金曜夜、風と呼吸と要点三つ【2026/01/10】
海辺の複合ホールは、ガラスの壁越しに黒い海を映していた。外の風は強く、波頭が白くちぎれるたび、街灯の光が揺れる。入口の自動扉の横には、紙のポスターが三枚並んで貼られている。ひとつは「今週のインフル流行の動き」ひとつは「洋上の風力発電 新しい公募の説明」ひとつは「次年度メディア芸術支援 方針公開」。三枚の間に、誰かが小さなシールを貼った。黒い丸に白い文字で、NANA。
ホールの中で、マスク調整マン・ハルが指先をすり合わせた。薄い手袋越しでも、フィルター素材のざらつきが分かる。カウンターに並べたマスクは全部同じ形に見えるが、鼻当ての角度も、耳ひもの長さも、ひとつずつ違う。ハルのこだわりだ。横の札には「フィット調整体験 無料」とある。無料の文字だけ、太い。
工具箱の角には、推しの仮想歌い手「フイル」の缶バッジが付いていた。息の音だけで曲を作る、変な人気者だ。ハルは配信の投げ銭を一度だけ我慢した。今月の家賃が、先に来た。
「無料って書くと、人が来る。生活費がきついと、無料が正義になる」
ハルは独り言のように言って、ガラスケースの奥の部品を見た。輸入のフィルター。値札の横に、昨日より小さく書き足された数字がある。円が弱い。だから、材料が上がる。
短文拡散網では「マスクは自由か義務か」で口論が燃えている。ハルは燃料を足さない。ただ、鼻当てを曲げ、漏れを減らす。
舞台袖では、芸術探査ユイが天井の梁を見上げていた。黒いケーブルが蜘蛛の巣のように張られ、その先に薄いスクリーンが吊られている。スクリーンの向こうに、投光器のレンズが並び、まるで無数の目だ。
「目を増やすほど、見落としも増えるんだよね」
ユイは笑いそうになって、笑わなかった。来年度の支援方針。これで、作品が生きるか死ぬかが決まる。生活費も同じだ。
ユイの首から下がるストラップには、推しのメディア作家が手刷りした小さな栞が挟まっている。紙なのに、触れると微かに温度が変わる。支援が切れたら、その栞みたいに静かに冷える。
客席の後方、警戒スバルが非常口の看板を指でなぞった。指先に、金属の冷たさが残る。腰のベルトには懐中ライトと、赤いテープ。防災訓練のための道具だ。今日は訓練の予定ではない。それでも、金曜夜の人混みは、訓練より難しい。
胸ポケットには、推しの星図家「ササラ」のカードが入っている。星を読む人の言葉は、警戒の仕事にも効く。世論はすぐ熱くなるが、夜空はいつも冷静だ。
スバルのスマホが震えた。ポケットの中で、短い振動が二回。
ピピピ。
「……来たか」
スバルが画面を覗き込む。北の国が、短距離の弾道ミサイルを発射したという速報。遠い海の向こうの出来事なのに、文字は近い。近すぎる。
同じころ、円読みナオトはホールの隅で、小型端末を立てていた。画面には、一本の線が生き物みたいにうねる。円相場が一時、145円台の後半へ。線は下へ、下へ、ためらいなく落ちる。
「落ちるなら、落ちるって言ってくれよ……」
ナオトは視聴者に向けるはずの笑顔を作れず、口の端だけが引きつった。推しの海外バンドの配信チケットも、為替が動くたび値札が跳ねる。娯楽まで相場に連れていかれる。
配信のタイトルは、すでに決まっている。画面の上に、全角の文字で浮かぶ。
「#円あす 金曜ナイト相場読み」
隣の小さなモニターには、短文拡散網の急上昇が流れていた。全角のタグが踊る。
コメント欄は「円安は誰のせいだ」で荒れがちだ。ナオトは政治の結論を出すより、今日の食費の結論を出したかった。
「#インフル注い」「#ミサイル発射み」「#洋上ふうりょく」「#メディア芸樹」
そこへ、風車設計ミオが模型を抱えて現れた。白い風車が三基、透明なアクリル板の上に並び、足元に小さな海が青く描かれている。波の端に、推しのゆるい風車キャラ「カザグル」の落書きがあった。ミオの指は、模型の支柱を守るように固い。公募の条件が変われば、図面も人生も書き直しだ。
「すみません、ここ、電源借りられますか。説明会がこのあとで」
「電源なら――」
ナオトが答えかけたとき、舞台の方から声が飛んできた。
「はーい、配信班、集合! 要点は三つ!」
声の主は、纏目ナナだった。名札にはそう書いてある。けれど胸元の小さなバッジには、ひらがなで「まとめなな」に一文字だけ傷を入れたようなロゴがある。マトメ・ナナ。まとめるのが仕事で、まとめるのが癖で、まとめるせいで嫌われることもある。
首から下げたポーチには、推しのぬいぐるみ「要点くん」が押し込まれていた。角ばった顔で、いつも三本指のポーズをしている。ナナは世論の渦に飲まれないために、その角ばりを撫でる。
ナナの指が空を切る。右、左、中央。要点三つ。いつも。
ユイが舞台袖から顔を出した。
「ナナさん、今日、訓練じゃないよ。速報、来てる」
「知ってる。だからこそ。みんな、情報が欲しい。欲しいときに、ちゃんと渡さないと、別の誰かが雑に渡す」
ナナの目は、スクリーンの光を反射して黒い。人を煽る目ではない。むしろ、煽りの火を消そうとする目だ。
ホールの入口の外では、風が鳴っていた。
ゴオオ。
ハルは、その音に合わせるように、マスクの鼻当てを曲げた。小さな金属が、指に抵抗する。呼吸は見えない。でも、漏れる呼吸は音になる。ハルはそれを知っている。
「呼吸の漏れは、人生の漏れ。いや、言いすぎか」
自分でつぶやいて、自分で突っ込む。ひとりボケは、誰にも伝わらない。
ユイは舞台の中央に出て、マイクを握った。客席の照明が少し落ち、スクリーンが淡く光る。今日の展示は、風とデータの即興演奏だ。観客の呼吸、外の風速、経済の揺れ、社会のざわめき。それらを一枚の光景に編む。
スバルが客席の隅で、静かに頷いた。安全のための線引きと、表現のための越境。その境界に立つのが、今日の仕事だ。
「それでは、金曜夜の小さな探査を始めます」
ユイの声がホールに広がる。拍手がまばらに起き、すぐに消える。みんな、耳を澄ましている。
スクリーンに、海の線が現れた。白い線が波のように走り、次に、細い点が浮かぶ。点は増え、増え、星座みたいに結ばれていく。ミオが抱えた模型の風車が、舞台脇の送風機でゆっくり回り始めた。風車の影が客席の壁に伸び、巨大な十字が揺れる。
ブオオ。
ナオトの端末の線も、スクリーンに引き込まれた。円の線が、波の線と重なり、下向きに傾く。観客のどこかで、誰かが小さく息を呑んだ。
「……円安、やば」
その声を拾うように、ナナが小型カメラを向けて囁く。
「要点一つ。円が弱いと、輸入が高い。生活費が痛い。要点二つ。風は無料でも、風車の部品は無料じゃない。要点三つ。だから今日は、無料をどう配るかの話になる」
ハルが反射的に手を挙げた。
「無料を配るのは、俺のブースです」
「違う。あなたは無料で、顔に装備を配る人」
「マスクです」
「仮面じゃないの?」
「違います」
「じゃあ、マスク調整マンって何」
「マスクを調整するマンです」
ナオトが横から口を挟む。
「それ、マン要素いる?」
スバルが即座に言った。
「いる。いると思ってるから、いるんだ」
ユイが笑ってしまい、マイクが小さくハウリングした。
キィン。
観客の緊張が、少しだけほどけた。ユーモアは、危機を軽くするためじゃない。呼吸を戻すための道具だ。
だが、その直後だった。ホールの照明が一瞬だけ落ち、スマホの画面が一斉に光った。緊急の通知音が重なる。
ピピピピピ。
スクリーンの海の線が乱れ、白い点が赤く変わる。文字が重なって表示された。インフルの流行状況を、厚生労務省が公表したという速報。患者数が増えている。注意喚起。手洗い。換気。マスク。
そして同じ列に、北の国の発射の続報。安全保障上の警戒。関係機関が情報収集中。
さらに、その下に、環境の担当機関が洋上風力の新しい公募方針を発表したという通知。支援と競争、規格と自由、海域と地域。
最後に、文化の担当機関が来年度のメディア芸術支援の方針を公開したという告知。支援の柱に、社会実装と公共性の文字が見える。
四つのニュースが、ひとつのスクリーンに並んだ。偶然の同時刻。金曜夜のいたずらみたいな並びだ。
見開きのように、ホールの壁面いっぱいに、文字と線と点が広がる。観客の視線が一斉に吸い寄せられ、誰もが同じ方向を向く。人の集団が、同じ情報に呼吸を合わせる瞬間。
ウーウー。
外のサイレンが遠くで鳴った。訓練か、本物か、判断はまだだ。
スバルが前に出た。ライトを一度だけ天井に向け、光の円を作る。合図。声を落として、しかし揺らがず言う。
「今は、慌てないでください。ここは安全です。情報は整理します」
ナナが頷き、指を三本立てた。要点三つの合図。
ユイはマイクを握り直し、声の震えを抑えた。作品のためじゃない。人のために話すとき、声は別の責任を持つ。
ミオは模型の台座の裏を開けた。そこに、銀色の小さな箱が入っている。蓄電池。風車で回して、ほんのわずかでも電気を溜める実験機だ。ミオはそれを、舞台の予備電源に繋いだ。
カチリ。
ナオトは自分の端末を見た。通信が重い。数字が遅れてくる。相場は、情報より早いくせに、情報が途切れると何もできない。
「……くそ。読むのは円だけじゃないのに」
ナオトは端末を畳み、ペンを取り出した。ポケットに入れていた、白いボード用のペン。今日のためじゃない。いつも持ち歩いている。癖だ。
ハルはカウンターの下から、小さな紙袋を取り出した。フィット調整済みのマスクが入っている。無料配布用。数は多くない。でも、必要な人に渡せば、呼吸が増える。
「欲しい人、並んで。耳の後ろ、痛くならないやつ、ある」
ハルの声は、意外と大きかった。
ざわめきが、ゆっくりと形を変えた。恐怖のざわめきから、動きのざわめきへ。人は動けると落ち着く。動けないと、言葉だけが暴れる。
舞台袖の狭い通路に、ユイ、ナナ、スバル、ミオ、ナオト、ハルが集まった。観客からは見えない、暗い場所。床には養生テープが格子状に貼られ、ケーブルが交差する。その養生テープの端に、小さく「NANA」と書かれた札がある。さっきのシールと同じ字だ。
静けさが落ちる。外の風音だけが、通路の隙間から入り込む。
ゴオオ。
ユイが低い声で言った。
「支援方針の資料、見た? 公共性って、こういうことなのかな」
ミオが頷く。
「環境のほうも、公募のやり方が変わる。地域と合意がないと進まない。数字だけじゃない」
ナオトが苦笑する。
「数字の話なら任せてほしいんだけど、今夜は数字が多すぎる」
ハルがマスクの鼻当てをいじりながら言う。
「多すぎるなら、漏らさないように調整する。情報も、呼吸も」
スバルが静かに言った。
「漏らすべきものと、漏らしちゃいけないものがある」
ナナがその言葉を受けて、指を三本立てたまま、指を折り始めた。一本ずつ。
「要点一つ。今夜ここにいる人を守る。要点二つ。噂に負けないで、事実を短く渡す。要点三つ。あとで、誰かが責任を取れる形にする。私が、まとめる。まとめて、矢面に立つ」
ユイはナナの横顔を見た。まとめる人の顔。鋭くて、疲れていて、でも逃げない。
「矢面って、痛いよ」
「痛い。だから、痛いのを分ける。ひとりで背負うと、折れる」
ナナは胸元のバッジを指で叩いた。まとめなな。傷の入ったロゴ。
トン。
その瞬間、ホール全体が揺れたように感じた。実際には揺れていない。照明が瞬き、空調が止まり、音が消えただけだ。停電。あるいは、自主的な遮断。
ブツン。
暗闇の中で、非常灯だけが緑に光る。観客のざわめきが一段上がる。スマホのライトが点々と灯り、まるで地上の星空だ。
スバルが叫ぶのではなく、通る声で言った。
「落ち着いて! 出口は三つ! 右手、左手、中央!」
ユイが気づいた。三つ。ナナの要点と同じ数。偶然じゃない。人が混乱するとき、数は助けになる。
ミオが蓄電池の箱を抱え、予備電源へ走った。風車の模型を回す送風機は止まったが、蓄電池に溜めた分が残っている。ほんの少しでも、スクリーンを点けられれば。
カチ、カチ、カチ。
スイッチの音が暗闇に響く。
ナオトが白いボードを立て、ペンで太い矢印を描いた。出口の方向。相場の矢印じゃない。人の矢印だ。
サラサラ。
ハルはマスクを配りながら、ひとりひとりの顔を見た。目の形、頬の骨、息の速さ。耳ひもを少しだけ伸ばし、鼻当てを曲げる。触れない。距離を保つ。でも、近い。
「呼吸、ゆっくり。耳ひも、痛かったら言って」
泣きそうな子どもが、マスク越しに頷いた。
ナナは、スマホのライトを自分の顔に当て、カメラに向けた。配信は落ちている。回線が死んだ。だから、ホール内だけでいい。ローカルの配信。ユイが用意した展示用の内網が生きているなら、スクリーンに映せる。
「聞こえる人、ここ見て。要点は三つ。今は避難じゃなく、移動。走らない。押さない。戻らない」
ナナの声が、暗闇の空気を割る。叫びではない。まとめの声だ。
そして、スクリーンが息を吹き返した。
最初に映ったのは、白い線だった。海の線。次に、矢印。出口の矢印。矢印の間を、風の粒が流れ、呼吸の粒が混じる。粒は赤くならない。赤くしない。色で脅さない。ユイがそう設計した。恐怖は増やすのが簡単で、減らすのは難しい。
見開きの二枚目。ホールの壁いっぱいに、光の地図が現れる。右手の非常口には風の線が集まり、左手の非常口には呼吸の線がゆるく広がる。中央の扉には、風車の影が重なって、回転する矢印になる。ミオの模型の影だ。止まったはずの風車が、スクリーンの中で回っている。
ウーウーウー。
サイレンが近づき、また遠ざかる。訓練か、本物か、まだ分からない。でも、分からないままでも、人は動ける。
スバルがライトで床を照らし、赤いテープを伸ばした。一本の線を引く。人の流れを分ける線。テープの端に、あの札が貼られている。NANA。誰が貼ったのか知らない。でも今は、目印だ。
ビリリ。
ナオトがスクリーンの片隅に、数字を表示させた。相場の数字ではない。残りの蓄電池の分数。あと何分、光を保てるか。数字は冷たい。でも、冷たい数字が必要なときがある。
「残り、12分」
ナオトの声が、震えた。自分の生活費も、12分みたいに減っていく感覚がある。だからこそ、今夜は減らしたくない。
ユイはマイクを持たずに、ナナの横で言った。
「メディア芸術って、画面の中だけじゃない。今、ここにある」
ナナが小さく笑った。
「支援方針に書いてあった。社会実装。こういうの、やれってことだよね。ねえ、ユイ」
ユイは一瞬迷ってから頷いた。迷いは、怖さの裏返しだ。怖さを無視して進むのは、強さじゃない。
「うん。でも、やり方は選ぶ。人を怖がらせる実装じゃなくて、人が息をできる実装」
そのとき、スバルの無線が鳴った。短い電子音。続いて、落ち着いた声。
「現時点で、こちらの地域に直接の危険情報はない。警戒態勢は継続。通信の混雑は一時的なもの」
スバルは息を吐いた。吐いた息がマスクの内側で温かくなる。安心は、温度だ。
観客の流れが整い、押し合いは起きなかった。誰も走らない。誰も叫ばない。代わりに、スクリーンが静かに語り続ける。要点三つ。矢印三つ。出口三つ。数が、混乱をほどく。
照明が戻ったのは、蓄電池の残りが2分を切ったころだった。空調が唸り、ホールの天井から風が降りてくる。外の風とは違う、機械の風。
ブウウ。
人々が拍手をした。展示に、ではない。自分たちが無事に動けたことに。誰かの指示が、誰かの調整が、誰かの設計が、誰かのまとめが、重なったことに。
その拍手の中で、ナオトは端末を開いた。相場の線は、さっきより少し戻っていた。戻る。戻るけれど、戻らないものもある。今夜の感覚は、戻らない。
ハルが配布したマスクの残りを数えた。袋は空に近い。けれど、耳ひもを痛がっていた人の顔は、少し楽そうだった。ハルは自分の胸の奥が、奇妙に軽くなるのを感じた。
「完璧に漏れないのは無理だ。でも、少し減らせる」
それが、ハルの小さな一歩だった。
ミオは模型の風車を撫でた。指先に、回転の余韻が残る。公募方針が変わる。競争が変わる。海は変わらない。でも、設計者の姿勢は変えられる。ミオは決めた。次の提案書には、発電量だけじゃなく、停電時の公共掲示の電源としての設計も書く。
「風は、電気だけじゃない。流れも作る」
スバルはホールの外に出て、夜空を見上げた。雲が速く流れ、月がちらつく。遠い海の向こうで何が飛んでも、ここで守れるものがある。守るには、怖さを言葉にしないといけない。今夜、それが少しできた。
「警戒は、黙ることじゃない」
ユイは舞台のスクリーンを見た。展示のプログラムが、勝手に最後の画面を表示している。呼吸の粒が集まり、ひとつの地図になっていく。人の呼吸の密度。温度。湿り。感染の予測に使える形だ。
ユイの背中が冷えた。
ナナも気づいた。スクリーンの隅に、見慣れないロゴ。衛生当局の研究班と、文化の担当機関の共同。データ連携。展示で集めた呼吸の匿名データを、感染予測モデルに送る、と小さく書いてある。
「……要点、四つ目が出てきた」
ナナの声が、初めて震えた。まとめる人が、まとめきれない情報。
ハルが言った。
「俺、呼気センサー、付けた。フィットを見るために。でも、送るとは聞いてない」
ミオが唇を噛む。
「環境でも、データは資源になる。風速も、海流も。呼吸も、資源になるのか」
スバルが低く言う。
「漏らすべきじゃないものの話だ」
ユイはスクリーンに近づき、ケーブルを一本抜いた。指が震えて、うまく掴めない。ナナが横から手を添え、二人で引いた。
スッ。
画面の地図が一瞬止まり、呼吸の粒が散った。散って、また集まろうとする。勝手に。自動で。設計された公共性は、時に人を置き去りにする。
ナナが言った。
「まとめる。今度は、こっち側で。人が決めるまとめを作る。次の支援方針に、書かれてなくても」
ユイが頷く。
「書かれてないなら、書かせよう」
ナオトが白いボードに、もう一つ矢印を書いた。外へ、ではない。内へ。人のところへ戻る矢印。
「円を読むより、縁を読むほうが難しいな」
スバルが即答した。
「縁読みナオトに改名する?」
ナオトが首を振る。
「生活費が上がるから、改名届は後で」
誰かが吹き出し、また拍手が起きた。今度は小さな笑いの拍手だ。緊張がほどけた証拠。
ホールの入口のポスターの間に貼られたNANAのシールが、夜風でわずかにめくれていた。その下に、もう一枚、薄い透明なシールが隠れている。小さな文字。
「NANA-0」
誰もまだ気づかない。けれど、スクリーンの暗い隅で、見えないまとめが続いていた。風と呼吸と声を、次の金曜夜のために。
(了)
――あとがき――
今回は、厚生労務省がインフルの流行状況を公表したというニュースを、ハルのフィット調整ブースと、スクリーンに重なる注意喚起、そしてタグ「#インフル注い」を巡る会話に反映しました。円相場が一時145円台後半まで動いた話題は、ナオトの配信タイトル「#円あす」と、輸入部材や生活費への実感として人物同士の会話に混ぜています。短距離弾道ミサイル発射の報は、スバルの警戒と、停電に近い混乱をどう落ち着かせるかのクライマックスに結び付けました。さらに、洋上風力の新しい公募方針はミオの模型と蓄電池の仕掛けに、メディア芸術支援方針はユイとナナの選択の軸にしています。
ジャンルは近未来ライトSFと群像の社会派ドラマを基調にしつつ、ラストでデータの公共性が牙をむくサスペンス寄りの感触へ少しだけ裏切る形を選びました。報道の重さを茶化さず、しかし人が動ける範囲の希望へ編み直す距離感を意識しています。この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。




