心の作り方 速報は遅くてもいい)


スタジアムの中は、明日の熱狂の予感で、まだ空席だらけなのに落ち着かない。廊下の壁には避難誘導の矢印。天井のスピーカー。非常灯の緑。ジンはその下を歩きながら、自分の声がどこまで届くかを想像する。災害の話は、怖がらせたら負けだ。安心させすぎても負けだ。その境界線に、彼は仕事として立っている。


「ジンさん、今日の話、短くして」

ナナが後ろから追いつき、息を整えもせず言った。

「短く?」

「コメント欄が『また不安商法だ』と『もっと言え』で割れてる。中間がいない。中間の椅子を置いて」

「中間の椅子……」


ジンは、ふと肩のホイッスルに指を触れた。昔、海沿いの町で訓練を手伝ったとき、年配の消防団員が教えてくれた合図だ。三回鳴らせば集合。二回なら注意。一回は確認。単純で、だから強い。

「中間の椅子は、鳴らし方で作る」


控室の一角では、カズがEVを二台並べ、ケーブルをパネルに接続していた。今日の前夜イベントは、災害時の電源確保を体験する展示が目玉だ。車を走らせるための電気が、走れなくなったときは人を守る。理屈は美しい。予算は美しくない。


「通年の販売台数、出たぞ」

同僚の声が耳に刺さる。経済紙の速報だ。各社が数字を並べ、EV比率の上昇を誇る。だが現場の電源ケーブルは、レンタル品で、しかも期限付き。

「数字が上がっても、うちの手当は上がらないな」

カズは苦笑し、工具袋を叩いた。家賃。電気代。充電代。生活費は上がるのに、補助金の申請書類は増える一方だ。政治の議論は遠いのに、書類は近い。

「俺の推しは、電池より長持ちする給料なんだけどな」

「推しの方向性が切実すぎる」


隣の廊下を、ミライが早足で通り過ぎる。耳には小型イヤホン。口元だけが動き、視線は遠くを見ている。

「……ええ。日アセナンの会合の文言は、今夜中に。経済安保の協力を、電池と医療と通信で具体化したい。はい、明日の公開イベントに、数行だけ差し込めます」

一度だけ立ち止まり、胸元の小さなピンを指で押さえた。海の輪を模した、どこかの連携の象徴。ミライの仕事は調停だ。ぶつかる利害を、言葉と順番でほどく。ほどけないときは、ほどけないまま運ぶ。


医療関係者用の控室で、レンは保冷箱を開け、温度計を確かめた。内部の小瓶が、青白い光を含んでいるように見える。新しい臨床研究。がん免疫療法の一種で、体の防御の仕組みを味方につける。希望の話だ。だからこそ、データが必要で、説明が必要で、慎重さが必要だ。

「免疫は、暴走もする」

レンは誰にでもなく呟き、書類袋から同意説明文を抜いた。小さな文字が並ぶ。患者の生活費。通院の交通費。働けない日の損失。研究の話は、生活の話から逃げられない。


芝生の上では、タクミが最後のダッシュを繰り返していた。照明が落とされ、フィールドの端だけが薄く照らされている。ボールが転がる音。スパイクが芝を噛む音。監督の短い指示。

「決勝は、相手の守りが固い。焦るな」

タクミは頷き、胸の番号を指で押さえた。7は、憧れの先輩がつけていた番号だ。推しというより、目標。けれど今夜は、サッカーの外側がざわつきすぎている。


「ねえ、EVシフートって何?」

タクミが廊下でナナに声をかけたとき、ナナはスマホを見たまま答えた。

「EVシフトをもじったタグ。いま流行ってる」

「えびシフト?」

「違う」

「えび?」

「違う」

「じゃあ、今夜の弁当、えびは――」

「そこに食欲を寄せるな」

横からレンが即座に突っ込み、ジンが吹き出しそうになって咳払いした。ナナはやっと顔を上げ、真顔で言う。

「えびは、明日勝ってから食べな」

「勝ったら食べる。負けても食べる」

「負けたら泣きながら食べな」

「それ、地獄の慰め方だろ」

短い笑いが、廊下の冷たさを少しだけ溶かした。クスッとした空気は、すぐに元の緊張へ戻る。ニュースは重い。だから、笑いは軽く短く。


イベント開始の直前、スタジアムの天井照明が一斉に落ち、非常灯だけが点いた。緑の矢印が浮かび上がり、壁の避難図が妙に鮮明になる。

ブツン。

次に来たのは音だ。電源が切り替わる瞬間の、腹に響く切断音。続いて、遠くのスピーカーから電子音が漏れた。

ピピピピピ。


「これは……」

ミライが息を吸った。同期していないはずの演習が、会場の放送に乗った。大型モニターが赤く染まり、海溝の図と数字が流れる。専門家会合がまとめたという新しい被害想定。避難対象の広さ。停電の長さ。物流の寸断。画面の端に、経済紙の別ニュースが小さく重なる。(EV比率上昇)。さらに別の枠で、外相級会合の映像が映る。海の向こうと協力して、物資と技術を守る、と。

ニュースが一枚の絵に重なった瞬間、観客席のあちこちで立ち上がる影が出た。


「落ち着いて!」

ジンが声を張った。ホイッスルに指をかける。けれど鳴らせば、それ自体が警報になる。迷いが、ほんの一拍。


その一拍の間に、カズが走った。ケーブルの束を抱え、膝をつき、パネルのカバーを開く。指先が汗で滑る。

「逆流、するなよ……」

彼の呟きは、技術者の祈りだ。電気は善でも悪でもない。ただ流れる。流れ方を間違えると、人を守るはずの車体が、人を傷つける。


レンは保冷箱を床に置き、箱の上に膝を乗せた。中の薬剤は光ではなく温度に弱い。停電が長引けば、研究は終わる。患者の希望が折れる。彼は箱の蓋に手を当て、まるで脈を測るように静かに呼吸した。

「免疫は、過剰反応で味方も壊す。いまの会場は、サイトカインストームだ」


「専門用語で怖がらせない!」

ナナが叫び、同時に配信画面を切り替えた。コメント欄が炎のように流れ、誰かが(南海トラフ帯レベル3は本物だ)と書き、誰かが(デマだ)と返す。ナナは震える指で、配信の固定コメントを打ち込む。

(確認中 走らない 押さない 戻らない)


タクミは、観客席の通路に飛び出した。まだ満員ではない。それでも人は人だ。集まれば流れになる。流れは、怖さを運ぶ。

「みんな、通路を空けて! 矢印のほう! 歩いて!」

彼は腕を大きく振り、視線で人の目を捕まえた。サッカーで鍛えたのは足だけではない。相手の動きの予測。空いたスペースの把握。次の一手。いま必要なのは、勝つための読みではなく、転ばせないための読みだ。


カチャ。

ジンの指が、ホイッスルに触れたまま止まった。鳴らす。鳴らさない。二択ではない。彼はホイッスルを外し、手の中で握り込み、代わりに両手を高く上げた。

「集合はしない! その場で、肩の幅! 息を整えて! 耳を澄まして! いま聞こえるのは、演習の音だ!」

言い切った瞬間、ミライが補う。

「公式アナウンスが出るまで、勝手に外へ出ないでください。外のほうが危険な場合もある」

誰もが言える言葉を、誰もが言えないタイミングで言う。それが調停だ、とミライは思った。


ブオオオ。

外で車のファンが回り、EVの冷却音が唸った。非常灯の下、カズの背中が跳ねる。ケーブルが通電し、パネルの表示が点いた。

パッ。

照明が三割だけ戻る。暗闇が薄まり、恐怖も薄まる。けれど次の瞬間、別のスピーカーが鳴った。

ガガガ。

ノイズ混じりの放送が、誰かの咳払いのように会場を揺らす。


「回線が混線してる」

レンが眉を寄せた。

「医療データの試験回線と、会場の演習回線が、同じゲートを通ってる……?」


ミライの顔が硬くなった。

「経済安保の話が、今日出たばかりなのに。こういう混線が、いちばん危ない。悪意がなくても、事故が起きる」


カズが立ち上がり、汗をぬぐった。

「悪意がないなら、止められる。どこだ、ゲートは」

「案内する」

ミライが即答し、ナナがスマホを胸に押し当てる。

「配信、止める?」

ジンが聞くと、ナナは首を振った。

「止めたら、別の誰かが勝手に作る。だったら、ここで責任を取る」


その言葉に、タクミが一瞬だけ振り向いた。通路の人波を抑えながら、彼は小さく頷く。勝負の世界にも、責任という名前の重さがある。負けたら言い訳はできない。勝っても、次がある。


非常灯の緑の矢印が、五人の影を長く伸ばし、機械室へ導いた。廊下の空気は冷え、会場の熱だけが遠ざかっていく。足音が響く。息が白い。誰も余計なことを言わない。静けさが、さっきの騒ぎを嘘のように薄めていく。


機械室の扉を開けると、ラックに並ぶ機器のランプが星のように点滅していた。ファンの風が肌を乾かし、金属の匂いが鼻を刺す。

「ここがゲート」

ミライが指さす。ケーブルの束。配電盤。通信の箱。サーバの小さな窓。

ナナが呟く。

「街の血管みたい」

レンが答える。

「免疫のリンパ管にも似てる。詰まると、全身が熱を出す」

カズが笑ってしまいそうになり、堪えた。

「じゃあ、俺はミトコンドリア担当で」

「その例え、微妙に偉そう」

タクミが息を整えながら突っ込むと、ジンが肩をすくめる。

「偉そうでもいい。働けば」


カズは配電盤のカバーを開け、ミライは配線図を指で追い、レンは通信箱のログを覗き、ナナは配信画面を機械室の様子に切り替え、タクミは扉の外で警備員に状況を説明した。誰かが主役ではない。順番に、役割が回る。


「これだ」

レンが指先で一行のログを示す。

「医療側の試験パケットが、演習アラートのトリガに誤判定されてる。免疫の検出アルゴリズムが、恐怖の拡散を(異物)と見て、遮断信号を出してる」

「恐怖を、異物?」

ナナの顔が引きつる。

「ふざけてるの?」

レンは首を振った。

「ふざけてない。善意の設計だ。誤情報が広がるとき、回線を絞って拡散を遅らせる。ワクチンみたいに、小さい混乱で学習させる。だけど今日は、学習が早すぎた」


ミライが唇を噛んだ。

「誰がその設計を承認したの?」

「承認というより……」

レンは言葉を探した。

「臨床研究の委員会と、防災の有識者会合と、通信の協議体が、別々に最適化した。最適化の継ぎ目が、今日の混線だ」


ジンが静かに頷く。

「備えは、物語より先に走る。走りすぎると転ぶ」

彼はホイッスルを掌の上に置き、金属の冷たさを確かめた。

「ここは止める。止め方は、鳴らさない合図だ」


カズが配電盤のスイッチに手をかけた。

「切り替えれば、会場の放送は正常系に戻る。ただし、医療の試験回線が落ちる」

レンの目が揺れた。研究のデータ。患者の希望。けれど会場の安全も、同じ重さだ。

タクミが扉の隙間から言う。

「俺たち、決勝で勝つためにここにいる。でも、勝つ前に誰かが怪我したら、勝っても負けだ」


レンは一度だけ目を閉じ、開いた。

「切っていい。データは後で取り直せる。人は取り直せない」

ミライがすぐに頷く。

「その判断を、記録して、説明できる形にする。隠さない」

ナナが小さく息を吐く。

「配信にも残す。変な切り取りに負けない形で」


カズがスイッチを倒した。

カチ。

ランプの点滅が一段落し、ノイズが消えた。機械室の風だけが残る。


廊下へ戻ると、会場の照明がさらに戻っていた。赤いモニターは、落ち着いた色合いの案内表示へ変わり、スタッフが列を作って誘導している。タクミの声が通路で響く。

「ゆっくりでいい。呼吸できる速度で」

ジンはその背中を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。備えは、道具だけじゃない。言葉も、動きも、息も備えだ。


ナナが配信を続けながら、コメント欄に固定した文を更新した。

(いまのは混線 公式確認済み 怖さは共有していい 走らない)

画面の流れが、少しだけ遅くなる。怒りの文字が減り、質問の文字が増える。質問は、まだ希望だ。


その夜、前夜イベントは予定を変えて続いた。ミライは舞台袖で、海の向こうとの協力の話を、数字ではなく具体の物として語った。電池の原料を一国だけに頼らないこと。医療の試薬を途切れさせないこと。災害時の通信を守ること。経済安全保障という言葉を、生活の安全へ翻訳する。

レンは、臨床研究の説明の前に、患者の負担の話をした。治療の効果だけでなく、通院の交通費や仕事の調整、生活費の現実。免疫療法は魔法ではない、と。だから支える仕組みが要る、と。

カズは、EVが増えたという販売の数字を、街の電源の話へつなげた。車の台数は競争の記録でもあるが、停電時に守れる命の数でもある。だから、見せびらかすのではなく、使い方を共有したい、と。

ジンはホイッスルを鳴らさず、手の動きだけで合図を作り、観客席の人々に実際に立ってもらった。肩の幅。通路の確保。靴の紐を結び直す。小さな備え。物語のように派手ではないけれど、物語より強い。

ナナは、まとめるだけの配信から一歩ずらし、言いっぱなしにしない配信に変えた。コメントの速さを落とす設定。確認できない情報にはラベルを付ける。(未確認)(確認中)(確認済み)。まとめのナナではなく、纏目ナナとして。


見開きにしたい瞬間が、ふいに訪れた。スタジアムの屋根が部分的に開き、夜空が切り取られる。寒気が降り、観客の息が白い雲になる。大型モニターには、五つのニュースの要点が並び、同時に芝生には明日の決勝のラインが白く浮かぶ。災害の想定。EVの転換。海の向こうとの協力。医療研究の開始。決勝前夜。全部が同じフレームに収まってしまう不思議。世界は分断されているようで、案外、同じ場所に重なっている。


そのとき、再び電子音が鳴った。

ピピ。

今度は短い。スタッフの無線が返事をする。遠くで誰かが「緊急地震速報?」と呟き、客席がざわりと揺れた。

タクミの鈴がカランと鳴る。

ジンの喉が渇く。

レンの手が保冷箱を探す。

ミライの指がイヤホンを押さえる。

ナナの配信画面が一瞬だけ震える。


だがモニターに出たのは、赤ではなかった。青い帯。(訓練開始 ワクチン型防災演習 試験運用)

小さな文字で、こう続く。(市民免疫計画 第一回)

会場のざわめきが、驚きと怒りと笑いの中間へ落ちる。誰かが「やっぱり演習じゃん」と言い、誰かが「説明が遅い」と言い、誰かが「でも助かった」と言う。


ミライの顔が、はっとするほど険しくなった。

「……今日の混線は、想定内?」

レンが唇を引く。

「想定の、端っこだと思う。免疫は、訓練で強くなる。けれど訓練の方法を間違えれば、味方を傷つける」

カズがモニターの文言を読み、肩を落とした。

「つまり、俺たちは街の実験材料?」

ナナが配信のマイクを握りしめ、いつもの早口が消える。

「材料じゃない。参加者。そう言わないと、また炎上する」

ジンが静かに言った。

「言葉の順番を間違えると、備えは毒になる」


タクミが芝生の端で立ち止まり、観客席を見上げた。彼は明日、勝つために走る。けれど今夜、走らないために走った。目の前の人の動きを読んだ。倒れそうな人の前に体を入れた。勝負の読みが、守りの読みへ変わった。

「訓練なら、訓練でいい。でも、勝手に訓練に巻き込むな」

彼の声は、若いのに芯があった。


ミライが深く息を吸い、すぐに吐いた。調停の呼吸だ。

「明日、会場の外にいる人にも、同じ訓練の情報が流れる可能性がある。いまのうちに説明文を作る。海の向こうの連携先にも、同じ文面を送る。(誤作動も含めて検証し、改善する)と」

レンが頷く。

「医療側も、アルゴリズムの境界条件を公開できる範囲で整理する。免疫療法は、透明性がないと信頼が続かない」

カズが苦い顔で笑う。

「EVのほうも同じだな。(停電でも使えます)だけじゃなく、(どこで危険になるか)まで出す。逆流の話、今日みたいに」


ナナがスマホを少し下げ、初めて自分の声だけを会場に向けた。

「みんな、いまのは訓練だって。……でも、怖かったのは本物だよね。怖かったって言っていい。言っていいけど、走らない。走らないために、ここに集まってる」

彼女の言葉は、まとめではなく、選び直しだった。コメント欄に(纏目ナナ、今日は遅いけど助かる)と流れ、ナナは一瞬だけ目を細める。


ジンはホイッスルを掲げ、観客席に見せた。

「これ、三回で集合って決めると、集合のたびに誰かが遅れる。だから今日は、鳴らさない合図を作った。手を上げる。目を見る。息を合わせる。道具は最後に使う」

彼はホイッスルをポケットにしまい、代わりに両手を広げた。拍手が起きる。派手ではない。けれど確かに、会場の空気が整う。


タクミの仲間が芝生の端で集まり、肩を組んだ。明日の決勝へ向けて、最後の円陣。タクミは鈴を一度だけ握り、鳴らした。

カラン。

小さな音が、今夜いちばん強い合図になった。


深夜、観客が帰った後のスタジアムは、巨大な器のように静かだった。芝生は暗く、非常灯の緑だけが残る。五人は通路の手すりにもたれ、遠くのモニターを見た。そこには、専門家会合の被害想定の要点が、淡々と表示されている。数字は変わる。現実も変わる。けれど、人の手の動きは、今日のまま残る。


「明日、勝ったらさ」

タクミが言う。

「えびじゃなくて、みんなで温かい飯を食おう」

カズが笑った。

「えびは?」

「えびは、誰かが元気なときに食べよう」

レンが小さく頷く。

「それが免疫だ。余裕があるときに、強くなる」

ミライが手すりの上で指を組む。

「余裕を作るのが、政治であってほしいけどね」

ナナがスマホを裏返し、空を見上げた。

「余裕がない夜は、せめて言葉を丁寧にする」


ジンは頷き、最後にこう言った。

「備えは、怖さを消すためじゃない。怖さと一緒に歩くためだ」

海風が吹き、屋根の隙間から星が見えた。明日の決勝は、明日にならないと始まらない。けれど今夜、街は少しだけ免疫になった。完全ではない。次の訓練も、次の混線も、きっとある。それでも、今日の小さな合図は残る。


(了)


――あとがき――

今回の物語では、南の海溝で想定される巨大地震の新しい被害想定が議論されたというニュースを、スタジアムのモニターに流れる数字と、誤作動の演習アラートの混線として配置しました。また、自動車各社が通年の販売台数を公表し電動車の比率が上がったという話題は、電走カズがEVを非常用電源として接続する展示と、生活費や補助金の現実に結び付けています。日アセナン外相級会合で経済安全保障の協力を確認したという出来事は、調停ミライの台詞と、電池や医療や通信を具体に翻訳する場面で使いました。さらに、がん免疫療法の新しい臨床研究開始は、免疫レンが抱える倫理と負担の描写、および「街の免疫」という比喩の核になっています。トレンドタグは「#南海トラフ想定改」「#EVシフート」など、実在の空気だけ借りて少しもじった形で、纏目ナナの配信タイトルに入れました。


ジャンルとしては近未来寄りの群像劇を軸にしつつ、終盤だけ「訓練が訓練を生む」というSF的な裏側を覗かせる形にしました。大部分は王道の社会派ドラマとして進め、ラストの一枚で少しだけジャンルを裏切る型です。


災害や医療や外交の報道は重く、簡単な解決にしてしまうと嘘になるので、世界は救わず、登場人物たちが「説明する」「共有する」「走らない合図を作る」という小さな一歩に留めました。現実の出来事をそのまま写すのではなく、交差する日曜夜の感情として再構成しています。

この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。

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