土曜夜マイクログリッド国会【2026/01/11】
土曜の夜、湾岸の再開発ビルは、外壁のガラスに街の灯を貼り付けたまま、ひっそり呼吸していた。入口の自動扉が開くたび、屋台の揚げ油の匂いと、海からの冷えた風が、ひとつの肺に吸い込まれて混ざる。
国会ヨミオは、紙の束を片手に、もう片方でスマホを握りつぶしそうになっていた。官邸の公開ページから落として印刷した、重点政策の骨格。文字は真面目なのに、紙はやけに軽い。軽さが怖かった。
エスカレーター脇の売店で、カップスープの値札が、先月より小さく一段上がっているのが見えた。ヨミオは視線だけでつぶやく。
「上がるのは議席じゃなくて、スープか」
背後で、買い物かごが擦れる音。家計ミツルが、レシートを指で扇ぎながら追いついた。
「議席も上がればいいんですけどね。うちの食費は、確実に上がってます。統計局の家計速報でも、食料品の支出が増えてましたし」
ミツルの声には、数字の冷たさと台所の熱が同居している。推しは料理系配信者だと言いながら、冷蔵庫の中身を科学するタイプだ。
ロビーの巨大モニターには、ニュースのダイジェストが流れていた。国連安保理が中東情勢をめぐって非公開で協議した、とテロップが踊る。踊りながら沈む文字。
その画面の前で、停戦ウォッチ・レイが立ち止まっていた。黒いパーカーのフードを目深にかぶり、片耳だけイヤホン。画面の光が頬を青くする。
「非公開は、言葉を守るためか、隠すためか。どっちに転んでも、翻訳は残酷ですね」
レイはそう言って、笑う代わりに息を吐いた。推しは、遠い国の記者会見で淡々と質問を投げる無名の記者だと言う。派手さより、言葉の精度に惚れる。
エレベーターで上階へ上がると、廊下の突き当たりに、臨時スタジオの看板が立っていた。段ボールに手書きで、土曜夜クロス配信、とある。背景には、スポンサーでも企業でもなく、地域のイベント名が小さく印刷されている。未来応援マーケット。
スタジオに入った瞬間、金属の匂いが鼻を刺した。電池クラフト・ナナが、床に敷いた断熱マットの上で、黒いトランクを開けている。中には銀色のセルが、蜂の巣みたいに整列していた。セルに貼られた白いテープに、太字で「MATOME NANA」と書いてある。全部、妙に横に広いアルファベットだ。
「それ、何ですか」
ヨミオが聞くと、ナナはレンチをくわえたまま、片手を振った。
「電池です。あと、まとめ役。あたしのハンドル、マトメナナ。今日もまとめます」
布陣トーク・ケンは、すでにホワイトボードを立て、磁石のコマを並べていた。丸いコマが、整然と動く。スポーツの戦術は、政治より正直だと言い切る男だ。推しは、無名の守備的ミッドフィルダー。目立たないのに、試合を支配する。
「今日は新シーズンの新体制も出るしな。Jフットリグの各クラブが、続々と体制を発表してる。俺の配信、伸びる予感しかない」
ケンが言うと、ミツルはレシートをちらつかせた。
「新体制って言われると、まず値上げ対策を想像します。食料品高め、で検索しても出てくるの、節約術ばっかりです」
レイがスマホの画面を見せた。トレンド集計サイトのトップ。上位には、#通常コッカイ、#食料品高め、#中東じょうせい、#次世代デンチ、#新たいせい、が並ぶ。どれも似ているのに、どれも噛み合わない。
「タグが全部、同じ口の形してる。世界が一斉にしゃべってるみたいで、ちょっと怖い」
ヨミオは紙束を机に置き、マイクの高さを調整した。指先が震えたのは、冷えのせいだけではない。重点政策の骨格。骨格は、肉が付くと暴れだす。
そのとき、天井の蛍光灯が一斉に瞬きした。
パチン。
次の瞬間、スタジオの照明が落ちた。カメラの赤い録画ランプだけが、暗闇に浮いた。
ウゥゥン。
どこかで、ビル全体が低く唸る。エレベーターのモーターが、遠くで呻いた。
ナナのトランクの中だけが、淡い青白い光を返していた。セルの端が、魚の群れみたいに光る。彼女は、反射的にフタを閉めようとして、手を止めた。
「やば。これ、外からの電源が落ちたとき、セルが自己診断に入るんです。ピカるの、仕様。心臓みたいで嫌ですよね」
静けさが、ふっと降りた。五人は暗闇の中で、自分の呼吸音を聞いた。外の廊下からは、誰かの笑い声と、遠くの屋台の呼び込み。停電はスタジオだけなのか、ビル全体なのか、まだわからない。わからないことが、いちばんの燃料になる。
ミツルがスマホを振る。
「通信は生きてます。うわ、短文SNSのタイムライン、停電の話だらけ。食料品の値上げより、今はこっちが早い」
ケンが暗闇でホワイトボードを撫でた。磁石のコマがカチ、と鳴った。
「停電なら、試合で言うとアクシデントだな。ここからは布陣だ」
ヨミオは、紙束の端を指で揃えた。指先に紙のザラつき。政治も家計も国際もスポーツも、結局は紙と電気で回っている。
ナナがトランクの側面に手を当て、スイッチを探った。カチリ。
非常灯が、一本だけ点いた。白い光が、机の上の紙束を照らし、太字の見出しが浮く。通常国会の前に、政府が重点政策の骨格を公表。骨格だけ見せて、肉はこれから議論する。ヨミオは、その言い回しの軽さを、なぜか恨んだ。
レイが小さく言う。
「非公開協議も、骨格だけなら公表できるんでしょうか」
ミツルが即座に返した。
「骨格だけだと、食卓には出せません」
ケンが頷く。
「骨格だけだと、フォーメーションも組めない」
ヨミオは思わず笑いそうになり、笑う代わりに咳をした。ここで笑うと、ニュースの重さが軽くなりすぎる気がした。
停電は、五分で戻った。照明が戻る瞬間、スタジオの機材が一斉に息を吹き返す。モニターが立ち上がり、ファンが回り、ミキサーがピッピッと鳴く。ナナのセルの光も、すっと引いた。
「ほら、戻った。今日の見せ場、早すぎ」
ナナが肩をすくめる。トランクのテープにある「マトメナナ」の文字が、妙に誇らしげに見えた。
配信開始まで、あと三十分。五人は、各自の原稿やネタを広げた。
ヨミオは官邸サイトの要点を、自分の言葉に組み替える。重点政策の骨格は、生活支援や産業投資、地域の防災など、いくつもの箱に分かれていた。どの箱も、予算という砂が必要で、砂はどこかから持ってくるしかない。
ミツルは家計速報の数字を、買い物かごの感覚に翻訳する。食料品に出る金額が増えたという事実は、節約したのに増えた、という体感と一致していた。推しの料理配信者が言っていた「同じ材料でも、同じ値段じゃない」の言葉が、頭の中で回る。
レイは国連のニュースを開き、非公開協議という一文の周囲を何度も読み直す。言葉が閉じているとき、外側の人間は想像で補う。想像は、時に武器になる。
ケンは新シーズンの体制発表をまとめる。新監督、新加入、新しい守備の約束事。選手の顔より、ラインの高さに興奮する自分を、時々嫌いになる。でも、嫌いになりきれない。
ナナは、次世代蓄電池の試作に成功した、という記事を噛み砕く。試作は成功。でも量産はまだ。資材は高い。投資は渋い。政策の骨格に補助が入るかどうかで、明日が変わる。彼女の推しは、古い工具を大事に磨く職人系の配信者だ。派手な未来より、手触りのある進歩が好き。
配信の打ち合わせが始まったとき、ケンが言った。
「じゃあ、オープニングは俺が新体制を語って、ヨミオが通常国会の新体制を受けて、ナナが次世代電池の新体制、でどうだ」
ミツルが眉を寄せる。
「新体制って、そんな万能語じゃないです」
ヨミオが手元の紙を見ながら言う。
「万能語は政治が一番好きだよ。骨子とか」
ケンが真顔で返した。
「骨子って、骨格の骨の子ども?」
ミツルが即座に突っ込んだ。
「骨の子どもは怖いです。増えないでください」
レイが淡々と続ける。
「骨の子どもが増えると、停戦協議がややこしくなりますね」
ナナがレンチを置き、両手を広げた。
「待って。骨子は骨の子どもじゃない。骨格のポイント。まとめると、コツ」
ヨミオがうっかり言った。
「コツ? 骨?」
ケンが笑った。
「結局、骨じゃん」
その瞬間だけ、空気が軽くなった。笑いは短く、救急箱みたいに効いた。
夜八時、配信が始まった。スタジオの奥の壁には、巨大なスクリーンが設置され、ニュース映像とコメント欄が並ぶ。観客席には、マーケットの来場者が、紙コップのスープを手に座っている。屋台の匂いが、機材の熱と混ざって、妙に落ち着く。
ヨミオがカメラに向かって頭を下げる。
「土曜夜クロス配信、始めます。今夜は、政策、家計、国際、技術、スポーツ。全部まとめて、骨格から見ます」
ナナが横で、小さく指を鳴らした。ピン。
スクリーンに、彼女の作った図が出る。次世代蓄電池のセル構造。蜂の巣。そこから伸びる配線が、ビルの非常灯や通信機器につながっている。
「これ、電気を溜めるだけじゃなくて、流れを作る電池です。停電が来たら、ここだけでも動く。マイクログリッド。小さい網。でも、今日は大きく使います」
ミツルが、食料品の支出増のグラフを出す。棒がじわじわ伸びる。観客の中から、ため息が漏れる。
「食料品って、削りにくい。削ると心が削れる。だから、数字が上がるときは、別のところが削れてる可能性もあります」
ケンがホワイトボードに、クラブ名をもじった磁石を貼る。H港ユナイテッド、北丘スパーク、山際アルパカーズ。どれも架空のはずなのに、どこか見覚えがある。
「今季の新体制、攻めるか守るかじゃない。変化に耐えるかどうか。エネルギーだって同じ。電池があると、布陣が組める」
レイが、国連の非公開協議について語る。声は穏やかで、内容は鋭い。
「非公開は、安心材料にも不安材料にもなります。情報が閉じているとき、人は勝手に埋めます。だから、埋め方を選ぶ。憶測で殴らない。祈りで逃げない。今日は、そこを守りたい」
五人の言葉が、一本の配線みたいに絡まり、スクリーンの向こうへ伸びていく。
その最中、ビルの外で、風が唸った。ゴォォン。
スクリーンの隅に、緊急のテロップが走る。近隣一帯で電圧低下。商業施設は節電モードへ。
次の瞬間、照明が、段階的に落ち始めた。客席が薄暗くなる。スクリーンの輝度が自動で下がる。
ナナが、顔色を変えた。
「さっきの停電、予告編だった。今度は広い。外の系統が、落ちかけてる」
ミキサーが警告音を鳴らす。ピピピピ。
観客がざわめく。子どもが泣きそうになる。屋台の店主が、手を止めて空を見上げる。天井はあるのに、空を見たくなる。
ヨミオは、反射的に紙束を押さえた。政策の骨格が、現場で試される瞬間。こんな形で来るな。
ナナはトランクを引き寄せた。フタの留め具に、小さな鍵穴がある。そこに、彼女のキーホルダーの錆びた鍵を差し込んだ。カチン。
ヨミオはその鍵を見て、胸の奥が冷えた。さっきまで、ただの飾りだと思っていた。いつから持っていた。誰が渡した。
ナナが鍵を回す。ギリッ。
トランクの内側が、青白く光り、セルが一斉に脈打った。ズズン。
床が、ほんの少し震えた気がした。振動が足の裏から上がってくる。スクリーンが一瞬暗転し、次に、明るさが戻った。ただし、ビルの外が暗いままなのが、窓越しに見える。ガラスの向こうの街灯が、消えている。
「切り替わった。外が落ちても、ここは動く」
ナナの声は、汗で濡れていた。観客の誰かが拍手しそうになり、手を止めた。拍手の代わりに、息が揃う。
静けさが、また降りた。非常灯の白い線が、床に伸びる。人の影が、その線に沿って長くなる。ニュースより先に、影が現実を語る。
レイが小さく言う。
「停戦の話をしてるときに、電気が止まる。皮肉が、安い」
ミツルが唇を噛む。
「停電が長引くと、冷蔵が死にます。食料品高め、の次は、食料品ない、になります」
ケンが観客席を見渡した。子ども連れの家族、高齢者、屋台の店主。スポーツのスタジアムみたいに、人が集まっている。
「布陣。ここはスタジアムだ。逃げ道を作る。情報の道も」
ヨミオは、マイクを握った。政策の骨格が紙の上で踊っている場合じゃない。今、言葉が必要だ。たぶん、ここにいる全員が、違うニュースで心を削られている。削られた面を、互いに擦り合わせるしかない。
「皆さん、落ち着いてください。ビルは非常電源に切り替わりました。エレベーターは止まっているかもしれません。階段を案内します。今、必要なのは、正しい情報と、互いの手です」
スクリーンに、コメントが流れ続ける。外は暗い、信号が消えた、家が寒い、店が閉まった。短文SNSは、光より速く不安を運ぶ。
そのとき、ナナのトランクの内側の小さなスピーカーから、電子音声が鳴った。ピコン。
「マトメナナ速報。現在、電力供給は局所網に切替。優先負荷、非常灯、通信、医療。次に、エレベーター救出」
全員が、同時にナナを見る。
「しゃべった」
ミツルが言う。
「しゃべります。まとめます。あたしが組んだ音声モジュール。負荷の優先順位を、言葉にして出す。人間が迷うとき、電池は迷わない」
ヨミオは思わず、政策の骨格を見た。そこには、地域防災の強化、分散型電源の推進、情報連携、といった項目がある。項目が、目の前で声になった。
レイが眉をひそめる。
「迷わないのは、怖いです。迷いは、人間のブレーキでもある」
ケンが、ホワイトボードの磁石を一気に動かした。カチカチカチ。
「でも今は、迷ってる時間がない。エレベーター救出って、誰が閉じ込められてる」
廊下の方から、走る足音。ドタドタ。
スタッフの一人が飛び込んできた。顔が真っ青だ。
「下のエレベーターで、子どもが。呼吸器の補助が必要で、バッテリーが切れそうです」
空気が一段重くなる。ニュースの重さではない。目の前の命の重さ。
ミツルが、レシートを握りしめた手を開いた。レシートは、どうでもよくなる。どうでもよくないものが、別にある。
ヨミオが言った。
「配信、止める。電力を回す」
スクリーンのコメント欄が一瞬止まったように見えた。止まらないのに、止まったように見える。人間の目は、都合のいい停止を作る。
ナナが頷き、トランクの側面パネルを開けた。中には、セルだけではなく、小さな基板が並んでいる。基板の端に、極小のランプ。緑と赤。まるで採決ボタンだ。
「これ、負荷に投票してるんです。賛成が多い方に電気を流す。だから、マイクログリッド国会」
ケンが目を丸くする。
「電池が国会やってるのかよ」
レイが冷たく笑う。
「議事録、公開されますか」
ナナは一瞬だけ黙り、鍵をもう一度握った。
「公開すると、悪用もされる。非公開にすると、疑われる。だから、今日は人間が決める。今は、エレベーター」
五人は立ち上がった。配信機材の前から、観客の前へ。言葉の戦場から、現場へ。
階段を駆け下りる途中、非常灯の白い線が、足元を切り刻む。息が熱い。耳の奥で、ビルの低い唸りが続く。ウゥゥン。
一階のエレベーターホールには、人が集まっていた。管理会社のスタッフが扉をこじ開けようとしている。中から、細い泣き声。扉の隙間から、冷たい空気が吹く。
ケンが叫ぶ。
「人、並べる。布陣を組む。電池をここまで運ぶ」
ナナのトランクは重い。セルは蜂の巣だが、蜂は鉛でできている。五人だけでは持てない。ケンは、屋台の店主たちに声をかけた。
「すみません、力を貸してください。ボールを回すみたいに、これを回す」
店主が一瞬迷い、次に頷く。スポーツの言葉は、政治より早く通じた。
人の列ができた。肩と肩が触れる距離。トランクを、手から手へ。ズシッ。ズシッ。
ミツルが、列の端で声を張る。
「重いです。腰、やります。膝を使って」
ヨミオが笑いそうになり、笑う代わりに頷いた。家計の節約術より、今は腰の節約だ。
レイは、列の中で、外国語の案内をつぶやく。観客の中に、旅行者らしい人がいた。言葉が通じると、人は落ち着く。
トランクがエレベーターの前に届く。ナナがケーブルを取り出し、非常用の端子に接続する。バチッ。
「火花、出た」
ケンが言う。
「火花は出る。ゴール前も」
ナナは、汗で前髪を額に貼り付けたまま、スイッチを押した。ピッ。
エレベーターの内部から、かすかに機械音が返る。ガコン。
扉が、数センチだけ開いた。中の空気が、吐き出される。子どもの顔が見えた。涙で濡れている。母親の腕が、子どもを抱えている。小さな医療機器のランプが、今にも消えそうに点滅していた。
ナナが叫ぶ。
「その機器、こっちにつなげる。電池、まだ生きてる」
管理スタッフが機器を受け取り、ケーブルをつなぐ。ピッ、ピッ。ランプが安定する。母親が、崩れ落ちるように泣いた。泣き声は、ニュースの外にある。
その瞬間、ビル全体のスピーカーが、また電子音声を鳴らした。ピコン。
「マトメナナ速報。優先負荷、医療、救出、通信。配信、停止。代替、局所掲示」
ホールの壁のモニターが、暗い画面から立ち上がり、白い文字を映した。避難経路、給水場所、屋台の炊き出し予定。誰かが、情報をまとめている。人間だけでは追いつかない速度で。
ヨミオはその文字を見て、背筋が震えた。政策の骨格が、現場の骨格になっている。いや、現場の骨格が、政策を先に作っている。
レイがヨミオの耳元で言う。
「これ、誰が責任を取るんでしょうね」
ヨミオは答えず、紙束を胸に押し当てた。責任は紙に書ける。でも、手は紙より先に伸びる。
停電は、夜のうちに部分的に復旧した。外の街灯が、遠くから順番に点き、闇が少しずつ後退する。ビルの照明も戻り、エレベーターは動き出した。観客は、互いに礼を言い合いながら帰っていった。屋台の鍋から、最後の湯気が立つ。
スタジオに戻ると、配信は当然、途切れていた。コメント欄は、途中で凍ったまま。ケンが椅子にもたれた。
「俺の伸びる予感、停電で溶けた」
ミツルが苦笑する。
「でも、今日の節約は成功しました。電気を」
ナナはトランクを撫でた。セルはもう光っていない。代わりに、小さな画面に文字が残っていた。
「次会期 未定」
ヨミオはその表示を見て、胸の奥がざらついた。国会みたいな比喩のはずなのに、比喩が現実に追いついてくる。鍵穴に刺さった錆びた鍵が、まだ温かい。
レイが窓の外を見た。遠くの空が、少し薄くなっている。
「非公開協議も、いつか開く日が来る。来ないかもしれない。でも、今日みたいに、現場は勝手に開く」
ケンがホワイトボードの磁石を片付けながら言う。
「布陣って、試合のためだけじゃないな。人を並べるって、戦術だ」
ミツルがレシートを折りたたみ、ポケットにしまう。
「数字は怖いけど、数字で守れるものもある。明日、炊き出しの原価計算、やります」
ナナが、トランクのテープの上から、指で「マトメナナ」をなぞった。
「まとめるって、支配じゃなくて、手を伸ばすことにしたい。今日は、そう思った」
ヨミオは紙束を、鞄に戻した。政策の骨格は、まだ軽い。でも、その軽さの中に、さっき触れた手の重さが混ざった気がした。
スタジオのドアを開けると、廊下の窓から、夜明け前の薄い光が差していた。ビルの外壁のガラスが、街の灯ではなく、空の色を貼り付け始める。
五人は、言葉を探すのをやめて、ただ歩いた。足音が、静かな床に並ぶ。カツ、カツ。
背後で、ナナのトランクから、ごく小さな電子音が鳴った。ピコン。
誰も振り向かなかった。振り向いたら、また国会が始まりそうだったから。
(了)
――あとがき――
今回は、土曜夜に政策、家計、国際協議、技術、スポーツが交差するという骨格を軸に、近未来の社会派ドラマへライトSFを重ねました。官邸の重点政策の骨格公表は、ヨミオが紙束を抱えたまま現場に引きずり出される導入に、家計速報の食料品支出増はミツルのレシートと炊き出しの判断に、国連安保理の非公開協議はレイの「言葉が閉じる怖さ」として配置しました。次世代蓄電池の試作成功はナナのマイクログリッドと「マトメナナ速報」に、Jフットリグ各クラブの新体制発表はケンの布陣が人をつなぐ場面へつなげています。トレンドの#通常コッカイや#食料品高めは、同じ形の言葉が並ぶ不気味さとして序盤に置き、終盤の「マイクログリッド国会」という比喩で回収しました。物語の大半は王道の群像劇として進めつつ、ラストだけ機械の採決ランプが瞬くことで、少しだけジャンルを裏切っています。ニュースの重さを尊重しながら、個人ができる小さな手の伸ばし方へ翻訳するつもりで書きました。この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。




